6 松竹亭の松江
翌日、辺りがすっかり暗くなり銀色の細い三日月が空にのぼった頃、
江戸で有名な高級料亭松竹亭の、全ての灯りに火が入った。
その門前には綺麗に水が打たれ、季節の花々が、華美にならない程度に咲いている。
店の入り口迄続く、月夜に水の雫が光る苔むした庭に古からの踏み跡で窪んだ飛び石が見える。奥庭の竹林がサワサワと鳴り、静かに客人を迎える。
松竹亭とはそんな料亭だった。
しかし、今日は店の中がなんだか少し、ざわついている。
この店で一番しつらえが美しい離れの松の間の客人が、あれこれ注文をつけているからだ。
「ほら、その紫の紫陽花はもう少し上に飾っておくれ。せっかくの紫色が隠れちまうだろうよ。」
(……さっきあんたが下にって言ったのでは?)
そう思いながら仲居の輝は、紫陽花を飾り直す。
部屋の客は親子程年の違う、男二人だが、若い方がずっとこの調子だ。
(それにしても、見たことのない随分変わった紫陽花だ)輝は思っていた。
周りの花に見えるガクが八重になっていて、あちこちに向かって可愛らしく咲いている。八重の部分の紫色が少しずつ先端に向かうほど淡藤色となっていく。
見ていてとても清々しい気持ちになる紫陽花だ。
この江戸では、今でいうガク紫陽花は単純な山紫陽花しか一般的ではなく、八重のガク紫陽花はかなり珍しい。数々の名花を、松竹亭の部屋に生けてきた輝も、これ程の紫陽花は見たことが無かった。
また、わざわざ人の手で雫も丁寧に葉や花々に落としてあり、雨上がりの花をそのまま持ってきたかのようないっそう爽やかなしつらえである。
「いやぁそれにしても素敵な紫陽花ですね。一体何処からお取り寄せに?治助様」
輝が今日のこの部屋の客人治助に尋ねる。
「うふふ。これはね、松江様にご依頼申し上げたんだよ。松江様も有名な植物採集人に頼んだらしいがね。
確か採集人にしては珍しく女の採集人で名は……」
治助が言いかけた所で、別の仲居が酒を運んできた。
異国の酒、葡萄酒である。まだまだ珍しく滅多に見ないものだが、ここ、松竹亭では度々扱っている。
異国では、デキャンタと呼ばれるギヤマンの器に注がれる白葡萄酒を見て、治助が言った。
「おいおい、何でそんな葡萄酒を注いでいるんだい?
ほら私が異国から持ってきた、最上級の赤の葡萄酒を渡してあったろう?違うじゃないか」
「でも、松江様がこちらにするように仰せで……」
恐る恐る仲居が松江様の意向を伝えたが、治助様にはその意味がわからなかった。
「嫌だなぁ松江様も。私の葡萄酒の方が、ずっと高級で良い酒なのに。ほら変えてきなさい」
人のいい治助は、怒りはしないが、急ぐように仲居を促した。
その頃、松竹亭の奥の部屋で綺麗な三日月がよく見える一室に松江はいた。
綺麗な富士額で目元がスッキリとしたその姿。縞の着物もすっきりと着こなしている。また、紫に銀流しの線が光る和玉の簪が、月の淡い光の下でも、松江の亜麻色の髪をよく引き立てている。
松竹亭の娘松江様は、「江戸美人娘番付」に入るほどの美人であった。
松江の横には、薄紫と金色の異なる瞳を持つ三毛猫の孔ちゃんがまったりと寝転んでいる。
手には、白葡萄酒が入ったギヤマンのグラスを持っていた。このお酒、松江が今夜の客の為に準備していたものだ。
お酒をゆっくり味わいながら、
「馬鹿な、客……」
松江は呟いた。
せっかく全ていい雰囲気だったのに。
「でもそのおかげで孔ちゃんと楽しく、月見酒〜」
その顔はニコニコだった。
ふいに狆のまるちゃんがトコトコ入ってきた。料亭だけど、離れをご利用の心花魁は、いつもまるちゃんを連れてきているのだ。
「あ、まるちゃ〜ん!今日もかわゆ〜い!一緒にお月見しよ!」
松江は、二匹と一緒にまた飲み始めた。
まるちゃんと孔ちゃんは、隣に座りじっとしている。
料亭松竹亭は、その料理の味はさることながら、客人の用件や心持ちにあわせた部屋のしつらえが、高い評判を得ていた。
季節の美しい生花。客好みの器、
ほんのり薄く香るお香……客人の嗜好にぴったりな素晴らしい料理の数々。
松竹亭に行けば、どんなに喧嘩をしていた夫婦も、その料理と部屋の雰囲気で仲良くなって帰ると言われる程の名店なのだ。
そしてその日の客人に合わせて、料理や部屋のしつらえを最終的に決めるのが、松江の仕事であった。
一度仲居の輝が、今後の参考にと松江の決め方を見ていた。
だが見ていた方が、かえってよくわからなくなった。
松江様は、部屋の中心に異国から取り寄せた橙色の長椅子を置いた。
そこに寝転び、まったり好きな漢文の本を読んでいるだけだ。
暫くして、松江様から仲居に、最終的な今日の料理と部屋のしつらえを命じられる。
それが出来上がると、何とも客人に合わせた居心地のいい空間になっているのだ。
「何で寝て本を読んでいるだけでわかるのですか?」
輝は松江様に聞いてみた。
すると、松江からは
「全部がいい雰囲気になるかが大切〜」
とよく分からない答えが返ってきた。
何とも不思議な、でも素敵な方。輝は松江様をそう思っていた。
松江には、良い雰囲気=気の流れが視える力があった。神々の姿が視える人はいるが、気の流れが視えるのはこの世界でも珍しい。
初めに今日利用するお客様の情報を見る。
その後、長椅子に寝て本を読みリラックスするのだ。
今日の部屋のしつらえや料理がぴったり合っていると、場の雰囲気がとても美しく、部屋全体の気が、ゆったり、キラキラと流れていくのが視えるのだ。
そして必ず客人は喜んで帰っていく。
最後の松江様チェックは、皆の絶大の信頼を得ていた。
その松江は奥の部屋で、変わらずゆったりと月と葡萄酒を交互に愛でながら、2匹と月見酒の続きをしていた。
その時だった。
離れから男の声が響いてきた。治助様の声だ。
「いや!花魁!何でなんだい?
この葡萄酒は最高級、味も素晴らしいじゃないか!料理にも合ってるよ。
あ、花魁!心花魁待って!帰らないで!もう3日も待ったのに!いったい何がいけないんだい?」
因みに治助様、もう待って4日だが……あまりのショックで日にちが減っている。
……ほらみろ!いわんこっちゃない!これを聞いて松江が立ち上がった。




