第四話 最善の世界 -Only_Sensitive_Existence- ⑥
やがて二人は都市を抜け、海岸に辿り着いた。
ホモ=フェノメノンの群生地を突破したのだ。
ソラはヘルメットを脱ぎ捨てた。一つに結わった長い髪が外に出る。
「怖かった。死んだような心地だった」
そう言うと、随伴していたトーテムも再起動を始め、カナタの人工単子が目覚めた。
『あまり力になれなくてすみませんでした。人工単子を切るしかなかったので』
「ううん。たとえ抜け殻でも、側にいてくれて嬉しかった。心強かった」
『そう言ってくれると救われます。ようやくここまで辿り着けましたね』
カナタの憑依しているトーテムは、カメラセンサーを前方に向けた。
『海……ですね』
「海くらい、オリジナルの地球にもあったろう」
『こんなに広くて静かな海を、私は今まで見たことがありません』
海の水面は、まるで鏡のようにさざなみひとつたてていなかった。雲ひとつない快晴の空から降り注ぐ陽の光が、水の中を照らす。底は見えなかったが、水没した都市の跡が見受けられる。かつては誰かが住んでいたであろう、美しすぎる都市の墓場。水没した建造物の幾つかや宇宙塔などが、水面から突き出ていた。
カナタはトーテムを動かすと、水際まで歩み寄っていった。二人が立っているのは、水に沈んだ高層住宅の屋上だった。水面との差は数センチほどしかない。カナタは、いったいこの海はどれだけの深さなんだろうと思った。静かな光景だ。まるでこの世のすべての時間があるようだ。そしてこんな美しい場所なら、何万年も、何億年でも眺めていられると思った。
カナタは膝をついてしゃがみこむと、右腕マニピュレータをそっと水のなかに差し入れた。ぱしゃ……という控えめな水音とともに、ガラス板のような水面に美しい波紋が広がった。そのまま、動かなくなる。ソラもインナースーツのブーツを脱いで素足になると、水兵服の茶色のスカートをたくしあげて、カナタの隣に腰を下ろした。ぱしゃぱしゃと足だけ水につける。
しばらくしてからカナタは手を引き上げて、水滴を振り落とした。
『恐ろしいくらいに真水ですね。イキモノはいません』
「それよりもカナ、あれについてどう考える? 右手の施設」
ソラを指さした方向には、大規模な水上施設があった。水面にぽっかりと浮かぶガラスのドーム。どうやら巨大な球体の一角と見える。球の直径は一キロほどだろうか。周辺に幾つかの水上構造物が展開しており、多数のレシーバーやトーテムたちの離着場となっていた。
カナタは睨みつけるように、それらをじっと凝視した。
『非常に古い文献に記載されていた、西暦時代の深海都市構想によく似ていますね』
「無粋だね、こんな素敵な場所に」
ソラが灰色の前髪を弄りつけながら言うと、カナタも頷いた。
『まったくです。帰ったらアリストートルに文句をつけておきましょう』
「まるで要塞だ。あれらのすべてがレシーバーとトーテムだなんて」
『ムセイオンの一件以来、まさかとは考えてきましたが……ここに来て確信に変わりつつあります。再建途中のバルドに、存在しないはずの生身の人類が発生した理由。道徳人類や高次人類といった存在が生まれた理由。そしてアリストートル――地球再建事業が彼ら現生人類に対してどういう考えを持っているのかを……』
「どうする? 行くのかい?」
ソラの問いに、カナタは珍しく黙り込んでしまった。
ソラはカナタを見上げると、真面目な表情で付け加えた。
「カナがどんな決断をしようとも、僕は決して恨まない。そう言ったはずだよ」
それでもカナタはしばらく唸っていたが、やがて覚悟を決めたように腰を上げた。
頭部から発せられるレーザー光の視線が、蒼白く瞬いた。
外装の涼しげな紫陽花模様が、息をするように揺れ動く。
『……行きます。そして確かめます。地球再建事業の真意を』




