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式紙使い候補生、挑む。  作者: 久々椚
第一章  御符学
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四  水隧

 

 ――御符学書院の校門は水の中にある。


 という一文を護符ジャーナルの誌面で見て以来、晃一にとっての夢とは。


 御符学の校門をくぐること。


 慣用句的な意味合いでいうと「入学」だが、そこまで大それた夢は抱いちゃいない。単純に、文字通りの意味だ。とにかく、なにかのチャンスがあれば、その水の中の校門を見てみたい、実際にそこを通ってみたい。

 それが、慣用句的な校門までもくぐることになった。夢が叶っていた。

 そして夢叶ってはじめて、その「水の中」が、まったく文字通りなことを知った。一部が水に浸かっているとか、もしくは比喩的なものかと思っていたのに……。


 ほんとうに、水の中にあったのだ。




 ばしゃん、

 と音をたてて飛び込むと、晃一の体はまっすぐに沈み、靴底はすぐ堀の底についた。

 水中で姿勢を立て直しながら、毎日の手順を素早く脳内で組み立てる。ここからはひとりだ。はじめてひとりきりで、やりきるんだ。

 胸がどきどきする。だが焦りは禁物だ。まずは、しっかりと背筋を伸ばして立つ。それから、胸の空気を一気に吐き出した。こぽんこぽんと泡が続けて立つ。なにも出なくなるまで吐いてから、次には思い切り息を吸い込む。もったりした感触が鼻と口周りにまとわりつき、そして――なにもない。

 あとは普段通りに呼吸をする。式紙の護りで、ちゃんと息は続いている。


 ――よし。できてる。大丈夫。


 堀の端の水はちょうど晃一の頭のてっぺんあたりの深さで、そこからだんだん深くなっていく。なだらかな斜面を、校舎に向かって歩き出した。


 水中でも普通に歩けている。呼吸ができるし、体は浮かない。まだ慣れないし仕組みも謎だが、なるべく考えないようにする。そんな疑問は失敗のもとだ。級代議か学年代議が付き添ってくれるのも、ここで初心者の晃一がパニックを起こすことを心配しているからだ。

 実際、はじめての時には焦りや緊張やらでなにがなんだかわからなくなって、実嶋ののんびりとした「落ち着いてねぇ」の声で気を取り直したんだっけ。でも、もう心配は無用。あれ以降の二週間、一度も、何事もなかった。おれはちゃんとやっている。ほら、できてる。でも――


 ――もしも、また、パニックになってしまったら? それとも未熟な立式のせいで護符の効果が急になくなりでもしたら?


 ちらっと、そんな考えが浮かぶ。浮かぶたびに必死で打ち消した。大丈夫、おれは大丈夫なんだってば。


 校舎の入り口は、擂り鉢状の堀の底だ。そこまで来ると、水の深さは晃一の身長の二倍ほどにもなっている。

 五角形の校舎の角の部分にたどり着いた。水底にどっかりと鎮座した太い柱の前。その左右のすこし離れたところに、柱がもう一本ずつ。三本の柱に渡した梁の下は行き通しの通路、水隧(すいすい)になっていて、ぽっかりと暗い穴が開いている。


 右側の水隧の入り口に立ち、晃一は梁を見上げた。


 太い白木の梁の位置は、水面のやや下あたり。その中央には半紙大の白い紙が貼ってある。黒い楷書の達筆で、「三番口右」とあるのが見える。式を立てた上に墨でなぞったようで、文字の輪郭がぼんやり光っている。

