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Chapter2-1 歯車を狂わせるアイドル

※この物語は97%ほどフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。


※ヒロインがVtuberですが、作者はVtuberの仕事を引き受けたことがありません。また、顔を隠して活動している方々の仕事を引き受けたこともなく、実際の警備体制と異なる場合があります。


※作者は完全な専門家ではないので、物語の内容と現実の内容が異なる場合があります。書いてある内容が正しいと思って読まないでください。


以上を注意の上、読んでください

 事務所での打ち合わせとスタジオでのダンスレッスンを終えた夕暮れ時。

 少女はグレーのチノパンに黒のパーカーという動きやすい服に着替え、三日前に雇ったボディーガードが運転する車の後部座席に深くもたれかかった。

 車が動き出すと、息苦しい黒のプリーツマスクを剥がし、キャップを取って腰まで伸びるサラサラした黒髪を無造作に放り出す。

「ふぅ」っと、重い息を吐き出すと、撫でるような肩を沈ませ、猫背になってうなだれる。

(なんで、どうして、こんな思いをしないといけないの……)

 血の気を失い、陶器のように白い顔には絶望の色が濃く浮かんでいる。

 少女の名前は狩桶世奈。MONEという芸名で活動をしているバーチャルアイドルだ。

 力が入らないほっそりとした白い手でスマートフォンの電源を入れ、SNSアプリを開いた。

 紫と桃色が混ざったロングヘアーに、ルビーのように燃える赤い瞳が光る、パッチリとした大きな目が特徴のイラストがアイコンになっているアカウント。名前はMONE。

 アカウントのトップに固定しているつぶやきには、二枚の画像ファイルが添えられている。

 画像ファイルには、事務所の法務部と弁護士が協力して作成した、ストーカーおよび殺害予告犯への警告文と、法的措置を講じる旨の重苦しい文章が長々と綴られていた。

(やっぱり……もう、嫌だ)

 ゼルテクサプロダクションに所属する前、中学生の頃からインターネットに歌をアップロードし始めた頃から誹謗中傷は幾度となく受けてきた。

 そして、この活動でご飯を食べていこうと決心したとき、表舞台に立つ先人たちを見てメンタルにダメージが入ることは覚悟していた。

 覚悟したとは言え、実際に心ない言葉を投げられると微かに動揺する。

 些細な痛みを一度受けるだけならまだ耐えられる。だが、その小さな傷が幾重にも積もっていくと、やがて大きくメンタルが削られて耐え難い苦痛へと変わっていく。

 それでも、この心の痛みを成長のための痛みだとポジティブに捉え、受け流そうと努めていた……が、限界がある。

(なんで……こんなことするんだろう……)

 相談した弁護士曰く、意図的に悪口を言っている人は自覚があるのでイエローカードを一枚掲げれば収まる可能性が高いらしい。

 しかし、悪さを自覚していない犯罪者は、警告文を提示しても文章の内容が理解できずに犯行を続けるとのことだ。

 そして、今回の犯罪者はおそらく後者。それも、アンチではなく、歪んだ愛を抱いているゴリゴリのファンだと世奈は思っている。

 ファンだった場合、良心が働いてどうにか何事もなく事件が収まって、普通のファンに戻ってほしいと願っていた。

 だが、その願いもむなしく、どこから情報を仕入れたのだろうか。自宅を特定され、ポストに動物の死骸が入れられていたのだ。

 冷たい恐怖が目先数センチまで迫ってきている状況。この状況で心が病まない人などいるのだろうか。

(こんな嫌な思いするなら、アイドル、辞めたい……)

 SNSの注意喚起のつぶやきには、数多のファンから応援の声や励ましのコメントが届いている。が、その激励の文章は、一文字を音として認識するだけで、文章を意味として捉えることができなくなっていた。

 文章を読んでも真っ白な頭の中にスッと吸い込まれて、文字が消えていくような感覚が三日前から続いている。

 その弊害は文章を読む行為だけでなく、アイドルの活動にも影響してしまい、平常心でネット配信ができなくなっていた。

 今は一週間後のライブの準備を口実に活動を自粛している。

(早く、なんとかなって)

