第二十六話 やっぱり吐けたんだ
神殿は、王都の外れへ落ちた。
地面へ激突する寸前、シグナが残った防御文をすべて床へ重ねた。三枚目までは砕け、四枚目が衝撃を止めた。
それでも全員、床から跳ね上がった。
「生きてる?」
ティルダが瓦礫の下から聞いた。
「俺はな」
ロマンが石板を押しのける。
「レクス」
「生きてます」
「シグナ」
「眼鏡が死にました」
「カーニン」
「勝手に殺すな」
少し離れた場所から返事がした。
最後に全員がアーカを見る。
ロマンの腕の中で気を失っていた。呼吸はある。
「神も生きてる」
ロマンが言った。
「もう神じゃありません」
「呼び方を考えるのは後だ」
瓦礫の隙間から朝日が差した。
六人は地上へ出た。
「神」という呼び名や、その字形まで人々の頭から消えたわけではない。
消えたのは、その一字を唯一の存在へ結びつけていた世界の定義だ。
戦いの中心にいた六人は、欠けた意味の輪郭を覚えている。だが街の人々は、祈っていた相手をうまく名づけられなくなっていた。
そこで、勝った後の世界を見た。
王都の神殿から白い文字が剥がれている。
兵士は戻ってきた剣を握り、戸惑っていた。《戦争禁止》が消えたからといって、目の前の相手を斬る者はいない。互いの顔を見て、そっと剣を下ろす者もいた。
広場では、口を押さえていた人々が泣いている。《虚偽禁止》から解放され、ようやく「言いたくない」と言えた。
治療院では、治療師たちが病室へ駆け戻る。《病死禁止》が消えた患者を救うためだ。
自由になった。
だから、すべてがよくなったわけではない。
止まっていた争いが再び始まる町もある。
隠された罪が、また嘘で覆われることもある。
死は戻った。
命令がなくなったぶん、人は自分で選ばなければならない。
「面倒な世界だ」
カーニンがつぶやいた。
「前からそうでしたよ」
「お前がもっと面倒にした」
「手伝ったでしょう」
「一時的な共闘だ」
「まだそれを言うんですか」
カーニンは答えず、崩れた街道へ歩き出した。
「どこへ行くの」
ティルダが聞く。
「白紙会の支部を回る。上からの命令が消えた今、何をするか分からない」
「人助け?」
「違う。俺の邪魔をする者が増えると困るだけだ」
ティルダはレクスを見た。
「今のは?」
「半分嘘だと思います」
カーニンが振り返る。
「お前たちとは、次に会えば敵だ」
「分かりました」
「素直だな」
「敵でも、文字を足す前に意味を調べてください」
「お前にだけは言われたくない」
カーニンは片手を上げた。
別れの言葉はなかった。
けれど、その背中は初めて一人きりには見えなかった。
*
三日後。
王都の議事堂には、各地から人が集まっていた。
王族。領主。商人。職人。農民。兵士。治療師。白紙会を抜けた元構成員。
以前なら同じ机につかなかった者たちだ。
議題は、世界法則の代わりをどうするか。
「新しい絶対法則を作るべきだ」
ある領主が言った。
「二度と作るべきではない」
元構成員が答えた。
「では国ごとに違う法を認めるのか」
「違って何が悪い」
「争いになる」
「同じなら争わないとでも?」
朝から始まった話し合いは、昼を過ぎても一行すら決まらなかった。
レクスたちは議事堂の壁際にいた。
「アーカなら一秒で書いたでしょうね」
レクスは、まだ続く議論を見渡した。
「だから駄目だったんです」
シグナは、ひびの入った眼鏡を指で直した。
「時間をかけて、間違えて、書き直す。世界の規則はそのくらいでいいのかもしれません」
夕方になり、最初の一文が決まった。
《世界に関わる法は、異なる立場の者が話し合って定める》
魔法の光は出ない。
空にも浮かばない。
ただの紙へ、ただのインクで書かれた文だった。
