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駄文庫  作者: 水無月 黒


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不思議な国アメリカ

評価設定およびリアクションありがとうございました。

 ふと思ったのですが、アメリカと言うのは不思議な国です。

 日本では、戦後の復興期にアメリカのお世話になっていたり、最新の技術などをアメリカから導入してきたこともあって、自由で最先端で科学に優れた国のようなイメージを持っている人も多いでしょう。

 けれども、アメリカはそれだけの国ではありません。


 アメリカの歴史は、コロンブスから始まります。

 もちろん、それ以前からアメリカ大陸に住んでいた人はいるし、実はコロンブス以前に北欧のバイキングがアメリカ大陸に到達していたと言う話もあります。

 ただ、ヨーロッパから大勢の人がアメリカ大陸に渡り、植民地や白人が支配する国を作るようになったのは、コロンブスの航海が発端です。


 コロンブスがスペインの支援を受けて西回りの航海に出たのは、学術的な好奇心や冒険心からではありません。

 利益を求めてのことです。

 ユーラシア大陸の西の端のヨーロッパと東の端の中国は昔からシルクロードを通じて交流がありましたが、直接行き来することは困難でした。

 陸路は政情不安な国や砂漠や険しい山脈を通る必要があり、海路はアフリカ大陸の南をぐるっと大回りする必要があります。

 西回りの航路でショートカットできれば、直接交易で大きな利益を上げることができるでしょう。

 マルコポーロの東方見聞録に記載された黄金の国ジパングに行けば、大量の黄金を手に入れられると思ったかもしれません。

 それから、当時のヨーロッパの人はインドを早い者勝ちで占有して好き勝手に植民地化してよい場所だと考えていたのかもしれません。

 到着したアメリカをインドだと勘違いしたコロンブスは、そこで侵略と略奪を始めます。

 コロンブスがインドと勘違いしたためにインディアンと呼ばれるようになった先住民を捕らえて奴隷としてスペインに送ったりもしています。

 コロンブスは、出航する前にスペインの王室との契約で発見した土地の提督になって領地から得られた利益の10%を得られることになっていました。

 つまり、最初からインドに到着したら植民地化して略奪やら奴隷狩りやらするつもりだったのでしょう。

 コロンブス以降も、スペインは中南米を中心に侵略し、略奪や虐殺を繰り返し、植民地を広げて行きました。

 南アメリカの国の多くでスペイン語が公用語になっている理由がこうした歴史的な経緯にあります。

 スペイン以外のヨーロッパの国々もアメリカ大陸に渡ってきて植民地を作りました。

 ヨーロッパ人の侵略は北アメリカにも及び、先住民の大量虐殺や追放を行って土地を奪っていきました。

 直接的な武力以外にも、ヨーロッパから持ち込まれた病気によって多くの人が死ぬことになりました。

 特に天然痘は猛威を振るいました。免疫のなかったアメリカ先住民は場所によっては死亡率が九割に達したと言い、インカ帝国やアステカの滅亡の一因となりました。


 余談ですが、コロンブスはインドあるいは東アジアのどこかに到着したとずっと思っていたそうです。

 ユーラシア大陸とは全く別の新大陸であることを主張したアメリゴ・ヴェスプッチに因んでアメリカ大陸と呼ばれるようになりました。

 コロンブスがそのことに気が付いていたら、アメリカ大陸ではなくコロンビア大陸と呼ばれていたかもしれません。


 さて、ヨーロッパから多くの人がやってくるようになったアメリカ大陸の植民地ですが、どういった人が移住していったのでしょう?

 ちょっと想像してみてください。

 当時のヨーロッパの人にとって、『新大陸』は文明から切り離された未開の大地です。

 もちろん、アメリカ大陸にも古くから人が住み、それなりに高度な文明が存在しました。

 マヤ文明やアンデス文明など高度な文明であると今でこそ有名ですが、当時のヨーロッパの人はそんなものに興味もなく尊重する気もなく、容赦なく破壊しました。

 文明を破壊して住民も追い出して土地を奪ったのだから、必然的に未開の大地になります。

 ついでに、仲間を虐殺され土地を追われた恨みを抱えた先住民もいるのです。

 そんな不便で危険な場所にわざわざ行きたがる人がいるでしょうか?