 胸で渦巻くドス黒い闇が晴れることを祈っていると、静かに車が止まった。

「到着いたしました」

 運転席から聞こえた、シルクのようなやわらかい声に、世奈の意識が現実の世界に戻る。

 窓の外には、見慣れたタワーマンションのロータリーが広がっていた。

「それでは外の安全を確認して参りますので、少々お待ちください」

 男性のボディーガードは車から降りていく。

 シーンと静まる車内。マジックミラー越しに男性の姿を追う。

 漆黒のスーツに身を包んだ巨体の男性が、顔をキョロキョロと動かして鋭い視線でエントランス前のロータリーを警戒している。

 その男性は、ゼルテクサプロダクションが専属契約を結んでいる警備会社から派遣された、笹川明良という名前のボディーガードだ。

 この三日間、自宅から事務所やスタジオまでの送迎をしてもらっている。が、通勤以外、ほとんどなにもできていない状況だ。明々後日からボディーガードが増員され、行動範囲を広げられるとイベント担当から聞いている。

 しばらく待っていると笹川が車に戻り、後部座席の扉を開けた。

「安全を確認いたしました。どうぞお降りください」

 笹川はニコっと微笑み、執事のように振る舞っている。

「はい……」

 静かに口は動くが、体が上手く動かせない。

「どうかされましたか?」

「…………契約内容の説明をしてもらったとき、要望があれば言えって言ってた。相談に乗ってもらってもいい?」

「もちろんよろしいですよ。ご要望はなんでしょうか?」

「ちょっと重たい話。ゆっくり話したい。家、入ろ」

 エントランスを指差す。

「いえ、要人の家に入るのは望ましくありませんので、ここでお話しましょう。お隣、失礼いたします」

 笹川は体を折りたたんで、グッと押し込むように乗り込んできた。途端に後部座席が窮屈に感じる……だが、不快感はなかった。

 顔を上げ、笹川と目を合わせる。肌にハリがなくなりつつあるが、まだ若いと言える笹川が口角を上げて優しく微笑んでいた。

「それで要望とはなんでしょうか?」

「ここ数日、辛いことが多くて、アイドル辞めたいって思うようになってる。だから笹川さんに相談したい」

 プロデューサーに声がキレイだとほめられ、ファンからはクリスタルボイスと称えられているが、今出している声は泥水ボイスと自覚できる。

「相談とは警護の要望ではなく、人生相談でしたか。ハハハハ」

 笹川は営業スマイルを解いていないが、声が明らかに引きつっている。

 三日前に初めて顔を合わせた人。それも、芸能人と接点が少ない仕事をしている人に深刻な話をされたら、空回った反応をせざるを得ないだろう。

「私のような雇われのボディーガードが狩桶様の人生を左右するような助言をしてもよろしいでしょうか? マネージャーやプロデューサーなど、もっと親身に答えてくれるスタッフに相談をしたほうがよろしいのではないでしょうか?」

「スタッフや事務所のメンバー、家族や友達みたいな身近な人に相談すると心配をかける。なにより、私はファンも含めて関係者にも弱いところを見せたくない。だから、私の素性を知ってて、関係が薄い笹川さんに相談したい。いい?」

 長いまつ毛が縁取る、主張が激しい大きな目を薄っすらと細める。

「狩桶様が納得しているのであれば構いませんよ。一応、私も芸能界の末端で働いている身ですので、微力ながら経験を元に狩桶様の力になれるよう努力いたします」

 この屈強な体の持ち主、ボディーガードという職業の笹川はカウンセラーか占い師をしていたのだろうか。

 しゃべり方が陽だまりのように温かく、声色がふんわりとやわらかい。

「それでは、まずはアイドルを辞めたい原因から突き止めていきましょう。狩桶様はなぜアイドルを辞めたいと思ったのでしょうか」

「知ってると思うけど、ストーカー被害や殺害予告を受けてる」

「それは心中お察しします。凶器や動物の死骸が事務所や自宅に置かれていたら、生活を脅かされて想像を絶する恐怖を感じますよね。特に女性の方が住所を特定されたら、命の危機に晒されて日常生活もままならなくなってしまいますよね」

「うん、昔から有名人が狙われたり、殺されたりする怖い事件はニュースで見てきた。まさか自分が当事者になるなんて思ってもなかった」

 うつむいて、思うように開かない霞んだ唇で続ける。

「でも、辞めたいって思ったのは殺害予告だけが原因じゃない。もっと原因が複雑に絡まってる」

「と、言いますと?」

「憧れの世界に飛び込んだら、いろいろ気を遣うことが多くて、ものすごく面倒。神経質になって疲れる」

「表舞台に立つ方は、名が知れ渡っていくにつれて集める視線が多くなりますからね。その数多の眼差しがストレスになって、どうしても精神的な疲弊が蓄積されていきますよね」

