第七話 喧嘩
(やれやれ、面倒なことになった……)
暗い夜の、巨大なビルのまん前にある、駐車場。
そんな空間に置かれた、その会社のロゴが入った一台の車。その裏に、母親姿の閃夜は身を潜めていた。
周囲からは、大勢の人間の匂いが伝わってくる。それが漏れなく死臭であることが、死体であることを表している。
そして、そんなこと以上に今の閃夜にとって重要なのは、その匂いの中に一つだけ、生きた人間の匂いが混じっているということ。そして、その人間の匂いと共に、金属と、硝煙の匂いがしてくるということ。
そして、それが今まさに、閃夜の目と鼻の先から、閃夜を狙っているということ。
(プロかぁ……殺しても仕方ないんだけどなぁ……)
殺したくもない、殺そうとも思わない相手に対して、ただ憂鬱が募り、漏れるのは溜め息ばかりだった。
……
…………
………………
「ひどい! 何もそこまで言うことないじゃない!!」
「本当のことでしょう!!」
「なに、なに!? ちょっと、二人とも落ち着いて、ねえ……!」
直前まで蟻を見て周っていた閃夜は、慌ててスタッフルームにいる双子の間に立った。いつも互いに温厚で、そして仲の良いはずの咲と凪が、少なくとも閃夜の知る限り、初めて喧嘩をしていた。
「ちょっと、どうしたの二人とも?」
閃夜の問いに、答えたのは凪である。
「姉さんが私の計算に文句を言ってきたんです!!」
電卓と帳簿を指差しながら、凪が叫ぶように言った。しかし咲は、
「別に文句を言ったわけじゃないわよ! 私はただ、ちょっと計算の結果がおかしいって言っただけでしょ!? それだけで私の掃除が雑だって言ってきて、怒ってるのはこっちよ!!」
そう叫び、また口論になる。閃夜を間に挟みながら、徐々に激化していった。
「とにかく二人とも、ちょっと、落ち着いてって……」
どうにかして穏便に済ませようと、穏やかに声を掛ける。しかしそんな配慮も虚しく、二人の口論は更に激しくなっていく。
「ほら、このままじゃお客さんが来たら聞こえちゃうし、ね、落ち着いてって……」
このままでは二人の関係がどうこう言う前に、まともに接客もできない。そもそもこんな時に客が来ようものなら、防音でも何でもない普通の部屋からの怒鳴り声は確実に店頭の客の耳に入ることになり、そうなれば、客は当然逃げてしまうだろう。
この店を訪れる客の姿が感じられない今の内に事態を治めねば。
そんな考えからの正論を二人に語り掛けるのだが、二人が喧嘩を止める様子は全く無い。
「店長は黙ってて下さい!!」
「これは私達二人の問題です! 口を挟まないで下さい!!」
言われた後で二人に押され、引き離される。その後でまた言い争いを続けるのである。
「本当に二人とも落ち着いて、ね、冷静になろ……」
それでも、どうにか二人を仲直りさせようと努め、声を掛け続けた。
だが、その声も、二人の怒りを増長させるだけの薬でしかない。
「店長には関係無いことです!!」
「店長はいつも通りお菓子でも食べて黙ってて下さい!!」
「……」
そう大声で叫び、また二人して顔を見合わせ、大声での罵詈雑言の嵐。
何を言っても止みそうにない、そんな二人の言い合いを制したのは、
ガァァァァンッ
そんな、低く鈍い、だが、室内には十分巨大に聞こえる、何かの激突音だった。
『……』
双子は同時に、驚愕に口を止め、その音の発信源に目を向けると、今度は体が恐怖に固まった。
閃夜は変わらずこちらを見ていた。しかし見ると、その右手は真横に伸びている。そして閃夜の右の握り拳手が、壁にぶつかっている。
双子がその光景に恐怖を覚えたのは、その右手が、殴られた壁に埋まり、その周囲に大きな亀裂を生み、床に破片が落ちていたから。そして、そんな閃夜の顔が、今まで感じたことのない、そして、できれば一度も感じたくなかった感情が伝わってくるから。
「咲ちゃん……」
「はい!?」
声色も口調も、ついでに今見せている笑顔も、今までの閃夜のそれと変わり無い。だが、確かに咲は、そして凪も感じた。その笑顔に確かに籠められた、憎悪と、殺意を。
「君達二人を雇ってるのは、誰だっけ……?」
「それは……店長、です……」
「凪ちゃん……」
「はい!?」
「二人に仕事をあげてるの、誰だっけ……?」
「て、店長、です……」
凪が答えた後で、交互に二人の顔を眺めつつ、壁にめり込む右手を引っ張り出す。
「働く君達に給料をあげてるのって、誰かな?」
「店長、です……」
「このお店で一番偉い人は、誰かな?」
「店長、です……」
「じゃあ、このお店は、誰のものなのかな?」
「店長、です……」
「ふ~ん、分かってるんだぁ……」
全ての質問が、同じ答え。だが質問をする度、閃夜の声のトーンが徐々に下がってきていることに、双子は気付いていた。
「そこまで分かってるくせに、お仕事の良し悪しで起こった喧嘩が、俺には関係ない……」
「それは、その……」
「俺は関係ないから……」
「いつも通り……」
「お菓子でも食べて……」
「黙ってろだぁぁぁああああああああああああああああああああああああああ!?」
『っっっっっ!!』
その怒号は、明らかに双子の喧嘩の怒声を凌駕している。店頭どころか、店の外に余裕で届くのではと言えるほどの絶叫だった。
双子がそう感じた瞬間、同時に胸倉を掴まれる。
「ぶち殺すぞ!! この××××!!」
そんな絶叫を受けながら、同時に双子の体が真上へ持ち上げられる。双子はそのまま、今殴られた壁に背中を叩きつけられた。
「お前らが仕事でミスをして、それで損するのは俺だぞ!! 店先の塵一つ、百円二百円の計算ミス、それで損を被るのは全部俺だろうが!!」
