八 動乱の始まり
飽き飽きとした苦痛の日々が懐かしくて。
小さな光は闇に呑み込まれていく。
暗闇の中で彼女は手を伸ばす。
心が再び切り刻まれていく。
目を閉じても、耳を塞いでも逃げられなくて。
絶望の中で彼女は涙を流す。
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「盾役を前面に配置しろ!」
「弓をもっと用意するんだ!」
冒険者ギルドには怒号が飛び交っていた。
食堂は臨時の処置室となっており、くっつけられた机の上で負傷者が白魔術師の手当てを受けていた。
「これくらいの傷なら何てことはない!諦めるな!」
「早く解毒してやってくれ!」
「保管庫からポーションをありったけ持ってこい!このままでは間に合わんぞ!」
副ギルドマスターのローレンスはその喧騒の中を器用にかいくぐりつつ、目当ての人物のところに向かう。
「やあ、ジェイ」
「……副ギルドマスター。他の皆は?」
「手当てを受けている。さあ、何があったか説明してくれ」
「無事なのか?」
「君が気に掛けるべきことは、この事態に陥った原因を説明することだ。でないと、もっと多くの負傷者が出ることになる」
ローレンスの普段とは全く違う冷たい口調に、ジェイは痛む身体を無視して身を起こす。
「……すみません。俺達は気になったんです。この前のここの封鎖が」
「……」
「ソロで動くキャサリンが、誰かを運んで帰ってきたのが気になったんです。ここ最近は行方不明者がいなかったし、他にソロで動く奴もいやしない。何かあるなと思いました」
「それで誰も手を付けていない眉唾物の依頼を隠れ蓑にして動き回っていたのか」
「……もう上に振り回されて仲間を失いたくなかったんで」
「……スタンピードの時は自分も同じ冒険者だった。気持ちは分かる。だから敢えて何も言わなかったんだ」
「そう聞いていたとしても俺達は動いていたでしょうね。いや、スタンピードを知ってる連中なら全員そうしたでしょう」
ローレンスの肩が少しだけしぼむ。だが、すぐに気を取り直すと、ジェイをじっと見つめる。
「その話は後だ。君達は一体何を見つけ、何を呼び起こしてしまったんだ?」
「……地獄そのものです」
その表現にローレンスは息を吞む。目の前にいる歴戦の冒険者が心底震えているのがよく分かったからだ。
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四時間前。
ジェイ達は魔物領踏破ラインのギリギリを調査し続けていた。
数日前のギルド封鎖事件に何か危険なものを嗅ぎ取ったジェイは、その正体を調べる為に魔物領へと出向いている。
あの時駆け込んできたくらいなので、キャサリンの痕跡はすぐに見つけることができた。傷口から垂れ続けていたのか血痕がそこかしこに残っていたし、足跡も辿りやすかった。
不自然なのは、それらが踏破ラインの先にまで続いていたことだ。
単純に、魔物領は奥へ行けば行くほど危険度が高まる。それ故に踏み込める範囲は非常に限られていた。
それなのにソロパーティーのキャサリンは踏破ラインの先にいたらしい。それだけでなく、そこから誰かを連れて帰ってきていたのが不気味で仕方なかった。
本当は今すぐにでも踏破ラインの先にまで踏み込みたかったが、安全の確保を最優先してラインギリギリを調査している。
「チッ。面倒だ……!」
リズが苛立たしげにファイアウォールを放って、見境なく迫ってくる魔物達を足止めしている。
最初は周りの木々を倒してバリケードを作るつもりだったが、人では越えられない高さを彼らは平気で越えてくるので、視界の確保も兼ねて辺り一帯に火を放っている。
「その蜂を倒したらしばらくは大丈夫そうだ」
ザッカリーが目を凝らす。彼の斥候としてのスキルはかなりのものだった。
「じゃあ、後は私が引き受ける」
炎の壁の向こうでこちらを伺っている蜂の魔物に向かって、カーラはウィンドブレードを放つ。殺傷力が格段に上がった風魔術は蜂の魔物を容易く切り裂いた。
「お疲れ様」
「この辺りになるとさすがに骨が折れるわね……」
「ごちゃごちゃ言ってないで早く代わんな。いい加減、限界なんだ」
普段は憎まれ口で返すカーラも素直にリズの場所へと向かう。ここでは一切の気のゆるみや油断は許されなかった。
「この辺り一帯を焼き払ったおかげか、魔物達も少しは警戒して動けないようだ」
気配を探ったザッカリーが安全を宣言する。束の間とはいえそれはメンバー達に心の平穏を与えた。
「その代わり痕跡も消し飛んだけど」
