Ⅰ
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前日からの長雨で水嵩を増した川は、瞬く間に溢れ出し少年達がいる中州をも、飲み込もうとしていた。
あまりの強雨で、帽子無しでは目が開けていられない。
「ここは、もう、危ないよ。」
向こう岸へ渡るために川へ入る。
だが、水は重く足は取られ、思うように体を動かすことが出来ない。
焦燥が募るばかりだ。
「まって、何とか、しない、と…。」
雨はいよいよ激しくなり、少年達の声も雨音にかき消されていった。
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初音は、今度の春から通うことになる芸術系の大学と自宅の周辺の下見をしていた。
歩いて五分で駅に行けるのが売りの(ホントは10分)アパートを借り、念願の一人暮らしだ。
今までは妹とずっと一緒の部屋だったので、自分だけの部屋があるのはとっても嬉しい。
キッチンは、朝日がさす東側の部屋。
小さなテーブルを置き、チェックか刺繍のついたテーブルクロスを掛け、クロワッサンとコーヒーで“モーニング”をするのが今一番やりたいことだ。
まずは、バイトでお金を貯めて、テーブルから買おう。
西側の6畳の部屋には、電子ピアノを置いて毎日練習するつもりだ。
本当はちゃんとしたピアノを弾きたいのだけど、響く音は周囲に迷惑になる。
これから4年間はお世話になるので、近所は大切にしないといけないって、母親が口うるさく言ってたっけ。
駅のホームで、少し心配そうに見送ってくれた母親の姿を思い出し、少し寂しくなった。
「風邪だけは気をつけてね。時々は連絡頂戴よ。」
いつもは強気な母が涙声だった。
つられて泣いた。
返事は頷くだけで精一杯だった。
歩いているとピンクの花びらが見えた。
残念ながらまだ桜の季節ではない。
今なら桃の花だ。
花もいいけど、実の方がもっといい。
夏にはいつもみんなで食べた。
水気の多い甘い香りがたまらなく大好きだった。
よく妹とどこまできれいに種の形が出せるか競争した。
あの頃、バカだったなぁ、二人共。
どこからか流れてくるピアノの「愛のあいさつ」が、一層懐かしさと寂しさを思い起こさせた。
バイオリン曲だと思われてるけど、最初はピアノ曲だ。
この曲には思い入れがある。
なんでも、母方のお爺ちゃんはピアノが弾けたので、お婆ちゃんにプロポーズをする時に、この曲を弾いて口説いたとかなんとか。
私から見ても、お爺ちゃんはハイカラな人だった。
作曲者のエドガーと一緒で、生涯彼は妻を大事にした。
私が中学の時に亡くなったけど、いいお爺ちゃんだった。
その影響もあって私もこの曲はよく弾いた。
しかし、誰だろう、とっても上手だ。
それに優しい、心地よい音色。懐かしい家で待っている人達の姿をとても恋しがらせる調べだ。
不覚にも涙が出てきた。立ち止まって聞き入ってしまう。
どこから聞こえるのだろう?
初音はきょろきょろと見回して、音源を捜した。
この音ならそんなに遠くない。
上から聞こえるから…。
演奏者は、やはり二階建てのアパートにいた。
窓際にピアノを置き、窓は閉まっていたが音はそこから漏れていた。
ガラス越しに見えたのは端正な横顔の青年だった。
黒髪が曲に合われて少し揺れている。
体で音楽を楽しんでいるのがここからでも分かる。
彼も私と同じ大学なのだろうか?もしかしたら、一緒のピアノ科かもしれない。
新しい出会いにときめく。
何よりもあの音は聴いている者を惹きつける。
初音は、横顔だけでなく正面からも顔が見たいと思った。
でも、彼はひとしきり演奏すると部屋の奥へ行ってしまった。
初音は、音の余韻に浸りながら、心にほんわかとした気持ちを抱いてアパートに戻った。
私も、弾いてみよう。
しかし、思い通りに彼の様に上手く弾けない。
同じ音を出すだけなのに、何故こんなにも違うのだろうか。
イヤイヤ、練習在るのみ、今は兎に角、がんばるだけだ。
桜の季節はあっという間にきた。
春のうららの隅田川~、
春の歌ではこれが一番好きだ。
のどかな風景が目に浮かぶ。
桜の美しさも愛でられる。いい。実にいい。
だが、時間はさっさと過ぎていく。
今年は花見が出来なかった。
瞬く間に入学式も終わり、見るもの聞くものが、新しい世界の始まりだ。
残念ながら、あの2階のアパートの青年はピアノ科にも他の楽科にもいなかった。
遠回りだけど、帰りにはあの家の下を通って帰っている。
