Ⅱ
◆◇◆◇◆◇◆◇
ざぶんと、川の中に飲み込まれた。
もがいても、もがいても水底に引き摺り込まれそうになる。何度も水を飲んだ。
息が出来ずに苦しい。
水の流れは勢いを増し、もはや泳げるレベルではない。
絶対に離さないと誓った手はいつの間にか離れていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「タマキさん、人物画が主なんですか。」
最近ではモデルに慣れてきて、初音は退屈で仕方ない。
数え切れない数十回目の欠伸をかみ殺し、その度に大きな溜息ともつかない深呼吸を繰返したことか。
タマキは、手を休めずスケッチブックと初音をかわるがわる見ながら答えた。
「どっちかって言うと風景画の方が好き。油絵よりも水彩画が好きなんだけど、一応一通りはこなしてから方向性を決めたいと思ってるんだ。」
「これまで、どのくらい描いたんですか。」
これは会話のつなぎだったのだけど、意外な顔をして、タマキは手を止めた。
「あれ、見せたこと無かったっけ?」
「はい、モデルはもう5回以上しましたが、タマキ先生の絵はまだ、一度も拝見しておりません。」
「そりゃ、失礼。じゃ、帰りにうちに見に来るかい?」
うちって、あの家…?
「お邪魔してもいいんですか?」
思わず身を乗り出した初音に
「もちろん、良かったら来て。」
そう言ってタマキは笑った。
「キレイじゃないけど、まぁ、あがって。」
タマキの家はやはり、あのピアノが置いてあるアパートだった。
部屋は二間とキッチン。一間は玄関の横で、タマキがいそいそ入っていったところを見ると、絵はそこに置かれているのだろう。
「お邪魔します。」
そろそろと中に入ると奥の一間にやはりピアノが置かれてあった。
近づくと、ピアノの上に双子の少年の写真が飾ってある。タマキが二人。
「君はピアノ科だったね。」
「えぇ、タマキさんも、弾くの?」
「僕は弾かない。弾くのはヒビキ。」
あぁ、双子の片割れの方ですか。
初音はタマキに写真を見せた。
「よく似てますね。どっちがどっちか見分けつかないです。」
「両親もよくそんなこと言ってた。母親も間違えてたくらいさ。」
そう言って肩をすぼめる。
「コーヒー、飲む?」
「ありがとうございます。頂きます。」
タマキはインスタントコーヒーを入れ、ポーションのミルクとスティックの砂糖を手渡した。
「それじゃ、これ飲みながら待ってて。作品を並べてくるよ。」
行きかけた顔をひょいと出す。
「ピアノ、弾いても構わないよ。」
「ヒビキさんがいないのに、無断で借りては…。」
「大丈夫、ぜんぜん平気だから。」
実のところ、初音はピアノが気になっていた。
弾きたくてしかたなかった。
学校以外では、本物のピアノを弾いてない。
あの、「愛のあいさつ」も、このピアノならあの時の様な音がでるのだろうか。
鍵盤に手を置く。
ピアノ本来が持っている木の音の暖かさ、激しさ。
様は懐の大きさだ。
人のピアノという、ためらいがあったが思い切って弾いてみた。
初音は頭を振った。
違う。何か違う。
求めていた音と違うのだ。
初音はピアノを閉じた。
もう一度、聞きたい。ヒビキの音。
そう思った時、拍手が聞こえた。
「さすが、音楽科。うまいね。」
タマキが優しい顔でこちらを見ている。
「そんな、ヒビキさんほどではありません。」
「そうかな?なんだか、可愛らしい演奏だったよ。ヒビキには出せない音なんじゃない?」
いいえと首を振る。
そんな初音をタマキはじっと見ていたが、
「う~ん・・・。もしかすると・・・・足りないのかな?」
えっと初音は顔を上げ、タマキを見た。
「“愛のあいさつ”には、愛が足りない・・・のかな・・・と」
一歩前へ踏み出すタマキ。
そっと手が伸びてくる。
「タマキ・・・さん?」
初音の声で我に返ったようなタマキだったが、フッといつもの笑顔に戻った。
「絵を見せるよ」
タマキの部屋に案内された。
絵は至る所に置かれてある。その数ざっと200枚位。
「タマキさん、やたら猫のデッサン、多いですね?」
同じ三毛猫の絵が角度を変えてたくさん描かれてある。
「みぃばぁさんだよ。実家で飼ってる猫さ。もう、12歳になるかなぁ。」
語る目元が緩んでる。
「しばらく会ってないから寂しいや。」
故郷の風景なのだろうか、森や山や、田園風景、神社の社、公園、学校。
そんなものが沢山描かれている。
油絵だったり、水彩画だったり、あるいは鉛筆だったりした。
どの絵も大切に描かれていて、優しい印象を持った。