「その上お前らの喧嘩のせいで客まで逃げちまったら、お前らの給料どうやって稼げってんだ!! お前らの給料だけじゃねえ!! 客が来て儲かった金で店は成り立ってんだぞ!! 客が逃げたらお前らが逃げた分の金を払ってくれるのか!? あぁ!!」
「こっちはお前らを信用して仕事を任せた!! その結果がこれか!! 喧嘩して客を逃がして、店を潰すことがか!? たった一つのミスでそうなっちまうくらいなら、最初から働こうなんて考えるんじゃねぇ!!」
今まで聞いたことの無い怒声、見たことの無い怒り顔。
後ろには壁、前は怪力で胸倉を掴まれ、吊るされて。
自由を奪われながら、双子のアルバイトとしてのことごとくを否定する、烈火の如き怒声の嵐。
双子は胸倉への圧迫に苦しみながら、目を見開き、閃夜の言葉の全てを、胸倉への圧迫以上の痛みとして受け止めながら、体中を震わせるしかなかった。
常にのんびりとした怠け者で、自分達にも甘いくらいに優しく、陽気に笑いかけてくれていた閃夜。それが消え、変わりに現れたのは、顔を怒りに染めながら、怒りに任せて双子を痛めつける、そんな、狂人の姿。
そして、その顔に、その目に脅えながら、双子は感じた。
(こ、殺される……)
(こ、殺される……)
と。
「……」
だが、殺される前に、閃夜は手を離した。
二人が同時に床に尻餅を着き、その痛みに悲鳴を上げる。
「もういい。今日はこれで閉店……」
閃夜はそう呟くと、二人に背を向け、その先にある、引き出しから給料の入った茶封筒を取り出した。そしてそれを、背中を向けたまま双子へ放り投げた。
「やってらんないよ。もう……」
また呟きながら、スタッフルームのドアを開ける。だが、そこへ出る前に、双子に目を向け、
「帰れ……」
そう、殺意の籠った目のまま、二人にだけ聞こえる静かな、だが、強い声で呟いた。
『~~~~~~~~っっ!!』
そんな声に、双子は体中を震わせた。
無我夢中で床に放られた給料袋を拾い上げると、急いでエプロンを脱ぎ、いつもより三時間ほど早く、外へと駆けだしていった。
……
…………
………………
「おかわり!!」
既に四杯目となるチョコレートサンデーを平らげながら、閃夜は門口に叫んだ。
既に用意しておいた五杯目のサンデーを、門口は呆れたような、だが同時に同情も含んだような表情で見つめる。
「なるほどな。それで今日はいつもよりやけに早く来たってわけか」
定休日でも祭日でもない平日の今日において、いつもより遥かに早い時間に店へやって来た理由を、サンデーを食べさせながら聞いていた。
「ええ。たく、あの二人じゃなきゃ本気でぼこぼこにしてますよ。もっとも人殺しじゃないから殺しても全然楽しくないのが残念ですけど!!」
ぼやきながら、サンデーにがっつくその姿は滑稽に映る物の、やはり門口が見せるのは、呆れと、同じだけの同情だった。
「しかしよぉ閃夜、それはお前も悪かったと思うぜ」
「……へ?」
五杯目の器を空にすると同時に言われた門口の言葉に、閃夜は間抜けな声と顔を見せた。
「確かに、お前の言うことは正しい。資金源も目的も全く違うとはいえ、同じ客商売の店を構える人間として、従業員の好い加減な態度に激怒する気持ちってのは理解できる。だがな、その二人はまだ高校生だ。責任と言われてもピンと来ないだろうし、一回や二回の失敗はむしろ当然だ。それがきっかけで喧嘩するって場合も無くは無いだろう」
「それを、だ。いくら文句まで言われて腹が立ったからって、散々怒鳴り散らした上に手まで上げちまって、働き出して半月ちょっとの人間にすることか? まして二人はお前の店に来るまで働いたことなんてないんだろう? なら、お前も雇う側の人間として、一度や二度のミスや喧嘩は大目に見て、それからきちんと教育する、そのくらいの心構えが無くてどうする?」
「……」
閃夜は顔を背けながら、無言で空になった器の口を塞いだ。蓋をした手の平から湧いた蟻が、器の内側を黒く染め上げていくのを眺めながら、閃夜の表情もまた暗くなる。
正しいと理解はできる。だが、認め難い。そんな反応を見せる閃夜に、門口は感じた。いつも閃夜の見せる幼さとは違う、閃夜の若さを。
「ま、家に帰って、じっくり考えてみろや……と言いたい所だが……」
と、門口が言葉を切った所で、閃夜はもう一度門口に目を向けた。
こんな勿体ぶった言い方をする時は、大抵決まっている。
「早く来たのは逆に都合が良かったかもしれねえ。仕事が一つ入ってたところだ」
仕事、という言葉に、閃夜の目にいつも見せる輝きが灯る。口元に笑みが無いのは、直前までの会話のせいだろう。だが、少なくとも門口から見て、閃夜が喜んでいることは明白な事実だった。
「ターゲットはこのビルだが、特定の人間じゃねぇ。今このビルにいる人間全員の始末だ」
「全員?」
思わず閃夜は目を丸めた。
いつも受けて来た仕事とは明らかに違う内容。そんな閃夜の心中を察しながら、門口は資料を取り出しつつ、話を続けた。
「このビル、表向きは大手の輸入貿易会社で通ってるが、裏じゃ海外から違法な薬や武器、臓器なんかを輸入して、ヤクザやそっち方面の腹黒い連中に売り込んでやがる。そんな会社の裏の顔を知らずに働いてる従業員も大勢いるが、今まで秘密を知ったことでの口封じや、会社にとって不利益になったことを理由に何人も殺してやがる。今回はそんな被害にあった従業員の家族から、復讐のために裏の人間を一人残らず消して欲しいって依頼だ」
「……」
閃夜は動揺しながらも、心中の大興奮を抑えるのに苦労していた。
今までの依頼では、ほとんどが一度に一人、多くても三、四人が獲物の仕事が基本だった。大勢の人間を一度に消して欲しいという依頼も時にはあるが、それも精々十人から二十人弱でしかない。