 考えられるパターンは二つあります。

 一つは、新天地で一旗揚げようと言いう行動です。

 成熟した社会では、底辺から成りあがる、と言うことはなかなか難しくなります。

 既得権益を持った者が利益を守る仕組みを作り上げるので、新規に割り込むことが難しくなるからです。

 しかし、何もない新天地ならば、妨げるような(しがらみ)もありません。

 手付かずの土地がいくらでもあるのならば、開拓して大規模農場を作ることもできます。

 金でも石油でも、掘り当てれば一気に億万長者も夢ではありません。

 工業でも商業でも、ライバルのほとんどいない独占状態から始めることができます。

 大失敗するリスクもあるけれど、大成功して成り上がる可能性もある。

 つまり、アメリカンドリームを狙って、人生の賭けに出た移民です。

 もう一つは、何らかの事情で国にいられなくなった者が逃亡先として行く場合です。

 例えば、犯罪を繰り返して国内やヨーロッパの近隣の国でもお尋ね者になってしまったら、いっそ新大陸の植民地に行って人生やり直してみるか、となっても不思議はありません。

 それからもう一点、宗教的な理由で国内に居辛くなってしまった人も大勢いたのだと思うのです。


 ヨーロッパの宗教がキリスト教一色になった理由は、古代ローマ帝国がキリスト教を国教にしたことに始まります。

 元々ローマと言う国の信仰は、ギリシャ神話を神様の名前だけ変えて借用したようなローマ神話です。

 つまり、多神教の世界観です。

 実利を取る面のある古代ローマ人は、宗教に関しては割と寛容でした。

 戦争で勝って征服した国の人にも市民権を与え、負けた国の文化も吸収しながら大きくなったローマ帝国です。

 多民族国家で個人の信仰に口を出していたら国が立ち行きません。

 その方針を転換して、国教を定めるようになった背景には、皇帝の権威を高める目的がありました。

 ローマは王様を追い出して共和国になった経緯のある国です。帝政に移行する際にも『王様』を生み出すことには抵抗がありました。

 初代ローマ皇帝のアウグストスは自らを第一市民と称しました。王様ではなく、あくまで役職としての皇帝なのです。

 ローマ市民と近しい関係のローマ皇帝も最初のうちは上手くいっていました。

 しかし、民族大移動でゲルマン民族が流入してきて戦争が増えるようになると、困ったことが起きました。

 皇帝は軍の最高責任者です。トップが駄目だと勝てる戦争にも勝てません。

 しかし、ローマ皇帝の任期は終身です。戦争に勝つために解任することはできません。

 だから、「この皇帝では戦争に勝てない」と思われたら、新しい皇帝を立てるために邪魔な皇帝が殺されてしまう、ということが何度も起こりました。

 しかし、そんなに頻繁に皇帝が変わっていたら、国の運営に支障をきたします。

 そこで、簡単に殺されないように皇帝の立場を一般のローマ市民に近い第一市民から、神に選ばれた神聖不可侵な存在へと格上げしようとしたのです。

 そのために宗教の力を利用しようとしたのですが、ここでも紆余曲折があったようです。

 まず、ギリシャ・ローマ神話の神様はそういうのには向いていません。

 人間的で親しみやすい神様ですが、人に命令をしたり、絶対的に従わせるような存在ではありません。

 古代ギリシャは絶対的な王様が支配する中央集権的な社会ではなかったので、その宗教も神聖不可侵な人間を想定していません。

 元々祭政一致で宗教指導者が権力者になっているような国の宗教ならば都合が良いのだけれど、国民を従わせるために利用されていたユダヤ教はユダヤ人専用になっているので使えません。

