Ⅴ
◆◇◆◇◆◇◆◇
僕は静かな闇から浮上していた。
意識の外で何やら音がする。
薄目を開けると、白い中に人の顔がぼんやりと見えた。
まわりで、意識が戻ったぞという声と、パタパタ走る足音が聞こえた。
僕はまた、闇の中に戻りたくて目を閉じた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
一ヶ月掛かって、ようやく人物画は完成に近づいてきた。
この頃、タマキ一人で油絵を塗っている時間が多くなった。
人物のほうの色塗りがほぼ完成したからだ。
見物にきた初音は出来を見て嬉しくなった。
「実物に理想という修正を入れてません?」
照れて言ったのだけど、それだけキレイに描いてくれたって事だ。
「そう?じゃ、君はまだ、自分の魅力に気が付いてないんじゃない?」
「タマキさん、ホストになれますよ。」
「女の人からお金を頂くのはねぇ。」
顔をしかめている。
「ちょっと、休憩しましょうよ。」
はい、と差し入れに買ってきたコーヒーを渡した。
コンビにで売っているラテシリーズ。
「ありがとう。」
ストローを差して一口飲んだ。
喉が冷たくて美味しい。
この前まで寒かったのに、季節はもうすぐ初夏を迎えようとしていた。
新しくできた淡い緑の葉っぱで地球を覆いつくそうとしているようだ。
地球がその緑を使って季節の歌を歌っている。
「季節を描くのは楽しいよ。春には芽吹く勢いを、夏には強い日差しを、秋には紅葉の美しさを、そして冬には、冬には…」
タマキは少し右斜め上に視線を向けた。
何かを思い出している顔をする。
「僕の実家は、あまり雪が積もらないんだ。積もっても年に2、3回くらいでね。ほんのちょこっとだよ。でも、みんな雪に慣れていないから、そんな日は朝から交通機関がストップさ。だから、窓の外がやけに明るいことや、静けさでベットの中でも積もったのが分るんだ。僕は、雪が好きだけど君はどう?」
「キレイだと思うけど、冬は指が動かなくてあんまり…。」
「あはは、そうだね。でもね、風の無い日に、ふわふわ舞い降りる雪は幻想的なんだけどな。天使が羽を散らすみたいで。」
あぁ、それなら分る。天使の羽かぁ。
「ごちそうさま。さて、続きをしますか。」
タマキはまた、画板に向った。
初音は、タマキの正面に椅子を置いた。
「タマキさんとヒビキさん、二人でいる時ってどんな風なんですか?」
「ヒビキ?あぁ、よく話すよ。今日は何が食べたいとかね。たまに意見が合わなくて喧嘩になるけど、一番の理解者は彼かな。」
「仲がいいんですね。」
「うん。」
タマキは胸に手を当てて優しい目をしている。
「僕等はいつも一緒さ。そうそう、君のこともよく話に出るよ。手強いライバルだよ。」
タマキは茶目っ気たっぷりに笑う。
初音は、顔を赤くした。
本人がいる目の前で言えるのはこの兄弟くらいだろう。
タマキの場合はどこまで、本気なんだか。
がらりと教室の扉が開かれた。遠田がひょいと顔を出す。
「タマキ、斉藤先生が呼んでたぞ。」
「あぁ、今行く。どこ?」
「職員室。」
じゃ、ちょっと待っててと、タマキは席を外した。
替わりに遠田が中に入ってくる。
「おぉ、粗方出来てるな。いい出来だ。」
「修正が一杯入ってますけどね。」
「いや、なかなかいいぞ。」
遠田がにぃと笑った。
「あいつとは、けっこう古い付き合いでね。一時大変な時もあったけど、よくやってるよ。」
「じゃ、遠田さんは、ヒビキさんもご存知なんですか?」
一瞬、遠田の表情が強張る。
「ヒビキ?」
えっ、?どうして、表情が険しくなるんだろう?
「どうかしたんですか?タマキさんと双子で、幼稚園でピアノを教えてるヒビキさんですよ…。」
「幼稚園で、教えてる?!そんななハズは…。」
◆◇◆◇◆◇◆◇
もうすぐ、彼の意識が戻ろうとしている。
待って、あともう少し。
あと、ほんの少しだけ…。
もう一度目を覚ますと、やっぱり白い天井と壁が見えた。光が眩しくて目が開けられない。
「環、大丈夫?」
よく分らない女の人が僕を環と呼ぶ。
「僕は、環なの?」
その答えに、女の人が不安そうな顔をする。
どうして、ここにいるんだろう?
