一 魔物領に蠢くのは
少し前まではところどころ空から降り注いでいた日差しも、森の奥に足を踏み入れてしばらくも経たないうちにぱったりと姿を見せなくなり、今や辺りはすっかり闇の世界へと落ち着いている。
視覚が利かない世界では、他の感覚が過敏に反応する。奇妙なうなり声がそこかしこで聞こえ、血と汗の臭いが辺り一帯に立ち込めている。
そして充満している殺意。そこではあらゆる魔物が等しく他の存在に対して殺意をみなぎらせていた。
その中をジーナ・ローリーことキャサリン・ブラッドリーは黙々と進んでいく。
彼女の全身は早くも血と泥が混じったもので汚れている。だが、それは全て敵のもので、彼女自身は無傷だった。
今も目の前にデビルウルフが三頭、人の背丈ほどある茂みの奥からこちらを見据えて潜んでいる。濃密な殺意さえ抑え込むことができていたら、恐らくキャサリンはそれらの存在に気付くことはなかっただろう。
その場からの跳躍だけで襲いかかってくるデビルウルフ達に向かってキャサリンは、まるで布を引き裂くかのように剣を一閃する。
デビルウルフ達の身体がキャサリンのそばに転がり、少し離れたところに三つの首が落ちた。
それを見やることもなくキャサリンはデビルウルフ達がいた茂みに駆け込み、息をひそめる。
その数秒後にはどこからともなく現れた巨大な蛇が、デビルウルフ達の死骸を丸のみにする。だが、モンスター映画に出てきてもおかしくない程の大きなその蛇に、これまた巨大な蜂の群れが毒針を刺そうと襲い掛かる。
そこに他のデビルウルフ達が現れ、蛇も蜂も関係なくその牙を突き立てようとする。
目の前に広がっているのは地獄だった。
血で血を洗う過酷な生存環境だからこそ、そこに人などが踏み込むことなどできない。
かつては魔物領の開拓が遅々として進まないことに不満を抱いていたが、自身が冒険者になってみるとその理由がよく分かる。
キャサリンは殺戮の現場からそっと立ち去ると、更に奥へと進んでいく。
「キャサリン・ブラッドリー。いや、敢えて呼ばせてくれ、ジーナ。僕は今からあなたに死地へと向かうように伝えなければならない」
数日前に冒険者ギルドの隠し部屋に呼ばれた時のことをキャサリンは思い出す。その際のローレンスの表情はかつてない程に暗く、沈んでいた。
ローレンスは羊皮紙を取り出すと、それをキャサリンに差し出した。
「デーモンスパイダーの生息場所の痕跡を発見、調査せよと……」
「ああ。帝国が魔物を操っている可能性が極めて高いそうだ。信じられない話だが、ゾーイのチームが実行犯を尋問し続けてようやく掴んだ情報だ。信憑性は高いだろう」
「では、去年のデーモンスパイダーの件も?」
「兄やゾーイ達はそうだと見ている。デーモンスパイダーすら帝国側の差し金だったとすれば、彼らへの対応も直ちに変えざるを得ない」
理性などなく純粋に血と暴力に飢えた存在だからこそ、それらが万が一組織化されたとあっては、今まで通りの冒険者ギルドを中心とした水際作戦では太刀打ちできなくなるだろう。
かつてのスタンピードですら王国に深い爪痕を残したのだ。強制的にせよ組織化された魔物の群れによる襲撃は、一国の軍事力をはるかにしのぐ大きな災いとなって王国をいとも簡単に押しつぶすだろう。
「お話は分かりました。早速準備に移ります」
キャサリンは羊皮紙を丸めるとローレンスに返す。だが、羊皮紙ごと彼女の手を掴むと、ローレンスは強い眼差しを向ける。
「今から話すことは個人的な命令になる。くれぐれも命を捨てないでくれ」
「ご安心ください、殿下。無茶なことはしないとお約束します。死んでしまっては結果を持ち帰ることもできませんから」
いたずらっぽく笑うキャサリンだったが、変わらぬローレンスの真剣な顔つきに表情を改める。
「良いかい?君はもう冒険者として新たな人生を歩んでいるんだ。確かに罪を犯したかもしれないが、充分にその罪を贖っていると断言できる。
過去に縛られて命を捨てようとするな。絶対にだぞ」
「殿下……」
キャサリンは胸を打たれる。その様子を見たローレンスはほんの少しだけ安心するが、彼女のように責任感が強いタイプはその想いに全力で答えようとすることを知るにはまだ若すぎた。
「自分はとっくの昔に王位継承権を放棄しているよ。そのことを今回ほど後悔したことはないけれどね。
でも、副ギルドマスターとしてできる限りのサポートはするよ」
