八月二十日 二十一日 坂下視点
八月二十日
目が覚めた私は、愛音であった昨日の出来事を思い起こす。三津先輩と羽良を橘先輩が殺したという事実を。愛音は橘先輩といるために頑張ったようだけれど、私はそんなことをするつもりなどない。
四日前の夜に、ようやく三津先輩と本心で語り合えて、ようやく私を見て愛してくれる人を見つけたのに。どうして私を見ていない人が「坂下愛音」のためと言ってその人を殺すのだろう。そんな人を私は黙って赦したりなどしない。
赦さないのならどうするか。同じ目に遭ってもらえばいい。そして愛音も私と同じ思いを味わえばいい。
橘先輩の部屋の扉を叩く。扉を開けた橘先輩は何も疑った様子をしていなかった。
「おはようございます。」
「おはよう、坂下。どうした、そんな物騒なものを持って。」
しかしそう声をかけた私の右手に、さきほど調理室から持ってきた包丁が握られていることに気付いた。そして、一歩後ずさりし、私から距離をとった。
「橘先輩は私のために殺してくれたんですよね。だったら今度は私のために死んでくれませんか。」
「何を言ってるんだ。」
自覚がないというのも困りものだ。
「そのままの意味ですよ。私のためと言って、頼んでもいないのに大切な人を殺したんです。愛音だって大切な人を失えばいい。それも「もう一人の自分」が殺したとなれば、どれほど苦しいことでしょうね。」
「お前は、本当にそれを望むのか。」
「橘先輩の死をですか。」
それ以外、何を望むというのか。もう、自分を見てくれる人も愛してくれる人もいないのだから。自分はどうなったって構わない。
「ああ、後悔しないのか。」
「ええ、しません。だから、死んじゃえ!」
勢いをつけて突き刺す。何度も、何度も。動かなくなってしまってからも。いくら私が男の子としては小さくたって、刃物を持った本気で殺す気の人間から、何の準備をしていなかった丸腰の人間が無事に逃げられるわけもない。
少し落ち着いて目の前を見ると、そこにはいくつもの刺し傷のついた血塗れの橘先輩の死体がある。これを見たら愛音は衝撃で発狂するだろう。もっと衝撃的な事実を教えてあげてもいいかもしれない。そして、彼が忘れてしまった幼い頃の記憶を記して、呑気に過ごしていたことの不自然さを教えてあげようか。
八月二十一日
自室にいると、今が異常であることを忘れさせてくれる。しかし、今この島で生きているのは俺と橘先輩だけだ。
調理室へ降りても、いつもいるはずの三津先輩もいなければ、日によってはいる羽良もいない。そして今日だっているはずの橘先輩の姿もなぜか見えない。
理由の分からない不安を抱えたまま朝食を済ませるが、橘先輩は降りてこない。何かあったのかと彼の部屋へと向かっても、返事はなかった。
いけないことだと分かりつつ、無断で部屋へと立ち入る。
そこには赤黒い液体と、倒れた橘先輩がいた。
信じられない思いで、よく観察していく。
首や腕に切られた跡、胸や腹には刺された跡。全身傷だらけで、血塗れだ。もう息がないことは明らかで。
俺しかいないはずなのに、誰がこんなことをしたのだろう。俺が寝ている間に、何があったのだろう。俺の知らない誰かが本当に存在したのか。
意味などないと思いつつ、何か手掛かりはないかと周囲を見渡す。すると意外なことに、机の上に一通の手紙が見つかった。それは、愛音へ、と書き出されているが、橘先輩の筆跡ではない。自分のノートでもよく見る文字だ。
「愛音へ
貴方は覚えていますか。貴方が生まれた日のことを。今の貴方になるまでの日々を。覚えていないのでしょう。だから無邪気に笑っていられるのでしょう。
私たちが生まれた日。それは『坂下愛音』という一人の人間が死んだ日。『坂下愛音』という一人の人間の破片から、『愛音』と『亜音』という二つの人格が芽生えた。
それにも関わらず、貴方は自分にとって不都合なその事実を忘れ、自分が『坂下愛音』であるかのように振る舞った。そして私は、それの影の人格となった。
『坂下愛音』である貴方は、不自然さを残しながらも周囲の人に愛された。貴方のために何かをしようという人に恵まれた。片割れの私には誰もいなかったのに。
やっと手に入れた大切な人は、貴方を想う人の手によって奪われた。だったら、貴方も大切な人を失えばいい。
だから私は彼を殺した。貴方の大切な人を。貴方が『もう一人の自分』と呼ぶ私が殺した。つまり、貴方が殺したんだ。
なんなら、貴方のことも私が殺してあげてもいい。それはとても簡単なこと。だって、私が死ねばいいだけなのだから。
ねえ、貴方ならどうするかしら。大切な人を殺されて、自分にいつ殺されるか分からない状況で。
亜音より」