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第1話 就任式



 エレベーターの扉というものは、人の焦りに対していささか理解が足りない。こちらが「閉まらないでください、お願いですから閉まらないでください、いま閉まると私の研究人生どころか本日の祝辞の段取りまで吹き飛びます」と全身全霊で訴えている最中にも、金属の無表情を崩すことなく、規定どおりの速度で、きわめて事務的に、しかもほんの少しだけ意地悪く見える角度で閉じようとする。


 そのため、第六ビオトープ中央管理棟Bブロック第三昇降機の扉が、あと十センチもあれば無慈悲な接吻を完遂するという絶妙な局面に差しかかったとき、黒いスパッツに白い星形のマークがついた研究所用制服の少女が、長いツインテールを背後で鞭のようにしならせながら、ありったけの脚力と執念を総動員して滑り込んできたことは、扉の側からすれば完全に業務妨害であり、少女の側からすれば本日の自尊心を守るための正当防衛であった。


「開けてぇぇぇぇぇ……っ!」


 最後の一歩で床に靴底を引っかけ、右肩から突っ込むかたちで乗り込み、入った勢いのまま壁に手をついて踏みとどまり、ぜえ、はあ、ぜえ、はあ、と、もはや呼吸なのか機関車なのか判別しづらい音を立てながら膝に両手を置いてうずくまった彼女は、三秒ほどその姿勢で世界の終わりみたいな息を整えたのち、ふと顔を上げてエレベーター内の監視カメラが自分を真正面から見下ろしていることに気づき、反射的に背筋を伸ばした。


「……失礼しました」


 誰に向かって言ったのかは本人もあまり考えていないらしかったが、彼女はそう呟くと、胸ポケットから小さな手鏡を取り出し、額から流れる汗を手の甲でぬぐって乱れた前髪を真剣そのものの顔つきで整え始めた。そこだけ切り取れば、これから国際会議に出席する若き研究者というより体育祭のリレーを全力疾走したあとに片想いの相手と廊下ですれ違う女子生徒である。


 もっともこの施設では、職員がそういう顔をしているからといって普通の人間であるとは限らない。


 鏡の中の少女はふたつに結った長い髪の根元を確かめ、襟元を引き、制服の左胸に縫いつけられた白い星のエンブレムがまっすぐ見えるよう指先で撫で、最後に唇の端をきゅっと引き上げて、練習していたらしい「ちゃんとした人っぽい微笑み」を作ってみせたものの、その表情はどうも研究発表会の壇上に立つ優等生というより、叱られる直前の犬が「私は反省しています」と目で訴えるときの愛らしさに近かった。


「よし。大丈夫。落ち着いてる。いまの私は落ち着いてる。誰が見ても、ああ彼女は本日をもって新たな責務を担うにふさわしい、沈着で気品のある管理者だなって思う顔をしてる」


 カメラの前で自己暗示をかけるのは、一般に落ち着いている人のやることではない。


 しかも彼女は、その直後に自分の脇から漂ってくる潮と消毒液と汗の混ざった微妙な匂いに気づき、「うわ、ちょっと海獣っぽい」と眉を寄せて自分の袖に鼻を近づけ、そこで再び鏡をしまいかけた手を止めて、「いや、海獣っぽいのは比喩としてどうなの、私」とひとりで訂正していたので、就任式を目前に控えた新任の立場としては厳粛さの仕上がりに若干の不安が残る。


 第六ビオトープの職員であればその光景を見たところで別段驚きはしない。彼女が汗をかくことも、息を切らすことも、鏡を見ながら前髪の角度に真剣になることも、朝礼の五分前に食堂の海藻フライを三つ口の中へ詰め込んで看護班に怒られることも、この八年のあいだに飽きるほど観測されてきた。彼女は「人間」ではない。そこは記録上も、生物学上も、法務上も、そして本人的にも、いちおう明確である。だからといって彼女が人間らしくないかと問われれば、現場の大半は首をひねるだろう。研究者らは生態的分類と生活実感の不一致に慣れているものの、それでも彼女についてだけは、「限りなく人間に近い生物」などという曖昧な言い方をしたくなる。朝の機嫌が顔に出て甘い栄養ゼリーに目がなく、叱られると肩を落とし、褒められると髪の先まで嬉しそうに揺れる相手を、標本番号だけで呼び続けるほど人の心というものは合理的にできていない。


