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駄文庫  作者: 水無月 黒


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小ネタ集1

評価設定、ブックマーク登録およびリアクションありがとうございました。

 小ネタをテーマでまとめてタイトルをつけるのにも限界を感じてきたので、単純に「小ネタ集」のタイトルにナンバリングをしていくことにしました。

 小ネタ集2以降を書くかは未定です。


〇シンデレラストーリー

 シンデレラの物語を「自分では何もせず、誰かが幸せにしてくれるのを待っているだけ」の話と解釈するようになったのはいつからでしょう?

「シンデレラコンプレックス」というと、「男性に高い理想を追い求める、女性の潜在的な依存願望」のことだそうです。

 白馬に乗った王子様が迎えに来てくれる、というやつですね。

 私は拙作『逆説シンデレラ』を書いた際に、改めて原作を読んでみることにしました。

 で、実際に読んでみた結果、「自分では何もせずに誰かが幸せにしてくれるのを持っているだけ」とは少し違うのではないかと思いました。

 シンデレラの原作と呼ばれる物語は二つあります。

 グリム童話の「シンデレラ」とペロー童話の「サンドリヨン」です。

「シンデレラ」も「サンドリヨン」も意味的には「灰かぶり」です。ドイツのグリム兄弟とフランスのシャルル・ペローの違いがタイトルに表れています。

 どちらの物語も、継母と二人の義姉にいじめられていた主人公が王子様と結ばれてハッピーエンドという全体の流れは同じです。

 おそらく、原形となる民話がヨーロッパの広い範囲で語り継がれていたのでしょう。

 同じ話を元にしているから基本構造は一緒です。

 けれども、細部はかなり異なります。

 おそらく、日本で「シンデレラ」と言って思い浮かべる物語は、「サンドリヨン」の方です。

「魔法使いが助けてくれる」

「かぼちゃを馬車に変える」

「十二時で魔法が解ける」

「ガラスの靴」

 これらはすべてペロー童話の「サンドリヨン」にのみ出てくる要素です。

 グリム童話の「シンデレラ」でも最後の決め手は靴のサイズですが、ガラスの靴ではありません。

 グリム童話のシンデレラは結構活動的です。

 シンデレラはまず、父親からハシバミの小枝をもらってそれを母親の墓の近くに植えます。

 植えた小枝はたちまち大きく育って、その木に止まる鳥がシンデレラの欲しいものを落としてくれるようになります。

 ハシバミの木は財産を象徴するのだそうです。Eテレの「100分de名著」でシンデレラが取り上げられたときにそんなことを言っていました。

 つまり、この(くだり)はシンデレラが母親から譲り受けた財産を大きく育てていることを暗示しています。

 ただ黙っていじめに耐えていただけではなく、着実に自分の力を付けていたのです。

 シンデレラは舞踏会に行きたいということをしっかりと継母に主張しています。

 そして、シンデレラを連れて行きたくない継母の出した無理難題――灰の中に撒いた豆を拾い集めること――を鳥たちに手伝ってもらうことで解決しています。

 ハシバミの木に集まってくる鳥は、母親から受け継いだ財産を活用して得た外部の協力者の暗喩ととらえることができます。

 もしかすると、「財産」の中には人脈や信用も含まれているかもしれません。

 結局約束を守らなかった継母において行かれたシンデレラは、ハシバミの木の下で願うことでドレスと靴を手に入れて舞踏会に向かいます。

 魔法使いに頼らなくても、自力で舞踏会に参加できるのがグリム童話のシンデレラです。

 実はいつでも家を出て独立する準備はできていて、王子様なんていなくても自力で幸せを掴めたのかもしれません。

 一方、ペロー童話のサンドリヨンはかなり消極的です。

