表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
108/108

発熱

 新年度が始まって二週間、ようやく休みが取れる。年度末の忙しさも加わって連勤、連勤、徹夜だった。いや、実際年明けに課長の異動内示が出てからこっちずっと、緊張と過労の積み重ねだった。

「ハルさん、大丈夫?」

 ソファーのいつもの定席にカイが座り、春久はその膝枕で少しの間眠っていた。頭を冷やしてくれているのは、春久が三十九度ほどの熱が出ているためだ。春久の胸の上にソルトが丸くなり、カイはその体を撫でている。カイが来た音に出迎えようとしたのだが、その顔を見た途端、力が抜けた。あげくソファーまで何とかたどり着き、カイの膝枕を強請っていた。

「寝ていた。知恵熱かな」

 カイは春久の頭を持ち上げ、頭の下にクッションを敷いて、自分はそこから抜け出した。

「おかゆなら食べられる?」

「多分」

 声も変わっている。本当に久しぶりの休みだと思っただけで、熱まで出すとは。

 カイはタオルを冷やしてくれ、それを額に置いてくれた。もう一枚の冷たいタオルで顔を押さえてくれるのが気持ち良い。

「ソルト。パパが起きないように見ててね」

 少しだけ顔を上げ、また丸くなったソルト。まだ小さいから良いのだが、大きくなったら胸の上で丸くなるのは止めさせないと。

 

「おかゆの他に食べたい物有る? のどに引っかからないものが良いよね」

「お前の愛情で良いよ」

「ご飯は要らない?」

「食う」

「お昼は食べられた?」

「いや。今朝帰ってきた。そのままひっくり返っていた」

 カイは時計を見て、冷凍室を開けた。音に、ソルトが春久の胸を蹴って飛び降りる。さすがに弱っているときは響く。

 

 ものの十分ぐらいでおかゆが出来てきた。冷凍していた塩むすびから時短で作ってくれたようだ。

「ソルトのお肉貰って良いよね」

 カイがソルトに話し掛ければ、ソルトは抗議するかのようにニャアニャア怒る。

「ソルトにもあげるから」

 ソルトの皿に小さく切られた鶏肉が。春久の箸休めにも解した胸肉と炒り卵とネギを和えたものが出てきた。消化はどうなんだろうと思ったりもしたが、思いのほかつるりとのどの奥へと滑り込んでいく。

「旨い」

「良かった。夕食はもう少し栄養の有る物にするよ」

「助かる」

「自分の部屋で寝てても良いんだよ。あ、でもそうすると氷枕を取り替えに、自分で動かなきゃ駄目だよね。ソファーで寝てる?」

「そうだな。そうするよ。ソルトも居てくれるし」

 自分の分を食べ終わったソルトは、春久の隣に来てまたもや丸くなっている。春久はその頭を撫で、作ってくれた食事を食べきった。

 

 カイの膝枕をリクエストしたいが、キッチンでまだ動いている。いつもの通り春久のための料理を作ってくれているのだから、それを中断しろとは言えない。仕方が無いからクッションを抱えてその姿を見ていた。が、再び眠っていたようだ。「んにゃ」と、ソルトの声に気づいた。けれど今日はカイが居てくれるから、目を開ける必要も無い。

「ソルト。煮干しは後であげるから。熱いから手を出さないように」

 コトコトカチャカチャと生活音。

「ソルト。それは生だからダメ」

 料理をしつつソルトに注意を入れる声。

 安堵から、再び体が沈み込む気配。熱のために眠りは浅い。けれど、起きるたびに幸せな音が聞こえて、耳を澄ませている内に意識が途切れていく。

 

「ハルさん、起きられる?」

 声が聞こえ、体を起こそうとするとすぐに支えられた。口元にコップが寄せられ、水分が唇に触れた。口を開ければコップを傾けられ、冷たくて少し甘塩っぱい液体がのどを潤す。

「薄めたスポーツドリンクだから、ゆっくり飲んで」

 声と共に自分の手をコップに添えられ、冷たいタオルが再び顔を押さえてくれる。少し、頭がハッキリしてきた。

「楽になってきた」

「良かった。でも声嗄れているからね。のど痛くない?」

「大丈夫だ」

「食べられそう? 体動かしていないけれど熱が出ている分、体力使っていると思うし」

「食べる」

 タマゴ粥、ほうれん草のお浸し、鶏そぼろ入り卵焼き、マヨネーズ多めのポテトサラダ、そうめんとインスタント味噌汁で作ったにゅうめん。どれも水分多めで渇いた喉でもすっと通る。