だというのに、資料の地図を見た限り、ビルは結構な大きさがある。殺す人間は限定されるとは言え、これだけ大きなビルで働く以上、十人や二十人では効かない、大勢の人間が働いているはず。それだけ大人数の悪人を、殺すことができる。
しかし、興奮しながらも、同時に感じた疑問を解消しないわけにはいかない。
「けど、今からビルに侵入するとして、中には何も知らない従業員もいるんじゃ?」
だがどうやら、門口はその疑問さえも想定済みだったらしく、笑顔で答えを返した。
「心配はいらねぇ。会社の規則でな、従業員は遅くとも夜の七時には帰ることが義務づけられてるんだ。残業も七時まで。量が多くて家で仕事をしたなら、その報告書を添えたらその仕事の時間分の給料を出すって条件でな。もちろん、裏の顔を知らねえ普通の従業員限定の規則だがな。だから少なくとも今は、会社には裏の人間しか残ってねぇはずだ」
言いながら、飾ってある時計に目を向ける。時刻は九時過ぎになっている。
「恐らく奴らは今ごろ、その裏の仕事に精を出してる頃だ。周りに怪しまれねえよう、ほとんどの明かりを消して、証拠が残らないよう監視カメラも全部止めてな」
「そういうことならっ!!」
大声を上げながら勢い良く立ち上がり、足下のカバンを手に取る。
「部屋借りまーす」
……
…………
………………
ビル内にある一室で、二人のスーツ姿の男が、退屈そうに手元の帳簿を仕上げていた。
「コカイン……モルヒネ……大麻の種その他……六歳児の角膜と心臓が十人分、と。しかし、よくこれだけ大量に注文できるもんだよ」
「ああ。まあお陰でこっちも大量におこぼれにありつけるからな」
「ああ。しかし、この会社の裏の顔を知らねぇ奴らも不運だよな。こんな会社に就職したばっかりに、秘密を知れば例外無く皆殺し、だもんな」
「まあ、帰れって言ってるのに遅くまで残ってる奴が悪い。それにどうせ従業員が一人二人いなくなっても、表の仕事には何の差し支えもないだろう」
「それもそうか」
そんな会話をしながら、二人とも声を出して笑った。
二人にとって、いやむしろ、今の時間この会社に残っている人間にとって、人の命など、この後もらえる大金に比べれば何の価値も無い。義理も無ければ顔も知らない誰かさんの命以上に、普通に仕事するだけでは手に入らないような大金は魅力的だった。
そうしてしばらく会話した後で、また仕事に戻った。
二人で帳簿をつけていると、一人が突然、机に突っ伏した。
「おいおい、仕事はまだ残ってるんだぜ。寝るなよ」
呼び掛けながら体を揺すって起こそうとするが、起きる様子は無い。
「仕方ねえな……」
そう呟いた瞬間、彼もまた、急激な眠気を感じた。目をパチクリしながらもどうにか意識を保つが、五回も目を擦った所でそれさえ辛くなるほどの眠気に襲われた。
そして、それは夢か現実か、判断できなかった。
突然、目の前のドアが開いた。そこに何やら、まっ黒な、おそらく男が入ってきた。
不思議なことに、彼にはそれが、『死神』に見えた。
そこで、思考が途切れた。
「まだまだいるなぁ」
二人を蟻で眠らせ、毒で殺害した後で閃夜は部屋を出た。
外の廊下には、既に十数人の人間が横たわっている。閃夜の毒によって死んだ会社員達である。
(まだまだ……まだまだ殺せる。たくさん殺せるぞぉ……)
既に四十人以上を殺してはいるが、それで欲求が満たされることは無い。殺す必要のある人間は、まだまだ大勢残っている。
そしてそれはそのまま閃夜の喜びを増大させる。
たった今殺した二人もそうだったが、どうやらこのビルには、表の従業員達の死を悼むような人間は皆無らしい。今この瞬間にも聞こえてくる話し声にもそれは感じられる。それはつまり、殺人の対象全員が、閃夜の大好きな、『人殺しをしながら、その罰を受けるとは考えず、罪悪感すら無い』人種達ということ。
そんな人間達の死に顔を見られる。おそらく世界一美味いチョコレートサンデーをご馳走になったとしても得られないであろう喜びが、閃夜を発情させ、興奮を刺激した。
(とは言え……)
こうして、ニヤついている間にも見えている、ビル全体の構造と、その中を行き来する人間の数と姿。
今閃夜の見ている光景を言葉にすると、このビルの構造と、設備やら設置物やら備品やらの一つ一つを精巧に象った、一万分の一スケールくらいの大きさのガラスの水槽の中を、その水槽に合わせたスケールの、体格と大きさと服の形だけが忠実な、服も顔も無地のマネキンが動いており、目の前に置かれたそれを、上下左右前後から隅々まで眺め、更に細かな部分は、自分も一万分の一スケールに縮むことで、実際に中を歩いて眺めることができる、といった具合となる。
その水槽はこのビルの前に立った瞬間から見えていたのだが、その時点で既に、倒れて血を流し、死臭を漂わせるマネキンがいくつかあった。だがそれ以上に、そんなマネキンの中に一人、おかしな動きをする者が見えた。
水槽の端から端までをせわしなく動き回り、しばらく制止したと思ったら、すぐにまた別の場所へ移動する。そして、そのマネキンが立ち止まった個所には、必ず直前までには無かった、金属と、火薬の混じった匂いを発する、複雑な形状をした小さな物体が残される。
そして、そのマネキンが別のマネキンに出会うと、慌てず騒がず右手を前に出し、出会ったマネキンの方が床に倒れ伏す。そのマネキンからは血の匂いと死臭が立ち上り、同時に右手を出したマネキンからは、少なくとも日本の、こんなビルの中ではまず嗅ぐことのない香り、『硝煙臭』が漂うのである。
