02
屋敷を受け取った三日後、最低限の荷物で引っ越してきた。
叔父の残した家具や日用品があるのだし、と思って。
ブダペストの出版社には時々顔を出さねばならない。
足りないものは時間はかかるが、取りに行けないこともない。
鉄道と一頭立ての辻馬車を乗り継いだので、疲労困憊だ。
特にコムフォートは悪路で尻が痛い。
鉄道の中では叔父からの手紙の封を切った。
几帳面に折られた便箋が一枚。
『バラージュ・マティアスへ
君ならばできるかもしれない。
私にはできなかった。
どちらの愛が本当かわからない。
じき私は死を迎えるだろう。
君に屋敷と銃を託す。
ケルテース・ラザールより』
また一つ、不可解さが増した。
夕闇の迫る頃、コムフォートの窓から森を抜けた先に屋敷が見えた。
今更気づいたが、屋敷のすべての窓が蔦で覆われていた。
その合間から仄かな明かりがゆれている。
御者を労い、コムフォートが遠ざかる様を見送った。
音を聞きつけたのか、玄関ドアから女性が顔を出した。
彼女は通いの使用人だった。
つまり叔父の遺体の発見者だ。
一体何時間待たせてしまったのか不安になる。
年配の女性を想像していたのだが、思いのほか若い。
私と同じ三十代半ばといったところか。
引き続き働きたい、と彼女は希望した。
「もちろんです。以前と同じように来てもらえると助かります。⋯⋯とても驚かれたでしょう?」
私は彼女を労わり、これは心付けだと言って封筒を握らせた。
「え、あら。いやだ。そんな。⋯⋯ええと、その、ありがとうございます」
組んだ指を開いたり閉じたりと、落ち着きなく動かす彼女。
「精神的負担が大きかったでしょうから、少し上乗せするのもやぶさかではありません」
「⋯⋯ポラーニ・ジタです。バラージュさん、よろしくお願い致します」
「こちらこそ。それと、マティアスで構いません」
「では、私もジタとお呼びください」
すでに闇が広がり始めている。
ひとまず口約束をし、念のために明日にでも契約書を交わす事にした。
「詳しい話はまた後で」と言うと、ジタは荷馬車で帰っていった。
私を待つ間にジタが軽い食事を用意していてくれたようだ。
有り難い。
腹を満たし、泥のように眠った。
翌朝早くに、馬のいななきで目覚めた。
十字に窓に打ち付けられた板の隙間から外を見る。
まだ薄暗い。
ジタがやって来たのだろうか。
玄関が躊躇なく開けられ、足音を立てて厨房へと歩いている。
使用人とはいえ勝手がすぎないか?
しかも、いささか早すぎるのではないだろうか?
私は叔父が使っていた私室の隣室から様子を窺った。
何となく叔父の部屋を使うことはためらわれた。
いずれ整理しなければ、と思う。
軽く身支度を整え、地下へと足を運ぶ。
やはり厨房にいたのはジタだった。
「おはようございます。ジタさん」
声をかけると、彼女は驚いて振り返った。
「おはようございます。お早いですね」
「いえ、あなたこそ。叔父とはそういう約束だったのですか?」
あ、とジタは口元に手をやり、首肯した。
「では、後ほどお話をうかがいます。今は調理の途中のようですから」
私はその場を後にした。
昨夜は何も考えず厨房にあったものをその場で口にしたが、食堂はあるのだろうか。
これだけ多くの部屋が存在するというのに、見た覚えがない。
不思議に思い、あらためて各部屋を回った。
叔父の部屋と私が使った部屋の間に、テーブルと椅子があった。
一度部屋の外へ出て他の部屋との距離を確かめた。
確かにドアとドアの間が他より広い。
テーブルの上にはクロスが敷かれ、食事はここでとっていたように見える。
しかし、叔父の部屋からしか入れないようだ。
夕べ使った部屋へは、あの小さな鍵付きの扉しかない。
鍵も探さねばならないが、這って出入りするのは戸惑いを感じる。
不便だと思うが、他にないのならしばらくは使うとしよう。
落ち着いたら別の部屋で食事が出来るように模様替えをすればいい。
ついでにもう一度ぐるりと回ってみたが、一階はどの部屋も同じだ。
意を決して二階への階段を上る。
両側に伸びた階段の先は壁。
左側の行き止まりの壁に手を触れると、少しの違和感。
コツコツと壁を叩く。
中央付近は空洞だ。
境目をなぞりながら押し込む。
ある一点ですう、と扉のように開いた。
中を覗き込み、左上に目を向けると暗闇に明かりが漏れていた。
手探りで中に入るのは、いささか危険を感じる。
ランタンか何かを都合せねばならないな。
そう思い振り返る。
階下に顔を向けると、ジタがこちらを見ていた。




