路面凍結
天気予報を見れば、しばらく冷え込む。場所に寄っては雪、路面凍結するかも知れないと出ていた。
朝礼で、足下不如意なことを話し、注意喚起を行う。係長たちもそれを踏まえて、巡回コースを班長に指示し、班長は外に出る班員と再度確認を行う。
「山の方、スタッドレスを過信せず、チェーン積んでいるのも確認しろよ。万一のことがあるからな」
「はい!」
課長レベルになれば、月曜朝から所轄全体の会議もある。他部署との情報交換。それらを再び係長を中心に、下に伝達する。課長がほぼ机の前に居る理由。必要なら外に出るが、基本は上と下の伝達、取りまとめが中心になる。
とはいえ、現場で走れなくなるのは致命傷だ。なので体力維持も平行して行う。
「丹波副課長、どちらです?」
そう、業務用電話に連絡が入ってきた。ホワイトボードには会議と書いていたのだが。それでも入った連絡、緊急だろうからと少し断って席を立ち、部屋の隅に異動した。
「他の部署との打ち合わせ中だよ。何?」
「夫婦喧嘩らしいと連絡が入って出動したんですが、傷害になったようです。殺人未遂になるかも知れません」
傷害、殺人未遂、殺人、過失致死、過剰防衛……全て状況に寄って紙一重だ。
丁度刑事課の課長が居る。春久は再び断って席に居る課長を呼んだ。課長から刑事課に連絡を入れて貰い、直接の打ち合わせは現場レベルでとの話になった。こういった部課またぎの事案は、直接やり取りするとトラブルになることも多いので、上に調整してくれと連絡が入るのだ。よほどの緊急時には事後連絡になることも有るのだが、今回はひとまず上にお伺いを立てる猶予があったようだ。
会議を終えて部屋に戻り、現状確認。こんな事を言っては何だが、生活安全部、特に所轄の生活安全課は夫婦げんかからストーカー、少年非行、暴力、それこそ一般人の日常に関わることなら何でもありなのだ。非日常なら刑事課が動く。
多岐に渡るがゆえに、出動回数も多く、地域課や交通課とも連結して動くが、それでもその中心にならざるを得ない。その分、係長達も敏腕だ。春久の元に来る書類にも必要な項目を要領よくまとめてくれている。春久が係長で他の誰かが課長であっても何ら不思議ではない。たまたま、春久にスポットが当たっただけのこと。そんなこと、春久がよく判っている。だからこそ外部から、情けないとか、上司としての意識が弱いと言われても、係長達に伺いを立てるし、何かと声を掛けてアドバイスも貰う。
「結局殺意の有無なんですよねぇ。本人は咄嗟にと言っているが、咄嗟に、で、わざわざ流しの下のドアを開けてその扉の棚に刺している包丁を取り出すには、手間暇掛けすぎでしょう」
「刃先が下を向いていたのでね。上を向いていたら一発殺人未遂なんですけど」
鑑識結果を貰って、あれこれ話し合う係長と班長。既に主管は刑事課に移っているが、類似事案が起きることだって充分あり得るのだ、手が離れてそのまま放置、ともいかない。事実確認や反省も必要。それらを横目に、春久は次の会議資料をまとめる。
「雪、降ってきましたよ。もしかしたら積もるかも」
数人が顔を顰めた。通勤は問題無い。皆、歩いてこられる距離に暮らす。問題は出動だ。パトカーはスタッドレスを履かせているし、それなりに凍結路の訓練もしている。けれど、一般車両が動かないとパトカーも身動き取れない。交通課、いや消防や救急はもっと大変だろう。
「明日出勤組と待機組、積雪時のシミュレーションやっておけよ」
係長が班員たちに掛けるそんな声に気づいた。平日昼間に対する注意喚起なら、声掛けは「出勤組」だけになるだろう。待機組にまで注意が入るのは、平日夜や休日の、自宅待機人数が増えるとき。あっという間に明日は土曜日だ。雪。下道だけでなく、ヘタをすれば高速も制限が入る。
「この土日は雪が酷いらしいから無理。行けないごめん」
そんなメッセージが入る事、予測も予感もしていたのだけれど、実際に見ると落ち込む。幸いケーキはまだ購入していないし、取り寄せたチョコは水屋に片付けた。