それでも出席者は、一人ずつ署名した。
シグナの手元には、もう一枚の紙があった。
コーデクス家当主の裁判を、初めから調べ直すという通知書だ。
「すぐに無罪にはならないんですね」
レクスは通知書に目を落とした。
「ええ。アーカの告白だけで父を無罪にしたら、記録を一つ信じて決める点では前と同じです」
シグナは通知書を丁寧に折った。
「署名も、羽根ペンも、持ち出された文書も、一つずつ調べてもらう。時間がかかっても、それでいいわ」
ロマンは長く紙を見ていた。
「どうしました」
「俺の家名を、ここへ書くか考えていた」
彼は軍を去るときに捨てた名を、神殿で取り戻した。
ロマン・セリフ。
「書きたいんですか」
「まだ分からん」
「なら、今はロマンでいいんじゃない?」
ティルダが言う。
「書く場所は、これからいくらでもあるよ」
ロマンは少し考え、自分の名だけを書いた。
議事堂を出ると、空は薄い夕焼けに染まっていた。
以前なら、王都で一番高い神殿の鐘が鳴る時刻だ。
鐘楼は残っている。鐘もある。だが、それを鳴らす理由だけが消えていた。
広場には大勢の人が集まっている。
祈りをやめた者。
祈る相手を失っても、同じ姿勢で手を組む者。
神殿の壁から剥がれた「神」の跡へ、花を置く者もいた。
誰も、次に何をすべきか教えられていない。
それでもパン屋は明日の生地をこね、兵士は崩れた家の石を運んでいた。子供たちは、白紙になった看板へ勝手な絵を描いている。
世界は命令がなくても、少しずつ次の日へ進んでいた。
「神という文字……戻せるの?」
シグナが聞いた。
レクスは腹の底へ意識を向ける。
重い一字は、まだそこにある。
触れようとすると、何千もの声が返ってきた。祈り。恨み。願い。感謝。アーカ一人の意味ではない。
「多分」
「試してみないのですか」
「でも今はまだいい」
レクスは広場を見た。
「世界は、自分で決めればいい」
シグナは何も言わなかった。
代わりに、壁の跡を手帳へ写した。
いつか戻す日が来た時、何が失われていたのか忘れないために。
*
アーカは王都の小さな塔にいた。
牢ではなく、議会が用意した監視塔だ。
ただし、処遇が決まるまで外へ出る自由はない。
議会は監視をつけて、彼女の身柄を保護していた。
レクスが訪ねると、彼女は窓辺で本を読んでいた。
一頁を読むのに、ずいぶん時間をかけている。
「読めないんですか」
「読める」
アーカは本から顔を上げなかった。
「だが、次の頁に何が書かれているか分からない」
「普通はそうです」
「不便だ」
「面白くもあります」
アーカはようやくレクスを見た。
文字のない顔には、疲れがあった。
「神を返せ」
「命令ですか」
「頼んでいる」
その二つを区別できるようになったらしい。
「返せるかどうか、まだ分かりません」
「お前の中にある」
「あります。でも、神という一字はあなたの持ち物じゃない」
神殿の像に祈ってきた人がいる。
神を疑った人がいる。
神という言葉に救われた人も、傷つけられた人もいる。
一人で奪ったものを、一人の頼みだけで戻していいはずがない。
「世界が、神を必要だと決めたら考えます」
「人間に決められるのか」
「決められなくても、話し合えます」
「間違える」
「あなたも間違えたでしょう」
アーカは黙った。
レクスは机に一冊の本を置いた。
題名のない、新しい本だった。
「何だ」
「あなたが知っていることを書いてください。命令じゃなく、記録として」
「私の記録を信じるのか」
「読みます。疑います。間違っていたら直します」
アーカは白い表紙へ触れた。
しばらくして、ひどく不器用な字で一行目を書いた。
《私は、世界を正しくしようとした》
筆が止まる。
その後ろへ、もう一文を加えた。