「うかつな発言ひとつで炎上する可能性があるし、行動ひとつでファンに誤解を与えることがある」

「ファンの母数が増えると、発言を深読みされたり杞憂したりする方も出てきますからね」

「よく知ってる。それだけじゃない。普通に応援してくれるファンも増えると……なんていうんだろう、思うように活動できない」

「普通に応援してくださるファンの方々の眼差しには、純粋な期待が込められていて、期待が大きくなればなるほど、その期待に応えるためのプレッシャーが重たくなって、一歩踏み出すたびに息切れを起こしますよね」

 笹川は元アイドルだったのだろうか。芸能界の末端で働いていると言っていたが、アイドルの気持ちをよく理解しているようだ。

「有名になるのは嬉しい。でも、有名になればなるほど思うように活動できなくなってる。私、こんなことしたかったのかって自分がわからなくなってる。もっと自由に活動がしたい」

「それは有名になる上での受け入れなければならない宿命ですね。理想通りに事が進まない中でも進むために作り上げたキャラを演じ続けていると、理想と現実の間で大きなギャップが生じてしまいます。そして、自分が何者かを見失い、虚無感が生まれて『なにしてるんだろう』という感情がじわじわと溢れて、病んでくるのではないのでしょうか?」

「そう。最近、私はアニメ声優活動を始めた。でも、ホントはやりたくなかった。ゲームも苦手だからゲーム配信もしたくない」

「そうでしたか。活動の幅が広がって、私はいいことだと思いますが」

「活動の幅を狭めて、配信と歌に専念したい。でも、事務所の意向だから仕方がない」

 世奈は小さな両手で顔を覆う。

「アイドルはやりたいことをやって、楽しく笑ってるだけでいいと思ってた。でも違うみたい。小さなところまで気を遣って、売れたら締めつけがあって、こんな惨い嫌がらせを受けるなんて思ってなかった」

「隣の芝は青いと言いますか、他のお仕事は外から見ているとわからないことがたくさんありますからね。私も憧れたボディーガードの仕事の真の敵が暇だとは思ってもいませんでしたし、嫌なところが見え始めると辞めたい気持ちも芽生えてきますよね」

 笹川は経験と照らし合わせて、声に切な感情を込め、ただひたすらに共感してくれている。

「少し話が逸れてしまいましたね。それでは話を戻して要点をまとめましょう。狩桶様はアイドル業を続けていて、想定外の活動が多すぎて困っていた。そして、今回嫌がらせを受けたのが引き金になって、アイドルを辞めたいと本格的に思ったのですね?」

「はい」

「では、おひとつ質問をよろしいでしょうか?」

「なに?」

 表情筋に力が入っていない顔を上げる……笹川はまだ笑顔を絶やしていない。顔を伏せている間も笑っていてくれたのだろう。

「狩桶様はなぜアイドルになりたいと思ったのでしょうか?」

「この事務所に所属してたアイドルに憧れて、同じ事務所に入りたくて、中学生の頃から歌活動を始めた。それでオーディションを受けて合格した」

「おお! 夢を叶えたのは実に素晴らしいですね~」

 笹川はあざとく目を見開き、大袈裟に声量を上げて盛大にほめ称える。

「違う、夢は叶わなかった」

「なぜでしょうか? 憧れの事務所に入ったのではないのでしょうか?」

「事務所には入れた。でも憧れてたアイドルは私と同じ様に嫌がらせを受けていなくなった」

「それは誠に遺憾ですね。その犯人には心底憤りを覚えますね」

 滑らかだった笹川の語気が少し荒くなったような気がする。

「ホントに残念。同じ舞台に立ちたかった。悔しい」

 世奈は太ももの上で拳をギュッと握る。

「それで、私も嫌がらせを受けて、なんでアイドルになったのか考えた。憧れのアイドルの代わりに私が夢を叶えようと思ったのがきっかけだった。でも、その無念を晴らしたいだけで、私自身、ホントにアイドルをやりたかったのか、ここ三日間何度も考えてる」

「そうですか。私は夢を仕事にしている方々、夢を与えることを仕事にしている方々には、古から伝わる『初心心忘るべからず』を勧めていますが……初心の心も、活動を続ける上で障害の一因になっているようですね……」

 笹川は真顔になり、顎に手を当て、うーんと数秒唸って口を開く。

「根本的な質問ですが、狩桶様はアイドル活動を続けたい方針なんですよね? 辞めたくて私に相談したのではないですよね?」

「極力続けたいって思ってる」

「かしこまりました。再確認いたしますが、狩桶様は昔活動していた憧れのアイドルが活動を終えて、代わりに夢を叶えるためにアイドル活動を始めたのですよね?」

「はい」

「わかりました、では私から言える解決策はこれですね」

「なに?」

「狩桶様が憧れていたアイドルさんが辞めたとき、狩桶様はどう思いました?」

「だから、悔しかった」

「そうですね。では、今狩桶様を推しているファンの方々は、狩桶様がアイドルを辞めたらどう思うでしょうか?」

「っ――」

 肺が破裂する勢いでグッと息を飲む。

 三日間、暗闇の中で堂々巡りしていた悩みが一瞬にして吹き飛んだ。

「理解されたようですね。私もこの業界に入ってから……いや、入る前からマイクを置いたアイドルの方々は何人も見てきました。同時に、見送る歓迎の涙ではなく、悔やんだ涙を目に浮かべるファンの方々も見てきました」