ソルトはキッチンと廊下を隔てる腰壁の下をくぐってキッチンに入ってくる。その下を板で閉じればキッチンに入らない? 今キッチンの上に有る物は全て棚に片付けるようにしているが、たとえばカイのチョコのように、そこに置いて驚かせたいことも有るのだ。
調理台など高いだろうと思うかも知れないが、ソルトは引き出しの取っ手を伝って登る。その点は器用で頭が良い。そのくせキャットタワーは一段目までしか登らないのだから。キャットタワー一段目からはソファーに降りるのも簡単だからだろうか。カイが居ない時の自分の寝床に決めているからか。
「俺も土日は仕事だ。雪が降るらしいので泊まり込みになる。とは言っても食べに行くより近いので、食事をするついでにソルトの様子を見に帰るので安心してくれ」
どちらがついでかは、この際不問にして欲しい。ソルトの事は心配しなくても大丈夫だと、言葉を添えただけだ。カイにとってそれが一番気になるところだろうから。
「バイクにスタッドレスが有れば」
「チェーン付けない限り、推奨しないが。車にしろ」
「車もスタッドレス履かせてない~。雪山行かないし。来年はスタッドレスも視野に入れる」
そこは南国あるあるだ。年に数回しか雪が降らない地域、何万も何十万も出してスタッドレスにしなくても、「雪の日の外出は控える」で生活できるのだから。山奥でなければ、降ったとしてもどうせ、翌日か翌々日には溶ける。
「まあ、(積雪が)有っても数日だけだろうからな」
そこに金を注ぎ込むなら、キャンプ道具にするでも旅費にするでもできる。もちろん、路面凍結している時に運転しないという条件付きなら。
「チョコはおかしくならないだろう。ソルトの、全部落とす攻撃を食らわないように、水屋の棚に置いてる」
水屋の棚は全てガラス戸が入っているから、ソルトは開けられない。開けられるようになったら……ガラスにまで鍵を付ける必要が出てくる。
「ソルト頭良いよね」
そう書いているときのカイは多分、デレデレの顔をしている。
カチャリとドアを開けると、ソルトが走ってきた。
「ただいま」
そこで待っているから、頭を撫でてやる。靴をさっと拭いてシューキーパーを入れ、下駄箱に片付ける。家に上がると、足下をソルトが付きまとう。体をすりつけ、寂しかったとアピールするのだけれど、春久が居ても居なくても、ソルトは一人で遊ぶ。好きに起きて遊んで食事をし、好きに寝る。なのでべたべたするのは春久が戻ってきたときだけなのだ。ま、それでもそうやって出迎えてもらって悪い気はしない。
「こんにちは」
カイは一週空けてやってきた。
「ソルト、お出迎えご苦労様~」
上がり框に座って、出迎えてきたソルトを捕まえ、その頬をグニグニと。デレデレの顔だ。けれど、ソルトにキックを数回繰り返されて、諦めたのか放した。リビングに向かう前に荷物を自分の部屋に入れるために開けた途端、ソルトが走り込んだ。
「ソルト~」
カイはそうやって呼ぶけれど、ドアを少し開けただけでそのままリビングに。カイが来ると言っていたので、ケーキは冷蔵庫の中だ。それを調理台に置いて、持ってきたものを冷蔵庫に入れ始めた。
がさがさと袋の音、なにより冷蔵庫の開閉の音を聞いて、ソルトが部屋から飛び出してきた。キッチンに入り、調理台の上に飛び上がり、そこからカイの背中に。
「ちょ、ソルト痛いって」
二週間爪を切っていないからか? 墜ちないようにカイのシャツに爪を立て、そのままよじ登ってカイの肩に。そこでにゃあにゃあ鳴かれれば、カイの顔面が崩壊しないはずが無い。
「ソルト降りて」
ソルト用のおやつを手に冷蔵庫を閉め、自分の肩から降りるように言うけれど、ソルトの目はカイの手に有る物に釘付けだ。