 それで、結局はユダヤ教をベースに対象をユダヤ人以外にも広げたキリスト教を利用することになりました。

 ローマ帝国が国としてキリスト教を保護する代わりに、キリスト教の教会が神に認められた存在としてローマ皇帝を認める。

 そういう取引です。

 国の後押しでキリスト教が広まり教会は力を持つ。

 その教会に認められることで皇帝の地位は盤石になる。

 この関係は、東西に分かれた西ローマ帝国が滅びて小さな国に分裂した後も続きます。

 国は国教としてキリスト教と教会を保護し、教会は国王を認める。

 その結果、教会は大きな力を持ち続けました。

 そして、ある時腐敗します。

 有名なのが、免罪符です。

 これは、ある意味教義そのものを否定してしまう行為なのです。

 キリスト教がユダヤ教から引き継いだ原罪思想は、「人は生まれた時から罪を背負っているから、神様に赦されるように清く正しく生きていこう。」と言うものです。

 キリスト教においては、「イエス様が磔にされることで人々の罪を肩代わりし、救済への道を開いた。」という思想が加わります。

 この、宗教としての思想の根幹をなす人の罪を、神でも救世主(キリスト)でもない教会が勝手に赦してしまうことは、信仰そのものの否定になりかねません。

 金儲けのために教義に反する行為を行うようになっては、教会も神父の言葉も信用できません。

 ローマ・カトリック教会に対する不信から起こったのが、宗教改革です。

 教会を信用できなくなった人たちが、正しい信仰を取り戻すために頼ったのが聖書でした。

 カトリック教会と決別し、聖書のみを信仰の対象とするようになった人々が、キリスト教の一大勢力になったプロテスタントです。

 しかし、カトリック教会も古い歴史と強い権力を持ち、社会に深く根を下ろした巨大な組織です。

 醜聞の一つで瓦解するほどもろい組織でもないし、その後立て直しも行われています。

 ローマ教皇の権威を認めないプロテスタントをカトリック教会としては認めるわけにはいかなかったでしょう。

 カトリック対プロテスタントの宗教的な抗争から、政治的な抗争になったり、国と国との争いに発展したりと混乱を招くことになります。

 この宗教改革の始まったのが16世紀の始め(1517年)、コロンブスがアメリカ大陸に到達したのが15世紀末(1492年)。

 つまり、宗教改革の影響でごたついた時期と、アメリカ大陸に植民地を作って移民を送り込み始めた時期とが重なることになります。

 宗教革命の影響で国に居られなくなった人が、アメリカ大陸の植民地へと向かったことは十分にあり得ます。

 中南米に勢力を広げたスペインはカトリックの国です。植民地化とセットで布教も行ってきた国で、支配した先住民を強制的にキリスト教に改宗させてたりしています。

 なので、プロテスタントの人は必然的に北アメリカ側、同じプロテスタントの国であるイギリスの植民地に集まることになります。

 実際、現在のアメリカ合衆国はプロテスタントの国です。大統領も聖書に誓ったりします。


 ところで、皆さんはプロテスタントに対してどのようなイメージを持っています?

 腐敗した巨大組織に異を唱え、宗教の本質に立ち返ったという点で、良い印象を持つ人も多いのではないでしょうか。

 しかし、宗教の本来のあり方を取り戻そうとする思想と言うのは、言い方を変えると「原理主義」になります。

 原理主義と言うと、過激なテロ活動を行ったイスラム原理主義を思い浮かべる人も多いでしょう。

 原理主義を名乗る以上は、彼らもイスラム教の本来の姿を取り戻そうとする考えの持ち主です。

 いえ、別にイスラム教の本来の姿が過激なテロ組織だということではありません。

 ただ、古い宗教や宗教観に基いた生活が今の状態になるまでにはそれなりの理由があります。

 社会や生活環境の変化を無視して昔に戻そうとすれば、どこかに無理を生じます。

 多くの人に理解も賛同も得られない無理を強要しようとすれば、過激で迷惑な集団に成り下がります。

 本質的な原理原則を忘れると違う何かに成り果てますが、古い形式にこだわりすぎるると今を生きる人を不幸にします。

 極端な原理主義は異なる考えを受け入れず、人を不幸にする危険が付いて回るものです。

 長い歴史を持つカトリックは、時に解釈を変えるようなことも行いますが、社会とのすり合わせを行って信仰と日常の社会生活を両立できるように調整しているのです。

 だからこそ、今でも世界最大の宗教勢力として残っているのでしょう。

 金儲けのために免罪符を売った過去は正当化しようがないでしょうが。


 さて、話を戻します。

 開拓時代のアメリカ大陸、特に後のアメリカ合衆国になる英国領に渡ったのはどのような人たちか?

