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9.リサの夜

 宿の二階に上がったジークは、一番奥の角部屋に向かった。

 ぎりぎりの金しかないジークたちに同情した女将さんが、物置代わりにしていた部屋を空けて、安値で提供してくれた部屋だ。男女別に二部屋も用意できるわけもなく、三人一緒にこの部屋に泊まっている。

 リサは泣いているだろうか、と思うと、ドアの前に立ったジークは気が重かった。

 多少は会話にも慣れてきたと自負しているのだが、それでも会話の幅が少ないという自覚はある。気の利いた慰めの言葉など出てくるわけがない。

「えー、リサ……その、入っていいか?」

 とりあえず声をかけてみるが、返事はなかった。

「入るぞ」

 少し待ってから断りを入れ、ドアを開ける。室内は暗闇に閉ざされ、日中でも日当たりのよくない窓から月明かりがわずかに差し込んでいるだけだった。風通しも悪い部屋には、日中の熱気がこもって、肌にまとわりついて来る。

 リサはベッドの上で、こちらに背中を向けて寝ていた。

 ジークは少し迷ってから、リサのベッドの端に腰かけた。

「リサ、その……考えたんだが、俺にはなにが悪かったのか、分からない。分からないまま謝られても、ムカつくよな」

「いいんです。ジーク様のせいではありませんから。わたしが勝手に取り乱しただけですから」

 リサは答えてくれたが、背中を向けあったままの会話は、どこか寒々と感じられた。これでは意味がないとジークは考えたが、だからと言ってどうすればいいのかは分からない。

 シーリアは――彼女ならばどうするだろうか。ジークが経験値として引き合いに出せるのは、それしかなかった。だが、参考にはならない。完成されたシーリアの人格に対して、ジークは幼く、対等な関係ではなかった。

 そういう記憶しか持たないジークにとって、対等の関係というのは難しかった。無制限に甘えるのではなく、また無制限に受け入れる関係ではない。時に頼り、時に頼られるというのは、つまり互いを認めているからこその関係だろう。上下のある関係に、そうした働きが現れることはない。

 いや、そうか、これは俺の怠慢なのか。ジークは考えるうちに、少し違った部分に気付いた。相手を認めるも何もない――ジークはあまりにリサのことを知らなさすぎた。いや、知ろうとしなかった。

 趣味は、特技は、好きな食べ物は――そんなごく普通のことさえ、聞こうともしなかった。それは相手を理解するという努力の放棄ではなかったか。逆に自身のことを知ってもらおうと話をすることもなかった。

 今からでは遅いだろうか。ジークは疑いながら、口を開いた。

「……俺は長いこと、シーリアと一緒にいた。森の中にある泉の畔だけが、これまで俺の世界のすべてだった。動物はいたけど、人が尋ねてくるようなことはなくて……俺はやる事もないから、ただ寝て、起きて、その辺にある物を食べていたんだ」

 ジークが懐かしむように語る。

「暇ではあったけど、悪くない生活だったと、今なら思える」

「……以前は、そうは思われなかったのですか?」

「こんなもんだと思っていた。井の中の蛙ってやつさ。もちろん外に世界があることは知っていたし、何となく覚えてることだってある。でも、知識はあっても体験した記憶はない。だから比べるなんて出来なかった。こうして、実際に外に出るまでは」

「外に出たことを後悔しているのですか?」

「それはないな」ジークははっきりと答えた。「外に出てから、うまく行かないことばっかりだ。隊商は救えず、金も稼げない。日々は目まぐるしくて、気疲れすることも多い。それでも、悪くないさ。何もしてこなかった俺が、いきなり何かをうまくこなせるわけがない。当たり前だ」

 リサはようやく身を起こして、振り返った。ジークは笑っていた。

「俺は自分が何者か知らない。だけど、それも当たり前なんだ。人はだれでも何者かとして生まれてくるわけじゃない。何者かになるために生まれて来るんだ。毎日、地下に潜りながら、俺はまだ何者かになる途上にいるんだと、そう思えるようになった」

「探索者として、ということですか?」

「そうじゃないさ。何て言うのかな……そう、一人では意味がないんだ。フィリンと一緒に地下に潜って、帰りを待っていてくれるリサがいて、そういう関係の中に俺がいるんだと思う。だから、俺にとって最初の一歩は、リサを助けたあの時に始まったんだろうな」

