第3話「どうしても南へ行きたいんだ…①『車内に入り込んだ“異常”』」
雪の降る山間部の国道を、一台の白い大型SUVが走っていた。
外気温は低く、フロントガラスには車内の熱気で薄い曇りが広がり始めている。
車内には若い男女六人が乗っていた。
大学卒業を控えた仲間たちによる、スキーと温泉を兼ねた卒業旅行。その道中だった。
「おい、伸田。まだかよ? その温泉宿ってのは」
セカンドシートに座る巨漢の幸田剛士が、運転席の伸田伸也へ声をかけた。
「もう少しだよ。地図だと、この先の山道を抜ければ着くはずだ」
車内には音楽が流れ、若者たち特有の賑やかな空気が漂っていた。
伸田と皆元静香、幸田剛士、須根尾骨延の四人は幼い頃からの幼馴染だった。
今ではそれぞれ恋人を伴い、六人で旅行を楽しんでいる。
伸田の隣には婚約者の静香。
剛士の隣には水木エリ。
最後列には須根尾と山野ミチルが並んで座っていた。
就職先も決まり、学生最後の思い出作りとして出掛けた旅だった。
◇
「運転、大丈夫?」
運転を続ける伸田を気遣い、助手席の静香が声をかけた。
「ありがとう、シズちゃん。疲れたけど大丈夫だよ」
伸田が静香に笑顔を向けた。
「ノビタは運転だけは真面目だからな」
後ろから剛士が冷やかす。
「運転だけは余計だよ!」
伸田がルームミラーに映る剛士を睨んだ。
その時だった――。
「おい、伸田! 前! 前見ろ!」
剛士の叫び声が車内に響いた。
伸田が顔を上げる。
吹雪の向こうに、人影のようなものが見えた。
「う、うわっ!」
急ブレーキ。
タイヤが凍結路面を滑り、車体が大きく左右へ揺れる。
ギギギギッ!
ドンッ!
鈍い衝撃が車体を襲った。
「きゃあっ!」
「うわっ!」
シートベルトをしていなかった者たちが前方へ投げ出される。
車内には悲鳴と呻き声が響いた。
◇
「みんな、大丈夫か!?」
伸田が慌てて振り返る。
静香は額をぶつけたらしく気を失っていた。
後部座席の面々も頭や身体を打ったらしく、苦しそうに身体を押さえている。
幸い命に別状はなさそうだった。
しかし伸田の顔は青ざめていた。
「ぼ、僕……人を轢いたのかな……?」
震える声で言う。
「ジャイアンツ、頼む。一緒に来てくれ」
ジャイアンツとは幸田剛士のあだ名だった。
「仕方ねえな」
二人は防寒着を羽織り、吹雪の中へ出た。
◇
雪は強くなっていた。
車の前部をスマホのライトで照らす。
助手席側のヘッドライトは割れ、バンパーも大きく損傷している。
「ああ……やっちまった……」
伸田が頭を抱える。
「ローン残ってるのに……」
「自業自得だろ」
剛士が吐き捨てる。
「それより、本当に人だったのかい?」
「間違いねえ。俺は見た」
そう言った剛士の声が途中で止まった。
伸田が震える指で、彼の背後を指差していた。
「ジャ、ジャイアンツ……後ろ……」
「何だよ?」
振り返った剛士は息を呑んだ。
◇
そこに男が立っていた。
二メートル近い長身。
カーキ色の軍用コート。
無造作に伸びた髪。
肩には不釣り合いな女性物の赤いリュックサック。
男の額からは血が流れている。
だが、それ以上に異様だったのは雰囲気だった。
まるで人間ではない何かが、そこに立っているような圧迫感。
喧嘩慣れした剛士ですら本能的に警戒してしまう。
「……あんた、誰だ?」
男は静かに答えた。
「お前たちの車が俺にぶつかったんだ」
低い声だった。
「許してやる。その代わり、車に乗せてくれ」
「乗せる?」
「行きたい場所がある」
吹雪の音だけが周囲を包む。
男は続けた。
「どうしても行かなきゃならないんだ」
◇
「と、とにかく中へ!」
伸田が叫んだ。
「こんな所で話してたら凍え死ぬ!」
吹雪はさらに強くなっている。
剛士も異論はなかった。
「そうだな。とりあえず車に入れよ」
三人はSUVへ戻った。
そして、その男――ヒッチハイカーは車内へ足を踏み入れた。
◇
「うっ……」
その男が車内に入った瞬間、エリが顔をしかめた。
男から獣のような体臭が漂っていた。
ただ――決して不快なだけではない。
どこか女の本能を刺激するような、説明し難い匂いだった。
それを感じたのはエリだけではない。
静香もミチルも落ち着かない様子で視線を伏せている。
だが誰も理由を説明できなかった。
ただ、この男が車内に入った瞬間から空気そのものが変わってしまったように感じていた。
暖房で満たされた車内なのに、どこか温度が一段下がったような錯覚がある。