 舞踏会に行きたいと思っても言い出せずに継母と義姉において行かれて泣いているような娘です。

 だから、サンドリヨンが舞踏会に行くためには魔法が必要だったのです。

 サンドリヨンのようになりたいと願うのならば、「自分では何もせずに誰かに幸せにしてもらう」ことを望んでいると言われてても仕方がありません。

 しかし、サンドリヨン自身は誰かに幸せにしてもらいたいと願っているわけではありません。

 サンドリヨンは、ただ善良なだけなのです。

 継母や義姉の理不尽ないじめにもけなげに耐えて家事を行ったり義姉が舞踏会に行く準備を手伝ったりするし、立場が逆転しても復讐しようと考えない性格です。

 サンドリヨンは、善人が報われる物語なのです。

 ここでちょっと日本の昔話を思い出してみてください。

 例えば、「花咲か爺」を「自分は何もせずにペットに金持ちにしてもらう話」と考える人はあまりいないでしょう。

 正直爺さんは善良で、飼い犬にも優しかったから恩返しの形で宝物を掘り当てたりします。

 善行や善良な者が報われることがポイントで、ただ飼い犬に大金を恵んでもらいたいという心積もりでは意地悪爺さんになるだけです。

 サンドリヨンの場合も、魔法使いや王子様によって幸せにしてもらうことが目的なのではなく、逆境にもめげずに善き心を保ち続けたことに対するご褒美的に幸せになっているのです。

 王子さまは、言ってみれば景品であり、幸せになったことを示す符号にすぎません。

 読者が幸せになってほしいと思うほどの善性を抜きにして、王子様と結ばれて幸せになるという結果だけを求めると、それは意地悪な義姉のポジションになります。

 シンデレラコンプレックスというのは、実は義姉の方になっている人のことを指していたのです。


 ところで、シンデレラにしてもサンドリヨンにしても、舞踏会に行きたいとは思っていましたが王子様と結ばれたいという考えは作中どこにも書かれていません。

 舞踏会で王子様に気に入られたことは間違いありませんが、シンデレラやサンドリヨンの側が王子様に好意を抱いたような描写もありません。

 すくなくとも、王子様に対する恋愛感情から王子様との婚姻を望んだとは思えません。

 つまり、王子様のプロポーズを受け入れた理由は、王子の妃、将来の王妃という社会的立場と権力が目当てということに。これって義姉たちと同じでは……

 まあ、王子様からの申し出を断ることはできなかったでしょうし、当時の社会通念も影響しています。

 昔の欧米の社会は、日本の男尊女卑以上に女性の地位が低かったりします。

 女性の幸せの最低条件が良い相手と結ばれることであり、結婚もせずに働く女というのはまともな存在ではありませんでした。

 誰もが納得するハッピーエンドにするためには、最上の相手である王子様と結婚することが必要だったのでしょう。

 特に、ペロー童話の方はグリム童話よりも当時の社会に合わせて修正されているのだと思います。

 例えば、グリム童話では義姉二人の末路はかなり悲惨です。

 シンデレラの靴に収まらなかった足の親指や踵を母親に切り落とされていますし、王子様と結婚したシンデレラのおこぼれに与ろうとした結果、鳥に両目をくりぬかれています。

 童話とか昔話にはありがちな残酷表現ですが、ペロー童話ではカットされ、義姉二人はサンドリヨンに許されます。

 子供向けの物語に残酷表現はふさわしくないという判断が働いたのでしょう。

 それからもう一つ、女性の地位の低い男性社会では、女性に求められることは貞淑な妻になることです。

 積極的に自己主張をしたり、自分から率先して行動して問題を解決してしまうような女性は、当時の女性に対する理想像から外れていたのでしょう。

 シンデレラでは継母の意地悪で灰の中にばらまかれた豆を、シンデレラが鳥に手伝ってもらってもらって集める場面がありますが、サンドリヨンにはこのエピソードはありません。