硝煙臭と、ビル内の隅々に置かれた金属と火薬の匂い、そして、実際に窓をこじ開けて入った時に見つけた、眉間に穴の開いたいくつかの死体を前にすれば、答えは必然と導き出される。
(俺と同じ、プロ、だよねぇ。それも、凄腕の、ねぇ……)
と言っても、母親である自分とは違って、こちらの動きは向こうからは見えないだろうし、実際、今そのマネキンは、閃夜よりも二階上の階を歩いているのが見える。
このまま普通に動いていても、まず出くわすことも無いだろうし、間違っても交戦することはまずあるまい。
(とは思うけど……まあ、考えてても仕方が無いね)
そう結論づけ、また歩き始める。
歩いていると、突然、目の前の突き当たりからマネキンが近づいてくるのが見えた。人数は二人。スーツと麻薬の匂いから、会社員であることは間違いない。
閃夜は窓の後ろまで下がり、社員達のやってくる側の壁にもたれ掛かった。こうする事で今いるような暗い空間では、向こうからは進行方向からの角度に加え、月明かりによって、暗がりに隠れたこちらの姿は見え辛くなる。
そして、隠れて十秒もしないうちに、壁を挟んだ廊下の向こうに見えていた二つのマネキンは、二人の男に姿を変えて姿を現した。
その二人がこちらに気付かず、また壁の向こうに消える寸前、先程と同様指を二本突き立て、爪先から透明な液、毒を発射させた。
毒は二人の首筋に当たるが、二人とも気付かず歩き続ける。そうして、二人の男がまたマネキンへと変わった瞬間、マネキンは悶え苦しみ、倒れた。
それが止んだ所で、また歩を進める。たった今死んだ二人の前を通り過ぎ、目指しているのはこのビルの最上階。プロの動きを見た限り、どうやら自分とは違い、ここの社員達を殺すことが最終目的ではないらしい。
そして、殺すことが目的である自分としては、単純に下から順にその階にいる会社員全員を殺していき、その後階段で一階ずつ登っていき、最終的に最上階の人間を殺せばそれで終わり、となる。
そうやって十五階建てのこのビルのうち、現在いるのが八階。ようやく半分を過ぎたところであった。
「次は九階、だけど……」
呟きながら階段を上る。そして上った時、そこには入り口の時と同じく複数の死体が転がっている。この階にはもう、生きているマネキンはいないことは、九階に登る前には見えていた。
そうして十階、十一階と上っていくが、やはり生きているマネキンはいない。
現時点でマネキンが動いているのは、十三階よりも上に複数十人、そして、プロと思しきマネキンが、現在一つ上の十二階をうろつきつつ、向かってくいくマネキンを順に殺していっている。
(俺の獲物……)
と、どんどん失われていく楽しみを前に、内心泣きたくなっていた。
仕方がなくなり、プロが一階上へと上がる度、閃夜も一階上へと登っていく。現在、プロが十三階、閃夜が十二階。プロが殺した中に生き残りがいないかと期待をしてみたが、どれも眉間か胸を一発で撃ち抜かれ、漏れなく死臭を放っており、生きている人間は一人も見られない。
もっとも、いたならいたで、食べ残しを漁っているようで良い気はしないのだが。
そして、さすがに敵も、ただやられるだけで終わることはできないらしい。プロが上に上がる直前、マネキンが一人、電話を掛けていた。その後、今まではただ逃げ回り、死んでいくだけだったマネキンが、階段から最も離れた部屋へ集結し、プロと同じように、手に金属を構えている。プロのものと違って金属の匂いが強く、逆に硝煙臭がまるで無いことから、おそらく売り物であろうそれらに手を出している辺り、相当切羽詰まっているのが分かる。
(でも、プロの持ってるのに比べてやけに短いような……)
銃火器に関してはチンプンカンプンな閃夜でも、銃という武器に種類があることくらいは素人レベルだが分かっている。大きさも形状も様々なのは当たり前のこと。
だが、それに付けても、プロが右手に構えているそれと、その他のマネキンが慌てて用意しているそれとでは形状が違い過ぎる。
プロが持っている拳銃は、持ち手こそ普通だが、銃口がやけに長く伸びている。
一方その他のマネキンが持っているのは、銃口の長さは普通か、むしろ短くもある。
(……ちょっと待てよ。確か、拳銃の銃口の部分に着けておくと、銃声を抑えられる、サイ、サイ……まあいいや。そんな道具があったよね……)
過去見たテレビアニメで知らず知らず得ていた知識を記憶の底から引っ張り出し、それを、じっくり考えてみる。
(プロが持ってるのにそれが着けられてるとして、それで今まで銃声を抑えてた、て、考えると……)
「げっ!!」
その気付きに、つい悲鳴を上げた瞬間、部屋の奥に隠れていたマネキン達が、一斉にプロの前に躍り出た。
「やっば……!!」
また声を上げながら、急いで両手を振り上げた時には、手遅れだった。
バンッバンッバンッ
「~~~~~~~~っ!!」
無数に空間内に轟く、あまりに強烈な爆音。それが耳を襲い、改めて両耳を両手で塞いだ。目の前の水槽とマネキンが、揺れ、段々と見えなくなっていく。
バンッバンッバンッバンッ
だが、耳を塞いだだけでは完全に音を遮断することはできず、閃夜の耳には爆音が届き続ける。
バンッバンッバンッバンッバンッ
その、あまりの音による衝撃で、耳を塞ぎながら、遂にひざを着いてしまう。
その後も爆音はしばらく続いた。
爆音が止んだのは、閃夜が耳を塞いでからおよそ三十秒後だが、閃夜にはまるで一分以上の長時間に感じられた。
「~~痛ぅぅぅぅ~~~~~……」
両耳を押さえたまま、耳への痛みを通り越して起きた頭痛に、閃夜は苦声を漏らした。
実際、高さ一階分という、天上と床を隔てた距離にある銃声など、確かによく聞こえるのには違いない。だがそれも精々、よく聞こえる大きな音ではあるが、わざわざ耳を塞ぐほどのものでもない、程度の音に過ぎない。
