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1-3

 解剖は、問題の頭部になった。頭部表面の傷の大きさと深さを型どおり計測して記録した後、二人で頭蓋骨を電動のこぎりで切った。ウイーンという音と骨が焼けるにおいが少ししたが、間もなく切り終わった。


「一、二の三」 康浩とスヨンがそれぞれに梃子になる鉗子を二本ずつ、頭蓋骨の切れ目に入れてこじ開けた。パカッという音と共に、白っぽい膜に包まれた脳が出てきた。その一部は血まみれになって凹んでいた。


「右前頭部に頭蓋骨陥没骨折があり、その下に三十かける五十五ミリ、深さ二十八ミリのクモ膜下血腫があり」

 康浩がメジャーで計測した結果を、西原の構えるビデオカメラに向かってつぶやいた。検案書はビデオを見直しても書けるように、カメラに話しかける。


「そのほかには骨折も血腫もなし」

 康浩が脳を丹念に確認している間に、スヨンが脳細胞の一部を採取して組織標本を作った。彼女が組織固定液の入った透明な小瓶に脳組織の一部を入れるのを見届けてから、康浩は頭蓋骨を元通りにした。


 すべての工程を終えた二人は、開いた胸と腹、頭を黙々と縫合し始めた。

「死因は外傷性クモ膜下出血。死亡原因は単純転落死……」と康浩がビデオカメラに向かってつぶやいていると、「待ってください」とスヨンが口を出した。スヨンの後ろにいた西原がカメラを止めて、二人をうかがった。


「何?」縫合作業を続けながら、康浩はスヨンを見た。目の前にあった彼女の黒く深く澄んだ瞳は、真剣に死体に向かって注がれている。長いまつ毛が無影灯の光に、少し反射した。


「単純転落死と断定するのは、少し待ってください」 スヨンが、仕上げの糸を結んでから静かに言った。



「どうして?」やや間があってから康浩が訊くと、「二階から転落したと仮定すると、手のここに外傷がないのが不自然です」とスヨンが死体の手をとって康浩の方に向けた。


「手のひら?」 康浩は、スヨンの言葉を補足した。

「そうです。人間が階段から落ちるとき、まず手を出します」

「なるほど、人間が転倒するとき、反射的に手を出す防御創か……」

 改めて康浩は死体の両手を眺めた。確かに彼女の指摘するとおり、死体の手のひらには左右ともまったく外傷がなかった。


「……では、これは単純な転落ではないと言いたいの?」 康浩は、スヨンの黒い瞳に目をやった。

「はい」 彼女は康浩と視線を合わせてから、静かにうなずいた。スヨンの目から強い力を感じた。


「……誰かに、押されて落ちたのかな?」 康浩は、その力にわずかに気押されながらも、自分なりの推測を投げ返した。

「いいえ。手に防御創がないですから、誰かに押されて落ちたのでもないと考えます。ひょっとすると……」と、スヨンが不意に黙った。

 彼女の深淵な黒い瞳が、じっと死体に注がれている。まるでそれは、死体に答えを問いかけているかのように見えた。


「何?」 待ちきれず、康浩が訊いた。

「考えられるとしたら、転落した時の佐山氏に、意識がなかったのでしょうか」 スヨンはそう言いながら、小首をかしげた。

「い、意識がない状態で転落?」 康浩は、予想もしないスヨンの言葉に首をかしげた。

 彼にはスヨンの言う意味がわからなかった。転落の状況が頭の中で描けず、「……誰かに殴られて落ちたのか?」と、苦しまぎれに口が開いた。

 

「いえ、その可能性は低いです」 スヨンは控えめな声で、しかしキッパリと否定した。

「なぜ、そう言えるの?」

「前頭部の陥没骨折とクモ膜下血腫以外に、大きな損傷はないんです」 スヨンは淡々と答えた。


「……つまり、転落した傷はあっても、殴られた傷がない。そう言いたいんだね」

「はい」

「じゃあ、どういうことだろう?」 康浩は首をひねった。気分的には、試験中に答えを出せずに考えあぐねる学生に戻ったようだった。


「……それは、わかりません」 スヨンは無念そうに首を左右に振った。マスクの下に隠れた彼女の唇は、恐らく悔しそうに結ばれていることだろう。


 康浩は、改めて解剖所見を考え直してみた。しかし、答えは簡単には浮かんでこない。


「偶然、非外傷性のクモ膜下血腫を発病して意識を失った可能性もありますが……」 スヨンが静かに言った。

「確かに」 外傷による死ではない可能性もある。では、病死なのか?


「しかし、血腫と骨折がまったく同じ部分に起こるなんて奇跡的です」スヨンが、自分の考えをまとめるように、ゆっくりと話した。

 奇跡的か……。康浩に返す言葉を持ち合わせてはいなかった。


「後で検討してみよう」康浩は、そう言って、スヨンと西原と一緒に死体を清拭した。ほんの半日前まで生きていた佐山が、無機質なロウ人形のように見えた。


 遺体に青いカバーをかけて無陰灯が消されると、解剖は終了した。神をも恐れぬ世界から、現実の世界へと舞い戻る瞬間だった。


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