キッチンから出てソルトのおやつ皿にダシを取った煮干しを入れる。途端にソルトは、カイの肩を蹴飛ばす勢いで、前屈みになっているカイから飛び降り、おやつ皿の前。カイが皿の前で手を広げて止めようとするのを、食べさせろとその掌を頭で押さえる。少しの間攻防を繰り返していたが、すぐにソルトは欲しいものを手に入れた。
――それらは、春久が仕事から戻って聞いた話だ。カイの反応は春久の想像ではあるが、間違っていないと断言できる。
「料理している間、調理台に登ってずっと見ていたものね」
カイが額を寄せれば、ソルトもそれに応えるように自分の額を押し付ける。
「つまみ食いはしなかったか?」
「魚も肉も狙っていたよ。でも熱いから触らなかったよね~。油を使うときはちゃんと離れていたし。お利口だよね」
「お前達だけが仲が良いと、嫉妬するんだが?」
「は?」
春久は仲良く頭を寄せ合っているカイとソルト、両方に顔を寄せる。ソルトに顔を寄せればソルトが頭を押し付けてくるからそのまま、カイの頭にキスを。ソルトとはスキンシップで、カイには愛情だ。
固まったカイからソルトを取り上げ、ソルトの顔をカイの顔に近づける。ソルトの腹で顔を覆ったカイは、耳まで真っ赤なまま、黙って悶絶している。
もう一度頭にキスをしてから、カイの手を掴まえてソルトを押さえさえ、少し離れた。
カイが動き出すには時間を掛けるか、きっかけが必要だ。
「何を手伝えば良い? 明日は待機だから」
上役や他部署との打ち合わせを行うのが大抵平日なので、春久もそれに合わせて土日が休みになることが多い。ただし、何度も繰り返すが、待機込みでだからドライブにもツーリングにも行けない。行けて買い物ぐらい。
「カイ」
カイは返事をしない。頭にキスをしたことを拗ねている。それもまた可愛いのだが。
「少しの間なら、夕食の手伝いもできる。芋の皮むきとか」
「ご、ご飯は出来てるっ!」
「判った。それから、ソルトなんだが」
そこで言葉を切れば、カイは何事かと顔を上げた。
「ハーネスとリードを付けた状態で、ベランダデビューさせようと思っているんだが。寒いから昼間の一番暖かい時間に少しずつ。キャンプに連れて行くまでに、ハーネスの着用を嫌がらないようになって、繋がれていることに慣れて、と、多分時間は掛かる」
「あ、それで思い出した」
カイは自分の部屋に入っていく。ソルトも急いで付いて行くが、そのままカイが袋を持ってきてがさごそ音を発てたから、走って出てきた。ソルトがリビングに戻ってきたのを確認して、春久は静かにカイの部屋のドアを閉め切った。油断するとソルトを閉じ込めてしまいそうだから。
「これ、ペットカメラ。リビングの中で、ハルさんの邪魔にならないところに付けて。そうすれば休み時間にソルトの事確認できるでしょ? キャットタワーと餌とトイレが見えれば良いかな」
窓方向と餌などの置かれている壁方向。アプリで多少はカメラの視界を替えられる。替えてもテーブルの上は見えないことを確認。春久がそこで仕事をしていることも有るので、その情報がカメラに撮られると困る。
二人でカメラ位置を決めているうちに、カイとの距離は戻った。つまり、隣に居ても何も言わない。二人のスマホにカメラのアプリを入れて、きちんと動くことも確認した。
「ソルト、買い物に行ってくる」
声を掛けて、二人で外に出る。スーパーに行って肉と野菜と小麦粉を購入する予定。が、それはソルトに買い物に行くと言ったのだから嘘にしたくない、判っているかどうかは別として、ソルトに信用されるため、だ。一番の目的はペットカメラの動作確認。春久が押すカートに、カイが商品を入れて行く。それを見ながら、春久はアプリを起動させた。
「どう? 大人しくしてる?」
「キャットタワーの上で寝ているよ」
「良かった」
カイの手は止まらない。時折立ち止まって春久の手の中のスマホの画面を見つつも、あれこれ運んでカゴに入れていく。
「何作るつもりだ?」
「明日、買い物に来ないでしょ。久しぶりにクッキーの山盛り」
「何クッキー?」
「ジンジャーと、抹茶と、ココアと。全部甘さ控えめ。後、チーズでもしようかなぁ。ブロックチョコも良いんだけど、ハルさん食べないものね」