だがそれも閃夜に限って言えば、それだけで十分耳に負担が掛かる大音量であることには間違いなかった。
音と匂いだけを頼りに、水槽とマネキンによる疑似空間を目の前に作り出して眺める。
そんな芸当ができるほど発達した聴覚と嗅覚は、逆に言えば、それだけ音や匂いを必要以上に捉えることができてしまう。
つまり、一般人が「うるさい」とだけ感じる騒音や、「臭い」とだけ感じる刺激臭は、閃夜にとって、最悪耳や鼻が一生使い物にできなくしてしまう、という事態を招くこととなる。
もちろん普段はそんなことにならないよう、精々自分や店の周囲のちょっとした範囲が見える程度に聴覚も嗅覚も抑えている。仕事中においても、獲物を見つけるまではその感覚を高めつつ、見つけ出した後は抑えている。
だが今回は仕事内容の関係上、常に水槽とマネキンを眺めておくため、最初から今まで聴覚も嗅覚も極限まで高めていた。その結果、屋根と床一つ分の距離で聞こえてきた銃声は、閃夜の耳を壊さんとする爆音へと変わってしまった。
「……あ~、あ~……」
目に涙を滲ませつつ、聴覚を抑えながら、そんな声を出してみる。
どうやら鼓膜が破れている様子は無く、声は問題なく聞こえる。
「……」
それでも頭痛は引かない。閃夜は耳が回復するまで、その場にとどまることにした。
そしてその間、聴覚を抑制したまま、匂いだけで空間の様子を読み取る。
水槽は曇り、マネキンは随分とぼやけて見えるが、それでもプロが爆弾の設置を終え、十四階へと上がっていることは分かる。
十四階も、十三階と似たような状態になっており、いくつもの真新しい鉄の香りをマネキンが構えている。それが一斉にプロに襲い掛かり、逆に返り打ちにされている。
「……帰ろうかな」
プロの働きぶりと、未だ消えぬ頭痛やら耳痛やらで、もはやこのビルの中にいること事体が嫌になってしまった。今までしてきた仕事を鑑みても、プロに出くわしたことも初めてなら、これ程のダメージを受けたことさえ初めてなのだから。
(子供達は全員戻ってきてる、よね……)
八階で二人を眠らせたのを最後に、その時の蟻を全て回収した後は一匹も放ってはいない。また、先程からビル中の匂いを感じてはいるが、蟻の匂いどころか、害虫一匹の匂いさえ一切無い。
(どの道最後には爆破される。ここは、逃げるのが得策、だよね……)
職場放棄のような感覚がして、あまり良い気はしなかったが、背に腹は代えられぬと、現在ビルのまん前にある芝生の上で、直前までいたビルを見上げている。
ここへ降りるまでも、匂いを頼りにプロの動向を探っておいたが、既にプロは最上階の十五階に辿り着き、社長室に向かっているのが見えた。そして外に出た瞬間には、既に社長室に入り、中の人間を全滅させていた。
(終わったみたい)
それを感じ、銃を使わなくなったことも感じ取ったため、もう一度耳を澄ませた。
直前までだいぶぼやけていた水槽とマネキンが、より鮮明に見えるようになる。
「……あれっ!?」
その時、初めて気付いた光景があった。
社長室と思しき、最上階にある部屋。そしてその真後ろに、何やらかなりの速度で下へ移動している四角い箱、エレベーターが見える。
同時にその中に、武装したマネキンが二人と、その中心に拳銃を一つ持ったマネキンが一人、計三人が乗っている。
そしてそのエレベーターは、どうやらビルの、地下駐車場まで直通らしい。
「こいつらは生き残り……」
「プロは最上階にいるし……」
「つまり……」
「俺の獲物だ!!」
プロのせいで、お預けを喰らっていた大量の獲物。一人だけとは言え、それにようやくあり付けると確信したその顔には、直前まで当人を苦しませていた頭痛も耳痛も消えていた。
◆
左右を屈強なボディーガード二人に守らせつつ、エレベーターで下へ降りていく。
万が一の非常時のために用意しておいたエレベーターだったが、その非常時が、本当に起きてしまうとは、さすがに予想の外にあった。
もちろん違法なことをしている以上、取引先の組織等から邪魔者扱いされることもある程度は予想していた。とは言え、この日本で、ここまで直接的な手段に訴えるとは。
人目に見られないようにと、都心から離れ、山に囲まれ、目と鼻の先に港が見える、従業員以外の人間がほとんどうろつかないこんな場所に拠点を置いたのはさすがにまずかったのだろうか。
(とにかく、今は身を隠さなければ……)
幸い、既に一生遊んで暮らせるだけの金は蓄えてある。このまま海外にでも逃げて、顔を変え、名前を変えれば、そうそう見つかる物でもあるまい。誰だか知らないが、送りこまれたプロも今頃は最上階。エレベーターに追いつくことはできないだろう。
そう安心した所で、エレベーターが止まった。外からは決して見えず、侵入もできないよう作られたこの地下駐車場で、防弾車に乗ってしまえば、相手は手出しができなくなるだろう。
黒塗りのワゴン車を改造した防弾車の、後ろの席に乗り込んでシートベルトを着けたところで、ボディーガードの一人がエンジンを吹かす。その間にもう一人のボディーガードが扉を操作し、地上への出口を作る。その後で車の助手席に乗り込んだ所で、車を走らせた。
長い間商売の拠点としてきたビルだったが、今となっては何の干渉も無い。加えれば、周囲には娯楽など何も無い、詰まらない場所だった。もう二度と戻ることは無い。
死んでいった社員達の死体の転ぶビルの方へ、振り返ることはなかった。
今はただ、この車の走るまま、遠い場所へと消えていくだけだ。
「……うん?」