 彼女の名は、六号個体ミナモ。職員のあいだでは、ほとんどの場合、単に「ミナモ」と呼ばれる。第六ビオトープで八年にわたり研究補助員として勤務し、記録整理、試料運搬、観察支援、区画巡回、来訪者誘導、緊急時の封鎖補助に至るまで、驚くほど多くの仕事をこなし、そのうえ場の空気が悪くなると誰に命じられたわけでもなくお茶を淹れに行くという、妙なところで気の利く存在として定着していた。勤務評価は総じて高い。筆記は壊滅的、口頭説明は途中で話が横道へ逸れがち、規律の理解には年齢相応のむらがある、という難点があるにもかかわらず、同僚たちが彼女を信頼している理由は、観察対象と観察者のどちらの側にも立てる、その稀有な性質にあった。


 それが本日、就任式を迎える。


 第六ビオトープ運用補佐主任。正式な辞令の肩書はずいぶん長ったらしいが、要するに、管理職である。


 八年前、保護観察対象として登録され、研究区域外への単独移動すら許可されていなかった存在が、いまや第六ビオトープの中枢業務に関わる。そこだけ聞けば実に感動的で、国際海事機関あたりが好みそうな「共生の未来」とか「境界を越える知性」とかいう立派な標語の一つも掲げたくなる話である。当の本人はその記念すべき朝に寝坊したうえ、急いで髪を結い直したせいで左のツインテールだけ三センチほど高くなり、それを直している最中に栄養バーを咥えたまま居住区から飛び出して、途中で警備員に「食べながら走るな」と注意され、さらに階下の水圧調整廊下で反対方向の清掃ドローンに追い立てられ、結果として人類文明が発明した最も無機質な箱のひとつであるエレベーターに全身から必死さを噴き出しつつ飛び込む羽目になっているのだから、歴史というものはたいがい広報映えする場面だけで構成されているわけではない。


 昇降機は静かな振動とともに下降を始めた。表示パネルに並ぶ数字がゆっくり減っていく。B31。B32。B33。


 第六ビオトープ――通称“BLUE GARDEN”は、日本海溝南端に設置された海中研究拠点群のひとつであり、通常の海洋研究施設という言葉から人が想像する規模を礼儀正しく踏み越えてくる。海面下二百メートルの真光層に直径五百メートルの球体構造物が浮かぶように固定され、その内部に居住区、研究棟、培養区画、観察回廊、保安区画、中央演算室、医療室、食堂、運動施設、さらには小さな礼拝室まで収めている。球体外壁の向こうには海がある。壁越しとはいえ本当に海があるので、初めて着任した新人の多くは、廊下の曲面窓の先に青い水塊が広がるさまを見て感激するか、圧倒されるか、あるいは「逃げ場がない」という現実に気づいて静かに胃を痛めるかの三択を体験することになる。


 東京湾から専用潜水艦で移動できることになってはいるものの、気軽な通勤路線などという甘いものではない。乗船者はNIBBの職員、国際海事機関の関係者、あるいは相応の承認を受けた訪問者に限られ、乗艦前には生体認証、荷物検査、微生物検査、圧力適応確認、機密保持再誓約など、うんざりするほどの手続きを経る。訪問者の中には「この施設へ入る前にすでに二回くらい人生をやり直した気分になった」とぼやく者もいるが、その感想はだいたい正しい。海の中にある閉鎖研究施設へ入るということは、地上の常識をひとつずつ置いていく作業でもある。


