わしは夢の管理者、エレだ
なんだ、と伊武輝はほっと息をなでおろした。
バクは大きくゲップをして、膨れ上がったお腹からガスを排出した。すると元のお腹に戻った。
「そんなこんなだけど、ほら、着いたぞ」
伊武輝は視線を前にやるが、しかしそこには何もなかった。伊武輝たちのいるところを中心にして、半径数百メートルの円を描いたような範囲内には、夢一つなかった。
宙に浮いているバクは着地し、ひざまずいて姿勢を低くした。マナもそれに合わせて頭を下げ、伊武輝も慌ててひざまづいた。
「夢喰いバク、ただいま戻りました」
すると、周りに霧が発生した。目の前が全く見えず、足元しか見えない。
それでも目を凝らすと、霧に影が映っているのがわかった。人間の腰くらいの大きさの影が話しかけてきた。
「還ったか。マナも一緒だな。そして、ふむ、これはなんと……」
霧の向こう側から、だいぶ声が老けているが、それでも毅然たる態度が感じられた。長ということもあって、年相応の年季が入っている。
「そうです。ついにこの時が来てしまいました」
バクがそう言うと、霧がすーっと速やかに晴れてきた。影が薄くなるにつれて、その形がどんどん大きくなり、見上げる伊武輝の首もまた徐々に反れていく。
伊武輝は頭を目一杯に上げた。伊武輝たちの前に現れたのは、なんと、人の三倍くらいの大きさの象だった。伊武輝を踏み潰そうと思えば、いともたやすくできるであろうその巨体に、伊武輝は唾を飲んだ。
象は頑強な座椅子に腰掛け、肘掛に前足を添えていた。前に大きく突き出ている象牙は、いともたやすく体を貫いてしまうほど鋭利だ。
「厄災をもたらすか、否か。それはわからんが、止む終えん。人間よ、わしは夢の管理者、エレだ。そして長も務めている」
「弘坂伊武輝と申します」
余計な無駄口は言わずに、伊武輝はできるだけ丁重に簡潔に言った。その方が好印象だろうと、彼はそう思ったのだ。
ふむ、とエレは相槌を打ち、象牙を掻きながらマナに気を止めた。
「さて、まずは人間のことよりも、忘れぬうちにマナから始める」
名前が出ると、マナはエレの前まで歩き、ちょこんと座った。
「マナの行い、しかと見届けたが、人間を連れ出すという禁忌を犯した。本来なら償うべきだが、熟慮の結果、マナには一つ呪いを負うこととした」
伊武輝はマナの後ろ姿を見届けた。元気がなさそうに尻尾が地にペタリと着き、耳も垂れ下がっている。
「すなわち、マナの存在が皆から忘れられ去られてしまうと、マナは死ぬという呪いだ。マナは異を唱えることはできるが、異論はあるか?」
こん、とマナは小さく鳴き、かぶりを横に振った。
マナは重く受け止めているようだけど、大した呪いじゃないな、と伊武輝は思った。呪いと聞いてなにか恐ろしいことが起きると想定していたが、ここにいるバクや、エレは絶対に忘れないだろうし、他にもいっぱいいるだろう。人間を夢の世界に連れ出すこと自体、実はそんなに大げさなことじゃないのかもしれない。
「では、これを以って、マナに魔法をかける。じっとしておれ」
エレは座ったまま、長い鼻で羽ペンを持ち、宙に文字を描いた。しかし、日本の文字でも、外国の文字でもない、今まで見たこともない字体で滑らかにペンを走らせていた。文字列は紫色に怪しく光っていて、呪いそのものを感じる。
書き終えると、文字列は宙を漂わせながらマナの脇腹あたりにすっと入り込んで消えた。マナにとりわけ変化がなく、反応もない。
マナは呪いを体に刻んでもらうと、低姿勢のまま立ち上がってその場から引き下がった。
「しかしマナ、なぜこの男を引き連れてきたのかね?」とエレはマナに声をかけて呼び止めた。「自力で到達するほどのちからの持ち主ならまだしも、数多いる非力の人間の一人に過ぎない」
「お言葉ですが、マナは悪夢に取り残された人間を救いたいが故に行動を起こしたのだと思われます」
バクはマナの代理役となって説明をした。聞いたエレは残念そうにため息を吐いた。
「知っておろう。悪に侵された夢はもうどうしようもない。バクに飲み干してもらう他ないのだ。悪に侵された夢は人に乗り移る。幸い、伊武輝は侵されてないようだが、悪に誘惑されるような心を持ち主は生き延びれん。救済しても、救助された者に強い意思がなければ無意味なのだ」
本人の前でよくもまあ喋ること、喋ること。言いたいことがふつふつと湧き上がるのを感じながらも、伊武輝はなんとか理性で蓋をした。
エレはじっと伊武輝を目で捉えた。
「どちらにせよ、言い伝えによると、人間の侵入が破滅の始まりを意味すると言われている。突発的なものだと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。時の流れる量が一定まで満たされると、破滅が来るのだろう」
「私めもそう思っております。ただ、気がかりなことがあります。主も知っているでしょう、夢の変異についてです」
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