「ソルトはそぼろ、味付けしていないのを置いてるけど、零さずに食べられるかな」

 ソルトはカリカリは餌皿で食べるけれど、おやつに置かれた煮干しやクッキーなどは、何故か春久の隣まで運んできて、そこで食べる。運べる大きさだからだろうけれど、そぼろはどうするのだろう。

 二人でそんな話をしているうちに、目の前の食事を平らげた。結構量があった。けれど病人でも食べやすくしてくれているし、何よりカイの料理は好みで、おまけにカイが目の前に居てくれる。

「おかわりは大丈夫?」

 同じものを食べつつ聞いてくれるけれど「充分」と答えれば、立ち上がって冷蔵庫に。ソルトは一生懸命おやつを食べているからか、付いていこうとしない。冷蔵庫の音に飛び出していくのはおやつ請求だから、それも当然か。

「シロップが少し甘いけど、牛乳寒天は体にも優しいからね。食べられるようなら食べて」

 カイが出してくれるのは杏仁豆腐のようにも見えるけれど、牛乳寒天らしい。菱形に切られた寒天に缶詰のシロップとカットフルーツが入っている。普段の春久は絶対に食べない。けれど口にすれば、確かに優しい味だ。喉にするりと入って体の熱が下がっていく気がする。

 

 夜、様子を見られるからカイの部屋で寝るか?と聞かれたが、それは断った。今は心配で距離感がバグっているようだが、後で青ざめそうだ。その代わり春久がソファーを使う。キッチンに近いので夜中に熱で喉が渇いたとき、すぐに水を飲める。テーブルにスポーツドリンクとタンブラーも置いてくれている。

 さっと汗を流すだけにしろと言われたのにソルトが脱衣所でいつものようにドアを掻くから、カイが飛んできて「後で一緒に入ろうね」と、連れて行ってくれた。

 トレーナーに着替えて出ると、ソファーがベッドに変わっていた。色々手間を掛けさせた。先ほどまで体に掛けられていたのはカイの部屋に置いていた毛布だったので、それを返して自分の部屋から取ってきた。

「ソルト、先にお風呂入ってこようか。ハルさん、明かり弱くするからゆっくり寝てね」

 カイは冷たいタオルを用意してくれた後、ソルトを抱いてリビング入り口にあるLED電灯のスイッチを操作し、明かりを一番弱くしてくれた。部屋を開けてソルトを連れ込む。すぐに着替えを持って風呂に行くから、ソルトが付いていく。それらを見ているうちに眠っていた。

 

 本当に久しぶりにぐっすり眠った。朝、起きると温かいうどんが湯気を発てている。麺は少し柔らかめで、ダシは煮干しで取った優しい味。柔らかくなった煮干しは少しだけソルトのおやつ、残りは佃煮になっていた。

「ソルト、ハルさんとお揃いだよね」

 佃煮は味が濃すぎるから与えられないけれど、二人と一匹で煮干しを食べているなんて、平和だ。

「ハルさん、熱は?」

「もう下がったよ。お前の看病のお陰だ」

 あの三十九度の熱が一晩で嘘のように。体が楽だ。仕事から帰宅直後の午前中はともかく、その後きちんと栄養の有る物を食べ、ソルトの事を気にする必要もなく、人の気配の中安心してゆっくり眠れた。カイが居てくれなければ多分今頃まだへろへろだったに違いない。昨日が土曜日で本当に良かった。

「今日も一日安静にしておいてね。病後の不摂生は再発の元なんだから」

「判った。ソルトの散歩ぐらいに留めておくよ」

 名前を呼ばれたソルトが振り返った。カイも春久も、何か有ればソルトを呼ぶから、ソルトはそのたびに二人に甘え付く。すっかり甘えっ子になってしまった。

「ソルト」「にゃあ」「ソルト」「にゃあ」

 カイがソルトを呼び、ソルトが返事をする。頭が良い。

「ソルト。五月の連休中日に、病院連れて行くからね。少し遅いけど六ヶ月の定期検診。その前でも平日に休みが取れれば行くけど、良い子で待っててね」

「にゃあ」

「ソルトおいで」

 おいでと言われると飛んでくるところも頭が良い。タッパーに入れていたソルト用クッキーを出してやると飛びつき、今度はそれを咥えたままおやつ用皿に。一度そこに置いて食べ始めた。「ソルトはお利口だね」とカイが褒めるからに違いない。