 このエピソードはシンデレラが逆境の中で頑張っている様子を示したもので、グリム兄弟の創作ではなく元からあった話でしょう。

 ただ、この話は舞踏会に連れて行って欲しいというシンデレラに対して、継母が条件として出した無理難題です。

 サンドリヨンでは、そもそも舞踏会に行きたいと言い出せなかったのだから、このエピソードは削除するしかなかったのでしょう。

 もしかすると、舞踏会に連れて行ってもらえなければ自力で行ってしまうシンデレラのような行動は、選ばれたのは自分ではないと承知の上でどうにか靴を履こうとした義姉と同じに見えたのかもしれません。

 現代風に言えば、呼ばれてもいないのに合コンに押しかけて来て、まるで自分が主役であるかのようにふるまう勘違い女、みたいなものでしょうか。

 その当時は従順で淑やかな女性が理想だったのでしょう。

 ヒロインには外見だけでなく内面も美人であってほしいと考え、理想にそぐわない言動を排除していくと、とても消極的で他人任せなサンドリヨンになります。

 けれども、時代が変わり、女性の権利が認められるようになると、サンドリヨンは「自分では何もせず、他人に助けられるだけ」と揶揄されるようになりました。


 時代や地域でも価値観は変わるものです。

 昔はサンドリヨンこそが女性の鑑であり、シンデレラは少々生意気な女と思われていたのかもしれません。



〇DIY

 ふと疑問に思ったのですが、DIYは何故DIYなのでしょうか?

 DIYは「Do It Yourself」の略です。

 出来合いのものを買ってきたり、専門の業者などに依頼して作業してもらうのではなく、自分自身で物を作ったりする日曜大工的な行為を指します。

 その辺りの話は理解していいるのですが、気になったのはDIYの「Y」の部分、「Yourself」です。

 直訳すると、「お前が自分でやれ」です。

 行う主体が他者になっているのです。

 あくまで自分自身が行うことを指すのならば「Yourself」ではなく「Myself」、DYMになるべきではないでしょうか。

 思うに、DIYと言う言葉は、売る側の用語なのです。

 完成した製品ではなく、工具や部品、素材などを店に並べ、「後は(あなたが)自分で好きに作れば良い」と言うコンセプトの商売です。

 店の中に「DIYコーナー」がある分には問題ありません。DIYのYは店から見た「あなた」、つまりお客様を指します。

 けれども、「趣味はDIYです」とか言うと、「Y」は誰の事かと言う話になってしまいます。話している本人をYourselfは指しません。

 英語圏の人間がどう言っているのか気になりますが、未確認です。

 まあ、DIYと略したことで元の意味が薄れて、普通に自分の趣味を「DIY」だと表現しているかも知れません。

 そう言えば、スーパー等のレジ袋の削減運動が始まった初期の頃、客が持参する買い物袋の事を「マイバッグ」と称していました。

 レジで、「マイバッグはお持ちですか」と聞いてレジ袋を出すか出さないか決めていたわけです。

 これを外国人の客に対して英語で質問すると、「お前のバッグなんて持っているわけないだろう」と意味が通じなくなってしまいます。

 日本語では「マイバッグ」で一つの言葉になって元の意味が失われていたから普通に通じていたのです。

 DIYも元の意味を忘れて一つの単語として定着したから違和感がないのでしょう。

 今から「DYM」とか言い出しても流行らないでしょうし。


〇贅沢の話

 皆さんの周囲にはこんなことを言う人はいませんか?