そう言うとローレンスは壁一面に置かれた本棚の一つに歩み寄る。そして何か仕掛けを動かすと、そこに一人が何とか通れるくらいの小さなスペースが現れる。
「ついてきてくれ」
ローレンスに連れられてそのスペースに入ったキャサリンは、その奥が一つの部屋になっているのを目の当たりにした。
「ここに置いてあるものを全て貸し出そう。好きなものを好きなだけ持っていくが良い」
そこでは王城の宝物庫に匹敵する程の貴重な品々が大切に保管されていた。
「いくらなんでもこのような価値あるものを……。余りにも恐れ多いです」
「言ったはずだよ。貸し出すって。しっかりと返してくれたらそれで良いよ」
「ですが、これは極秘任務です。こちらの品々を動かしたとあれば他の副ギルドマスターやギルドマスターその人に知られてしまうのでは?」
「その時は王室の威光を借りることにするよ」
そう言うとローレンスは再び真剣な表情に戻った。
自分のことを本気で考え、心配してくれている人がいる。その事実がキャサリンを危険に満ちた森の奥へと送り出している。
とはいえ、全容も掴めていない広大な森の中で危険をかいくぐりながら、一年前の災害級の魔物の住処を探し当てるのは容易ではなかった。
一応、当時のデーモンスパイダーの侵攻進路などから照らし合わせることでおよその目星はついているが、そこに至るにはまだ時間がかかりそうだった。
キャサリンは自分の体力と物資の残りを素早く計算し、このまま進むのか、それとも一旦休むのかを決断しようとする。
その時、後方から小さな羽音が近付いてくるのを彼女の耳が捉えた。
考えるより早くキャサリンは前に駆け出す。音の種類と方向からして先程の蜂だろうと見当を付けつつ、前から跳びかかってくる鋭い角を生やした兎を斬り捨てる。
その死体に蜂達が興味を持ってくれることをキャサリンは期待したが、どういうわけか羽音は止まらずキャサリンを追い続ける。
キャサリンは軽く舌打ちすると、左手を後ろに向けてそこから風魔法を放つ。魔法や魔術は魔物の関心を惹きやすいので余り使いたくもなかったが、そうは言っていられない程に後方から迫り来るものの脅威度は増している。
実際、その見立てに間違いはなかったことをキャサリンは実感する。後方でやけに硬い音が鳴り響いたが、それが結界魔法によって自身の風魔法を防がれたことによるものだと気付くのにほとんど時間はかからなかった。
キャサリンは覚悟を決めると、剣を振るう準備に移る。振り向きざまの一太刀で致命傷を与え、かつ自分の存在に気付いているであろう他の魔物達への牽制も行わなければならない。
夥しい気配の中から確実に脅威になるものを選び、それに対する挙動を瞬時に把握するとキャサリンは最初の行動に移った。
振り向いた彼女の瞳に映る敵の姿は蜂などではなかった。
背中から生やした翅は全身に程近い長さで、それを器用に動かして身体を浮かせている。だが、その身体は虫のそれではなく、奇妙なことに人間の体と変わらなかった。
しかし一番キャサリンの記憶に焼き付いたのは、相手の顔だった。ヒト型の身体でありながら、頭の部分は昆虫のそれとしか言いようがなかった。
この異様な存在の姿をキャサリンは見たことがなかった。だが、彼女が後もう少しだけ長く前世での生活を過ごすことができていたら、目の前の存在の正体に近い都市伝説の発生を知ることもできていたかもしれない。
そしてその時には、彼女はこの相手の名称をこう口にすることができただろう。
モスマンと。
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チャールズ・ベイトソン特別捜査官はいつものように地下の牢獄へと足を踏み入れる。
石造りの廊下は湿気を多く含んでおり、チャールズの額に大粒の汗が浮き上がる。
目の前にある大きな扉は相変わらず頑丈で、魔力を注ぐことでようやく開け閉めができるようになる。
チャールズはほんの少しだけため息をつくと、魔力を流し込んだ。
奥には相変わらず巨大な立体魔法陣が展開しているが、その前にはいつかの時と同じく先客がいた。
「何をしている」
チャールズは彼女の名前を呼ぶことなく、尋問口調で問いただす。
「それはこっちのセリフ。何をしに来たの?」
かつての相棒であるパトリシア・テイラー特別捜査官は、一歩踏み出すとチャールズを睨みつける。だが、チャールズは我関せずといった様子で魔法陣に手を伸ばす。