誰もがその理由を理解できないまま、自然と口数が減っていった。
男は何も命令しない。
それなのに、視線の端にいるだけで意識が引き寄せられる。
まるで「そこにいること自体」が、この空間の前提になってしまったかのようだった。
「南……でいいんだよね」
運転席の伸田が、ルームミラー越しに確認する。
「ああ。南だ」
低く、迷いのない声だった。
その一言だけで、奇妙な確信が車内に落ちる。
◇
車内の配置は崩れたままだった。
助手席には静香。
セカンドシートには剛士とエリ。
その中央に、当然のようにヒッチハイカーが座っている。
最後列には須根尾とミチル。
本来なら異常な距離感のはずだった。
だが、それを指摘する者はいない。
剛士だけが小さく舌打ちをする。
「……チッ、妙な奴だな」
言葉はそこで途切れた。
◇
山道はさらに深くなる。
雪は強まり、ヘッドライトの光さえ飲み込んでいく。
その中で、男がぽつりと口を開いた。
「南にはな……暖かい場所がある」
誰に向けた言葉でもない。
だが妙に“個人的な確信”を含んでいた。
「昔、母親がそこへ行ったって……じいちゃんから聞いた」
その瞬間、車内の空気がわずかに歪む。
誰もが違和感を感じずにいられない。
精悍な大男が、まるで子供のような口ぶりで話すのだ。
伸田の指がハンドルを強く握り直した。
「……母親?」
だが男は答えない。
ただ窓の外の雪を見ている。
「気づいたらいなくなってたらしい。ただ南へ行った。それだけだ」
説明ではなかった。
感情も込められていない。
ただ“事実”だけを述べているのだ。
◇
誰も深く追及できない。
それなのに耳だけは離れない。
男の声だけが、車内のどこかに沈み続けている。
◇
やがて剛士が低く言った。
「……で、その南に、俺たちを付き合わせる気かよ」
ヒッチハイカーはゆっくりと横目を向ける。
その視線に触れた瞬間、剛士の言葉が途切れた。
「付き合わせる?」
わずかに首が傾く。
「違うな。お前らが“乗せた”んだ」
断定だった。
◇
その時点で、誰もが理解していた。
この男は“乗せられた存在”ではない。
最初からそこにいることが当然だったような歪みだけが残っている。
行き先を決めるのは彼だ。
◇
ヒッチハイカーの視線が、ふと隣のエリに向く。
ほんの一瞬――。
それだけで、空気が変わる。
エリは無意識に視線を逸らした。
理由はない。
ただ本能的な拒絶だった。
男は何も言わない。
ただ、ごく自然に距離だけが詰まる。
時間が一瞬だけ止まったように感じられた。
男の手がエリの肩に置かれる。
それだけの動作だった。
だがエリは身体を強張らせ、息を呑んだ。
振り払いたい。
そう思うのに動けない。
恐怖と警戒心が告げている。
危険だ――と。
それなのに、身体のどこかが男から強く引き寄せられる感覚がある。
まるで得体の知れない何かに意識を絡め取られていくようだった。
◇
剛士が声を荒げる。
「おい、やめろって言ってんだろ!」
しかし男は振り返らない。
「騒ぐな」
それだけだった。
剛士の喉が詰まる。
それ以上踏み込めば終わる——そう理解してしまう。
◇
車内は沈黙に支配される。
エリは視線を落としたままだ。
荒い息のまま肩を震わせている。
抵抗の意思だけが残り、身体が追いついていない。
歯を食いしばった剛士は拳を握ったまま動けない。
伸田は前方の車道だけを見ている。
静香は耳をふさぎ息を殺している。
誰もが理解していた。
この男が全身から放っているのは“力”ではない。
止め方の存在しない“何か”だ。
◇
止まっていた時間が再び動き始めた。
ヒッチハイカーは、何事もなかったように手を離す。
ぐったりしたエリは崩れるように座席へ沈む。
男の呼吸は乱れていない。
ただ静かに言う。
「南へ行く」
◇
外の雪はさらに強くなる。
道は消え、白だけが残る。
伸田はルームミラー越しに男を見た。
そこでようやく理解する。
この男は「行きたい」のではない。
南へ“行くためにここにいる”のだ。
◇
剛士がかすれる声で呟いた。
「……こいつ、ヤバいぞ」
誰も否定しない。
それが全員の一致した答えだった。
◇
だが本当に“狂っているもの”は、男ではない。
この車ごと、すでに別の方向へ動き始めていた。
若者達を乗せた白いSUVは、
雪に閉ざされた山道を静かに南へ向かっていた。
元から乗っていた者達の誰一人として、
行き先を考えられなくなっていた。
後から乗り込んで来た、ただ一人を除いては――。