 頼もしいと思っていた笹川の顔が悲しく微笑んでいる。

「ステージを去ったアイドルの中には、活動に十分満足をして、悔いなく実生活の中に戻った方もいるでしょう。しかし、キャリアの形成や将来の不安、事務所の倒産、それこそ嫌がらせを受けて、後悔が残る中ステージを降りた方もいるでしょう」

 笹川の目にはなにが映っているのだろうか。世奈が知らないファンの姿が映っているのだろう。

「続けたくても心身が疲弊して辞めたいと思うのであれば、休養を取って、復帰をして、また顔を出してくれたほうがファンの方々は喜ぶと思いますよ。顔を出す頻度が減っても、極論、年一でつぶやきを更新する程度でも、辞めるより何百倍もいいと思います」

「はい……」

 確かに今ここでアイドル活動を辞めてしまったら、楽しみに待っているファンたち、今まで支えてくれたファンたちの期待を裏切ってしまう。

 特に、推していたアイドルがいなくなって絶望した気持ちは世奈自身も味わった絶望だ。

 この絶望を絶対にファンたちに味わってほしくない。

 なら、歯を食いしばっても活動を続けるしかない。

 世奈は幾分か緊張が解けた口で、真水のように透き通った声を出す。

「笹川さん、ありがと。活動続ける気になった。私も憧れのアイドルのおかげで人生に彩りがついた。だから、私もファンたちに彩をつけ続けたい」

「狩桶様にやる気が出たのであればなによりです」

 笹川の渋い笑顔に活気が戻ったような気がする。

「他に相談事はありますか?」

「ない」

「かしこまりました。それでは少し時間が経ってしまったので、もう一度外の安全を確認して参ります。少々お待ちください」

「待って」

 出て行こうとした笹川の手の甲にそっと手を置く。

「いかがなさいましたか?」

 キョトンとした顔で振り返る。

「もうひとつ相談に乗ってほしい。いい?」

「構いませんよ」

「この車の後部座席、マジックミラーになってるんだよね?」

「なってますよ」

「私を……抱き締めて」

「……はい?」

 接客業として失礼な、語尾が上がる形で「はい?」と言っている。

 世奈自身も笹川と同じ立場でこのお願いをされたら同じ反応をするだろう。

 それを承知の上で、真っ直ぐな視線を笹川の目と合わせ続ける。

「どういうことでしょうか?」

「私を抱き締めて。私の腰に腕を回して、ギューって力を込めるやつ」

「行動の内容は存じ上げておりますが、抱き締めるのはお客様の要望と言えど、問題に発展する可能性があるので、ご希望に添えることはできませんね。大変申し訳ございません」

「私がいいって言ってる。高いお金払ってるからこれぐらいして。ナイフを受け止めるより簡単」

「行動自体は簡単ですが、社会的に非常に難しい行動でして…………って、狩桶様、なにをされているのですか!」

 言い訳を垂らす笹川を他所に、腕にもたれかかった……筋肉質で硬い、ゴリゴリの太い腕だ。

「狩桶様、本当におやめください。ボディーガードの仕事範囲外の業務は引き受けることはできません!」

 笹川は狩桶のほっそりとした肩に手を当て、グッと押し剥がした。

 冷や汗をかいて顔が赤くなったり青くなったりする笹川に対し、狩桶も声を荒げて必死の形相で訴える。

「お願い! 抱き締めるだけでいい! 少し腰に腕を回してほしい!」

「そもそも、なぜ抱き締めなければならないのでしょうか?」

「殺害予告を受けてから、毎日怖くて、不安で夜も寝れない。一人暮らしを始めて、母親にも甘えられない。お願い、少し抱き締めて」

「ですが……」

「お願い! 私、アイドル辞めたくない! でも、このまま不安が続くと気持ちが途絶えて辞めそうで怖い。だから、ほんの少しでも不安を消すために、私を楽しみにしてるファンのために……お願い抱き締めて」