新たな旅路に希望を持った時、すぐに異変に気付いた。車が地上に出た途端、そのまま真っ直ぐ走れば良い物を、なぜか右に向かっている。仕舞いには、右側に広がる芝生の上を走っている。
「おい、何を……」
怒声を運転手に浴びせた瞬間、目を疑った。
直前まで普通に運転していたはずの男は、助手席の男と共に、目を閉じ、眠っている。
「おい、起きろ!! バカッ……」
ガンッ
男が起きる前に、車は出入り口の右側、壁に激突してしまった。
幸い大したスピードは出ていなかったため大事には至らず、車のエンジンも問題なく動いている。
「クソったれっ!」
文句をぼやきつつ、ハンドルに突っ伏した男をもう一度揺らす。だが、男はやはり起きる様子は無い。
こうなった以上、役立たずは下ろして自分が運転した方が早い。
そう思い、座席の背もたれを後ろに倒し、シートベルトを外して引っ張るが、元々ボディーガードを頼むほど屈強で、ガタイも良い。それを、あまり鍛えているとは言えない体をした自分には、引っ張り出すことが難しい。
このままでは追いつかれる。ぶつかった音などからも、既に気付かれているだろう。
焦りながら、必死で男の体を引っ張った。
「手伝おうか?」
「ああ、悪い……」
咄嗟に、その言葉に返事を返した。
返した後で、気付いた。
誰の声だ?
この車には、自分と、今も眠り続けている役立たず二人しか乗っていないのに。
それに、前後左右ではなく、上から聞こえたような……
バリィッ!!
「ひっ!!」
コンマ数秒の思考の後、運転席側の防弾ガラスが割られた。そして、そこから伸びた人間の手が、運転手の男を引っ張り出し、男は車の上へと消えていった。
バリィッ!!
「っ!!」
直後、左側でも同様に、助手席の男が車の上へと消える。
「な……な……」
バリィッ!!
「なっ!!」
声を出した時には、自分も上へと引っ張られていた。
自分の胸倉を掴んでぶら下げている男は、防弾車の上に胡坐を掻き、まるで悪戯に心を弾ませる子供のような笑顔をこちらに向けていた。
「こんばんは」
挨拶が聞こえた瞬間、放り投げられる。
地面へ背中から落とされ、その痛みに悶えてしまった。だが、同時に両手に何かが触れる。何かと思って見てみると、それは、ついさっき車の上へと消えていった、二人の役立たずだった。
スタッ
「ひっ!」
役立たず達を殺した男が、車から降り、こちらに近づいてきた。
「な、何なんだ、一体……」
「あんたは俺を知らない。俺もあんたを知らない。だがそんなことに意味は無い。俺が知りたいのは、あんたが死んだっていう事実だけだ」
「っ!!」
男の言葉に恐怖を覚えながら、どうにか懐の拳銃に手を伸ばした。だが、
「えぇ!!」
取り出した瞬間、拳銃はバラバラと地面に落ちてしまった。
「ど、どうして……」
ガッ
「かっ……!」
銃を見て、疑問の声を漏らした直後だった。
男の手が、自分の首を掴んでいる。首への痛みは、徐々に呼吸のできない苦しみに変わっていく。
「あっがっかぁっあっ……」
最後に感じたのは、まるで自分の体が、ふわりと宙に浮いたような、そんな感覚だった。
バキャッ
◇
「あ~楽しかった」
逃げてきた最後の一人を、右手で首をへし折って殺し、閃夜はそんな声を漏らした。
「これで後は逃げるだけ」
満面の笑みでそう声を出しながら、翅を広げようとした、その時、
「……!!」
自分のすぐ後ろに、感じた、金属と硝煙の匂い。
そして、右手を真っ直ぐこちらに伸ばす、マネキン。
プシュッ
咄嗟に左へと飛んだ時、直前まで立っていた場所が、土と芝生の砕ける音を発した。
そして、そちらを見てみると、男が一人、こちらに長い拳銃を向けている。
「ちっ!!」
舌打ちしながら、とにかく飛んだ方向へそのまま走る。
プシュッ
プシュッ
プシュッ
抑えられていても、閃夜の耳には普通の銃声と変わらない騒音から、とにかく距離を取った。
止まらず走った、そこにあったのは、駐車場。おそらく会社の所有物であろうロゴの入った車が、三台ほど並べられている。
その内、もっとも手前側に止まっている車、その後ろに飛び込んだ。
車に背中を預けながら、窓ガラス越しに、プロの位置と姿を確認する。
プロは既に、この車から二十メートルほど先に立ち、夜闇に紛れながらこちらに銃を構えている。
金色の短髪と、青い瞳が見えた。年齢は三十代の半ばから後半くらい。身長は閃夜と同じかやや高いほど。黒色のスーツ姿だが、かなり鍛えているのが服の上からでも分かる。青い瞳を鋭くとがらせ、こちらを睨んでいる。
そして右手には、サイ何とかを装備した、マガジン式の四角い拳銃。
(プロかぁ……殺しても仕方ないんだけどなぁ……)
プロの殺し屋。
何人もの人間を、金ずくで手に掛けてきた者達。
だが、閃夜もそうだが、常に全力で生き抜く代わりに、いつでも死ぬ覚悟を持ち、命を賭けて仕事に挑んでいる。
それは、閃夜の求める獲物とは真逆の人種である。人殺しが何よりの楽しみとは言え、それは閃夜が殺したいと思った人種に限られることであり、それに該当しない人間を殺した所で楽しくなければ旨みも無い。同じあんこなのだからと、大福が食べたいのにアンパンを渡されるのと同じ感覚だった。
(て、今はそんな贅沢言ってる場合じゃないか……)
どの道向こうが殺す気ならば、殺したくないなどと言っている場合では無い。顔を覚えられている可能性もあるため、ここで殺しておくしかないだろう。
(というわけで……)
というわけで、閃夜はもう出すことは無いと思っていた、子供達をもう一度放った。
徐々に距離を詰めてきてはいるが、距離はおおよそ十五メートル。今から二十秒後には、男は気絶することになるだろう。
(そこを、さっきまでと同じように、毒を飲ませれば……)
(あれ? 何この動き?)