《そして、間違えた》
レクスは何も言わず、塔を出た。
*
一か月後。
四人は王都の門に立っていた。
シグナは古代文字研究院から、大きな鞄を三つ持ち出した。どれも本で膨らんでいる。
「二つ置いていけ」
ロマンが言う。
「全部必要です」
「前もそう言って、読まなかった本が七冊あった」
「旅先で必要になる可能性があります」
「俺は持たんぞ」
そう言いながら、一番重い鞄を持ち上げた。
ティルダは新しい短剣を腰へ差している。王都の鍛冶師が礼として作ったものだ。鞘には《正直》と刻まれていた。
「似合わないと思いませんか」
レクスが聞く。
「聞こえてるよ」
「聞かせたんです」
「レクスも言うようになったね」
ティルダが笑う。
旅の目的は、失われた文字を調べることだった。
アーカの法則が崩れた後も、世界には欠けた言葉が残っている。
レクスが喰った文字。
白紙会が消した文字。
歴史から奪われ、誰にも気づかれなくなった文字。
「神」を喰うためにレクスが手放した文字も、消滅はしていない。履歴を抱えたまま、世界の記録層のどこかへ散っている。
それを探し出すことも、旅の目的だった。
見つけたからといって、すべてをすぐ戻すわけではない。
一字が戻れば、誰が救われ、誰が困るのか。
元の文は正しかったのか。
そもそも、元へ戻すことだけが答えなのか。
意味と責任を確かめてから決める。
「随分と地味な冒険になったな」
ロマンが言った。
「魔王を倒す旅より面倒そうです」
「魔王はいないよ」
ティルダが言う。
「今のところは」
シグナが余計な一言を足した。
門を出ようとした時、レクスの視界に文字が浮かんだ。
《文字喰らい》
久しぶりに見る、自分の能力説明だった。
一行目は、初めて鑑定したときと変わっている。
《意味を理解した対象から、その対象につき一度だけ一文字を喰うことができる》
その下には、新しい一行もある。
《一度の発動で、喰った文字を一文字だけ世界へ返すことができる》
「止まってください」
三人が振り返る。
レクスは説明を読み直した。
返すことができる。
神殿では偶然ではなかった。
返した「不」も、世界が壊れたせいではない。
初めから能力にあった。
ただ、説明の後半が隠れていた。
レクスは腹へ手を当てた。
「やっぱり……吐けたんだ」
「今気づいたの!?」
シグナが叫んだ。
「いや。最後のは半分賭け」
「はあ!?」
三人の声が重なった。
「待て」
ロマンが鞄を置く。
「神を喰える確信もなかったのか」
「削除じゃないとは思っていました」
「思っていただけ?」
ティルダの笑顔が怖い。
「成功したので、結果としては――」
「走ってください、レクス」
シグナが眼鏡を外した。
「どうしてですか」
「いいから走って!」
レクスは走った。
三人が追う。
門番が驚き、道を空ける。
王都の外まで逃げて、レクスは石につまずいた。
ロマンに襟をつかまれる。
ティルダに頬を引っ張られる。
シグナは怒鳴ろうとして、先に笑った。
ティルダも笑う。
ロマンは最後まで怖い顔をしていたが、やがて大きなため息をついた。
「次からは、賭ける前に言え」
「言ったら止めたでしょう」
「当たり前だ」
「じゃあ、言わなくて正解でした」
「反省しろ!」
笑い声が街道へ広がった。
道の先には、まだ名前の戻らない村がある。
消えた家名を待つ人がいる。
返してはいけない一字も、きっとある。
レクスは立ち上がり、三人と並んで歩き出した。
誰かが書いた正解を追う旅ではない。
読んで、疑って、選ぶ旅だ。
空白があれば、自分たちの言葉で埋める。
間違えたら、消すのではなく書き直す。
その日から世界では、文字を書くことを少しだけ恐れるようになった。