 大雑把に次の三種類に分類できると思います。


 金の亡者。

 ならず者。

 狂信者。


 大雑把なうえに悪意もこもった書き方になっていますが、大きくは間違っていないと思います。

 そして、こうした人たちの精神が、現代まで受け継がれているような気がするのです。

 まず、金の亡者と言うのは、新大陸で一山当てて大金持ちになることを夢見る人のことです。

 今で言う、アメリカンドリームです。

 米国映画の「ウォール街」では投資家のゴードンが「強欲(グリード)は善」と言います。

 実在の投資家をモデルにしたこの男は、モデルとなった人物同様、最後はインサイダー取引で逮捕されます。

 しかし、映画を見てゴードンにあこがれて証券業界に入った若者が大勢いたのだとか。

 倫理もモラルも法律さえも無視して欲望のままに金儲けに邁進することを(よし)とする精神が、アメリカにはあります。

 自らの欲望をかなえ、他人を出し抜くために工夫を重ねる競争の中で新しいものが生み出され発展してきたことは確かです。

 けれども、その進歩や発展が必ずしも人を幸福にするとは限りません。大きな利益を上げることで他人を不幸にすることもあり得るのです。

 競争に負けた競合他社、商品やサービスを購入できない貧乏人だけでなく、搾取される下請けとか、下手をすると購入したユーザに対して害になる場合すらあります。

 SNSの開発者が「人の心理をハックして、いかに効率よくユーザの時間を奪うかを考えて開発した」みたいなことを言っていました。

 ユーザを依存症状態にして金を搾り取るビジネスモデルは、非合法の薬物からソーシャルゲームのガチまで、様々な形で存在します。

 利益を最優先にして倫理もモラルも投げ捨てると、多くの人を不幸にして儲ける商売を始める者も出てきます。

 また、自由の国アメリカと言いますが、アメリカの自由は思想信条の自由のことではありません。

 国に文句を言われることなく、好き勝手に金儲けをすることのできる自由です。

 だから、よほど危険なものでない限り他人を不幸にする金儲け(ビジネス)であってもなかなか規制されません。

 誰でも好き勝手に新しいこと挑戦することができ、成功して大金持ちになれば英雄(ヒーロー)で、失敗した敗者は見向きもされない。

 その結果不幸になる人がいても、商品を正しく利用できなかった自己責任とか、社会の変化についていけなかった敗者扱いされてしまう。

 アメリカは、そんな国です。

 みんなで働いてみんなで利益を分配しようという共産主義とは根本的なところで相容れなかったのでしょう。

 赤狩りで共産主義者を徹底的に排除し、他人を中傷誹謗する常套句として「あいつは共産主義者に違いない」があるほどに嫌っています。

 みんな平等に豊かになるのでは我慢できず、自分だけ突出した成功者になれる可能性が欲しい。そんな国民性なのかもしれません。


 次のならず者ですが、アメリカには暴力を肯定する風潮があるように思えます。

 本国の文明や社会から離れた未開の地に国を追われた犯罪者が大勢やってくれば力が全ての無法地帯になります。

 無法者に対抗するには力で抑え込むしかありません。

 悪い奴は力尽くで言うことを聞かせればよい。力こそ正義。

 そんな、ならず者の理論がアメリカと言う国の根底にあるのではないかと、私は疑っています。

 例えば、アメコミのヒーローは基本的にみんなマッチョです。

 日本では、鉄腕アトムの時代から「見た目は可愛らしい子供だけれども実は強い」と言ったパターンも普通にありますが、アメリカではなかった発想でした。

 見た目で舐められることを許さないやくざな価値観です。

 ハリウッド映画でも主人公が悪漢を殴り倒すような展開は鉄板らしく、正義と暴力は直結しています。

 暴力的に正義の勝利を演出することはフィクションにおいてはありがちな表現ではありますが、問題はそれがフィクションだけにとどまっているかです。

 アメリカは銃社会であり銃規制が進まない国です。理由は色々とありますが、銃と言う暴力を取り上げられたら正義の側でいられないという思いがあるのではないでしょうか。

 犯罪者から身を守るために銃が必要、と言う理由で銃が規制されないから容易に入手できる銃を持った犯罪者が現れる。

 銃による犯罪が後を絶たないから自衛のために銃の所持が必要として銃規制が進まない。

 犯罪者(予備軍)から銃を取り上げることが困難なので仕方がないのですが、なんともマッチポンプと言うか自縄自縛と言うか、ものすごく手遅れ感があります。

 初期のころの移民だけでなく、歴史的な経緯もあるでしょう。

 そもそも、暴力による正義を否定すると、先住民を暴力的に排除して植民地を広げていった自分たちの先祖と歴史が否定されてしまいます。

 また、アメリカ独立のきっかけは本国の政府に不審を抱いたからであり、政府が信じられないから自分たちの身と権利は自分たちで守るという精神が根底にあったりします。

