『AI利用状況設定』が必須になった。 ~このエッセイは、AIが書いたものなのか?~
2026年6月9日。
ついに小説家になろうで、「AI利用状況設定」が必須になった。
正直に言うと、私はこの対応に賛成だ。
最近はAIで小説を書く人も増えた。
技術の進歩そのものは凄いと思うし、AIを使うこと自体を否定するつもりもない。
だが一方で、
AI生成で短時間で大量に作れる作品がどんどん増え、人が何日も、何週間も、何ヶ月も掛けて作った作品が埋もれていく未来には賛成できない。
だから私は、
『全文AI生成作品』の投稿禁止には賛成だ。
ただし、その定義――
「加筆や修正を一切行わず、本文のすべてがAIによって生成された文章だけで構成された作品」
には、多少疑問がある。(そのことは後に述べる)
そして、
「AIを使ったのか、使っていないのかを明確にする」
という今回の取り組みにも賛成している。
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まずは今回発表された4つの区分を、簡単に整理してみよう。
※複数の区分にまたがる場合は、最も関与度(開示度)の高い区分を一つだけ選択する。
①AI直接使用
AIが生成したテキストを、連続した文章のまとまりとして本文へそのまま使用している場合。
②AI間接利用
AI生成物を、そのままではなく、作者自身の表現へ置き換えるための下書きや素材として利用している場合。
③AI補助的利用
アイデア出し、資料調査、誤字脱字チェックなど、AIが作品本文の執筆そのものには関与していない場合。
※推敲や文章表現の言い換えをAIへ委ねている場合は、間接利用または直接使用になる。
④AI不使用
構想、プロット、執筆、校正など、すべての工程でAIを一切使用していない場合。
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今、私は困っている。
この運営側の決定に反対ではない。
むしろ「AI利用の明示」には賛成だ。
だが、区分を選ぼうとして手が止まった。
私はAI利用者なのだろうか。
そして、ここからが私個人の考えである。
特に引っ掛かったのは、
「AI直接使用」
という区分だ。
例えば、30万字すべてを自分で執筆した作品があるとする。
構想もプロットもキャラクターも伏線も結末も、すべて作者自身が考えた。
半年かけて書いたかもしれない。
一年かけて書いたかもしれない。
そして投稿前にAIへ誤字脱字チェックを依頼した。
その結果、
「この助詞の方が自然です」
という一文の提案を受け、そのまま採用した。
すると区分は──『AI直接使用』になる。
もちろんルールとしては理解できる。
AIが生成した文章を、そのまま本文へ使用したからだ。
だが私は、ここで少し考えてしまう。
その作品の主体は、本当に『AI直接使用』という言葉だけで説明できるのだろうか。
三十万字を書いた作者と、一行を提案したAI。
この作品を作ったのは誰なのか。
AIへ指示を出す。
気に入らなければ書き直させる。
何度も何度も生成し直す。
比較する。
読み返す。
そして最後に、
「これを使う」
と決める。
その判断をしているのは作者自身だ。
そこには作者の意志がある。
責任がある。
選択がある。
AIが出力した幾つもの候補を比較し、「これだ」と選び抜く。
あるいは採用せず、元の文章を残す。
自分の原文のどこを変え、どこを残すのかを判断する。
私は、それもまた、ツールを使った創作の一部だと思う。
絵の具のパレットから色を選ぶように、作者はAIが提示した言葉の中から必要なものだけを選び取り、自分の作品の血肉へと変えていく。
少なくとも、AIが勝手に作品へ文章を書き込んだわけではない。
そこには悩みがあり、試行錯誤があり、そして作者自身の判断がある。
だが、その過程も、その意志も、その選択も、『AI直接使用』という四文字の区分の中では見えなくなってしまう。
私は、そのことに少し寂しさを覚えるのである。
*
ここで誤解してほしくない。
私はAIを使うことそのものに反対しているわけではない。
むしろ、AIによって今まで小説を書けなかった人が、小説を書けるようになったことは良いことだと思っている。
文章を書くことに苦手意識があった人。
頭の中には物語があるのに、うまく形にできなかった人。
何度も挑戦して、そのたびに途中で挫折してしまった人。
そういう人たちが、自分で考えたキャラクターや世界を形にできるようになったのなら、それは創作にとってプラスだと思う。
私自身、小説を書く人が増えることは歓迎したい。
本や物語を好きな人が増えることも嬉しい。
読む人も、書く人も増えることは、創作全体にとって良いことだと思っている。
だから私は、
「AIを使ったからダメ」
とは思わない。
*
ただ、ひとつだけ大事にしたいことがある。
それは、
「誰が物語を作ったのか」
ということだ。
・キャラクターを生み出したのは誰なのか。
・その物語を考えたのは誰なのか。
・読者へ届けたい感情を込めたのは誰なのか。
私は、そこにこそ創作の核があると思っている。
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例えば、
AIが世界観もキャラクターもプロットも展開も考えた。
作者は文章を少し直しただけ。
これと、
作者自身が世界観もキャラクターもプロットも展開も考えたうえで、全て書き上げたもののリライトをAIにお願いし、少しだけ出力された文章をそのまま採用する。
この二つは、私の中ではまったく別物だ。
どちらもAI文章を使っている。
そう、『AI直接使用』である。
だが、創作の主体は同じではない。
*
もっと極端な話。
・人間がゼロからプロットを書き、文章を紡ぎ、最後の仕上げとしてAIによる全文リライトをそのまま採用した作品。