「問題ない。この先に痕跡が続いているのは確実だ」
そう思う一方で、これだけの痕跡が残り続けていたことに不信感を抱いているのも事実だった。
ジェイは足元に残る痕跡を改めて見つめると、キャサリンと思しき存在の動きを頭の中で思い描いた。
森の奥に進む中でその存在は何度も後ろを振り返っている。それが段々とギルド方面に近付くにつれ、振り返らずそのまま走っていた。
それが不思議で仕方ない。
キャサリンのようなソロの冒険者は、どれだけ拠点が近くにあっても決して背後の警戒を怠らない。咄嗟の事態に危険を訴えかけてくれる仲間がいないからだ。
だからこそ、いくら危険度が下がるとはいえキャサリンが後ろを振り返らなくなった理由が気になった。
「なあ、ここに来るまでに何か魔法か魔術かが使われた形跡はあったか?」
「え?そんなものはなかったけど?」
カーラが訝しげに答える。彼女はちょうど腰にぶら下げた水筒に手を伸ばすところだった。
その時、猛烈な腐臭が辺りに漂ったかと思うと、カーラが悲鳴を上げた。見れば彼女の右腕がざっくりと切り開かれている。
「そんな!敵はいないはずなのに!」
珍しくザッカリーがうろたえる。そんな彼をリズが叱咤する。
「ぼさっとすんじゃない!カーラを援護するんだよ!」
そう言うとリズは先程と同じくファイアウォールを三方向に張り巡らす。
「さあ、今の内に来た道を引き返すよ!」
呼びかけるリズの背後に影が現れる。それを目に留めるや否やジェイは身をひるがえし、大剣をその影に振り下ろした。
「ピギィッ……」
地面に落ちた自身の右足を見ながら苛立たしげにその魔物は鳴いた。
「カマキリなのか?」
強いて言うならばそれはカマキリだった。だが、その身体には複数の魔物の特徴が表れている。
顔と前足はカマキリそのものだが、背中の辺りにはカラスを思わせる大きな黒い羽が付いている。また、足はまるでシカのように細く、強靭だった。そして全身はきらきらと虹色に輝いている。
カマキリらしき魔物は器用に切り落とされた足を拾うと、それを無理やり切断箇所にくっつける。
肉が押しつぶされる音がするのと同時に、悪臭が強まりメンバー全員は吐き気に襲われた。
「この野郎、死んでやがる!」
ジェイの支離滅裂なその言葉に異議を唱える者は誰一人としていなかった。
相手がそもそも死んでいれば、ザッカリーの探知スキルが反応しなかったのも当然のことだった。
「なら焼き払えば良いだけだろ!」
リズはファイアウォールを相手にぶつけようとするが、その魔物は翼を広げたかと思うと一気に上空へと飛び立った。
「退くぞ!」
ジェイの号令で全員は走り出す。
「急いで森の中へ入れ!このままじゃ狙い撃ちだ!」
ザッカリーが叫んだ。
ジェイ達は視界の確保と奇襲攻撃の対策として、半径三十メートルほどに渡って周囲を焼き払っていた。
彼らにとってその程度の距離を走り抜けるのは造作もないことだが、今に限ってはすぐ先に見えている森の端がひどく遠いところにあるように感じられていた。
懸命に走る彼らの周囲が突然薄暗くなる。巨大な影が迫ってきていた。
「ガスト!」
カーラが上空に風魔術を放つ。瞬時に巻き起こった突風が影を直撃し、動きを鈍らせる。
それでも魔物の鎌のような前足が彼らのすぐ近くに振り下ろされた。近くにいたリズは衝撃の大きさに驚き、目を見開いたものの、足を止めることはなかった。
「助かったよ、カーラ!」
「お礼は後だ!また来るぞ!」
カマキリのような魔物は腐敗臭をまき散らしながら、再び鎌のような足で攻撃を仕掛けてくる。ジェイは腰元のナイフを投げつけて、その攻撃をにぶらせた。
だが、その防御によって一瞬だけ動きが止まる。その隙をついて魔物はナイフではじかれた前足を横薙ぎに振るう。
普通ならそのような動きはできない。だが、死んでいるからこそ痛覚もないのだろう。関節が千切れるのにも構わず、魔物は大胆に足を振るった。
眼前に迫る切っ先にジェイは死を覚悟するが、斬られるのとは別の衝撃を受けてジェイはもんどりうって倒れる。自分の上に何かが乗っかっているので息が詰まりそうだった。
「ザック!」
カーラの叫び声と共に、凄まじい突風が巻き起こる。ジェイはとっさに目をかばった。
「しっかりしな!」
リズの声が聞こえたかと思うと、体にのしかかる重みが軽くなる。
「ジェイ!アンタはザックを運びな!」
リズは怒鳴り声を上げると、カーラに加勢した。大きな炎の壁が、突風にあおられて一段と大きくなる。
ジェイは無言でザックを抱えると走り出す。左肩にかかる体重よりも、そこから流れ出てくる赤い液体がジェイの心に重くのしかかった。