 もっとも大塚や戸野原に言わせると「極度の親ばかだ」と笑われるのだけれど。

 

「お昼は何にしよう。そろそろおなかに溜まるものが良いよね。あ、夜はロールキャベツの予定だけど、オッケー?」

「もちろん」

 そう言えば冷凍してくれていたものがあったなと思い出した。カイは残っていた冷凍食品から出してくれ、新しく作った物を入れてくれる。冷凍していても日が経てば味も落ちる。そうやって回してくれるから冷凍室の中はいつも出来たてのものでいっぱいだ。本当に至れり尽くせりで。

「今度待機無しの休みになったら、どこかに食べに行こう。以前一緒に行ったような田舎の隠れ家的なところでも良い。ホテルの高級ディナーでもだ。たまには奢らせてくれ。他に食べたいものがあるなら調べておいてくれ。値段は見なくて良い」

 少し考えて「日本食にするか? 旨い魚も肉も食べられる」と提案しておいた。

 

「久しぶりにお前のオムライスが食べたくなったな」

「オッケー。じゃあ作る。お昼多めにご飯炊いておむすびも作っておくよ。夜は炊き込みご飯かな。魚の煮付けと、鶏の照り焼きとどっちが良い?」

「魚」

「じゃあ、買い物に行ってくる。すぐに戻ってくるからソルトと留守番よろしく」

「あ、お前バイクだよな」

「そうだよ。だから大量の買い物は出来ないけどね」

「車使うか? 職場に取りに行かないとだが、帰ってきたら下の駐車場に入れてくれればいい」

「大丈夫。ハルさんの職場って警察じゃない。部外者が職員用の駐車場うろうろしていたら不審者に間違われる」

 そんな冗談を言って、カイはヘルメットを持って出かけてしまった。ソルトは見送りに出て行ったが、ドアの閉まる音がした後、少しだけして戻ってきた。そんな姿は初めて知った。春久が不規則だから寂しい思いもさせてきたのか。もう少し側にいてやらないと。そう決意していると、諦めたように戻ってきて春久が居る事に気づき飛んできた。膝に乗って頭を春久の頭に押し付けてくるから、その頭を撫でてやった。

 

 がちゃりとドアが開いて、「ただいま」とカイの声。ソルトは春久を見た。ここに住人が居るのに?と言った顔だったが、すぐに玄関に出迎え。

「ソルト~ただいま~良い子だね~」

 カイのめろめろの声、しばらく入ってくる様子がなかったので、春久も立ち上がって玄関に出迎えた。

「お帰り」

「ただいま」

 ソルトを放して部屋に上がる。買い物を預かれば、ヘルメットを自分の部屋に持ち込んでから、ソルトと一緒にキッチンに戻ってきた。

 

 昼は宣言通りオムライスとスープ、ほうれん草の煮浸し。おかゆや柔らかいうどんが消化が良すぎるのに比べて、オムライスはかなり腹持ちがよい。里芋とイカの煮転がしは箸休めにと出されたけれど、さすがに満腹で、おやつ代わりに抓むからと出しっ放しにしてもらった。

 炒め物の音、包丁がまな板に当たる音。春久はソファーに座り、背もたれに頭を載せて目を閉じ、その音を堪能する。

 足に軽い重さが移動してきた。腿に乗る温もりに、そっと頭を撫でながら。良い匂いがしてきた。

「ソルト~おいで」

 カイの声に温もりがあっという間に消えた。仕方が無い。頭を起こして目を開けた。

「ソルト、めざし食べられるかな?」

 今までの煮干しの何倍もある。それを咥えたソルトは、急いで自分のおやつ皿に運んだ。見ながらカイは笑っている。

「塩分大丈夫か?」

「塩分控えめって書いてるし。様子見て、駄目そうならこれが最後かな。もうあげちゃったから、今取り上げると怒りそう」

 ソルトにとって塩辛かったからか、腹だけ囓ってそれを皿に残し、水を飲んでいる。

 カイはソルトが見ないうちに取り上げ、代わりに茹でた煮干しを置いてやった。

 

