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3-1

 康浩とスヨンは、二人で遅い昼食を職員食堂でとることにした。医学部棟と大学附属病院を結ぶ廊下に、食堂はあった。中に入ると、午後二時を回った食堂内に客はまばらだった。

 ビュッフェ形式の食堂で、康浩はカレーライスをコーヒーを、スヨンはスパゲッティ・ナポリタンと紅茶をトレイに載せた。


「先生の解剖のテクニックは、すばらしいと思います」 テーブルをはさんで座ったスヨンが、康浩に言った。彼女は感情をはさまない淡々とした口調で言うので、妙に客観的で公平な評価のように感じられた。

「本当に?」


「はい。さすが、外科医です。それに興味深い論文を、たくさん書いています」

「ありがとう。元外科医だけどね」

 自分は法医学者としてはまだまだだと思っていたが、この方面では自分よりもキャリアのある彼女に褒められて素直に喜んだ。


「タンパク質の変性を細胞やDNAレベルで追うのは、とても多くの意義があります」 スヨンが黒い瞳を輝かせて言った。

「ああ、あの英文論文か」


 その論文は、康浩が外科学教室にいたときに、臓器移植に応用する目的で、外科主任教授から与えられた研究だった。動物の肝臓を摘出してから、時間を追って組織とDNAを観察した所見をまとめた。これがまとまれば、臓器提供者から摘出した臓器を、いつまでに移植し終わらなければいけないかを、今よりはるかに確実に究明できる見込みだった。


 しかしまた、その論文は図らずも死亡時刻の正確な推定に役立ちそうだった。現在の死亡時刻は、死体の皮膚所見と死後硬直、そして時に直腸温から推定されている。現実の事件では、ドラマや映画ほど簡単に死亡推定時刻は求められない。従来の方法は、気温や湿度に左右されやすいので、死亡からの時間が長ければ長いほど、推定される時間幅が大幅に広くなる欠点があった。


 しかし、死体の細胞そのものが時間を追って変性する様子が正確に把握できれば、今よりも格段に正確な死亡時刻を推定できる。法医学のために始めたわけではない研究を褒められた康浩は、少しくすぐったい気分がした。


 彼女の真実を追求する気概は、並々ならない。その彼女が、自分の研究に興味を持っていてくれる。康浩にとっては今のところ、それで十分に思え満足感が心の隅々まで拡がった。



「今夜、和膳とカリフォルニアに行ってみませんか?」

 辛い食べ物を好むスヨンが、タバスコをかけたパスタを食べ終えてから言った。彼女の整った唇が、窓から注ぎ込む冬の陽光を帯びて赤く光った。


「和膳とカリフォルニア?」 何のことか、康浩にはわからない二つの固有名詞をスヨンが言ったので、おうむ返しに聞き返した。

「はい。昨日の晩、佐山氏が行った二軒です」

 スヨンは、調書にあった佐山の行動を正確に記憶していたのだと、康浩は気がついた。彼女が法医学にかける意気込みに、凄みを感じた。


「……ああ、確か夕食を摂ったのが和膳、そして亡くなる前に飲んでいたバーがカリフォルニアだったね」 康浩は相槌を打った。

「はい」


「……行ってみようか」 康浩は、今からやらなければいけない自分の仕事を頭の中で整理してから答えた。急げば、今夜は何とか時間を作れそうだ。


「助かります」スヨンは安堵した表情を浮かべた。異国の都会の繁華街へ一人で行くのは、さすがに少し不安だったらしい。


「そこで、何をする気?」 康浩は尋ねた。彼女がまさか自分を誘って遊びや飲みに行きたいわけではないと、すぐにわかった。


「佐山氏の行動を追ってみたいです。彼が昨日の晩に、どのような場所を歩いて死んだのか、少しでも知りたいです」彼女は決意に満ちた顔で言った。


「……アメリカでは法医学者が、刑事のようなマネをするの?」 単なる大学法医学教室の医師が、そこまでする必要があるのか? 康浩には疑問だった。


「いえ、私の先輩のマネです。彼はラボ(研究所)で答えが出ないと、現場から調べるんです」

 彼女の答えから康浩は、前に梅田教授から聞いたキム・スヨンの過去を思い返した。


 彼女は自分の過去を多くは語らない。そして彼女の犯罪を憎む気持ちは異常なまでに強いとピッツバーグ大学の教授が話していたそうだ。


 スヨンには恐らく犯罪被害者になった経験でもあるのだろうと、康浩は何となく想像していた。彼女の日ごろの態度や、時おりふと見せる翳りから、それが過去の傷によるものであろうと康浩は見ていた。


 確かに彼女の真実を追求する姿勢は異常なまでに強いのかもしれないが、今は康浩自身も真実を知りたいと思い始めていることを自覚して、首を縦に振った。


「じゃあ、五時過ぎに出ようか」 そう康浩が答えると、スヨンは小さくうなずいた。彼女の表情が今日初めて、少しだけ緩んだように見えた。


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