 ただ、武装して自分の身は自分で守らなければならないという時点で、アメリカと言う国は今でもならず者の国なのでしょう。

 個人レベルでならず者なのはともかくとして、社会レベル、国レベルでならず者だと困ってしまいます。

 しかし、実際にアメリカ合衆国は、第二次世界大戦後にちょくちょく他所の国に出向いて戦争を行っています。

 領土を奪うための侵略戦争ではなく、それぞれに理由があるにしても、結局は暴力による正義を行ってきたことに変わりはありません。

 それでも以前は大義名分をしっかりと用意していたと思います。湾岸戦争でもイラク戦争でも他国を説得して国連主導の多国籍軍の形で行いました。

 けれども、トランプ政権になってからは大義名分さえもかなぐり捨てているように見えます。

 ベネズエラに対しても、イランに対しても、国際的に正当性を訴えることなく、独断の奇襲で戦争を始めています。

 アメリカとしての正義は用意してあっても、暴力による独善的な正義です。

 イスラエルにそそのかされて独断で始めたイラン戦争に同盟国が協力しないと文句を言うトランプ大統領が、同盟国を子分扱いするやくざの親分か、ガキ大将のように見えるのは私だけでしょうか?


 最後の狂信者ですが、これは確実に今でも大勢います。

 分かりやすい例で言うと、アメリカでは進化論を教えることを禁止する法律が存在した時期がありました。

 神様が世界を創ったという聖書の教えに反するという理由から、アメリカの多くの州の州法で進化論を教えることを禁止していました。

 1968年の連邦最高裁判所の判決でそれらの州法は無効になりましたが、それ以降も進化論を教育のカリキュラムから排除したり扱いを縮小したりしする動きや、神様が世界を創造したとする創造論を併記して教えようとしたりしています。

 カトリックでは、1950年にローマ教皇が進化論を容認する発言をしています。

 カトリック教会は時代に合わせた信仰の形を模索する柔軟性がありますが、文字として固定された聖書を絶対の基準とするプロテスタントはある意味融通が利きません。

 21世紀に入った今日でも四割近い人間が進化論を否定する。それが科学の先進国であるはずのアメリカの実情です。

 それだけ「正しい信仰」を守ることに真摯だと言えるかもしれません。

 けれども、私は原理主義者だからと言ってその宗教の本質を正しく信仰しているとは限らないと思っています。

 皆さんは、昔のアメリカに奴隷制度があったことを不思議に思ったことはありませんか?

 キリスト教では、全ての人は神の下に平等のはずです。

 それにもかかわらず、アメリカには建国以前から奴隷が存在しました。

 植民地開拓の労働力として連れてこられたアフリカ系黒人奴隷です。

 人種差別とセットの奴隷である彼らは、借金を返済すれば解放される職業的な奴隷とは異なり、生涯奴隷から解放されることのない奴隷階級的な存在です。

 人は皆平等と言うキリスト教の教えに完全に反しているでしょう。

 植民地で大規模農業を行うために労働力が必要だったとはいえ、金のための教義を曲げて免罪符を売ったカトリック教会を見限ったプロテスタントの人たちが、自分たちの都合で教義を曲げるものでしょうか?

 アメリカの奴隷に関しては、信仰心の薄い一部の不届き者の仕業ではありません。

 奴隷解放の是非をめぐって国を二分する内戦(南北戦争)をやっているのですから、敬虔なクリスチャンの半分くらいは奴隷を認めていたはずです。

 敬虔なクリスチャンが何を思って奴隷を使っていたのか?

 こんなことを考えていたらしいです。


「神様は奴隷を認めている。」


 実は、旧約聖書の中には奴隷に関する記述が存在します。

 ただし、それが即神様が奴隷制度を認めているということにはなりません。

 旧約聖書は、神様の話だけが書かれている神話や宗教だけの書物ではありません。

『目には目を歯には歯を』という有名な言葉を聞いたことのある人も多いでしょう。

 意味としては報復を推奨する言葉ではなく、報復は同程度に留めることで過剰な報復を止めさせ、報復の連鎖が起きないようにするものだそうです。

 元々は古代メソポタミアのハンムラビ法典に出てくる言葉なのですが、同じ言葉が旧約聖書にも登場します。

 ハンムラビ法典は法典、つまり法律です。

 そのハンムラビ法典と同じ言葉が記載されている旧約聖書は、神様の話に加えて法律の話が書かれているということなのです。

 元々ユダヤ王国は政治と宗教が一体化していたのだから不思議はありません。

 そうした、法律側の話の中に「他人の奴隷を殺した場合にどれくらいの補償をすればよいか」と言った記載があるのです。

 はい、神様関係ありません。

 旧約聖書が成立した当時のユダヤ人の社会に奴隷制度が存在したので、その扱いに対する記載があっただけです。

 プロテスタントの人は、教会や神父の言葉はその場その場で都合の良いことを言うから信じられないが、文字として固定された聖書の言葉は変わらないから信じられる、と考えました。