「特に贅沢はしていないのに、貯金が貯まらない。」

「別に贅沢なんてしていないのに、家計が苦しい。」

 お金に不自由する人の常套句です。

 ここで問題となるのは、「贅沢」とは何かという点です。

 自分が贅沢だと思うのはどういった時か、ちょっと想像してみてください。

 一般的に言えば、普段は利用しないような高価な品やサービスを利用した場合に贅沢だと感じるのではないでしょうか。

 つまり、贅沢というのはあくまで本人の普段と比較した主観的なもので、客観的あるいは普遍的な基準は存在しないということです。

 例えば、大衆食堂の安いメニューでも、普段外食しない人にはちょっとした贅沢になり得ます。

 あるいは、厳選された高級食材をふんだんに使った栄養満載な料理も、毎日食べている人にとっては健康や食の安全を確保するために必要なことと言うでしょう。

 だから、他人の「贅沢していない」はあてになりません。その人にとっての普段通りという意味しかあませんから。

 実を言えば、「贅沢はしていない」という人よりも、贅沢に心当たりのある人の方が改善は簡単なのです。

 贅沢しているという部分を止めればよいだけですから。

 本人が贅沢をしている自覚があるのならば、「贅沢」を控えて「普通」に戻せばよいだけです。

 どうしても止められないものを「贅沢」と表現する人はあまりいないでしょう。

 出費を抑える方法が明確で、実現可能なのだから後はやるだけです。

 一方で、「贅沢していない」のならば、何をどうすれば出費を減らせるのかを考えるところから始める必要があります。

 考えたところで実行可能で効果のある方法が見つかるとは限りません。場合によっては収入を増やすことを考える必要があるかもしれません。

 結局、「贅沢していない」のに金に不自由するのならば、普段から金に不自由する生活を送っていると言うことです。

 生活そのものを見直さなければ解決しません。


 個人的に実感する「贅沢」と、家計を考える場合の「贅沢」とではちょっと意味が違うのです。

 家計を考える場合には、収入に見合った生活をしなければなりません。

 収入に対して分不相応な高価な出費を行うことが、家計を考える場合の「贅沢」となります。

 この「贅沢」を続けていれば、どこかで歪みを生じます。

 贅沢の代償として他の必要な費用が抑えられて不自由な生活を強いられたり、将来必要になる資金を貯めることができずにその時になって困ったり。

 ギリギリでやり繰りしている人は病気や怪我や思わぬ出費で困ったことになりますし、もっと刹那的な人は貯金を取り崩したり借金を増やしたりしていずれ破綻します。

 そうした、破滅に向かって一直線の人でも、「自分は贅沢をしていない」と言うでしょう。

 むしろ、贅沢をしていない(と思っている)からこそ金欠から抜け出せないのです。

 傍から見ると贅沢三昧な生活をしているように見えて、当人にとっては必要最低限の出費で質素に暮らしているつもりだった、なんてこともあるかもしれません。

 他人からは贅沢に見えて、本人としてはごく当たり前の質素な暮らしをしているつもりでいる。これが一番の贅沢かもしれません。

 ただし、家計的にも贅沢だったらそのうち破綻しますけれど。


 結局、贅沢というものは、たまにやるから贅沢だと感じられるのです。


〇無責任なAI

「そこにAIはあるか」の話を書いた後にふと思いました。

 今のAIは出した答えに責任を負いません。

 しかし、その無責任さゆえにAIのことを気に入る人もいるのではないでしょうか。

 元々、「そこにAIはあるか」の話は「もしかすると感情を持ったロボットが登場するかもしれない」という思い付きから書き始めました。

 ところが、書いている最中に「NHKスペシャル イーロン・マスク ”アメリカ改革”の深層」というテレビ番組が放送されました。

 この番組内で紹介されたアメリカのテックライトの人たちの主張が個人的に突っ込みどころ満載で、話の後半はその突込みで埋まりました。

 そのライトテックの人たちはAIを崇拝し(私にはそう見えた)、「官僚よりもAIの方が有能で信頼できる」などと言います。

 ところで、彼らは何をもって「AIの方が有能」と言っていたのでしょう?

 限定的な範囲に限れば、テストを行って正解率を比べるとか、問題を解決するまでの時間を競うとか、比較する方法はあります。

 けれども、トータルでの優劣を決めることは難しいです。AI官僚が実現しているわけでもないので、実績で持って比較することもできません。

 多分、ライトテックの人の主張には明確で客観的に根拠の存在しない思い込みの要素が多分にあると思います。

 こうした、実はきっちりとした根拠のない思い込みで相手を優秀だと思う場合にはいくつかのパターンがありますす。

 例えば、自分の考えと近い意見、あるいは自分の言ってほしい意見を的確に主張するような相手は、その主張の正否にかかわらず優秀だと思いやすいです。

 例えば、最初から「AIなのだから有能に決まっている」という思い込みがあれば、思い込みを補強する材料ばかり集めて都合の悪いことは無視し、「やっぱりAIは有能だ」という結論を出することもよくあります。