 カイは春久の前にも焼いためざしも出してくれ、春久もそれを一匹、頭から囓った。酒が欲しくなる味だ。

「カレイがあったから煮付けにしている。大根と一緒に。ぶりを探していたけど、今日はなかったんだ」

「楽しみだ。手伝えることは?」

「今日はゆっくり体を休めないと。ずっと忙しかったんでしょ? 俺が来ても殆ど居なかったんだから」

 土日にカイが来てくれても春久は仕事で、ソルトと遊んでくれて料理をしてくれて帰っていたことを指摘された。折角来てくれたのに顔を合わせなかったことすらあった。

「そうだな。お前のお陰で早めに熱も下がったから、今日はゆっくりさせて貰う。ソルト。爪切りと毛繕いしてやる」

 猫用ブラシと爪切りを持ってきた。ソルトは爪切りは嫌がるが、ブラッシングは喜ぶ。なので爪切りは見えないようにしてから呼んだ。毎日のように洗っているからか、毛並みはフワフワだ。カイがすぐに頬ずりをしたがる。先に爪を切り、ご機嫌を取るように丁寧にブラッシング。爪切りの後はブラッシングとセットで覚えて、爪切りも慣れてくれれば良いのだが。

「ハルさん、ソルトにリード付けて少し散歩に出てみてくれる? ベランダは慣れたみたいだけど」

 温かくなってきたから、ソルトはベランダに降りるようになったそうだ。いつの間に。

「ただ、驚くと飛び出してしまう心配が有るから、車なんかの来ないところでね」

「そうだな。キャンプに連れて行けるかどうか、少しずつ慣らさないとな。マンションの外まで歩かせてみるよ」

 カイに抱かれてなら外に出ている。けれど、自分の足ではまだだ。驚いてハーネスから抜け出したりしないか、それを確認する必要もある。

「ソルト、散歩に行くか? 俺も体を動かしたいからな」

「無理しちゃダメだよ! 病み上がりだって事忘れないように!」

 カイに念押しされてしまった。

 

 ソルトはマンション内は自分で歩いていたしエレベーターも大人しく乗ったのだけれど、外に出るところでいきなり四つ足を突っ張って前に進むのを拒否した。あまり後ろに行かれてハーネスから抜けても困る。なので抱き上げてやった。抱き上げても外に行くのは嫌がるかと思ったが、それはない。腕の中で大人しくしている。どうやら自分の足で行くのがまだ怖いようだ。

「今度ドライブに行くか? 戸野原さんのところには行ったんだから、車の中なら大丈夫だろう?」

 そう呟いてソルトを家に連れ帰った。玄関に戻ってリードを外し、頭を撫でてやった。リードは下駄箱の上。ソルトは玄関口に座って春久が上がるのを待っている。

「出かけてくるから、先に部屋に入っていて良いぞ」

 静かに出かけた。きっとカイのところに走って行ったと信じる。もちろん春久も近所のコンビニに行っただけで、すぐに戻ったのだけれど。

「ただいま」

「んにゃ」

 玄関の上がり框に座って、ソルトが待っていてくれた。十分ぐらいだったのだけれど、まさかずっと?

「ソルト、おいで。これはカイへの礼だけどな。お前のおやつを出してやる」

 春久が部屋に向かうと、ソルトは意気揚々と付いてきた。

 

「あれ、ハルさんお帰り。ソルトお迎えに行ってたんだね」

 ソルトはそのままおやつ皿に行き、昼に貰った煮干しを囓っている。

「ただいま。土産。ソルトはマンションから出なかったんで、コンビニに連れて行けないのを思い出したのもあって、先に連れ帰っておいたんだが。今度ドライブに連れて行こう。二人居れば安心して逃げないと思う。まあ、ソルトのおやつ大量に持っていって呼べるようにしておかないとだけどな」

「そうだね。ソルトとドライブの準備もしなくちゃね」

 コンビニスイーツはカイのおやつだ。春久はカイの作ってくれた里芋とイカの煮転がしについつい箸が止まらない。夕方前にはすっかり気力も回復していた。

 夕食は宣言通り炊き込みご飯にカレイと大根の煮物、ロールキャベツ入りのコンソメスープ。スープ部分は食べてしまってロールキャベツは翌朝のおかずにもなる。炊き込みご飯もむすびにしてくれて、カイはソルトに思いっきりスキンシップをして少々蹴られてから、楽しそうに帰っていった。暗くなるので充分気をつけるようにと何度も繰り返してしまった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