「まあ、俺は食べないが、うちのメンバーはお前のクッキーを楽しみにしているから、有ると喜ぶよ」
「ソルトのは砂糖抜き」
「ソルトに食わせて良いのか?」
「大丈夫みたいだよ。ソルト用のを作るよ」
夕食の支度は既に出来ていると言っていたし、ソルトに買い物に行くと宣言したから何か少し、のつもりだったのに、一週間分の食料を買った気がする。
白菜の浅漬けやおでんも作ってくれた。色々切ったり下味を付けて、料理ごとにタッパーに入れて、温めたり火を入れたりすれば良いだけにしてくれる。おでんなどの煮込み料理は鍋の中だ。きんぴらも煮物も、タッパーにたっぷり入っている。里芋の煮っころがしはフライパンの中。冷めたらタッパーに移動して冷蔵庫行きらしい。
「折角だから、肉じゃがは明日の朝にすることにした。折角良い肉があったから、すき焼きにチェンジ。白菜も一玉買ったからあれこれやりたかったしね」
ソルトは猫缶を貰っていた。おやつ皿に置かれていたから、量が少なくても文句は言わない。餌皿は空っぽになっていたら、早く淹れてくれと催促される。
春久は二人分の深皿にタマゴを割り入れ、テーブルに。
「ハルさん、明日の夜、水炊きでも良い? 白菜の切った奴残ったから、明日の夜使う」
「そりゃ良いけど。どうするんだ? 夕食を食べて帰るのは良いんだが、暗くなるし路面も不如意だろう」
テーブルの上に一口コンロ。ガス缶なんて、キャンプに持っていくので納屋の中に転がっている。火を付けるのを待ってカイがキッチンから鍋を持ってきた。
肉の量はそんなに多くない。その分、質を上げた。赤身ではあるが柔らかい。肉の旨味をしっかり味わえる。けれどタンパク質の量は欲しい。カイもそれは判っていて、すき焼きとは別に鶏モモの照り焼きが丸々一枚分。先にすき焼きを食べてからと、念押し付きで出してくれた。本当は、胸肉の方がタンパク質が効率よく取れて良いんだろうけど、まだ上手くジューシーに作れないのだと言うから、日常的な運動のための筋肉なので、バランスの良い食事の方がありがたいのだと答えた。「そうなの?」と、驚く顔が可愛い。春久が違いに気づかず買ったことはあるけれど、基本胸肉はソルトのおやつ行きだ。後、以前作ってくれた胸肉の大葉と梅肉挟みは旨かったので、ソルトのおやつ用が余ったときはとリクエストすれば、笑ってくれた。
「重い筋肉を付けると、逆に俊敏に走れなくなる」のだと教えると、少しだけホッとした顔をしていた。
「むしろ食事は癒やしだからな。俺はお前のいつもの料理がありがたいんだ」
「良かった。ハルさん、動き回らなくちゃいけない人だし、筋トレもするって言っていたから、高タンパクな食事が必要なのかと思っていた。俺はそんなの作れないから」
「署に有る食堂なんて、油ものたっぷりだよ。むしろお前のお陰で健康的な食生活が出来ているんだと、課長にはよく言われていた」
少し甘辛い豆腐や白菜を突きつつ、春久の日頃の活動ができるのはカイのお陰だと、再度強調した。
「お前の煮物、弁当に入れていくと、皆に羨ましがられる。特に小さな子どもが居る連中。この間大塚君も言っていただろう。お前の肉じゃがが旨いと」
栄養管理をばっちりされた食事より、カイが作ってくれた食事の方が春久のやる気を上げてくれる。
「ソルト。見えてるぞ」
いつもの通り、二本足で立ち上がったソルトが、テーブルの上の皿を狙って前足が伸びている。
「ソルト」
「うにゃ」
「ご飯終わったよね?」
「うにゃうにゃうにゃ」
カイとソルトの会話は成り立っているのか? 首を傾げる春久の前で、カイは立ち上がり、なんとキャベツを小さくちぎって持ってきた。待ちきれないソルトが、カイが持っているキャベツをパリパリ音を発てて食べている。
「猫は肉食じゃ無かったっけ?」
「キャベツ限定だけどね。歯ごたえが良いのかも」
いつの間にそんな情報が。