 左側の梁にも同じ紙があり、紙の字は「三番口左」。

 これらの水隧は校舎の下を突っ切って、構内中央の吹き抜けにある水庭に続いている。つまりここが、学校への入り口。校門だ。

 晃一は二手に分かれた水隧の右側、「三番口右」に足を踏み入れた。


 暗い中を、どんどん進んでいく。背中側の光りが薄れていって、うっすらとした闇がさらに黒くなる。

 前方に、ぼうっと光が見えた。

 水隧の中にはところどころ灯りが点してあって、それを頼りに進む。


 ――せめてなんか、オレンジ色とかだったらいいのに。


 あいにくと灯りは薄い青色だ。寒色の光は弱々しくて寂しげで、暗い水隧をいっそう不気味に見せる。

 灯りは晃一の額のあたりの高さに浮かんで、ゆらゆらと頼りなく揺れている。なんとなく水母っぽい。その脇を通るとき、思わず足が速くなってしまった。

 だめだ。焦るな、落ち着け。

 そういえば初日のパニックも、この水母ライトの脇を通りすがった時だった。思い出して余計に焦る。


 ――大丈夫、大丈夫、御符学の水は護りの水。


 歩調を整えながら、心の中で唱えた。三回ハ組担任の甲成(こうなり)先生の言葉だ。登校初日、堀の手前でいっていた。そして続けて、水中を歩く時のちょっとしたコツを授けてくれた。にこにこと笑いながら得意げにいったアドバイスとは。


「左右の足を交互に出すと、前に進むよ」


 あたりまえだ。


 コツといっても、なにも言ってないも同然だ。甲成先生の声は高くて語尾がふにゃふにゃとぼやけていて、なにを言っているのかわからない。初日の言葉も、発音通りに記せば「らいぞぶらいぞぶ、みうがくおみずわまおりおみずー」だ。その後のアドバイスも聞き取れなくて、二度聞き返してやっとわかったら、内容がなかった。


 とはいえ、新入りにとっては貴重なアドバイスだ。晃一は教えを律儀に反芻した。左右の足を、交互に、普段通りに。

 そして、初日の言葉を口に出して言ってみることにした。

 口を開き、ひと息吸い込み、自分自身に「大丈夫」と。


「らいずおー……」


 ぜんぜん「大丈夫」じゃない音が出た。なんだ?

 こもって歪んだ、聞きづらい響き。発音自体は甲成先生のオリジナルに似ている。でもモノマネしようとしたわけじゃない。水中で喋るとこんな具合になるのか?


 ――あれ?


 でも、実嶋や瓜篠さんはたしか普通に喋ってたぞ。


 いっしょにここを通って、あと何歩くらいのところに微妙に段差があるから注意とか、あとすこしで出口に着くからとか、そうだ、初日にパニック寸前だった時に実嶋が言ってくれた「落ち着いてねぇ」だって、響きはすこし違っても、発音も声の高低もいつもの実嶋と変わらなかった。

 話しかけられたとき、晃一はとにかく歩くことに集中していたから、頷くのが精一杯で一度も声を出さなかった。以来の二週間も、無言で歩いた。水中で自分の声を聞くのは今日がはじめてだ。


 ――なにかが違うんだ。


 頭に一気に血が上り、そして一瞬で血の気が引く。

 今朝の立式で、なにか、間違ったのかもしれない。それとも、これまでもずっと間違ったまま歩いていたのかもしれない。

 いままでちゃんとできていたのはただの偶然か、それとも代議のふたりのおかげで、おれの式紙には欠点があるのかも……。

 焦り、駆け出しそうになる。だめだ、落ち着け。落ち着いて歩け。

 慌てる気持ちを必死で抑えると、今度はやたらと足が遅いような気がする。どんな風に歩いていたっけ。こんなんでよかったっけ。歩き方は、息は、これでいいのか。呼吸ってどんな風に……。


「おちるええ!」


 落ち着け、と叫んだつもりだ。やっぱり響きがおかしい。とにかく、もうすぐだ。前方に光が見える。青い水母じみた灯りの光とは違う、陽の光。あそこがゴールだ。校舎中央の水庭に続く、水隧の出口だ。