 そのような、多くの人がやってしまいがちな思い込みの中に、「単純明快に言い切ってしまう人を好ましく思う」というものがあります。

 世の中には、単純明快にきっぱりと言い切れないことが多々あります。

 高確率で正しいと思われるのだけれど、別の可能性もあって絶対とは言い切れない場合。

 正しく理解するためには関連する様々なことを知らなければならず、必然的に説明が長くなる場合。

 下手に単純化して言い切ると、とんでもない誤解を生みかねないこともあるのです。

 特に社会的に責任のある立場の人ならば、不用意な発言が社会的な混乱を引き起こすこともあります。

 例えば、地震学者の今村明恒助教授は過去の歴史から関東地方で周期的に大地震が発生していることを調べ、震災に対する警鐘を鳴らしました。

 しかし、そのことが今にも大地震が発生するかのようにセンセーショナルに報道され、社会問題となるほどの騒動になりました。

 その騒動を収めるために、上司である大森房吉教授がその説を強く否定したため、今村助教授はほら吹き呼ばわりされるようになりました。

 その後、関東大震災が発生して、この二人の評価は逆転することになります。

 しかし、今村助教授が主張したかったのは、いずれやってくる大地震に備えて防災をしっかりやれと言うことです。

 決して、今すぐに大地震が来ると吹聴して人々を混乱させたかったわけではありません。

 大森教授にしても、起こってしまった騒動を鎮めるためには、当時の地震学の権威である自分が否定するしかなかっただというけです。

 別に、今村助教授をけなしたかったわけでも、防災なんて必要ないと主張したかったわけでもないでしょう。

 この場合、地震に関する発言を地震学を研究する学者が行ったからからこそ社会に影響がありました。

 畑違いのど素人の主張ならば一顧だにしない人でも、専門家の意見となれば無視できなくなります。

 地震学なんて普段は意識することもない人がほとんどでしょう。

 そんな、多くの人にとってなじみのない地震学の学者の主張でも世間を騒がす大問題になることがあります。

 これが行政や法律など直接間接的に多くの人に影響を与える政治家ともなると、何気ない発言が大問題になることすらあります。

 実際に新しい法律が成立したり、政策を実施しなくても、そうした動きがあると聞いただけで人は行動し社会は動きます。

 不用意な発言で多くの人に誤解を与えてしまえば、全く意味のない混乱を招く恐れもあるのです。

 そんなことになれば、デマを流して社会を混乱させたとして責任を問われることになるでしょう。

 だから、不要な混乱を避けるためには、偉い人ほど発言には気を付ける無ければなりません。

 責任ある立場の者は、無責任な発言は許されない。ある意味当たり前のことです。

 政治家がどうとでも取れる玉虫色の発言をするのは、不用意な発言で意図しない責任問題に発展することを防ぐ自衛手段であり、社会が過剰に反応して混乱することを防ぐための婉曲な表現でもあります。

 野党で政府を鋭く批判し独自の政策を主張していた人が、政権交代したり与党に入党したりして政権側の人間になったらそれまで批判してきた人と似たようなことを言うようになったとか。

 市長やら県知事やらの方針に反対して独自の方針を示して市民運動をしていた人が、政策を推進する立場になったら妙に歯切れの悪いことを言うようになったとか。

 そんな経験ありませんか?