何があったんだろう?
よく分らない。
僕は何故、ここで寝てるんだろう?
「おばさん、だあれ?」
女の人は両手を口で押さえると
「環っ、母さんが、分らないの?!」
その人は崩れ落ちるように泣いた。
やっとわが手に戻ってきた、奇跡の生還だったというのに。心は重い傷を負ってしまった。
失ったものは大き過ぎた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
ヒビキは、窓から見える夕陽を見ていた。
指先は、鍵盤を突付くように少し音を出している。
何か思いにふけってっているようだ。
最近は、そんな仕草が多くなった。
家の下から、初音が見上げている。
「なんだ、あんたか。」
初音は、あの日以来だったので、どんな顔をしたらいいのか困っていた。
「上がって来いよ。」
指でコイコイをしながら言った。
久しぶりの双子の家だ。
「こんにちは。」
「あんたの絵、見せてもらったよ。この前のゴールデンウィークにタマキが持って帰ってた。よく、出来てたな。」
「そうですね。」
「今回は、本気なんだな。あいつの絵を見てわかった。一番身近で、あいつを見てきたからわかるんだ。なんでもね。」
夕焼けは少し寂しい色をこの部屋に落す。
「この前、あんたを試すような事を言って悪かったな。」
「あぁ、いえ。…。」
気にしてませんからと、言える程大人でもなかった。
「ピアノ、聞いてくれるか?」
そう言って、ヒビキは、ショパンの別れの曲を弾いた。
泣きたい音が空間を埋めていく。
泣いているの?
あぁ、そうだ。
ピアノが泣いているんだ。
でも、何故?
この曲は、何を意味してるんだろう。
「俺、ピアノを辞める。」
え、何?今なんて言ったの?
ヒビキは、ゆっくり、はっきりと言う。
「ピアノは、もう弾かない。」
「なぜ?」
声が荒くなる。
「俺じゃ、ダメだからさ。」
「意味がわからない。」
「いいんだ。そのうち分かるから。」
「ピアノ、辞めて欲しくない・・・です。」
初音は、半分泣き顔だ。
「私はあなたの音に憧れているの。才能に溢れているのに、どうして辞めちゃうの?」
そんなことじゃない、私が言いたいのは。
「私は毎日頑張ってるけど、あなたに追いつけなくて、それがもどかしてたまらないんです。ヒビキさんがピアノ辞めたら、私の目標、無くなっちゃうじゃない・・・。」
あのピアノはヒビキ自身なのだ。ヒビキの織り成す音が大好きだから、ずっと聞いていたいから、辞めないでと素直に言えない自分が嫌だ。
「俺は音楽の中でしか、生きられないんだよ。音の中に溶け込んでいく瞬間だけが、俺のすべてなんだ。それ以外は、何も無い。でも、それじゃ、ダメだろ。」
すべて思い通りになるのなら、このままでも良かったのだけど。
「あんたこそ、自由に感情を持ち、生きたいように生きられる。俺はあんたが羨ましいよ。」
そうだ、彼女が俺の曲を求めるから、俺はそれに答えようとする。
でも、それは会うための言い訳だ。
愛してしまったのかな。
愛してはいけなかったんだな…。
自分が何者なのか、よく分ってる。
悲しい思いはさせたくない。
それだけなのだ。
タマキ、お前は分かっているか?
「最後に、なんかリクエストあるか?」
ヒビキは、奏でる音で決着をつけようとしている。
決意は固そうだ。
「愛のあいさつ。」
「それは、だめ。」
「それが聞きたい。ヒビキさんが弾くピアノを初めて聴いた曲なんです。最後なら…それを。」
「…。分かったよ。」
仕方ないなと大きく息を吐く。
大きく深呼吸をし、弾く前に初音の顔を見て笑った。
今まで見たことのない優しくて、寂しい笑顔だった。
「では。」
ピアノが優しく震えるような声で歌いだす。
美しく甘いメロディが心に響く。
あの時よりジンとくるのはこの後聞けないから?
何もかも優しい思い出にしようというの?




