終幕 天地創造のアポカタスタシス -AmorFati- ③
※Intermission
さて、わたしの生まれ育った街は東京の郊外に位置する、多摩市は鶴牧。丘ばっかりの田舎で見るところもないけれど、存外気に入っている。商業施設は少なくないし、緑や公園も多いから、とっても暮らしやすい。団地ばっかりで人付き合いが薄いことを除けば、治安も良いし、退屈もしない。
この街では比較的時間がゆっくりと過ぎる。たぶん、四季が分かりやすいからだと思う。敬虔な上霊新教徒が多いためか内戦とも無縁で、毎日が平坦に過ぎていく。何も起きないということは、それだけ日常が際立って見えるということ。わたしは基本的にこの世界にはお兄ちゃんがいれば充分だったので、この街の時間の平凡さは、とても大切にしたいものだった。
窓の外からは小鳥の声が聞こえた。カーテンは開け放たれていて、眩しい。目を覚ますと、既にベッドにはお兄ちゃんの姿がなかった。もう起きたのかな? もぞもぞとベッドから這い出し、目を擦りながらリビングに向かうと、お兄ちゃんは学ランの上からエプロンをつけて朝餉の支度をしていた。うーん、アンバランスな格好……。
「お兄ちゃーん、おはよー」
「ああカナ、おはよう」
「はやいね、お兄ちゃん」
「カナ……今日から新学期だよ。僕は入学式」
「え、嘘!」
「ほんと。カレンダー見てご覧」
「お兄ちゃんのばか! どーして教えてくれなかったのよ!」
「いやだって知ってると思ってたし……」
すっかり呆れ返るお兄ちゃんを他所に、わたしの新学期が始まろうとしていた。慌てて身支度を整えてセーラー服に着替えると、わたしは通学鞄の中身を確認した。お兄ちゃんの用意したご飯と御御御付けとお新香をかっこんでから、わたしとお兄ちゃんは二人で家を出た。
さいわい、時間には相当の余裕ができた。遅刻の心配をするどころか、学校に一番乗りしてしまいそうなくらいには。だからわたしとお兄ちゃんは、少しだけ通学路を寄り道すると、家の近くの小高い丘まで足を運ぶことにした。
天気は快晴、芝生は青、そよ風が涼しい。丘の頂上まで登ると、そこからはわたしたちの住む朝の街が一望できた。お兄ちゃんと一緒に伸びと深呼吸をしながら、朝の新鮮な空気を肺に取り込む。そうしてわたしは、今日も自分がしあわせだなぁと実感していた。
すると街を見渡して、ふと懐かしい気分を覚えた。
それからわたしは、懐かしいという気分は喪失の裏返しであるという金言を思い出した。
「この街、こんなに狭かったかな……」
わたしは無意識に呟いた。空っぽになった頭から生じた、純粋な呟き。今見えているこの光景が今のわたしにとっての〝世界〟だと思うと、なんだかとてもやるせない気分になった。ちっぽけで、どこにも行けない。わたしはこの街で育って、この街で死んでいくのだろうか?
それはそれで悪くはなかったけれど、とたんに複雑な気分になってしまう。
自分の魂の本当の居場所のようなことを考えてしまう。
この世界だけが、わたしにとっての本物の世界とは言えないような気がした。
だいたい、ソラさんと旅をした再建中のバルドなんて、もっと――。
そこまで考えて、わたしは目を見開いた。
ソラ! わたしは雷に打たれたように背筋を凍らせた。
わたしはまだバルドでの思い出を憶えている!
気づくと、わたしは駆け出していた。
「おい、カナ!」と慌てふためくお兄ちゃんを残し、通学路を引き返す。
バルドで過ごした千年、その記憶がぽつぽつと泡のように浮かんでは弾けていく。
こんな――こんな大事なことを忘れていただなんて!
そのたびに目尻に浮かぶ涙を袖で拭きながら、わたしは自宅へと駆けた。
家に戻ると鍵を開けたまま中に入り、自室の勉強机の引き出しを開いた。
果たしてそこには、わたしの求めているものがあった。
古びた大学ノートたち。それは昨夜までこの世界には存在しなかったはずのものだった。
その一つを手にとって、中に書かれている内容を確認していく。
ページを繰る、繰る、繰る……。そしてわたしは、ある一頁で手を止めた。
その瞬間、「カナ! どうしたッ!」とお兄ちゃんが息を切って部屋に飛び込んでくる。
「お兄ちゃん……」
わたしは一瞬だけ呆けたような表情を浮かべたのち、ノートを胸に抱えて、精一杯に笑って誤魔化した。
「えへへ、ちょっと忘れ物しちゃった」
それはバルドでの思い出を綴った、わたしの日記帳だった。
全部で十二冊。トーテムとして過ごした千年についての仔細がわたしの文字で記されている。
開かれたページには、鉛筆でのデッサン画が描かれていた。
宇宙飛行士が船外活動で着るような、白い与圧服に身を包んだ女の子の横顔。
腰まで届く長い髪、すらりと伸びた肢体、大人びた表情。そして肩にのせた白い鳩。
まごうことなく、美術部に所属しているわたしが描いたものだった。
お兄ちゃんはその絵を見ると、顔色を変えて呟いた。
「カナ、その絵の子……」
わたしは目を伏せてその絵の輪郭を指でなぞると、愛しむように言った。
「学校、早く戻らなきゃ遅れちゃうね。お兄ちゃん」
――了。