 世界各地にビオトープは存在する。北極海域に氷圧適応型、インド洋深部に熱水圏特化型、大西洋沿岸に大規模医療転用型、地中海に国際共同監査型、南米沖に環境修復型。そのなかで日本国内には六つのビオトープがあり、第六ビオトープは、深海起源高適合性生体および境界知性体の観察・共存運用を主題とする、かなり癖の強い施設として知られている。癖が強いという表現は穏便すぎる、という意見もある。現場職員の何割かはもっと率直な言葉を使う。たとえば、「ここは頭のいい変わり者を海に沈めて増幅したみたいな場所だ」とか、「常識が配属希望を出してこなかった部署」とか、そういう感じである。


 B37の表示を見ながら、ミナモは深呼吸をして制服の裾を引き直した。今日の会場は中央管理棟下層の式典ホール。通常は予算説明会、国際監査報告、犠牲者慰霊式、功労表彰、問題のあった部署への超長い説教などに使われる部屋で、壁面全周が薄く発光する乳白色の樹脂板に覆われ、床は吸音性を優先した深い青、天井は球殻に沿って緩く弧を描いている。言ってみれば水族館と礼拝堂と企業研修会場を混ぜたような空間であり、そこに正装した研究者たちがずらりと並ぶと、厳粛さと居心地の悪さが絶妙な比率で同居する。


「よし、間に合う。間に合うはず。式辞の前に着ければ問題ない。いや、就任される側が就任式に遅れたら問題ないことはないけど、致命傷じゃない。たぶん。もしかすると管理職としての威厳にひびが入るかもしれないけど、私はまだ就任前なので、いまのうちは未来の私がなんとかしてくれる」


 未来の自分に責任転嫁する癖も、八年経ってなお改善されていない。


 扉の脇の小窓に、自分のツインテールがまだ左右非対称であることを見つけ、彼女はうっと小さくうめいた。鏡を出す。なおす。首を傾げる。反対側を引っ張る。さらにおかしくなる。あきらめる。結び目を整えただけで、いったん妥協する。自分の顔を見つめる。そこでふいに瞳の奥に、ごく薄く青い燐光が宿った。


 それは彼女の感情が高ぶったときに現れる、ごく軽微な生理反応だった。第六ビオトープの職員たちはその光を見れば、ああ緊張しているな、あるいは少し興奮しているな、と分かるくらいには慣れていた。最初に見た来訪者はたいてい固まる。二回目からは驚きと好奇心が半々になる。三回目くらいでだいたい慣れる。人の適応力というものは、時に信じられないほど雑に優秀である。


 ミナモは青く揺れた目元を見つめたまま、ほんの一瞬だけ真顔になった。


「……大丈夫。ちゃんと、できる」


 さきほどまでの独り言よりずっと小さく、ずっと素直な声音だった。


 彼女が第六ビオトープへ来た当初、周囲の扱いは慎重を通り越して腫れ物に近かった。観察対象であり、保護対象であり、研究協力者であり、危険性評価の対象でもある存在を、どういう距離で見ればよいのか、誰にも分からなかったからである。最初の一年は、記録。二年目で補助作業。三年目で巡回同行。四年目に夜勤訓練。五年目で外部監査対応の補佐。六年目には新任研究員の案内役を任され、七年目には封鎖警報時の避難誘導で二十八名を無事に退避させた。仕事が増えるたび、権限が増えるたび、彼女の肩書は少しずつ変わっていった。危険性評価表の注記も変わった。飼育、観察、協力、管理、準職員、職員補佐。そして今日、就任。


 分類欄だけが、いまだにきれいに収まらない。


 エレベーターの減速が始まった。足裏に伝わる制御の感触とともに、ホール前階への到着を告げる柔らかな電子音が鳴る。ミナモはぴんと背筋を伸ばし、深呼吸をひとつして頬を両手でぺちぺちと叩いた。いたって原始的な気合いの入れ方である。


「ミナモ、落ち着いて。今日の主役。半分くらい。いや三分の一くらい。上の人たちの話が長いから実際の主役はたぶん式次第の紙だけど、それでもちゃんと笑う。はっきり喋る。転ばない。噛まない。食べない」