絵に人柄が出てるのもしれない。
「風景は大学に来る前に描いたやつがほとんどだよ。大学に入ったら油絵が多くなったから、作品一つ一つに時間が掛かるんだ。」
一つだけ棚の上に寝かされて置かれた画板がある。
「あれは?」
初音の指差す物を見て、タマキがそれを手に取る。
「これかぁ。」
少し寂しげな表情になる。
描かれていたものは油絵の夜の絵だ。
真っ暗な山々に黒に近い濃紺の空。そこに小さな光を放つ星たちが描かれている。
今までの、どれとも印象が違う、暗く寂しい絵だった。
だが、何より美しかった。
何者も寄せ付けない孤独を抱えながらそこにいた、そんな絵だ。
「これは、どこなんですか?」
タマキは優しい目をしていた。
「心の中だよ。人は皆、曖昧なんだ。確かに存在するのに、実は不確かでもある。その、星々のように。その不確かな不安が僕の中のこの夜なんだ。」
そう言っておいて、ふふっと、鼻で自分を笑った。
「ごめんごめん、この説明じゃ解んないね。」
エヘへと笑いながら、これはもういいやと呟き、絵を棚に戻した。
初音は、それから少し元気の無いタマキを心配しながら家に帰った。
芸術家って繊細だ…。
芸術家って気紛れだ。
明日もお願いねって、言いっておきながらタマキは学校に来なかった。
昨日のこともあるから心配になって家を訪ねてみる事にした。
ドアをノックしても返事が無い。
留守なのかしら。
帰ろうと思った矢先、ドアが開いた。
中から、ぬぼ~っとした表情の男が出てきた。
「タ、タマキさん?寝起きですか?」
「んぁ、タマキィ?―…タマキなら今はいないぜ。」
不機嫌そうな声だ。
あぁ、じゃぁ、ヒビキさんのほうか。
なんか気だるい空気を纏ってるな。
初音をじっと見ていたヒビキだったが、あぁ、と思い出したように言った。
「あんた、タマキのモデルか。そういや、熱心に描いてたな。」
うんうんと納得するように頷いている。
「あの、タマキさんは、どちらに行かれたんでしょうか?」
ヒビキはう~ん?と考えた。
「さてね。どこと言えばいいだろうな。」
要領を得ない返事だ。
「まっ、せっかく来たんだ、お茶でも飲んでく?」
結構強引な性格は兄弟変わらないようだ。
それもそうか、双子だしね。
家にあがって、紅茶をご馳走になった。
だけど、二人は初対面だ。会話が続かない。
初音は、お邪魔ついでにピアノのリクエストをすることにした。
何となく会話は必要ない気がした。
「ヒビキさんは、ピアノを弾かれるんでしょう。聞かせて欲しいです。」
ヒビキは、その言葉を聞いて暗い顔が明るくなった。
これで沈黙からの活路が見出せたわけだ。
「いいぜ。」
にこっといたずらっぽく笑った。
その顔はタマキとそっくりだ。
ヒビキは軽く指慣らしをすると
「では。」
と言って鍵盤に手を置いた。
流れてきた音楽に、初音は惹きこまれた。
ベートーベンのテンペスト。
ショパンの革命。
次々と弾いていく。
こんな難曲を弾いてくれるとは思わなかった。
すごく上手い。
それにながれるような旋律が美しい。
風に音をつけるとしたら、こんな音ではなかろうか?
やはり、このピアノの懐は広かった。
いや、違う。ヒビキの懐が広いのだ。
圧倒的な差。世界の違い。聴く者を虜にする演奏。
もうすでに私は彼の音に囚われてるのかも。
驚いた顔で演奏を聴いている初音を見て、ヒビキは選曲を間違えたかも知れないと思った。
相手は女の子だ。
もっと優しい、トロイメライとか、月光とか、スローでロマンチックなムードを出した方がよかったかな。
弾き終えて、初音の興奮気味の“すごいです”コールを聞くまで心配だった。
「じゃ、今度はあんたが弾いて。」
「私ですか?」
慌てて首を振る。
この後では弾けませんって。
「いいから。何か弾いてよ。」
渋々初音はこの前の課題曲ラ・カンパネッラを弾いた。
ヒビキは楽しそうに聞いている。
弾き終えて拍手しながら言った。
「リストはいいな。他に何か弾ける?」
「残念ながら、リストは得意じゃありません。楽譜がないと無理です。」
「そっか、残念。」
本当に残念そうだったので、次は何か練習してこようと思った。
二人だけの音楽会は4時で終わった。
5時からヒビキはバイトがあるのだそうだ。
「タマキさん、帰って来ませんでしたね。」
「ちゃんと言っとくよ。今日は引き留めて悪かったね。」
ヒビキは初音のアパートの下まで送ると、もと来た道を戻りながら言った。
「楽しかった。また、ピアノ、聞かせに来いよ。」
初音は、手を振りながら笑顔で頷いた。




