第5話 お願い
生物部の部室は、今は授業で使われていない生物第2教室を使っている。
生物第2教室は、理科系の教室が集まる理科棟にあり、各学年の教室が入る普通科棟からだと少し距離がある。
途中文化棟を通る時は聞こえていた部活をしている生徒の声も、渡り廊下を進み理科棟に入った頃にはほとんど聞こえなくなっていた。
高校の敷地の端に建つこの理科棟は、おそらく一番静かな場所である。
その事も、壮亮が生物部に入部した理由の一つだ。
「で、一体何の用ですか?」
辺りが静かになったところで壮亮が尋ねた。
顧問の春日先生は、教室で壮亮を呼んだ後は何も話さず壮亮の二歩前を歩いていた。
FGはおろかSGも公表していない中性的な容姿の春日先生は、小柄な体格も相まって壮亮と並ぶと妹か弟のようにしか見えない。
生徒の中には、そんな春日先生を軽んじてタメ口やちゃん付けで呼ぶものもいるが、壮亮は入学してからずっと敬語を使い続けている。
「用があるのは、私ではないんだ」
容姿と同じく、女性とも男性とも取れる声で春日先生が呟く。
ちょうどそのタイミングで、二人は生物第2教室の前に着いた。
教室の標識は、生物第2教室と書かれた札の上に手書きで生物部と書かれた髪が貼り付けてある。
変色した髪とセロテープが、それが貼られてから過ぎ去った長い年月を教えてくれている。
「まぁ、見れば分かるから」
そう言って春日先生は生物部の扉を開けた。
生物部の部室は元々授業で使われていた関係でかなり広い。
だが、生物部の部室となる前は物置とかで使われていたために教室の後ろ半分は古くなった標本や模型、知識が時代遅れとなり使われなくなった学術書などが乱雑に放置されているため実際よりも狭く感じる。
物置になっていない前側には、現在生物部で飼育している爬虫類が入った水槽が置かれている。
その水槽の横に、見知らぬ生徒が一人立っていた。
「紹介します。私のクラスの生徒で久留里愛花さん。
そして、こっちが私が顧問を務める生物部の唯一の部員桐谷壮亮」
春日先生の担当するクラスは確か二年三組のはず。
と言うことはこの久留里は先輩と言うことになる。
「はじめまして」
久留里が壮亮の目を見て挨拶する。
そのまっすぐな視線に少しドキッとした。
「どうも」
距離感を掴めぬまま壮亮も挨拶を返す。
男女平等化に伴い、様々な格差や不平等が廃絶されてはいるが学校や会社における年功序列は依然として変わることなく残り続けている。
だから、この場合はもう少し先輩に対して礼儀を正した挨拶をするべきなのだが、壮亮としてもなぜ春日先生が二人を引き合わせたのかが分からないので中途半端な態度になる。
「まぁまぁ、そう固くならないで。今日お前を呼び出したのはちょっとしたお願いがあっての事なんだ」
ぎこちない挨拶を交わす教え子たちを見ていた春日先生が本題を切り出した。
「お願いですか?」
「そう。お願いだ。だけど私からじゃない」
春日先生は久留里を見て言った。
「今朝、久留里さんから私に相談があったんだ。
私も教師だから可愛い生徒の頼みは叶えてあげたい。だが、私ではどうすることもできない相談でな。
そこで思い付いたんだ、そな相談なら桐生が適任じゃないかと」
「ちょ、ちょっと待ってください。
俺が適任な相談ってなんですか?」
「それは、本人から話した方がいいんじゃないかな」
春日先生に話を振られ久留里が一歩前に出た。
その時、壮亮は久留里さんの奥に見慣れないゲージがあることに気が付いた。
物で溢れた生物部の部室だが、そんなものが置いてあった記憶はない。
二人も壮亮の視線が動いたことに気付いた。
「私のお願いは、この子の事なの」
久留里が、ゲージを指してそう言った。
壮亮は一歩身を乗り出し、ゲージの中をのぞいた。
そこには、少し太った猫が一匹退屈そうにあくびをして寝そべっていた。
「もしかして、捨て猫を拾ったから生物部で面倒を見ろと?」
猫を一目見た瞬間に壮亮の脳裏に浮かんだその可能性を、久留里は首を振って否定した。
「いいえ、ミルクは捨て猫ではなくて私の家で勝ってる猫なの」
ミルクというのはその猫の名前か。
確かに、真っ白な毛並みは捨て猫というには整っている。
「捨て猫じゃなくて久留里先輩の家の猫だっていうなら一体なんのお願いなんですか?
ここは生物部ですけど、猫の病気とかは治せないですよ」
「ううん、病気でもないの」
ふたたび首を振った久留里は、少し伏し目がちになりゲージの中のミルクの姿を見つめた後、意を決したように壮亮の目を見てこう言った。
「この子は今、妊娠しているの」
久留里の言葉を追いかけるようにミルクが小さく鳴いた。