 最後の一項目が混ざるあたり、この施設の職員教育は独自の苦労を抱えているらしい。


 扉が開く。冷えた空調と、ホール前ロビー特有の磨き上げられた床材の匂いが流れ込む。外にはすでに数名の職員が立っていた。制服姿の保安員、式典担当の事務官、花束らしきものを抱えた広報班の女性、そして白衣の上からフォーマルジャケットを無理やり羽織った中年研究員が、腕時計を見ながらあからさまに困った顔をしている。


 研究員はミナモの姿を認めるなり、安堵と呆れと諦念を一度に混ぜたような表情で言った。


「来たか、就任者」


「来ました!」


「走ったな」


「走りました!」


「髪が片方ずれてる」


「知ってます!」


「言い切るな」


 そのやりとりに、周囲の何人かが吹き出した。笑いは緊張を和らげる。就任式の前にはとくに有効である。おそらくその中年研究員も、その効果を見越していたのだろう。彼――第六ビオトープ主任研究官の相羽トシロウは、咳払いをひとつしてから、少しだけ声を落とした。


「いいか、ミナモ。今日は偉い人が多い。国際海事機関の監査官も、東京本部の理事も、第一から第五までの所長代理も来てる。変なことを言うな、という意味じゃない。おまえは普段どおりでいい。ただ、普段どおりの範囲を、今日はほんの少しだけ上品にしろ」


「普段どおりの範囲を上品に……」


「要するに、食堂の揚げパンの話を祝辞に入れるな」


「入れませんよ! なんで私が就任式の挨拶で揚げパンの話をするみたいになってるんですか!」


「前科がある」


 それは否定しづらかったらしく、ミナモは口をつぐんだ。相羽はため息混じりに彼女の襟を整え、左右の髪の結び目を見比べ、一瞬の躊躇ののち器用な手つきで片方を少しだけ引き下げた。研究一筋に見える男が驚くほど手際よくツインテールの高さを調整する光景は、どんな経緯でその技能を獲得したのか問い詰めたくなる種類の不可解さを含んでいたものの、周囲は誰も突っ込まない。第六ビオトープでは説明に困る技能が一つや二つあっても、たいして珍しくないからだ。


「これでよし」


「ありがとうございます、相羽さん」


「礼は、無事に終わってからにしろ。おまえが台本どおりに挨拶できたら、こっちが礼を言いたい」


「そんなに信用ないですか?」


「ある。あるから余計に心配してる」


 その言葉にミナモはぱちりと目を瞬いた。冗談と本音が半分ずつ混じった声音だった。彼女は少しだけ口元をゆるめ、それから、見えないものを飲み込むみたいに小さく息を吸った。


 ロビー奥の扉の向こうから、式典開始五分前を告げるチャイムが鳴る。低く、やわらかく、海のなかで鳴らすには妙に整いすぎた音色が、丸い天井に沿って静かに広がった。


 球体都市BLUE GARDENの外には、青い海が満ちている。海のさらに下には、光の届かない深みがある。もっと下には、地上の論理が及ばない何かが眠っている。世界はそれを研究資源と呼び、医療の希望と呼び、新人類時代の扉と呼び、ある者は怪物の種と呼ぶ。そんなものの近くで八年働いてきた少女が、今日ひとつの辞令を受ける。


 ひどく個人的で、ひどく制度的で、少しだけ滑稽で、そしてたぶん、この海の底では誰も予想していないほど重大な朝だった。


「行くぞ、ミナモ」


「はい」


 彼女は返事をして、式典ホールの扉へ向き直った。その横顔にはさっきまでの慌ただしさがまだ少し残っていて、それでも目の奥の青い光だけは、深い水の底で磨かれた鉱物みたいに静かに澄んでいた。


 就任式が始まる。

 もちろん、この日この時間、この小さな一歩が、のちに第六ビオトープの運命をどれほどややこしく、騒がしく、取り返しのつかない方向へ引っぱっていくのかについては、扉の前に並ぶ誰ひとりとしてまだ気楽な顔で笑っていられたのだけれど。


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