Prologue
※この物語は97%ほどフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
※ヒロインがVtuberですが、作者はVtuberの仕事を引き受けたことがありません。また、顔を隠して活動している方々の仕事を引き受けたこともなく、実際の警備体制と異なる場合があります。
※作者は完全な専門家ではないので、物語の内容と現実の内容が異なる場合があります。書いてある内容が正しいと思って読まないでください。
以上を注意の上、読んでください
――推しが殺された――
凍てつくような空気が肌を刺す、真夜中の雑居ビル。
その屋上に、笹川明良は立っていた。
春から大学生になる一八歳の少年の目に映っているのは、光の海と化した夜の街並み……ではなかった。
数日前、非業の死を遂げた、最推しのアイドルの輝かしい笑顔だ。
明良が推していたアイドルは、芸能事務所ゼルテクサプロダクションに所属する「ライラックプリンセス」のメンバー、ルルエラという女の子だった。
ルルエラはネット配信で暴言を交えた発狂芸を繰り出しながらゲームを楽しむ一方、ファンの悩みには親身になって寄り添う優しさを持つ、二面性が魅力的なアイドルだ。また、五大ドームツアーを成し遂げる夢を見て、虎視眈々と小さな努力を積み重ねてきた。
そして先月、ついに小さなライブハウスを借りて、グループ単位ではないルルエラひとりだけの二周年記念ワンマンライブを開催するまでこぎつけたのだ。
数ヶ月前、その一報を耳にした夜はベッドをトランポリンにして、園児のようにピョンピョン飛び跳ねて喜びを爆発させていた。
初めて目の前に降臨した推しという存在を応援し続け、その推しが一段階飛躍する瞬間に立ち会えたことは、生涯忘れることのない思い出になるだろう。
しかし、数日前、ルルエラは熱狂的なファン……違う、勘違いの恋心を抱いた犯罪者の手によって、誰もが立つことを許された人生というステージから無惨にも引きずり降ろされてしまったのだ。
「くそっ! なんでルルエラがこんな目にあわなきゃならねぇんだ! 殺したお前がくたばれよ! このゴミカスが!」
夜の静寂を切り裂く絶叫。
ビルの屋上でなければ、近所迷惑極まりない暴言の雄叫びを張り上げる。
「ルルエラはみんなのアイドルだろ! お前だけのものじゃねえんだよ! ただのファン風情がアイドルに近づけるなんて思うなよ! テメェは特別な存在でもねえ、ただの一般人だ。勘違いすんなよクソオタクが! 身の程をわきまえろ!」
どこの誰かも知らない、おそらく今頃刑務所にいるだろう犯罪者に向けて、飲み込まれそうな漆黒の夜空に吠え続ける。
「俺たちから生き甲斐を奪って、一体なにが楽しいんだよ! ……くっそ!」
ガシャーン、っと、錆びついたフェンスに拳をぶつける……血がにじむ手を広げ、金網をギュッと握り締めてがっくりとうなだれた。
潤んだ目を閉じれば、モニターの向こうやリアルイベントではしゃぐルルエラの姿がいつでも鮮やかに蘇る。
ファンを全力で楽しませようと、気丈に振る舞うルルエラが大好きだった。
歌うルルエラも、踊るルルエラも、笑うルルエラも、怒るルルエラも、ゲームで騒ぐルルエラも――すべてのルルエラが好きだと胸を張って言うことができる。
武道館で歌いたい夢も、五大ドームツアーを満席にしたい夢も、ルルエラが語る夢をすべて叶えさせてあげたかった。
そして、数多のスポットライトに照らされる、広いステージで歌い踊るルルエラの姿をこの目に映したかった。
そのためにスズメの涙ほどのお小遣いをやりくりして、リアルイベントに行ったり、グッズを買い集めたり、精一杯の推し活をしてきた。
他にもSNSでルルエラの魅力を拡散したり、応援の言葉を送り続けたり――小さなことだが、できることは最大限したつもりだ。
しかし、その奔走しながらも楽しかった推し活もむなしく、ルルエラは犯罪者の手によって夢半ばでアイドル活動を奪われてしまった。
「なんで……こんなことになっちまったんだ……」
悔しい。ただただ悔しい。
