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電話連絡があった通り、九時十分に死体が運び込まれてきた。特殊車両搬送口の扉を開けて、地味なスーツにベージュのコートを着た中年の刑事が「お世話になります」と頭を下げた。彼は近藤と名乗り、鑑定処分許可状と分厚い調書を康浩に渡した。
その後ろから青いビニール・カバーをかけられた死体がストレッチャーに載せられて、それを若い警官と鑑識課の西原妙子が二人で解剖室に運び込んでいた。
西原は関西の大学の獣医学部を卒業して、アメリカのテレビドラマに憧れて警察に入ったという元気のいい女性だ。紺色の制服に身を包み、しばしば解剖の立ち会いに来る彼女は、康浩を見ると「おはようございます」と明るく挨拶をした。
「この仏さん、ある会社の横領事件の容疑者なんです。もう少しで捜査も大詰めだったんですがね。がっくりです」 近藤刑事が白髪まじりの頭をかいて、残念そうに言った。単なる事故死なら、警察もここに遺体を持ち込んではこないだろう。なるほどと、康浩は納得した。
「わかりました」 康浩は短く返答すると、近藤を残して解剖室に入った。
室内に入ると死体はすでに解剖台の上に移されていて、警官は空になったストレッチャーを引いて外に出るところだった。手術用のガウンを着たスヨンと、警察鑑識課の制服の上に白衣を羽織った西原が、死体のビニール・カバーを外し解剖の準備に取りかかっていた。
解剖台の上には土色になった中年男の死体が仰向けに横たわり、その前頭部から顔面にかけてはザクロのような外傷があった。手や足、そして胸や背中に複数の浅いすり傷があり、それらは階段から転落したことを物語っている。
康浩はスヨンと一緒に、記録用紙へ外見上の傷の位置と大きさ、深さを記入し、その間に西原がカメラで写真を撮った。三人は、死後硬直や死斑の有無や部位を確認して記録する仕事を黙々とこなした。静かな室内には、西原が時おり切るシャッター音だけが妙に大きく響いた。
外見の視診が終わると、康浩はスヨンとポータブルX線装置で頭の写真を四枚撮影した。それから康浩が青いガウンを着て手袋をつけると、死体を挟んでスヨンと向い合せに立った。康浩が来たのを確認した彼女が、無言で自分の上にある無影灯のスイッチをひねると死体が明るく映し出された。
浮かび上がった死体に対して、康浩が「黙祷」と言い目を閉じた。すぐにスヨンと西原も、死者に向かって黙って頭を下げ目を閉じた。束の間の静寂の間、康浩はいつも「南無阿弥陀仏」と心の中で唱える。小さいころ、祖母の膝の上で何度も聞いた念仏だ。あの信心深かった祖母は八年前に他界したが、無事に天国に行けただろうか?
数秒の後、目を開いた康浩が「では、始めます」と言うと、スヨンも目を開けて素早い動作でメスを康浩に手渡した。スヨンの後ろでは、西原が足台に乗って記録用ビデオカメラを構えた。そのカメラは警察の備品らしく重厚で、まったく飾り気はない。
康浩は一つ深呼吸をしてから、型どおり死体の前胸部に縦切開を加えた。切れた皮膚からは一筋のどす黒い血液がわき上がる。それをスヨンが素早くガーゼでふき取ると、康浩は皮下の下にある肋骨を専用カッターで切って胸を開いた。
ひと昔は助手が筋鈎という道具を使って人力で切開創を開いて中をよく見えるようにしたが、今は開創器という器械にまかせる。スヨンが開創器を胸に突っ込んで傷を拡げてから機器の取っ手をロックした。眼下には開かれた胸部の臓器が見える。スヨンがいなかったときは教室の検査技師に手伝いを頼んでいたが、やはり医師が相手だと作業がスムーズだ。
康浩とスヨンは、注意深く肺と心臓をかき分けて観察した。死亡者、佐山の肺は喫煙者特有の黒色をしていたが、外傷による損傷や結核やがんなどの大きな病変は見当たらない。スヨンが肺組織の標本用に、専用パンチで肺組織の一部を採取した。手袋をした彼女の指が、しなやかに踊る。
それから康浩は左右の肺の間にある心臓に太い注射器を刺して、中の血液を注射器で抜いた。注射器の中に暗赤色の血液が吸い込まれた。康浩はそれを血液サンプル専用の蓋付き試験管に流し込むと、スヨンと一緒に周囲の組織を傷つけないよう注意して心臓を摘出した。心臓に傷一つなく摘出する康浩を、スヨンはゴッド・ハンドと言ってくれる。
取り出した心臓を目配せしてスヨンに手渡すと、彼女は大切そうにそれを持ったまま康浩に背を向けた。傍らにあるステンレス製の台の上で重量を計測してから作業台に移し、標本を作るための組織切片を専用カッターで四か所から採取した。彼女は切片をながめてから「異常ないです」と冷静な声で報告してから、奥にある固定液の入った透明の瓶に手際よく落としこんだ。残った臓器は、二人で元の位置に押し込んで戻した。
康浩がさらに腹部をメスで切開すると、スヨンが開創器を入れてお腹の臓器をさらけ出す。胃・腸・肝臓・すい臓・腎臓を丹念に観察し、スヨンは黙々と規定箇所の組織を採取してゆく。作業は流れるようにスムースに進行してゆく。康浩は胃腸に小さな切開を加えたが、中に食物残渣はほとんどなく、佐山の死亡は食後三十分以上と推定された。