第20話 あなたの隣で
ヴェルデリアが咲いた。
リンデン谷の斜面が、白い花で埋まっている。雪解け水が岩肌を伝って流れ、その水際から、五弁の花が一面に広がっている。白い。中心に薄い紫の筋が入っている。風が吹くと、花弁が一斉に揺れて、山肌が波打つように見えた。
「きれいね」
「ああ」
レオンが隣にいる。白い軍服ではなく、休日の外套を羽織っている。珍しい。この人が軍服以外のものを着ているのを見たのは、たぶん初めてだ。
「公務ではなく来られたのは、初めてだな」
「ええ。春になったら、と言いかけて止めたのは」
「去年の冬の話だ。覚えている」
覚えている。あの時レオンは「リンデン谷に群生地がある。春になったら」と言いかけて、口を閉じた。行きたいが、公務の口実が見つからなかったから。
今は口実がいらない。
花の間を歩いた。ヴェルデリアは近くで見ると、花弁の質感が繊細だ。薄い。陽の光が透ける。触ると壊れそうなのに、この花は雪の中でも根を枯らさない。見かけの脆さと、根の強さ。
母がこの花を持ち帰った理由が、今ならわかる。
「花言葉、調べたわ」
「……調べたのか」
レオンの歩調がわずかに乱れた。
「ヴェルデ語の辞典には載っていなかった。仕方がないから古い民俗誌を当たったの。リンデン谷の村の伝承に、一行だけ」
「何と」
「『離れていても根は同じ場所に』」
レオンが立ち止まった。風が吹いて、白い花弁が二人の間を舞った。
「……知っていた」
「やっぱり」
「花言葉をうろ覚えだ、と嘘をついた。すまない」
「知ってたわ。あなた、学名まで暗記している人が花言葉だけ忘れるわけがない」
レオンの喉仏が一度、上下した。三年間嘘をつき続けた人の、ささやかな白状。
◇
谷を下りて、村の茶屋で山岳茶を飲んだ。
リンデン谷の茶は、首都ヴァイスベルクで飲むものより苦みが強い。標高が高い場所で育った茶葉は味が濃くなる、とレオンが教えてくれた。苦い。でも、後味に花の香りがしっかり残る。
「美味しい」
「そうだろう。ここの茶葉を取り寄せていたんだ。君に出していたのは」
「知ってたわ」
「……何から何まで知っていたのか」
「外交官ですもの。情報収集は得意よ」
レオンが湯気の向こうで笑った。最近、笑い方が少しだけ上手くなった。まだぎこちないが、口角の上がり方に力みがなくなった。
茶屋の窓から、ヴェルデリアの群生地が見える。白い斜面。その向こうに、雪を被った山の峰。
村の老婆が茶を運んできて、私の顔を見て微笑んだ。「大使の連れの方ですか。お美しい」。レオンが何か言おうとして、口を閉じた。茶碗を持つ手の位置が少し高くなった。顔を隠そうとしている。山岳地方の人は率直だ。
老婆が去った後、レオンが茶碗に視線を落としたまま言った。
「……連れ、という表現は正確ではないが」
「何が正確なの?」
「……公的には、まだ発表していないから」
「では非公式には?」
レオンの茶碗を持つ手がわずかに揺れた。中身がこぼれそうになって、慌てて押さえた。三カ国と同時に渡り合える男が、茶碗を安定させられない。
「非公式には。……俺の、大事な人だ」
声が小さかった。茶の湯気に紛れるほど。でも聞こえた。
ここに来るまでに、いくつのことがあっただろう。
侯爵邸の五年間。離縁届。白い朝。父の「おかえり」。レオンの「お茶の準備はできています」。ヴェルデの冷たい空気。カイの天然。オットーの法案。議会の演説。ルシアンの謝罪。六カ国会議。そして。
「はい」を六カ国語で言った夜。
全部が、ここにつながっている。
◇
家に戻ってから、手紙を二通書いた。
一通目はエルダへ。
「エルダ。お元気ですか。ヴェルデに春が来ました。ヴェルデリアという花が咲いています。母が庭に植えたのと同じ花です。お嬢様は幸せです。遠くから心配してくださって、ありがとう。北部の集落の皆さんにもよろしくお伝えください」
ペンが迷った。もう一行。
「私、結婚します。ヴェルデの人です。今度は自分で選びました」
エルダが読んだら泣くだろう。あの人はいつも泣く。皺だらけの手で便箋を握りしめて「お嬢様」と呟くだろう。
二通目は父へ。
「お父様。母の花を、毎年見られる場所にいます。リンデン谷という場所で、ヴェルデリアが一面に咲きます。母がここを訪れた理由がわかった気がします。山の空気の匂いがする花。本当にそうでした」
父への手紙は、いつも短くなる。この人は多くの言葉を必要としない。「元気だ」「幸せだ」。それで十分伝わる人だ。
便箋を折りたたむとき、ふと思った。母も、こうやってヴェルデから手紙を書いたのだろうか。若い頃の母が、この山を見て、この花を見て、何を思ったのか。
知ることはできない。でも、同じ景色を見ている。同じ花の香りを嗅いでいる。同じ山の空気を吸っている。
封をしながら、もう一通書きたくなった。北部の集落の子供に。「ふゆ、こせました」と書いてくれたあの子に。返事を書こう。「よかったね」と。それだけでいい。
三通の手紙を封じて、机の端に置いた。明日の朝、郵便局に出す。ヴェルデの郵便は遅い。山を越えるから。でも、届く。必ず届く。
◇
夕方。執務室に戻ると、机の上に茶器が二つ並んでいた。
レオンが先に来ていた。向かいの机に座っている。書類を広げている。いつもの光景。あるべき光景。
「茶、淹れてある」
「ありがとう」
山岳茶。苦みの奥に花の香り。蜂蜜が少し入っている。「ほんの少し」の量が、私の好みと同じ。いつからこの人は、私の好みの蜂蜜の量を把握していたのだろう。
「レオン」
「何か」
「確認事項はある?」
レオンのペンが止まった。顔を上げた。目が合った。
それから、少しだけ笑った。
「ない。もう、ない」
もう、確認事項はない。口実はいらない。「公務ではない」とメモに書く必要もない。
ないのだ。
窓の外に、ヴェルデの山が見える。春の空は水色だ。冬の紺色とは違う。柔らかい。山の峰に残る雪が、夕日で橙色に染まっている。
六カ国語を操る女が、七つ目の言語を覚えて、八つ目を見つけた。
七つ目は、三文字の名前。レオン。
八つ目は、名前すら要らない。隣にいるだけで通じる、沈黙の言語。
茶を飲んだ。苦い。甘い。温かい。
向かいの机でレオンがペンを走らせている。インクの染みが右手の中指についている。私の手にも、同じ場所に。二人の外交官の、小さな勲章。
誰かの妻を辞めた女は、自分の名前を取り戻した。
ヴィオレッタ・シュテルン。六つの言語と、二つの名前と、一つの居場所。
それで十分だった。
窓からの風が、机の上の書類を少し揺らした。春の風。ヴェルデの春。
新しい季節が始まる。