生き甲斐のアイドルの夢を摘み、人の命を終わらせた犯罪者が憎い。そして、人生を奪った犯罪者の人生がこの世界で続いていることが心の底から許せない。
もし、この世にタイムマシーンや時の砂があれば、今すぐ時計の針を戻したい。
そして、自身が犯罪者になろうとも、ルルエラを殺した犯人を殺して、ルルエラがアイドルを続ける世界線に戻したい。
「はぁ~」
だが、現実の世界に時間を巻き戻せる、ゲームのような都合のいいアイテムなど存在しない。
肺の空気がすべて吹き出る勢いの深いため息をつき、フェンスをよじ登って反対側に降り立つ。
春になりかけだが、凍える冷たい風が強く体に吹きかかった……
邪魔なフェンスがなくなり、遠くを眺めると、宝石をひっくり返したようなキレイな夜景が一望できる……生きた人間が明かりを灯している、活気づいた夜景だ。
その生気に満ちている景色から徐々に目を落としていくと、真っ黒で、無機質なアスファルトの地面が広がっている。
ポケットからスマートフォンを取り出し、電源を入れた。
ロック画面には、初参戦のライブ後に撮ってもらった、ルルエラと身を寄せ合っているツーショット写真が映し出されている。
日付は、三月九日。時刻は日付が変わる、ゼロ時に差しかかっている。
SNSのアプリを開き、時が止まっているルルエラのアカウントを表示した。
アカウントトップには、事務所のスタッフか弁護士が書いただろう、ビジネスライクな文章で今回の事件についての詳細な内容と、今後の所属アイドルたちへの対応が二枚の画像ファイルで長々と表明されていた。
その投稿には、熱狂的なファンからも、普段からルルエラを応援していない多くのドルオタからも……そして、事件に便乗して物申したい野次馬からも、労いのコメントや嘆きのコメントが大量に寄せられていた。
ゼロ時。日付が変わってルルエラのデビュー日になった瞬間、明良はその表明に対して、声に出しながらコメントを返した。
ルルエラ本人には届かない、最後のファンレターを。
「出会ってくれてありがとう、ルルエラのおかげで最高の人生を過ごせた!」
――推しがいない世界で生きている意味がない――
明良は高校受験のとき、なにもできない空っぽの自分を変えようと思い、背伸びをして無理やり進学校に入学した。
しかし、レベルが高い授業についていけず、勉強しても無駄だと思って自暴自棄になり、いつしか勉強もせずにゲームの世界にのめり込んで何度も学校を辞めようと思っていた。
そのような腐った毎日を過ごしていたある日、スマホでプレイできるオープンワールド・アクションロールプレイングゲーム「ベッドレック」。略称ベドレクというゲームが好きだった運命のアイドル、ルルエラとゲーム配信で出会ったのだ。
それまでアイドルに興味がなかったが、一生懸命アイドル活動するルルエラの健気な姿に魅了され、気づけばルルエラを追うようになっていた。
スマホの小さな画面の中で輝くルルエラを見ているときだけが、息苦しい現実から解放される瞬間だった。
お悩み相談の配信で、周りの優秀な生徒が遠ざかっていく劣等感の悩みを送ったときは、「ひとりじゃない、私が必要としている」っと、ルルエラは真っ直ぐに言ってくれた。
その一言にどれだけ救われたことか。
そして、リアルイベントの握手会で受験の応援をしてもらい「合格の報告を待ってるね!」っと約束をして、受験に立ち向かうことができた。
受験期間中はルルエラとのツーショット写真をスマホの待ち受け画面にして、ルルエラの姿を目にするたびに応援の言葉を思い出し、ルルエラの歌を聞きながら勉強に励んだ。
結果、苦難の崖を登り切って、無事高校を卒業でき、見事大学に合格できたのだ……だが、約束した大学合格の報告はできなかった。
通っていた高校はアルバイトが禁止で、お金を稼ぐ手段がなく、思う存分ルルエラを推せなかった辛い過去がある。
大学生になったらアルバイトをして、稼いだお金でルルエラが出演するすべてのライブに行ったり、グッズを大量に買ったり、多額の投げ銭もしたりして、たくさん推し活をしようと思っていた。
明良にとってルルエラは人生のすべてであり未来だった。