 しかし、聖書の言葉は変わらなくても、それを読む人間は変わります。

 イエス様の死後に編纂された新約聖書でも二千年近く前、ユダヤ教の聖典である旧約聖書はさらに古い時代に書かれたものです。

 社会も文化も生活環境も常識も価値観も様々な考え方も、何もかもが今と違っているはずなのです。

 小粋なジョーク、ちょっとした比喩、当時流行った表現。そういったものも、百年二百年と経つと元の意味が忘れ去られます。

 単なるたとえ話とか洒落とかを言葉通りの意味に捉えてしまったら、間違いなくおかしなことになるでしょう。

 専門家があらゆる資料を動員して様々な角度から検証したのならばともかく、素人考えで分かるところだけを拾い上げてつなげて行ったらどれほどずれた解釈になるか分かりません。

 聖書を絶対視する原理主義者のプロテスタントでも、キリスト教の本質から外れる危険性は十分にあります。

 ましてや、「こうであってほしい」と言うバイアスが加われば、多少の矛盾は無視して都合の良い結論に飛びつきます。

 肥大化した教会組織の運営資金を求めたカトリックが教義を曲げて免罪符を売ったように、奴隷の労働力で利益を得ていたアメリカのプロテスタントはキリスト教の博愛の精神を投げ捨てて奴隷を認める解釈を聖書の中から喜んで見つけ出すでしょう。

 聖書の中から都合の良い言葉を拾い上げて、前後の文脈を無視して勝手な解釈を付ければ、かなり無茶な教義の改竄もできてしまいます。

 聖書原理主義のプロテスタントであっても、教義を捻じ曲げることは可能なのです。

 それから、キリスト教の原理主義の中でも特に変なことを言う人は旧約聖書を根拠にしていることが多いと感じます。

 旧約聖書は、本来はユダヤ教の聖典です。キリスト教でも聖典として扱っていますが、イエス・キリスト以前の神様との約束だから『旧約』聖書と呼んで区別しています。

 キリスト教では、ハンムラビ法典由来の「目には目を歯には歯を」から「右の頬を打たれたら、左の頬を向けなさい」のようにアップデートされた部分もあるのです。

……ならず者の国アメリカだとハンムラビ法典の精神を曲解した報復のすすめとしての「目には目を」な人が多い気がします。

 イエス様の教えを正しく受け継いだのが、非暴力不服従を訴えたマハトマ・ガンジーだったというのは何とも皮肉な話です。

 キリスト教徒ならキリスト教徒らしく、新約聖書からイエス様の慈愛の精神を汲み取って欲しいところです。

……たまに新約聖書出典でも黙示録だったりします。いえ、物語としては面白いのですが。


 色々と酷いことも書きましたが、アメリカと言う国の強みは間違えても失敗しても、ちゃんと反省して学習して先に進むことができる点にあるのではないかと思っています。

 問題のある方向に突き進んでしまっても、「それは間違っている」と言える人が現れて自ら過ちを正すことのできる。

 だからこそ今でも強国であり続けることができているのでしょう。

 けれども、その根底に流れるものは変わらないのだろうと思うのです。

 他人を不幸にしたとしても利益を追求する強欲。

 力で持って押さえつけることを正義と呼ぶならず者の理論。

 それらの非人間性を埋めるはずの信仰も、都合よく捻じ曲げて現状を肯定してしまう狂信。

 そういったものがアメリカと言う国の根底にあって、時々そうした側面が顔を出します。


 アメリカは大国です。これからも良きにつけ悪しきにつけ世界に影響を与えていくでしょう。

 様々な新しいものもアメリカから生まれてくるでしょう。

 けれども、それらは全てが全て良いものはと限りません。

 人を不幸にしながら成長する金儲け(ビジネス)かもしれません。

 暴力的な支配を正義だとか平和だとかいい切る思想かもしれません。

 差別や偏見を曲解した聖書の言葉で正当化する狂信者の理論が含まれているかもしれません。

 そういった側面もある国として付き合っていかなければならないのでしょう。

今回は特に偏見多めで書いています。

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