また、あの音楽に触れらるのを期待しながら。
未だ果たせず…なんだけど。
「今度の課題は、人物画だってさ。」
キャンパスの中庭で油絵の道具を持った二人の男どもは、どうせ描くなら女の子がいいよな、かわいい子なら尚いいよ、と理想を熱く語たり止らない。
当然、その方が描く絵にも力が入るし、何より楽しいハズだ。
俺はショートの子には弱いんだとか、ミニスカは外せねぇとか、料理は美味しいと更にいいけど、とか何とか。
「遠田、それ、君が好きなタイプ?それなら僕はロングの子が好きだよ。ほら、あそこにいるあの子。あんな子がいいな。」
「タマキ、あれは音楽科の女だぞ。モデルの時間なんて無いんじゃないか?」
「そっかなぁ?」
タマキは人懐っこく笑った。
笑うとかわいい。
まるで天使のようで、悪さなんて、これっぽっちもいたしませんって顔だ。
「だめでもともとでしょ。」
と茶目っ気たっぷりに顔をクチャとさせた。
「おまえ、顔で落す気?笑顔は無敵だねぇ。」
ヒューっと口笛を吹き、遠田は高みの見物といった所だ。
タマキは足取り軽く、初音の前にやって来た。
初音は楽譜と睨めっこの最中だ。
タマキは思った。
おや、さっき見た横顔もいいけど、なかなか、正面の困った顔も可愛らしい。
「こんにちは。」
突然声を掛けられて、初音はちらっと男の顔を見た。
私じゃないのを確認する為のちらっ、だったのだけど、これは予想外だった。
「!!」
驚いて、男の顔を覗き込む様に見てしまった。
何故なら彼は、あのピアノの彼だったから。
彼はいた、この学校に…。
何故、音楽科にはいなかったはず…?
「えっあっ、そ、そんなに驚いた?」
タマキも至近距離で見つめられて顔が赤らむ。
ドギマギが止まらないが、ここからが本題だ。
時間の無い音楽科を口説かなければタマキの課題も終わらない。
「君さ、もしよければ、僕のモデルのバイト、してくれないかな?」
そう言うとニッコリ笑った。
笑うと周りの人の気を和ませる顔になった。
ピアノと向かい合っている時の横顔とは少し感じが違う気がする。
あの時は気高い雰囲気があったのだけど…。
タマキにじっと見つめられる。
あまりにも真剣で情熱的な瞳にどんな顔をしていればいいのか、戸惑ってしまう。
「疲れた?少し休もっか?」
数枚のデッサンを描き上げてタマキは、うぅ~んと伸びをした。
結局モデルを引き受けてしまった。
椅子に座っているだけなんだけど、肩が凝った。
モデルって大変なんだな。
それに、あんなに見られるとすっごく恥ずかしい。
でも、彼に見つめられるのは・・・嫌じゃない。
「可愛いから、どんどん描けちゃうね。」
初音は顔を赤くした。
この口の上手さ。
いつもこの人はこんなカンジなのかしら?
「はい、ココア。」
タマキはカップを差し出した。
「ホッとするよ。この教室は一応暖房あるんだけど、あんまり効かないからね。寒くなかった?」
「大丈夫です。」
ココアを受けとり、一口飲んだ。
暖かい。本当は寒いなぁって思っていたのだ。
「これからしばらくモデルをしてもらうことになるけど、大丈夫かな?」
「えぇ、バイトもまだ見付けてなかったので、タマキさんがバイト料をはずんでくれたら長期でも構いませんよ。」
「はは、僕、貧乏学生なんだけどなぉ。」
癖なのだろう、あの茶目っ気たっぷりの顔でクチャと笑った。
つられて初音もフフフと笑った。
教室の窓からオレンジの夕焼けが見える。
もうすぐ日が暮れる。
「じゃぁ、今日はここらでおしまいにしよっか。明日もあるし。送っていくよ。」
帰る頃には、日は落ちて空に星が輝いていた。
「すっかり暗くなっちゃったね。お家の人、心配してるかも。」
「大丈夫ですよ。私、一人暮らしなんです。この春からです。」
「そう。じゃぁ、僕の方が先輩。一つ上だね。あの学校で解らないことがあったら何でも聞いてよ。相談にものるよ。」
「ふふ、ありがとうございます。よろしくお願いします。」
そういってペコリと頭を下げた。
「ふふ、なんかくすぐったいね。」
タマキはとっても嬉しそうだ。
その顔を見ながら持ってる雰囲気がステキな人だなぁと思った。
そのうち、初音のアパートの下まで着いてしまった。
「ここなの?じゃぁ、お疲れ様。」
そう言って彼は手を振って帰っていった。
部屋に帰ると電子ピアノが待っていた。
さて、これからピアノの課題曲をかんばってこなしますか。
リストのラ・カンパネッラ。ピアノの魔術師になれるのかなぁ・・・。