 それは、人が変わってしまったのではなく、責任ある立場になれば責任ある言動をしなければならなくなったということです。

 しかし、どれだけ気を付けていても、失言で失脚する政治家はしばしば現れます。

 時には発言の趣旨を捻じ曲げられて失言扱いされてしまう場合もあるので政治家も大変です。

……本音がポロっとこぼれてしまった失言も多そうですが。

 ともかく、責任ある立場の者ほど無責任な発言はできません。

 責任ある発言を行おうとすれば、誤解や混乱を避けるためにどうしても慎重でまどろっこしい言い方になります。

 一見すると、簡潔にきっぱりと言い切った方が誤解しにくいように思えるかもしれませんが、それは前提となる認識を共有している場合に限ります。

 不特定多数に対する発言としては、簡潔な分情報が少なく、意図に反する解釈をされる恐れがあります。

 発言の一部を切り出すことで、本人の主張とは全く別の意味に思わせる捏造が行われることもあります。

 国民を騙すようなプロパガンダは単純明快に断定したスローガンを連呼することになります。

 単純明快で簡潔に言い切るような主張というものは、何か重要なことが抜けていたり、極端に偏った見方だったりする危険性が常にあるのです。

 けれども、多くの人は単純明快できっぱりと言い切る説明を好みます。

 どれほど正しくても、長くてややこしい説明を理解することは大変です。

 特に専門外の事柄については頑張っても理解できるとは限りません。

 だから、不正確であっても分かりやすくてきっぱりと断言された結論に飛びつきます。

 例えば、「ネッシーの正体は巨大ウナギだった」という話をご存じでしょうか。

 発端は、ネス湖の水に含まれるDNAを分析したらウナギのDNAが大量に見つかったという話です。

 ネッシーの正体としてよく言われていた首長竜等のDNAは見つからなかったということで、そうした説を否定する材料にはなりますが、ネッシーの正体を特定できるような研究ではありません。

 しかし、まともな科学者は根拠なく否定することもできません。

 巨大に成長したウナギが存在する可能性はあるか? 可能性は否定できません。

 ネッシーの正体はその巨大ウナギではないか? 可能性は否定できません。

 少なくともこの研究からは否定できるだけの証拠は出てきません。

 けれども、別にこの科学者は「ネッシーの正体が巨大ウナギだ」と主張しているわけではありません。可能性が高いとすら言っていません。

 ただ「可能性を否定できない」だけです。

 それなのに、「ネッシーの正体は巨大ウナギだった」と断定した話が伝わってくるのは、言い切った方が一般受けするからです。

 多くの人にとって、「可能性を否定できない」などというどっちつかずの言葉より、「ネッシーの正体は巨大ウナギだ」と断言してもらったほうが嬉しいのです。

 それが正しいか間違っているかなんて、ほとんどに人には関係ありません。

 世の中には荒唐無稽な珍説を唱える人が多くいますが、まっとうな研究者や専門家から見向きもされない珍説に対しても一定の支持者や信奉者がつく理由は、素人にもわかりやすく結論をきっぱりと言い切ることにあると思います。

 真面目に正しいことを正確に説明しようと頑張る人よりも、無責任に決めつけて言い切る人の方が人気が出たりするのです。

 そして、だれよりも無責任なのがAIです。

 AIはデータを入力すれば答えを出します。

 間違っているかもしれないとか、社会に与える影響が大きいとか考えて躊躇することはありません。

 誤解されないように慎重な言い回しをすることもありません。

 その結論に至った過程をくどくどと説明することもありません。そもそも説明できません。

 つまり、AIは明確な答えをきっぱりと出すのです。

 AIは人間でないから私利私欲で自分に都合の良い答えを出すこともないだろうという点も信頼される一因でしょう。

 しかし、AIが必ず正しいという保証はどこにもありません。

 そして、AIは責任をとりません。

 出した答えが間違っていたとしても、それでどのような混乱や損害が出たとしても。

 AIは一切の責任をとりません。

 ネッシーの正体くらいならば珍説の一つや二つ増えたところで大した問題にはなりませんが、誤った言説や間違っていなくてもセンセーショナルに報じられた社会に混乱をもたらしたり、誰かに不当な損害を与えたりすることはあります。

 AIの出した答えによって社会に混乱が生じたり損害が発生した場合、AI推進を主張した人たちは何というでしょうか?