しかし、その生きる意味だった精神の支柱が折れて消えたのだ。
心にぽっかりと空いた大きな穴は、虚無以外のなにものでもない。
(俺はバカだな……)
アイドル界隈に深く浸っていたわけでもない、稚拙な明良でもわかる……たとえ、ルルエラが殺されていなくても永遠など存在しないことを。
推していたアイドルも同じ人間だ。平等に時は過ぎ、老いていき、衰退し、いつかはステージを降りる日が訪れる。
だが、理不尽な理由でルルエラが消えた絶望は、精神が未熟な明良の器では到底受け止められない絶望だった。
(あっちの世界でもルルエラは歌ってるよな……あっちの世界ではいっぱい推し活するからな……)
もし、死後の世界にルルエラがいるとすれば次に生まれる世界でもルルエラに出会いたい。
そして、人生をもう一度やり直して思う存分推し活をしたい。
(今からそっちに行くからな)
目をつぶり、ふわっとジャンプした――
「チャマ君! 死んじゃダメ!」
「えっ⁉」
不意に、ルルエラのマシュマロのような肉声が耳を突き抜ける。ハンドルネームの「チャマ」と呼ばれ、まぶたがパにと開いた。
最推しのアイドル本人に、生きてくれとお願いされた――が、遅い。
両足は既に地面を離れ、体は闇の谷底へと投げ出されている。
あとは重力に従って、アスファルトに体を打ちつけて死を待つのみだ――
「うほう!」
突如、パーカーの襟が首がギュッと食い込み、息苦しさが脳の血管に走る。
投身自殺を選んだはずだが、首を吊ったかのように呼吸が止まる。疑問が頭をよぎった瞬間、ジェットコースターに乗っているときのようなすさまじい重力が全身にのしかかった。
五〇キロもない鶏ガラのように細い体が、木の葉のように天高く宙を舞う。
雲ひとつない一等星だけが見える夜空が視界を流れ……ドサッと、コンクリートの地面に背中から叩きつけられた。
「ゲホゲホッ、くそっ、痛ぇ……」
喉にめり込んだパーカーの襟のせいで、激しく咳き込む。
加えて、背中にはジンジンと鈍い痛みが走っていた……だが、死なない程度の衝撃だ。
「おい! 少年! なに自殺しようとしていた!」
闇夜に響き渡る女性の怒号が、頭から浴びせられる。
ナイフのように研ぎ澄まされたキレがある口調で、明らかにルルエラの声ではない。
身を投げ出してから今に至るまで理解が追いつかない混乱状態のまま、顔をゆっくりと上げる。
「うわ……」
思わず声が漏れる。
月明かりに照らされる女性が、激しい剣幕で見下ろしていた。
女性は生え際がわかるほど髪をすべてかき上げ、後ろで固く結んでいる。月明かりをピカンと反射させるツルツルな白い額を晒し、眉間に深いシワを寄せていた。大きな目を極限まで細め、こめかみにはピキピキと青い血管を浮かべている。
獲物を脅す猛禽類のような睨みつけに、明良は全身が石化する。
その恐怖を醸し出しているのは、チンピラじみた顔だけではない。
女性の肩幅は男子高校生の明良よりも一回り大きく、立っているだけで押し潰されそうな圧迫感があった。ワイシャツの下に隠れている体は女性特有の脂肪がついたふくよかな肉付きなのか、鍛えた筋肉なのか、わからないがシルエットが全体的に太い。
プロレス選手かと見間違える巨体の女性が、カツアゲをする不良のような形相で見下ろしているのだ。身震いしないほうがおかしい。
(なんだ、こいつ……)
学校でおとなしく生活する明良はガラが悪い不良に絡まれた場合、勝ち目がないと恐れて一目散に逃げているだろう。
だが、一度死を覚悟した無敵の明良の心からは恐怖という二文字が消えていた。
かろうじて動かせる紫色の唇を大きく開き、反撃を試みる。
「テメェこそなんだよ! 俺の邪魔すんな!」
「それは了承できない要望だな。このビルは私が所属する警備会社が管理しているビルだ。不審者が変な行動を取っていたら、警備員として見過ごすわけにはいかない」
女性の胸筋でボタンがバチンとはじけ飛びそうな白いワイシャツに、黒いメンズのパンツスーツという、夏場のオフィスレディーのような恰好をしている。
しかし、まさかの警備員だった。
最悪のタイミングで面倒な人に見つかり、体が無意識に反応して「チッ」と舌を打つ。