それを自身の身体で防ぎながらパトリシアは再び尋ねる。
「ここには何をしに?もう彼女から聞けることはないはずよ」
「本当にそう思うのなら現場から離れろ」
ぞんざいに言い放つとチャールズは強引に魔力を流し込む。魔法陣は一瞬緑色に光り、チャールズはそこをくぐり抜けた。
鉄格子の奥では女が衰弱した様子で地面に伏していた。その瞳にはほとんど生気がなく、やって来たチャールズの方を見やることすらできなかった。
「随分と落ちぶれたものだな」
そんな相手にチャールズは冷徹に言い放つと、後は黙り込んだままジッと観察し続ける。
遅れて入ってきたパトリシアはチャールズを制止しようと慌てて駆け寄るが、その様子に驚き、何も言わずに見守ることしかできなくなった。
実際は五分程度だが、体感時間では三十分以上女を観察し続けるチャールズにパトリシアは不気味さを覚える。何の意図があってそんなことをしているのかが分からなかった。
遂に耐え切れなくなったパトリシアがチャールズを問いただす。
「ねえ、どういうことなの?」
「おかしいと思わないか?」
「え?」
チャールズは顎をクイッと動かして、パトリシアの視線を誘導する。そこには一日に二回出される食事が手つかずのまま置かれていた。
パトリシアは食器の数を数える。それらはほぼ五日分であることを指し示していた。
「自殺しようとしてるの?」
「いや、六日目には手を付けるらしい。だが、一日分だけだ」
「一体なんでそんなことを?」
「さあ。その答えを知りたいんだがね」
チャールズの目的を知れてパトリシアは内心ホッとした。女の自供が取れて、その裏付けも取れたにもかかわらず、チャールズが時々ここに来ていることをパトリシアは知っていた。
かつての相棒が、また不当な手段に訴えようとしているのではないかと恐れたパトリシアだったが、それが杞憂に終わったことを心の中で喜んだ。
その一方でチャールズと同じ興味を彼女に抱く。どういった目的ないし理由があるのかが純粋に気になった。
「やはり誰かが近くにいると手を出せないか」
チャールズは小さな声でつぶやくと、その空間を後にする。呆気にとられたパトリシアは慌てて彼の後を追った。
「ちょっと、結局どういうことなの?」
「まあ、ちょっと待て」
魔法陣をくぐり抜けたばかりなのにチャールズは再び魔法陣に魔力を流し込むや否や、その先へと走り出す。
そして鉄格子の前に戻ると、ジッとその奥を見つめた。
「いい加減説明して。さっきから何なの?」
「すぐにフランクへ連絡しろ。帝国は死霊術を実現させていると」
その言葉にパトリシアは耳を疑った。死霊術は錬金術の中でも特に実現不可能なものとして認識されているからである。
そもそも、不老不死を与えたり黄金を生み出したりするという賢者の石自体が錬金術の中でも至高の存在とされており、その実現可能性はごく僅かであるという意見とあり得ないという意見とが長らく対立していた。
それ故に、死者に新たな命を与えてアンデッドとして使役するという死霊術は夢物語の一つとして軽視されていた。
「それは本当なの?」
「よく見ろ。こいつは時間をかけずに全てを食べ尽くしている」
よく目を凝らすと、空になったばかりの器は綺麗に何も残っていなかった。
相変わらず女は生気のない表情だが、口元には僅かに食事の後が残されている。
「臓器を含めてもう限界なのか、そもそも前から機能していなかったのか。いずれにせよ食事を食べるのではなく、そのまま飲み込むことでこちらの目を欺いていたのだろう」
「そんなこと……」
あり得ない。意味がないと言いかけてパトリシアは言葉を呑み込む。
一日分の食事を三十秒にも満たないこんな短時間で食べ尽くすのは不可能だ。どこかに隠している可能性も考えられるが、そんなことをする理由もないし隠せる場所もなかった。
「この女もホムンクルスの要素を多分に引き継いでいると思っていたが、どうやらこいつ自身が死霊術で生み出された存在だったようだ」
その言葉に女は何の反応も示さなかったが、生気がなかったはずのその瞳には深い憎しみが込められている。その視線をチャールズに向けているのが、何よりの証左だった。
「もう一度事件を洗い直すぞ」
チャールズは吐き捨てるように言うと、今度こそその空間から歩み去る。その後ろ姿をパトリシアはただ追いかけることしかできなかった。