 前向きに、もっと優秀なAIを開発すべきと主張するでしょうか。

 政治家やAIに踊らされた人たちを非難するのでしょうか。

 それとも、新方式のAIとかAIに代わる何かを担ぎ上げるのでしょうか。

 いずれにしても、自分たちが責任をとるという人はあまりいない気がします。


 ところで、ネット上等でたまに、世の中の難しい問題に対して「〇〇なんて簡単」と豪語する人がいますが、それは簡単な解決方法を知っているのではなく、難しいことを考えていないだけなのではないかと思うことがあります。

 特に突っ込まれるたびに別の話を始めるような人は何も考えていない可能性が高いと思います。

 深く考えず、詳しく調べたり検証したりしないで発言するから、簡単な疑問にも答えられずに別の話を始めて誤魔化すのです。

 単なる思い付きをさも本当のことのように主張し、言いっぱなしで放置する。とても無責任な態度です。

 けれども、話を逸らしたりすり替えたりする詭弁が上手い人もいます。

 また、良識のある人ならば軽々しくは言わないような安易な解決方法をきっぱりと言い切る姿勢に感動して、深く考えずに賛同する信奉者が現れる場合もあります。

 信奉者がある程度増えて積極的に発信するようになると、「みんながそう言っている」で信じてしまう人が現れるようになります。

 人の心理として、何度も繰り返し同じことを聞くと信じてしまいやすくなるのだそうです。

 人から聞いたことをそのまま再発信するのではなく、自分で考え、情報の裏をとるようにしたいところです。

 今の時代、ネットで検索すれば簡単に調べることができます。

 ただ、問題は同じくらい簡単にデマを流せるということです。

 ネットで調べて複数の人が同じ主張をしているように見えて、その元ネタは全員同じだったなんてことが普通にあります。

 同じ根拠を同じ視点から見て同じ流れで同じ結論を言う。

 多少のバリエーションはあっても、よく見れば同じ人の主張をそのまま繰り返しているだけなのですが、いったん信じ込んでしまうと多くの人によって検証済みのゆるぎない真実に思えてしまうこともあります。

 他人の受け売りで再発信する人も悪気はないのでしょう。自分なりに考え、裏をとったつもりだったのかもしれません。

 けれども、その主張が大間違いで信じて行動した人が損害を被ったり、社会的に混乱が生じて大問題になったとしても、広めた人達はたぶん責任をとりません。

 自分も騙されただけだと言うでしょう。

 たとえ伝言ゲームで大元の主張にはなかった大嘘が紛れ込んでいたとしても、誰もが自分のせいではないと言うことでしょう。

 こうして、デマを拡散する無責任な集団が出来上がります。

 注意しないと、意図せずその無責任集団の一員になってしまうこともあります。

 デマの拡散に加担したにもかかわらず自分も騙されたのだと主張することは、被害者ぶる加害者になると言うことです。

 それは避けたいと思うのです。


 なお、この連載は思い付きを想像で膨らませた、かなり無責任なことを書いています。

 違った視点で考えればまた違った答えも出てくると思いますので、突っ込みを入れながら読んでいただければと思います。


アメリカのトランプ大統領は割と無責任な発言を連発している政治家だと思います。

選挙期間中には「ウクライナ戦争を24時間以内に終結させる」などと発言しましたし、第二期トランプ政権発足後も関税関係で発言をころころと変えています。

「TACO」なんて言葉もあるそうです。「Trump Always Chickens Out(トランプはいつもビビって尻込みする)」という意味だそうで、強気の関税政策を打ち出しても延期したり撤回したりを繰り返したことを揶揄したものだそうです。

トランプ大統領としては巧みな交渉術のつもりなのかもしれませんが、株価とか為替とか乱高下しました。

日本でも、リーマンショックの時以上に株価が乱高下しています。全体的に株価は上昇していますが、物価も上がっているのであまり喜べません。

無責任な発言をする政治家というものは、やはり迷惑な存在なのです。

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