「おい少年、今舌打ちしたか?」
「だから、俺の邪魔すんなって言ってんだよ。放っといてくれよ」
「わかった。情緒が不安定な思春期の少年の行動に関しては、これ以上詮索はしない。だが、ここでは死なせない。早くこのビルから出ていけ」
「放っておくなら、テメェが屋上から出てけよ」
「警備員として不審者を野放しにはできないって言っているだろ。言うことを聞かないのであれば警察を呼ぶぞ?」
「別に誰かに危害を加えるつもりはねぇよ」
「他人に直接危害を加えなくても、ここで自殺されたら後処理が面倒だ。好き勝手野垂れ死んでもらっても構わないが、このビル以外……せめて、私が緊急で仕事に入った日以外にしてくれ」
「断る! 俺はルルエラが活動を始めたこの日の、ルルエラが活動を始めたこの聖地で眠りにつきたいんだよ!」
強い思いガンガンに燃やし、臆せず権力がある大人の警備員に言い放つ。
「ルルエラ? 誰だそいつは」
「俺が推してたアイドルだ!」
「アイドルか……そういえば、このビルには小さなライブハウスのテナントがあったな。そのルルエラになにかあったのか?」
「なんであんたに言わなきゃならねえんだ?」
「吐き出したら気が楽になるかもしれないぞ?」
出会ったばかりの赤の他人に易々と悩みを打ち明けたくない。
だが、人生の淵に立っている明良は最後の最後に死にたくないと心が叫び、藁にもすがる思いで口を開いた。
「……わかった、言おう」
初めて現れた推しのルルエラを応援していたことから、ルルエラが殺されるまでの経緯、そして、ショックを受けて自殺しようとしていたことまですべて説明する。
「なるほど。あの世間を騒がせた事件の被害者が、お前が好きなアイドルだったというわけか」
「そういうことだ。さあ、早く俺を死なせてくれよ」
「だから、好き勝手に死ねばいいが、ここでは死ぬなと何回も言っているだろ」
「くっそ、相談しても全然気が楽にならねえし、この場所で死なせてくれねぇ。俺はどうすればいいんだよ……」
握り拳をガンっと地面に叩きつける。
「……確かにその通りだ。相談を受けた末に問題ばかり指摘して、解決方法を提示しないのはただの説教老害だ。大人として面目ないな」
女性はパンツの後ろポケットをガサゴソと漁りながら問いかける。
「少年、質問だ。お前は何歳だ?」
「一八歳だ」
「ほう、大人の権利が得られる成人ながらも、まだまだ青らしい年齢だな。すぐに自殺したくなる年頃なのもわかる。来年からは大学生か? 社会人か?」
「大学生だ」
「人生の夏休み前に死ぬなんてもったいないな。とりあえず、就職していないなら都合がいい」
女性は手のひらサイズの革のケースを取り出し、巨体を折りたたんで身を屈め、ペタンと座っている明良と目線を合わせる。革のケースから一枚の白いカードを取り出して、少年に差し出した。
「これは私の名刺だ。勤めている警備会社が書いてある」
「警備会社?」
呆然としたまま、差し出された名刺を受け取る。
久保田陽子。山盛綜合警備保障、第四種警備部。電話番号と、メールアドレス、会社のロゴマークが書いてあった。
「私と共にアイドルを守らないか?」
「えっ⁉」
〝アイドルを守る〟という、アイドルに干渉したい系オタクが一度は憧れるシチュエーションを軽く告げられ、頭がグラつくめまいが起きる。
「アイドルを守るって……」
「言葉通りの意味だ。私は今日、体調不良で欠勤した施設警備の隊員に代わってこのビルの警備を任されたが、本職は第四種警備、つまり要人警護をしている。英語で言うとボディーガードだ」
「ボディー……ガード……」
オウム返ししかできない。
漫画やアニメ、ドラマや映画などでは見かけることがあり、実在する職業だということは認識していた。が、まさか本物のボディーガードと出会うとは思ってもいなかった。
「ボディーガードは要人の安心と安全を守り、時には自らの命を投げ捨てて要人を守り抜く職業だ」
「それは、わかってる……」
「さすがにわかってるか。どうだ、どうせ自殺して投げ捨てる人生なら、せめて人のため、そして、これからのアイドルのために使おうとは思わないか?」