 小さな両手で笹川の硬い腕をガシッと掴む。

「……いえ、狩桶様が誰かの推しだからこそ、職権を乱用して楽しみにしているファンを差し置き、独り占めしたくないのです。私が狩桶様に手を出したら、私のボディーガード規範に反してしまいます」

「私はファンのことを第一に考えてる。笹川さんはひとりのスタッフとして接してる。むしろ、契約が切れたらお別れになる、関係が希薄なスタッフだからお願いしている。ホントに……ダメ?」

 首をコトっとかしげ、グイっとした強い目力で見上げる。

「はい。仮に狩桶様が私との契約を打ち切ったとしても、それは職務規定に反しますので、できかねます」

 腕を掴んでいた手をスルッと落とし、静かにつぶやく。

「そう……残念。アイドル、続けられるかな……」

「……チッ。ウググググ」

 礼儀正しいと思っていた笹川が舌打ちしたかと思うと、歯をキリキリと食いしばり、後頭部をボリボリとかいていた……が、笑顔を解いていない。

 葛藤が隠し切れない、力んで赤くなった笹川の顔を見つめていると、ガサガサな唇を開いた。

「……かしこまりました。アイドルに手を出すのは、私のボディーガード規範に反します。ですが、誰かの推しがこの世から消えるぐらいであれば、この規範を破る代償のほうが余程安いものでしょう」

 笹川は震える太い両腕を、ゆっくりと開いて……は閉じ、開いて、思いっきり広げた。

「このことは他言無用ですよ。弊社の他の隊員や、御社の関係者の誰にも言わないことを約束できますか?」

「絶対に言わない」

「それと、契約が切れるまでの期間、抱き締めるのは今回の一度限りですよ」

「わかってる」

「では……どうぞ」

 許しをもらった瞬間……その胸に飛び込んだ。

「ぐすっ……ぬわああああああああああん!」

 厚すぎる胸板に顔を埋めた瞬間、三日間せき止めていた涙がドバーっと溢れ出した。

「怖い、怖い。こんな思いしたくなかった」

「余程辛い思いをされていたのですね。よかったです、狩桶様を抱き締めて」

 スーツの厚い生地越しだが、体温が伝わってきそうなやわらかい抱擁。

 ずっと抱き締められていたい、そう感じるほどに……

 そして、笹川の温もりに包まれ、不安の涙を流し切った。

 笹川の胸の中でそっと顔を上げ、薄いメイクが崩れた顔を向ける。

「満足されましたか?」

「満足した。アイドル辞める気はなくなった。ありがと」

「どういたしまして。今回は私に甘えてきましたが、人間、誰しも甘えたいときがあるでしょうから、もっと周りの方に甘えてもよろしいと思いますよ。特にアイドルの方は孤独な戦いのときも多いでしょうから」

「私のキャラクターは親密なスタッフの前でも崩したくない。面倒な人だと思われたくない。けど、これから極力頼ってみる」

「人はひとりでは生きていけないので、積極的に頼ってもいいと思いますけどね」

「努力する。改めて今日はありがとう。明良君のおかげで、不安はほとんどなくなった」

「狩桶様のためになれたのであればなによりです……あの、名前呼びになっているのですが」

「私、親しくなったスタッフは下の名前で呼んでる。普通のファンはお金を出さないと聞けないMONEボイスで名前を呼んでもらえて嬉しいと思う」

「アハハハハ、そうですね……スタッフとして、スタッフとして、スタッフとして、信頼が得られたのであれば、それは嬉しいことですね」

 乾いた笑いを浮かべたまま「スタッフとして」を三回連呼している。

「本当に、こういう淫行に抵触するような行為は今回で最後ですからね。スタッフ間で問題があったり、スキャンダルに発展したりして、狩桶様の地位を著しく落としてしまったら責任が取れないので」

「最後にする。少しでも頼れる人がいてよかった」

「それはなによりでした。それでは再び安全を確認して参りますので、少々お待ちくださいませ」

 明良はもたれかかる世奈を優しく押し剥がし、扉を開けて外の確認を始めた。

 ロータリー内を警戒している大きな背中を眺めながら、ぼんやりと思う。

(なんで、私は明良君を頼ったの……)

 事務所に所属してから、誰にも見せたことがない泣き顔を知り合ったばかりの男性に見せてしまった。

 それだけ、追い詰められていたのだろう。

(優しかった)

 無理難題の要望を突きつけても、嫌な顔をされたが最終的に受け入れてくれた。

(あの力、最高……)

 最後に抱きしめられた感覚が体の中に残っていて、思い出すと体がジンジンと熱くなる。

 明良が傍らにいれば、支障なくアイドル活動を続けられる確信を胸に、その日は枕を高くして眠ることができた。

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