意気揚々と腕を前に伸ばした時、その変化に気付いた。
近づいてくるプロは、右手に銃を持ちつつ、左手には、銃とも、仕掛けていた爆弾とも違う、楕円型の、火薬の匂いがする金属が……
「っ!!」
「戻れえええええええええええええええええええええええええ!!」
だがそう叫んだ時、プロは左手を後ろへ振り上げ、その楕円の金属、手榴弾を転がし投げてきた。
叫ばれた蟻達は急いでUターンを行い、閃夜に向かって走る。
「間に合わない……!!」
そう判断した閃夜は、車の上に乗り出した。プロはそれを狙ったが、今の閃夜にそれを気にする余裕は無い。
無我夢中で跳んだ。地面を跳ねながら転がる手榴弾の目の前に降り立った時、手榴弾がちょうど、閃夜の顔の高さに跳ね、
ドガアアアアアアアアアアアァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ……
◆
「What is really said……(一体、何だって言うんだ……)」
『ACT-01』。その名前で呼ばれ、今まで多くの依頼をこなしてきた。仕事のために、常に無駄の無い行動を取り、速やかに依頼を遂行してきた。今回の仕事も、後はこのビルからできるだけ離れ、爆破スイッチを押せばそれで終わる。
そんな彼にとっても、今目の前で起こったことは、咄嗟にその場でとどまり、考えたくなるほど、理解に苦しむ光景だった。
取り逃がした社長を追いかけ、大急ぎで階段を下り、ビルから出た時、この、全身をまっ黒なスーツで着飾り、妙な髪型を作った男がいた。仕事を見られたなら例外無く殺すこと。それが殺し屋の鉄則。それに従い、目撃者の可能性があるこの男も、例外無く殺すはずだった。
男は車の裏に身を隠し、こちらをうかがっていた。徐々に距離を詰めつつ、手榴弾を投げ、それに逃げて飛び出した所を狙い撃つ、はずだった。
だが、あろうことかこの男は、意味不明な絶叫をしたと思ったら、自分の投げた手榴弾に向かって飛び出し、もろに爆発に呑まれてしまった。
そして今、自分の足下に、黒コゲになりながら座り込んでいる。
自殺か、とも考えられる。だが、直前までこの男は間違いなく生き伸びることに全力を向けていた。そんな男が、こんな形で観念するとは考えにくい。
ならばこの男は、どうしてこんなバカな死に方を選んだと言うのだ……
ガシッ
「……っ!」
突然、右手首が何者かに掴まれた。
グググググググググ……
「く……」
しかも、かなりの握力で握られている。
抵抗し、引き金を引こうにも、握力が強過ぎ、手首から先がまるで動かない。
カシャン……
「あぁ……」
とうとう握ることができなくなった銃を、地面に落としてしまった。
その時、初めて気付いた。
自分の右手を掴んでいる左手の甲とスーツが、焼け焦げてぼろぼろになっていることを。
そして、視線を前に向けた時、男は腫れあがった顔に、焦げた髪の毛を垂らしながら、こちらを見上げていた。
だが、更によく見ると、顔や、胸にあるはずの火傷の傷が、徐々に、消えていっている。
スーツは黒コゲになっているが、赤と黒の醜い色をしていたはずのその肌が、徐々に、健康な肌色に戻りつつある。
「You are whom?(何者なんだお前は……)」
あまりの出来事に、右手への激痛も忘れ、尋ねてしまった。
「Me……?(俺か……?)」
「I am a house of these……And the mother of these.(俺は、こいつらの家……こいつらの母親……)」
「Name is……(名前は……)」
「クイーン・アントネスト」
ジュ……
名前を聞いた直後、右手に、握られているのとは全く違う痛みが生じた。
その直後、突然意識が遠のいた。
◇
「……」
蟻の巣の再生力は、種類にもよるとはいえ、実はかなりの速度を誇る。
庭の蟻の巣に熱湯を流し込み、全滅させたと思って去った後、小一時間建ってから様子を見にいくと、ほぼ元に戻っていた、という例はいくつも存在する。
そしてそれは、人間であると同時に、巣として生きている閃夜も例外では無く、閃夜が傷ついた時、蟻達は持てる力を総動員して自分達の家の修繕を図る。
さすがに死から蘇生したり、吹っ飛んだ腕や足を再び生やしたりという芸当は不可能だが、今回のような火傷や、切り傷、骨折、更には吹っ飛んだ腕や足も、その吹っ飛んだ部位さえあれば、それをくっつけ、問題無く動かすことができるようにさえなる。
「……」
だが、そんな事実に安堵することもなく、閃夜は殺した男の前に座り込み、ただ落ち込んでいた。
「……」
「なあ……お前達……生きてるか……」
落ち込みながらも、自分の中に戻った子供達に呼び掛ける。
「死んだ奴は……いないよな……」
そして、その質問に答えるように、先程放った蟻達の声が、体の中から聞こえてくる。
視覚と嗅覚を最大にしているが、自分の外に、他に子供達の姿は見られない。
「そうか……良かった……お前達が死ななくて……」
「本当に……良かった……」