「確かに……」
亡くなったルルエラのことでいっぱいだった明良は、将来の人生設計を深く考えることなく、すんなりと受け入れてしまう。
「弊社のお客様は、ストーカーや殺害予告、DV被害に困る一般人から、大企業の社長、国から協力を求められたら政界の要人。そして、五万のキャパシティーを簡単に埋める超大物アイドルまで幅広くいる。少年が望むアイドルを守ってみないか?」
「俺が望む……アイドルを守る……」
「アイドルにお近づきになりたい邪な思いでボディーガードになる輩ではなく、強い信念を持って仕事に臨む人間のほうがいいからな。推しが殺されたことを嘆き、自殺までしようとしていた少年は適任だ」
強い信念……もしボディーガードになれたら、理不尽にアイドルを辞めさせられる、かわいそうな夢追い人を減らすことができるのだろうか。
そして、そのアイドルたちを応援する、ファンたちの悲しみも減らすことができるのだろうか。
ならばこれ以上の好都合な仕事はない。
「ファン以上に近くでアイドルの成長を見守り、武道館に物理的に連れて行くこともできるぞ? ファンたちが崇める象徴を守れるんだ、これ以上の名誉はないだろ?」
久保田は魔法のような甘美な言葉でたたみかける。
「やりてえかも……」
「ふふっ、素直な子は好きだよ」
久保田はイラ立ちに満ちていた顔を緩め、鼻息をフゥーっと吐いて軽く微笑む。
「弊社は高卒でも雇ってやるし、アルバイトでも雇っている。もちろん、大学を卒業してから正社員で入ってきてもいい。弊社も人手不足の波がきていてな、もしよかったら入社してくれると助かる」
「入社したら、本当にアイドルを守らせてくれるのか?」
「それは入ってからの少年の努力次第だが、応募するのであれば私から人事に斡旋しておくから、書類を通して、すぐに入社させて、私の部署に入れてやるぞ?」
「そうか……うお⁉」
久保田から笑みが消えた瞬間、右腕をスッと素早く伸ばされる。
その腕の速度はワンフレームもない速さで、気づいたときには脇腹をガッチリとホールドされていた。
久保田は鍛え上げた太い腕で明良を羽根のように軽々と起こし上げた。
「なんだお前、私より背が高い男のくせに軽いな。私より軽いだろう。まあ、弊社に入ったら真夏のビーチで歩いても恥ずかしくないゴリゴリのマッチョにしてやるよ」
起立させられたことに驚いていると、筋肉質な腕で背中をぐいぐいと押され、ビルの中につながる扉へと押し込まれる。
互いに押し黙り、久保田に導かれるまま階段をコツコツと降りていく。
一階に到着し、関係者専用口の重たい扉を久保田が開いた瞬間、背中をボンっと突き飛ばされてビルの外につまみ出された。
「帰り道、電車を止めるなよ。止めるなら悪党のナイフを体で止めて命を落とせ。それなら、弊社に就職してくれること楽しみにしているよ。ふあぁ~、夜勤は嫌だねぇ~」
自殺を止めようとしていたときの、鬼のような形相はどこにいってしまったのか。久保田はまぬけなあくびをして扉をバタンっと閉めた。
しばらく固まって動けない。
アイドルを守るという、夢のような仕事に勧誘されたことがまだ現実として受け入れられていなかった。
立ち尽くすこと数分。気を取り直したところで手元の名刺に目を落とす。
「アイドルを守る……アイドルの成長を見守る……アイドルを守る名誉……」
あの巨大なステージで歌って踊り、何万人ものファンたちの熱い視線が注がれる、気高く尊いアイドルを守ることができるのだ。
想像するだけで体の芯から奮い立つような感覚があった。
アイドルを守るということは、崇めているファンたちの生き甲斐を守ることにもなる。
二度と夢見るアイドルたちを悲しませないため。そして、二度と夢の世界にいるファンたちを悲しませないため……ボディーガードになるという選択肢。
新たな覚悟を宿した勇気の細い両脚は、自然と動き始め、母親と父親がスヤスヤと眠っている実家へと進んでいく。
かくして、生死の境界線をさまよった一夜は、ギリギリのところで希望の活路を見出して無事に終わりを迎えたのだった。
小説家になろう初投稿です。
よろしくお願いします。