 その時。


 視界の端になにかが走った。

 なにか、白いものがちらりと。


 晃一の右腕のすぐ横をかすめるように通り過ぎ、背後にまわる。咄嗟に振り向くと、なにもいない。なにもないが、青い薄明かりに、細かい泡の軌道だけが残っている。それは晃一の体のまわりをぐるりと一周して――

 前方に向き直って、背筋が凍った。

 光の差す出口のすこし手前に、白い物体があった。

 球体だ。直径は、たぶん一メートルほど。白く光って、にじんで揺れる輪郭から細かい泡が絶え間なく立っている。


 さっきまで、なにもなかったのに。


 身動きできないままで見つめていると、それが、ぶるっと身震いをした。輪郭が動き、勢いよく泡が上がる。

 生きてる。

 それは、こっちを見つめ返している。

 球体が形を変えた。地に這うように歪んで、前方は平たくひしゃげ、奥が高く盛り上がる。力を溜めている。獣の攻撃前の態勢だ。

 覚った。こいつは。


 襲いかかってくるつもりだ。


 晃一のうなじの毛が逆立つ気がした。じっと見つめていると、ふと、胸元に熱を感じた。

 式紙だ。

 胸の真ん中で、どんどん熱くなっていく。

 それを感じた時、晃一の心が急に静かになった。静かに、落ち着く。同時に体が燃えるように熱くなる。

 手をじりじりと動かした。肩に手をやり、バックパックの肩紐をたしかめる。しっかりと掛け直す。そして、襷の上に手をかざした。

 式紙の存在を感じる。ここで、晃一を護っている。

 大丈夫、大丈夫。水、身の護り。力を溜める。右足をすこし引き、膝を落とした。

 白い光がぐらっと動き、伏せた前方の先端が強く瞬いた。

 目があった。

 そんな気がした瞬間、白い光が弾んだ。すさまじい量の泡を吐き出しながら、上方に跳ねる。晃一は身を低くしながら前に飛び出した。地面に飛び込み、勢いをつけて左側に転がる。白い光は晃一のすぐ側に落下した。ぶわっ、と大量の泡が起こり、晃一を跳ねとばす。

 晃一は跳ばされた勢いのまま起き上がり、出口に向かって駆けだした。そのまま振り向かずに走る。全力で駆け、水隧の終わりの梁の下を抜けた。

 急に広い場所に出た。すぐに右を向き、周りを囲む広い階段を駆け上がる。浅い段差を一段跳ばしに上がり、やっと顔が水面に出た。


「ぶわっ!」


 大声をあげて息をつぐ。別に息が詰まっていたわけじゃないのに。やっぱり慣れていないんだ。水中での呼吸を、まだ信じきれていない。

 おそるおそる、振り返る。謎の球体は追ってきていない。


 ――なんだったんだ。


 急に疲れが襲ってきた。よろけながら残りの階段を上る。

 悔しい。情けない。

 安全を覚った途端に、自分に怒りがわいた。あの焦りよう、今のこのふらついた足取り、それにさっきの、水面を出たときの大げさな息継ぎ。

 未熟者っぷりをさらけ出して、それでも式紙使い候補生か。御符学書院の生徒ってのは、もっと強くて堂々としてるもんだ。


 ――そうあってほしいんだ、おれとしては。式紙使いにあこがれてきた者としては。


 二度とこんなことはない。こんな恥ずかしい真似は二度としない。常に落ち着いて構えるんだ、なにがあったって。

 もしも実嶋や瓜篠さんにこんな慌てたさまを見られたら、やっぱり編入生にはお世話が必要なんだと思わせていたに違いない。今日はひとりでよかった。延々と気遣われたままなのは、申し訳ないし不甲斐ない。

 ともかく、この失態を誰にも見られなかったのは、不幸中の幸いだ。なにしろこの時間、校門も開いたばかりだし、校内にはまだ誰も……


「やだ」


 と、頭の上で声がした。


「……びっくりした」


 高音の呟き声。驚いて顔を上げると。

 階段の上に、女生徒がひとり、立っていた。



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