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ディスポーザブルの手袋とマスクを捨てて解剖室を出ると、廊下で待ち構えていた近藤刑事が「お世話になりました。それで、先生のご見解は?」とベテラン刑事らしい落ち着いた声で尋ねてきた。その声には特別な感情は込められず、事務的に響いて聞こえた。
「今から解剖所見をまとめます。報告書は明日でよろしいですか?」
康浩は即答を避けた。もう少し細かく調べて考えてみないと、結論が出せそうにない。
「はい。それはもう」近藤は、愛想よくうなずいた。しかし彼は、心の底では急いで知りたいと思っているに違いない。
「しかし単純な転落死ではなく、意識を失ってから階段を転落した可能性があります」
この職務熱心な刑事を、手ぶらで帰しては悪いと思った康浩は短く印象だけを伝えた。
「意識を失ってから転落……」近藤が、考え込むように腕を組んだ。
「あくまで可能性の一つです。単純な事故死ではない可能性があります」
「そうなんですか……。元より我われは、いろいろな可能性を視野に入れて捜査するつもりです」 近藤は少し胸を張って言った。
彼が、これは単純な事故死ではないと疑ったからこそ、死体をここに運び込んだのだ。我が意を得たりという気分かもしれないと、康浩は勝手に推測した。
「ああ、先ほどお渡しした事件調書に現場写真なども入れてあります。何かご不明の点や、判明したことがありましたら、いつでもご連絡ください」
付け足すように、近藤が言った。彼から朝、受け取ったファイルには厚みのあったことを、康浩は思い出して、「了解しました」と答えた。
「さて、私は遺体を所轄署に戻しますので、これで失礼します」
近藤はそう言うと、背後に控えていた警官に軽く手をあげて合図を送り、遺体を搬出するために急ぎ足で解剖室の中へ入って行った。
「先生」と呼ばれた声のほうに振り向くと、康浩の後ろにはスヨンがいつの間にか立っていた。
「これから、サンプルを分析しましょう」眼鏡をかけて白衣を着たスヨンは、小ぶりなシルバーの車輪付きワゴンが押していた。ワゴンの上には、血液と組織断片の小瓶が二十本ほど整然と並べられている。きっと彼女がきちんと仕分けしたのであろう。
「じゃあ、帰ろうか」と康浩が言うと、「はい」とスヨンが静かに従った。
カラカラという音を立てるワゴンと共に二人で教室に戻った。その間、二人は黙っていた。それぞれが、今の案件について考えていた。