「死ぬなよ、ザック!」
「……気を付けろ。お客さんだ」
背中に横一文字の大怪我を負いながらもザッカリーは探知スキルを使っていた。
「十一時の方向に二つ……」
ザッカリーの指示に従って、ジェイは自由に使える右手からナイフを投擲していく。デビルウルフが二頭、額にナイフを受けて倒れ込んだ。
「二人とも森に入ったよ!」
リズがジェイに呼び掛ける。だが、その隣でカーラが苛立たしげに叫んだ。
「当分諦めてくれなさそう……!」
カマキリのような魔物は全身を黒焦げにしながらも、その歩みを止めることはなかった。半分ちぎれた左側の翼を自らむしり取ると、前足まで使って四人を追いかけてくる。
そこからは地獄絵図だった。
カマキリのような魔物は、立ちはだかるものは全てなぎ払ってまで追いかけてくる。その刃が魔物を捉えることは何度かあったが、それらは全て魔物が進路上に飛び出したからで、同士討ちは見込めそうになかった。
他の魔物達はザッカリーとカーラから流れ出る血液の臭いを追い求めて、次から次へと姿を現す。
カーラは敢えて、切り裂かれた右腕を振るうことでそこら中に血をバラまいた。その血を浴びた魔物に他の魔物が襲い掛かる。そこに敵味方の区別はないのだろう。相手が同種であっても見境なく爪を立て、牙を食い込ませていく。
阿鼻叫喚の惨劇が繰り広げられる森の中をジェイ達はがむしゃらに走り続けた。だが、その中で彼らは少しずつ傷を負い、それによって新たな魔物達が次から次へと顔を出す。
冒険者達が普段活動しているエリアまで四人がようやくたどり着いた時、彼らを見つけた冒険者達は息を吞む他なかった。
リズの左腕にはデビルウルフの牙が深々と刺さっており、左肩は脱臼している。カーラは右腕から血を流しているが、それ以上に全身の皮膚がうっすらとした紫色の斑点にむしばまれつつある。
ザッカリーは既に目を閉じており、力なく両腕をだらんと垂らしている。わずかに背中が上下していることから、息をしているのがかろうじて分かる状態だった。ザッカリーを抱えるジェイは背中一面に様々な傷を負っていた。
「大丈夫か!?」
「負傷者だ!近くのパーティーに緊急用の合図を送れ!」
手順通りに対応する冒険者達に、しかしジェイは力なく告げる。
「……今すぐ逃げろ。魔物達が追ってきている……。新種もいる……」
その言葉に冒険者は息を吞むが、すぐに表情を改めるとジェイ達が出てきたばかりの森に向かって様々な魔術を浴びせかける。
土の壁が生まれ、木々は風の刃で切り裂かれる。それらをバリケードにして時間を稼いだ。
「急いでここから離れよう」
リーダーらしきその冒険者は仲間に告げると、自身はジェイに手を貸してその場から離れる。
彼らの背後に、魔物達の遠吠えや鳴き声がこだました。
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「死骸が……。馬鹿な。そんなことが……」
ジェイの報告を聞いたローレンスは青ざめる。帝国の死霊術士はメアリーだけではなかったらしい。
ローレンスは近くにいたギルド職員を捕まえると、転移魔法陣で王都に向かうよう厳命する。偶然近くを通りかかったギルドマスターはすぐに状況を察すると、自室へと職員を案内する。
ギルドマスターの機転にローレンスは束の間安堵するが、すぐに重苦しさに身を包まれる。
その様子を見ていたジェイが声をかける。
「さっきの伝言ですが、一体どういう意味なんですか?あれを開くことになるかもしれないとかなんとか言ってましたが……」
ローレンスは少しの間ためらったが、意を決して話す。
「正直その正体は私も知らないのです。ただ、最悪の事態が降りかかった時はそれを開けねばならない。そしてそうならないように死力を尽くす必要がある」
何とも言えない重苦しさに顔をしかめつつ、ローレンスはジェイに向き直る。
「さあ、皆さんの様子を見に行きましょう。そろそろ手当も済んでいる頃かもしれない」
「はい……」
わざとらしい話題の変え方に何とも言えない感情を覚えたが、自身も仲間の容態が心配だったので、それ以上は何も言わずにローレンスの後を追いかける。
だが、心の中でジェイは一つの疑問にずっと向き合っていた。
ローレンスが怯えるほどの封印の正体とは一体何なのか?
散発的に現れる魔物達によって傷ついた冒険者達の治療と、防衛線の構築とで怒号が飛び交っているギルド内部を歩いていても、その疑問がかき消されることはなかった。