・プロンプト一行でAIに丸投げして作らせた作品。
この二つは、創作の過程も、作者の関与も、使った時間も、まったく別物だ。
だが、運営の定義を文面どおりに読むなら、最終的に投稿される本文がすべてAIによって生成されたテキストで構成されている場合、どちらも『全編AI生成作品』として投稿禁止の対象になり得る。
たとえ人間がゼロから書き上げた原稿をもとにしていても、全文をAIにリライトさせ、その出力をそのまま使ったなら、本文欄に載るのはAIが生成したテキストである。
仮に原文の九割が残っていたとしても、そこに「誰が物語を考えたのか」「誰が最初の文章を書いたのか」という創作過程は、区分上は見えなくなってしまう。
人間がゼロから物語を書き上げ、それをより読みやすく、より伝わりやすくするためにAIを利用することは、私は健全な読み手ファーストの創作活動のサポートだと考えている。
誤字脱字の修正。
読みにくい箇所の改善。
表現の見直し。
それらは作品を手抜きするためではなく、むしろ読者へ少しでも良い形で届けるためのひと手間だからだ。
本来、私たちが淘汰すべきだと感じていた『全文AI生成作品』とは、人間の魂が通っていない、ボタン一つで量産された無機質な文字列のはずだった。
しかし今のルールでは、人間が心血を注いで育て上げた我が子に、最後の薄化粧をAIに手伝ってもらっただけでも、その境界線が酷く曖昧になってしまう。
運営側の意図は違うのかもしれない。
だが、少なくとも私は、その説明を見つけられなかった。
だから私は反論覚悟で、あえて問いたい。
この両者は――“同じ”なのか。
*
また、小説は、書き手側だけではなく、
読み手側にとっての面白さが最も大事だ。
私が小説を読む場合に大事なことは、
「AIを使ったか」
ではなく、
「その物語が面白いかどうか」
だけなのだ。
ただ綺麗なだけの文章を読みたい訳ではない。
続きが気になる。
キャラクターを好きになる。
伏線に驚く。
感情を揺さぶられる。
そうした体験を求めて、小説を読む。
だから私にとって大切なのは、AIを使ったかどうかよりも、
ちゃんと完結してくれるのか。
そしてその作品が読者の心を動かしたかどうかなのである。
*
私自身は、AIに相談することはある。
感想を聞くこともある。
誤字脱字を探してもらうこともある。
読みやすい文章を提案してもらうこともある。
だが、最終的な物語だけは作らせない。
キャラクターの感情。
伏線。
展開。
カタルシス。
そこは自分で考えたい。
自分で悩みたい。
自分で決めたい。
AIが出力したリライト案を採用するかどうかも、自分で決める。
だから私にとってAIは、
「物語を代わりに作ってもらう存在」
ではない。
私としては、文章という『衣服』をAIに整えてもらうことはあっても、物語という『骨肉』は絶対に自分で作る。
これだけは、譲れない。
*
そしてもう一つ思うことがある。
例えば、
「『曇らせ』ってどういう意味?」
「この時代に火薬は存在した?」
「令嬢キャラの名前候補を出して」
そんなことをAIへ聞いた場合、それはAI利用なのだろうか。
私には、この線引きが少し難しく感じる。
なぜなら、それは辞書を引くことや、資料を調べること、検索エンジンを使うことと、どこまで違うのか分からないからだ。
私は、
「主人公は何を選ぶのか」
「誰が裏切るのか」
「ラスボスをどう倒すのか」
「どんな結末を迎えるのか」
そういった物語の根幹をAIへ委ねる気はない。
だが、
知らない知識を調べること。
誤字脱字を確認すること。
読みにくい箇所を指摘してもらうこと。
それらは昔から、Wordの機能や辞書や資料本や検索エンジンが担ってきた役割の延長にも思える。
だから私は、
「AIを使ったかどうか」
よりも、
「AIにどこまで創作を委ねたのか」
の方が大切なのではないかと思っている。
*
そして、私がこの制度に一番願っていることがある。
それは、
正直者が損をしないことだ。
真面目に悩みながら区分を選ぶ人。
誠実にルールを守る人。
そういう人が損をする制度にはなってほしくない。
もちろん、全ては個人、個人の解釈次第である。
そして、『AI直接使用』区分が、即座に「AIが作った作品」を意味するわけではない。
だが、人によってはそう受け取ることもあるだろう。
AIを使用したからといって、創作の時間が減ったわけでも、打鍵の労力が減ったわけでもない。
作品情報ページに刻まれる『AI直接使用』の文字。
それを見た読者は、その作品がどのように作られたのかを知ることはできない。
AIへ丸投げして作られた作品なのか。
あるいは作者が何ヶ月も掛けて書き上げた作品に、最後の仕上げとしてAIを使っただけなのか。
そもそも、そんな違いを気にはしないだろう。
「なんだ、AI利用作品か」
と、この表示を減点のためのラベルとしてではなく、
「この作者は、AIを使って、より安心して読める作品にしようとしているんだな」
と思ってもらえる未来になったらいいなと思っている。
そう。
ひとつの『《《安心マーク》》』みたいに。
そんな日がきたら、少し良いなと──。
そして最後に問いたい。
このエッセイそのものも、
AIに誤字脱字を確認してもらい、
部分的に提案された表現をそのまま採用している箇所がある。
だから。
ルール上は、ちゃんと『AI直接使用』である。
このエッセイで伝えたいことも、悩んだことも、考えたことも、全部私自身だ。
では、このエッセイはAIが書いたエッセイなのだろうか。
私はまだ答えを持っていない。
だから今も悩んでいる。
一行だけ採用した作品と、
AIが作ったものを少し手直しした作品。
同じ『AI直接使用』で本当に良いのだろうか。
だから私は区分を選びながら、
今日も考えている。
この作品を作ったのは誰なのか、と――。




