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その50
「その様子だと、やっぱり知らなかったのですね」
いつのまにか後方にたたずんでいたあんずちゃんは、何回もビデオを巻き戻しては観ているぼくの肩にやさしく手を添えながらそう言った。
「これは……ぜんたい……どういうことなんだろう……」
「これは一昨日の出来事なのです」
「一昨日?」
「ええ。たくみさんは、一昨日はなにをしていらっしゃったんですか?」
「自然を観察したり、流れ星を観察したりしてました」
「じゃあ玲子はその盲点を突いて、この行動に出たのです。玲子はここ数日、よりはげしくこちらに来ては、上役たちと交流していました。玲子はあなたに見切りをつけて、あたらしいパートナーを見つけるため、出世しそうな上役たちを物色しにきていたのです。たくみさんは、まったくお気づきにならなかったのですか?」
「うーむ……あっ、そういえばこのあいだ、ミルクコーヒー代とかいろいろ請求されたな」
「いくらだったんですか?」
「総額十七万」
「払ったんですか?」
「払ったよ。すすむ叔父さんが紹介してくれた人を経由してね」
「あと何か気づかれたことはありますか?」
「そうだなぁ……オーバーオールではなく、ずっとネグリジェ着てたな……」
「たくみさんは、ネグリジェはお好きなんですか?」
「いまいち――土曜ワイド的な妖艶さはあるかもしれないけれどね」
「さっきの映画で、玲子と結婚した主役の上役は、ネグリジェがとても好きなのです」
「なるほど――そう言われてみれば、エピローグで玲子が着てたウエディングドレスは、ネグリジェ感があったよね」
「玲子はここ数日、この〈三途の川〉におもむくと、たくみさんとは肉体的な関係はなかったということを、さかんに上役たちにアピールしていました。じっさいどうだったんですか?」
「そりゃあ、ないよ。あんな狭っちいところだし、親もいるし」
「よかった♪」
「まあよかったよね――それで?」
「そしてたくみさんの悪口をさんざん言って、上役たちを同情させて――」
「ふむふむ」
「で、軽く誘惑して、何人かすりよってきたところで、一番条件が良い上役を選んだの」
「そもそもおれはラーメンなんか好きじゃないんだ。あの店でうまいのは、たぶんペーピーチャーハンくらいだよ……」
ぼくはそう言うと、あごのあたりをさすりながらしばし考え込むことになり、あんずちゃんは、そのぼくをやさしく待つように見つめていた。
流しっ放しになっていたビデオテープは最後まで到達したのか、やがて巻き戻りになり、シュルシュルシュルシュルゥという音をたてながら巻き戻っていって、最後にガチャンと止まった。で、それから五秒くらいすると、ガチャガチャガチャといいながらテープがデッキから自動的に出てくる気配になったのだけれど、テレビデオの製品自体がもう古いのか、テープはそのまま反抗的なトースターのようにビョーンと飛び出してくることになり、その後テープは放り投げてあったヘッドホンの横っちょにプラスチック特有の乾いた音をたてて着地した。
「飛んだね……」
「うん。これ、もう古いからなのかもしれないけど、ときどきこんなふうに飛び出してきちゃうの」
「そうなんだ……」
「ええ……」
「……」
「……」
「ねぇ、あんずちゃん」
「はい」
「だったら、ぼくたちも、飛び出したほうがいいんじゃないかな?」
「えっ」
「ぼくがいま、この館内だが城内だかを、迷いながら歩いていたのは、あんずちゃんに会いたかったからなんだよ」
「やっぱりそうだったんですか」
「うん」
「ありがとう……わたしはずっと、たくみさんを、待っていました。そして、それと同時に、いつかかならず、こんなふうになるだろうと、信じてもいたのです。なぜならば、玲子はみすぼらしく、痩せぎすで、計算高くて、高慢で、痩せぎすで、利己的で、痩せぎすで、あおっちろくて、痩せぎすで、デカ女で、痩せぎすで、みすぼらしい女であるのにたいして、わたしは、もち肌で、色白で、他者にたいして思いやりがあり、やさしくて、もち肌で、それでいてがんばりやさんで、清純で、もち肌で、色白で、もち肌で、清純で、超小柄で、もち肌で、清純で、もち肌だからです」
