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その1
ある日ふと、
「会社やめちゃおうかなぁ」
というアイデアが心の中に芽生えてからは、もっぱらそのことばかりを考えるようになっていたので、会議中でも露天風呂に想いを馳せつつ平泳ぎの動作をして、もよりのコーヒーと書類を根こそぎ刈り取っていた。
それでそんなことが積み重なった結果、ぼくは会社を実質クビみたいになったのだけれど、もし自主的に会社をやめる場合、家族にどう説明するかというのが、ぼくの最近の悩みだったので、そう言われたときには、逆にありがとうというか、
「親父にもお袋にも正々堂々と大威張りで発表できるぞ♪」
という感じで解き放たれたような気持ちになって、だからその日は保坂さんの肩を、
「このあいだ、コーヒー、ごめんなさいね」
ともんであげたり、片瀬君の愛妻弁当を独断でお手に取って、リズミカルに毒味してあげたりしたのである。
家族にクビになったことを大発表してからの何日かは、本を読んだり、音楽を聴いたり、まどろんだりして暮らしたのだが、会社をやめてからたしか七日目に、ぼくは心の底からなんともいえない真のうれしさがさらにこみ上げてきて、で、ちょっと風呂場で一人ビールかけ(じつは麦茶)をやってみたり、自室でリバース・インディアン・デスロックからの鎌固めを一人で決めたりした。
一人でリバース・インディアン・デスロックからの鎌固めを決めたさい、むかしほど体がしならなかったので、それからはストレッチ体操も日常生活の中に取り入れるようになったのだけれど、お袋はそれを見て、ぼくが神様かなにかに祈っているのでは、と早合点したらしくて、そのあたりから家族は、まあぼくに気をつかってくれたのだろう、
「沢倉たくみ、人生いろいろあるけど、落ち込まないで、ゆっくり考えなさい」
という感じで妙にやさしく接してくるようになった。
それでぼくはキーワードは〝落ち込み〟なんだということに気がついて、西日を正座しながらあびたり、レトルトカレーが温まるのを瞳孔全開で見つめたり、結果オーライ的に妹がつくった前衛的な肉じゃがのお味に涙を流したりしていたのだけれど、しかし本当はうれしい気持ちで心の中はいっぱいだったわけだから、歯をみがいているときだとかに無意識に笑ったり腰をくねくねさせたりということを、ついしてしまっていて、で、そんなところを親父にちょうど目撃されて、
「いけない! とうとうバレたか……」
というピンチも何度かあったのだが、家族はそれを、
「ヒゲ剃ってるときも『うーん、マンダム』とか言ってたよ」
「あたまが、どうかしちゃってるのかもな……」
というふうに取ってくれたようで、
「しめしめ」
そんなわけで、いよいよぼくの生活は安定していったのだった。




