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九十億年のカナタ/新世界系少女ふたり旅  作者: 朝野神棲
第一話 忘却都市のテオリア
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3:あーお風呂に入りたい!

 それから数時間ほどして、オシラサマは歩みを止めた。


『天海さん、止まって』と固い声を発する。


 それからオシラサマは、まったく動かなくなった。レーザーの視線が途絶えた。


「何を調べているの?」と天海が問う。洞察力のある訊き方だった。


 三分ほどして、オシラサマは唐突に喋り始めた。でも、やはり身じろぎ一つしない。


『んー、この辺りに隣の塔との連絡橋があったはずなんだけどなぁ……』


「足下……塔の裏側にあるんじゃない? だからここからは見えないだけとか?」


 天海が真下を指差しながら言う。足下は窓ではなくなっていた。


『そうは思えない理由が一つだけある……』


「それは?」


『この偏重力です。もしこれが弱まらないままなら……』


 そう言いながら、オシラサマは天海を残して歩きだした。

 慌てて追いかけてくる天海に、彼女は『わたしより前に出ないで下さいね』と忠告した。


「弱まらないままなら?」と天海が訊く。


『弱まらないままなら…………こうなります』


 答えながら足を止めたオシラサマ。その一メートル先は切り立っていた。その向こうでは塔の外壁がひしゃげ、針金のようにくしゃくしゃに千切れた連絡橋が塔に激突し、その残骸が無数に突き刺さっていた。偏重力によって塔の中芯部に引き寄せられた連絡橋は見事に崩落し、塔の西側の外壁を圧し潰してしまったようだった。


 事実上、二人にとっての行き止まりだった。


『今日は……ここで野宿しましょうか』とオシラサマが言った。


「いずれにせよ、この偏重力では連絡橋を渡ることなんて出来なかったさ」と天海。


 二人が夜営を決めた場所は、幸いにも霊子の晶樹がたくさん生えていた。天海はそれらの水晶をぽきぽきと折って集めて、一箇所にどさっと積んだ。五分ほどで翻訳が終了し、それらはガスコンロと鍋とアルミカップとパンとスープの材料に変わる。

 傍から見ていたオシラサマには、霊子の結晶がいつ食材に変化したのか、よく分からなかった。気づいたら食材になっていた、くらいの気分で天海の作業を見守っていた。


『どうせなら完成品のスープを創ればいいのに』


「食べ物をつくるというのは、尊いことなんだよ」


『本音は?』


「少しくらい苦労したほうが美味しいし、手心も加えられる」


 二人並んで腰を下ろす。こうするとオシラサマの図体の大きさが際立った。


「先に食べちゃダメだよ?」


『ちゃんとあなたのぶんが出来るまで待ってますよ』


 その言葉どおり、オシラサマは彼女が調理を終えるまで身じろぎ一つしなかった。

 やがてスープが完成すると、ふーふーと息を吹きかけながら天海は顔を上げた。

 ほんのりと頬に赤みがさして、口角も上がっていた。しあわせそうな表情だった。


「出来たよ、食べよう。――ねえ、今何してるの?」


『本を読んでた。図書館を積んできたから、退屈しない』


「いいなあ、快適そうで」


『そういうのは言いっこなし。こっちはすっごく狭くって、あなたが羨ましくてたまらないんですから。――さ、頂きましょうか』


 二人はいただきますと声を揃えた。

 天海はパンとスープを大事そうに食べた。

 オシラサマは全く身動きをとらなかった。

 二人が食べ終える頃になると、空は薄暗くなっていた。何ヶ月かぶりの夜だった。

 遠くの宇宙塔や廃棄都市たちは、蒼白い常夜灯を燈し始めている。


「そういえば、何の本を読んでいたんだい?」


『バルド=トドゥル。バルドとは、中有、すなわち人が死んでから転生するまでの期間のこと。そしてトドゥルとは、耳で聞いて解脱すること。これは西暦時代に著された本。お兄ちゃんがよく読んでいた本なんです。難しくて、よく分かんなくて』


「オシラサマのお兄さん。地球再建事業と新人類、双方にあだなす大罪人か……」


『わたしの目的は、同じくオシラサマであったお兄ちゃんの跡を継ぎ、この戦争の発端と影響を調査すること。そして所在をくらました彼の行方を探し出し、なぜバルドの各地で戦争を扇動しているのか問いただすこと。だからこそ、今こうやって新人類の天海さんを助け、ともにこのバルドを巡礼するって決めたんですから……』


「会ってみたいなあ。僕も、オシラサマのお兄さんに」


『会えますよ、きっと。そのためにも今日は休まなくちゃ』


 ガスコンロを囲んでしばらく談笑したあと、二人は就寝の準備に取り掛かった。調理器具の還元を終えると、霊子の欠片に戻ったそれらを、天海が空に放り投げた。結晶の欠片たちは、崩壊した連絡橋によってひしゃげた塔の内部へと落ちていく。

 結局、先刻からずっと、二人はこれからのことを決めあぐねたままでいた。

 日はすぐに暮れ、真っ暗になる。大気を充たす光素が陽性から陰性に切り替わり、夜の波が伝播しつつあったのだ。太陽という概念の存在しない現在の地球にとって、光というのは気まぐれな存在だった。ガスコンロの火だけが残され、二人の顔をめらめらと照らしあげた。


「あーお風呂に入りたい!」


 地べた……というか塔の外壁に身を投げ出しながら、天海は声を張り上げた。完全にわがままだった。遥か後方、地球外殻の内壁に浮かび上がる星空にも似た光点を見つめながら、オシラサマは呆れたような声で嘆息した。


『無茶言わないでくださいよ……。それにこの偏重力ではバスタブにお湯も張れませんよ?』


「せめてシャワーを浴びたい!」


『あんまり譲歩にも折衷にもなってないかなぁ。タオルくらいは幾らでも創れるでしょうに』


「そんなくだらない理由で霊子を翻訳なんかしたら、それこそ罰が当たるって!」


『あなたたちもめんどくさい生き方をしてますもんねえ』


「宗教や風俗というものには必ず必然性や理由がある。右向け右で従う必要もないけれど、だからといって蔑ろに出来るようなものでもないのさ。先人の経験ほど灼かな知恵も無いからね」


 それから天海は諦めたように「寝るか」と言った。


『そうですね』とオシラサマ。


 天海は衣服を脱ぎ、水色のショーツとブラだけの姿になった。

 丁寧に畳んで、革製のナップザックにしまい、それと同時に寝袋を取り出した。

 髪の結いを解いてから、もそもそと中にもぐる。

 それから目を閉じて、ガスコンロを霊子に還元した。


「明日のために、オシラサマ」

『明日のために、天海さん』


 親しげに声を交わすと、本当の静寂がやってくる。

 夜が更けると、天海の寝袋が少しだけ動いた。

 髪を下ろして眠る彼女は、頬を赤らめ、ときおり熱っぽい吐息を吐く。


「…………っ……!」


 寝袋から覗く白くて華奢な肩が、びくんっと一度だけ跳ねて、また静かになった。


 天海は白い吐息を吐きながら、星空を見上げた。


「……三十億年経っても、僕たちの心は身体に囚われたまま、なんだよなあ」

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