そう呟いている間に、全ての火傷の修復が終わったらしい。割れた車のミラーを除いてみると、いつもと同じ、スーツは黒コゲだが、無傷の母親の顔が映っている。
「母さんは……お前達のこと……絶対に守るから……」
その呟きと共に、翅を広げ、空へと羽ばたく。
ビルの真上へ、十分な高さまで飛んだ後で、殺したプロからくすねた四角い金属を取り出す。その中心に置かれた、一番大きなボタンを押した後で、それをビルに向かって放り投げる。その後、方向を変え、再び羽ばたいた。
ドガァッ
ドガァッドガァッ
ドガァッドガァッドガァッドガァッ
ドガァッドガァッドガァッドガァッドガァッドガァッドガァッドガァッ
バゴァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ……
……
…………
………………
『ARINOSU』の開店時間、表玄関の鍵を開きながら周囲を見渡す。
咲と凪は、今日も来てくれるだろうか。
昨日あんなことをしてしまって、もう来ないのではないだろうか。
だが、それも杞憂に終わった。少し先から、双子の匂いが伝わってくる。
二人ともどうやらかなり落ち込みながら、とても歩き辛そうにしているが、それでも一歩ずつ、この店まで歩いてきてくれている。
そして、その十と数秒後、双子が姿を現した。
「おはよう」
穏やかな表情を作りながら閃夜が言ったが、二人とも、うつむいていた。
「……とりあえず、中に入ろうか」
二人を中に入れ、スタッフルームに通し、双子を椅子に座らせる。
辞める。そう言われても仕方のないことを、昨日は二人にしてしまった。
だからこそ、
「ごめんなさい!!」
突然の土下座に、驚く双子を無視しながら、閃夜は話し続けた。
「二人は毎日よく働いてくれてる。でも、どんな仕事にだって失敗はあるのに、それが原因で起こった喧嘩にただ怒鳴るだけで、碌な注意も出来なくて、店長失格だ。本当に、ごめんなさい!」
叫びながら、額を床に擦り付ける。
昨夜の仕事での、いくつもの失敗。文字通り、身を持って思い知らされた。
いつもやっている仕事に、自信を持ち、上手くこなしてきたという自負を持った。その自負を胸に、昨日も仕事を行った。
だが昨夜の数々の失敗は、その自負の全てが無意味であったことの証明となった。
水槽を眺めている状態で銃を撃たれても、耳に何ら影響が無かったのをおかしいと思わなかったことも、プロの懐にまだ手榴弾が隠されていることに気付けなかったことも。
何よりそのせいで、一匹も死なせないと誓った、大切な子供達の命まで失いかけた。
一つや二つ間違えただけでここまで手痛い目に遭い、結果、自分の全てを否定することとなった。
そしてそれは、状況こそかなり違うとはいえ、双子も同じだっただろう。
今までずっとしてきた仕事で文句を言われたことで、それまでの自分を否定されたことに腹が立ち、喧嘩になった。そして、とどめに自分が大声で怒鳴りつけ、駄目押しとなってしまった。
今なら二人の気持ちが分る。喧嘩になってでも自分を肯定したかった気持ちも、そして、怒鳴られたことで全てを否定され、その後に苛まれたであろう苦しみも。
「店長」
だから呼び掛けられても、双子の顔を見ることができなかった。
「頭を上げて下さい、店長」
「……」
そう声を掛けられたことで、恐る恐る、顔を向けた。双子は共にひざを着きながら、悲哀に満ちた表情を閃夜に向けていた。
「私達こそ、すいませんでした。元はといえば私の計算ミスが原因で起こったことなのに、変に意地になっちゃって、店長にまで迷惑掛けちゃって……」
「凪ちゃん……」
「私達、いつも怠けてるけど優しくしてくれる店長に、甘えてたんだと思います。いくら自由にしていいって言っても、雇ってもらったからにはしっかり仕事をこなさないといけないのに、それを忘れて、できてない自分を棚に上げて、何とか仕事をできたことにしたくて、それで、喧嘩なんかしちゃって……」
「咲ちゃん……」
「これはお返しします」
二人同時に、昨日受け取った封筒を差し出してきた。
「二人は仲直りしたの?」
閃夜がそう尋ねると、双子は顔を見合わせ、頷く。
「そうか。良かった」
その閃夜の笑顔に、双子もまた、笑顔を浮かばせた。
「お詫びっていうのも変だけど、それはそのまま受け取って」
「でも……」
「それと……」
反論を返そうとした凪を制止しながら、閃夜はうつむきながら、頬を高揚させた。
「店長?」
咲に呼ばれた後で、閃夜は、自分の願いを伝えることに決めた。
「こんなこと言う資格無いかも知れないけどさ、これからも、その……この店で、俺と一緒に働いてくれないかな?」
所々詰まりながら発した言葉。それに、双子は満面の笑顔を見せた。
「はい、ぜひ! 私達にとっての『店長』は、店長しかいませんから」
「私達こそ、これからも従業員として、一緒に働かせてください」
そして、双子は左右から、床に着いた閃夜の手を握ってきた。
「ありがとう」
心の底から感じ、その感情をそのまま、言葉にした。
そしてその直後、閃夜は音と匂いを感じ取った。
「お客さんが来るよ。二人ともレジに立って」
「はい」
「はい」