「そのとおりだよ、あんずちゃん」
「わたしはたくみさんが、わたしのいいところを、かならずわかってくれると、信じていました。だって、わたし……、なるべく人に思いやりをもって接しようと心掛けているし……それに、がんばってるもん」
「そうだよ、あんずちゃん。あんずちゃんには、たくさんたくさん、いいところがあるよ。あんずちゃんはとっても清純なレディなウーマンで……だから、ぼくはあんずちゃんのことをとても好きなんだ」
「本当?」
「うん。ぼくは、あんずちゃんが同僚のカチューシャちゃんやERIKOや、それから元同僚の真紀にたいしてつねにささげていた、やさしい心遣いを知っている。それはとても立派なウーマンなレディなことで、なんていうか、とてもそこいらのみすぼらしく痩せぎすなウーマンウーマンたちにはできることじゃないと思うよ」
「ありがとう。わたし、信じていました。わたしが、がんばってるのを、いつかきっと見つけてくれるって、信じていました。だってわたし、もち肌だし……ホントにずっと、ずっと……がんばってたんだもん」
そのあとあんずちゃんは、いったん自室に荷造りをしに引き返していき、しばらくすると、風呂敷包みを四つほど持って、またやってきた。
「たくみさん。わたしの用意はできました」
「うん。じゃあ行こう」
「はい。でも、もう夜も遅くなっちゃってるけど、だいじょうぶなの?」
「むしろ夜中のほうがいいんだ」
ぼくは自転車の後部座席にあんずちゃんを乗せると、怠け者神社を突っ切って、大江さんやいずみちゃんが居候している例の屋敷に向かった。
大江さんやいずみちゃんがもう帰ってきているかどうかはわからないけれど、超人的な夜型生活を日々営んでいるおじいちゃんはかならず起きていて、ぼくがたずねていけば、ぜったいに迎え入れてくれる。
それはなぜかと言えば、ぼくがおじいちゃんのテレビをなおしてあげた、ということもあるけれど、それとは関係なく、おじいちゃんはなんというか、のらくらの元祖というか、界隈の創始者みたいな人で、ということは、つまり、ぼくはおじいちゃんのある意味弟子というか、孫のようなもので、だから、受け入れてくれないということは、まずないからだ。
「ごめんください」
ぼくはおじいちゃん邸につくと、鍵の掛かっていない玄関の引き戸を少しだけ開け、こんなふうに呼びかけてみる。
「はいよぉ」
案の定おじいちゃんは起きていて、自室から茶色のジャージ姿でのそのそ出てくる。
「あのう、とつぜんで、申し訳ないのですけれども、今晩泊めてくれませんか?」
「べつにいいよ」
ぼくとあんずちゃんは、靴を脱いで上がらせてもらう。
おじいちゃんの部屋には長方形の炬燵があり、その横には布団が敷いてある。
「ねぇ、お二人さん。おれ、今から、赤いきつね食べんだけど、食べたい?」
「食べたいですね。ねぇ、あんずちゃん、食べたいよね?」
「そういえば、がんばってたから、ちょっとお腹すいちゃってる」
「じゃあ、食べてもいいよ。そのかわり、一郎には言うなよ」
そんなわけで、三人で赤いきつねを食べ、そのあと少しおじいちゃんが見ていた討論番組を視聴し、ぼくが風呂に入り、あんずちゃんが入浴したのちに一階のべつの和室に布団を敷いて、
「おじいちゃん、おやすみなさい」
ということとなったのだけれど、電気を消す間際にあんずちゃんが、
「これが初夜なんですね」
とつぶやいたことから、ぼくも、
「そそそ、そうなるねそうなるね」
とスリット入りムームーとの遭遇以上に、若いときの上村香子をガン見したとき以上に奮い立って、
「はじめてなんです」
「う、うん」
だからぼくはあんずちゃんの小さなからだを、ふるえる手でこちらに引き寄せたのだった。
(了)