「ジーク様……」

「記憶のこと、シーリアのこと、どちらも大切だと思うけど、まずは人の中で生きてみようと思う。いま、こうして生きていることを大切にしようと、ようやくそう思えたんだ」

 リサには決意を表明したジークがまぶしく見える。優しい竜騎士は誰かのために生き、多くを救う人になるのだろう――リサはそう思った。

 その純真と呼べるほど真っ直ぐな性根に、白竜シーリアの注いだ愛情を見る思いがした。心はひとりでに育つことはない。曲がらぬように、折れぬように、愛情をもって周囲が育て上げるものだ。

 そういう方だからこそ、わたしは惹かれたのですね。今こそリサははっきりと悟った。

「わたしはジーク様のお傍に居たいです」

 それが今の望みなのだと、後ろからジークの背中を抱きしめて、リサはそう言った。腕の中に抱きしめたジークは、見た目よりもずっと華奢な身体だった。

「ありがとう。結論を急ぐことはないさ。ゆっくりと考えて、やりたい事を見つけていけばいい」

 自分に言い聞かせるようにジークは答えたが、リサは少し不満を覚えた。ジークは少しも向けられた気持ちに気付いてくれていない。

 これもまた純真すぎるがゆえの弊害か。リサは少し強めに胸を押し付けてみたが、ジークは一向に気にした様子がなかった。くすぐったそうな顔で笑うだけだ。

「そういえば、シーリアがよくこうやって抱きしめてくれたな。なんか、懐かしい」

「白竜様が……? え? どうやって?」

 実物など見たことのないリサにとって、白竜のイメージは白くて巨大な竜――つまり、お伽噺に聞く超大型の爬虫類だった。ジークが巨大な両手で鷲掴みにされている図しか浮かばなかった。

「どう、って……普通に。今のリサみたいに」

「サイズが違いすぎて、物理的に想像できないのですが……」

「いや、リサとあんまり変わらなかったぞ。羽とか尻尾は生えてたけど」

「ちょっと待ってください。その白竜様は人型なのですか?」

「言わなかったか?」

「聞いてません! 話を聞いた限り、女性ですよね?」

 ぐっとリサの腕に力がこもる。すでに抱いていると言うより羽交い絞めにされているような圧力に、ジークは何となく物騒なものを感じて、素直にうなずいた。

「お美しかったのでしょうね」

「そういうのは主観に因るんじゃないかと――って、痛たたっ! 力、強すぎ――」

「美人でしたか?」

「……はい」

 こわごわと振り返ったジークには、リサの瞳がぎらりと輝いたように見えた。

「そうですか。うふふ、美女と森の中で数百年も二人きり……そうですか」

「あの、リサさん?」

「とても気になるので、詳細をお願いします、ジーク様」

「あっ、それあたしも気になるんで、よろしく!」

 バンと勢いよく開け放たれたドアから、フィリンまで飛び込んで来る。

「おまっ、フィリン! 立ち聞きしてたな!?」

「そんなのいいから、早く白状しなさい!」

「そうですよ、ジーク様。正直に話してくださらないと、手が滑って曲げてはいけない方向に関節を曲げてしまうかもしれません」

 そんな事を言いながら、ジークをベッドの上に引き倒したリサは、するりと体を入れ換えながら右腕を取って、ジークの背中を膝で踏みつけて固定すると、軽く彼の右腕をねじった。

「うおわっ! 痛い! それ、マジで痛いから! どこで覚えたんだ、こんな技!?」

「護身術として少々……嗜み程度です。肩が外れる前にお願いしますね」

 うふふ、と楽しそうに笑うが、目が笑っていない。それ以前にリサの固めは嗜み程度の素人技ではなかった。完全に極まっていて、関節が砕けない限り抜け出せそうにない。

「さあ、早く、早く!」

 フィリンはフィリンで助けるどころか、うつ伏せにされたジークの顔の前に陣取って、瞳をキラキラさせている。

 このバカエルフはダメだ。面白ければ何でもいいという魂胆が見え透いていて、とても助けてくれそうにない。と言って、腕を取ったリサはリサで許してくれそうにない。

「いったいなんで、こんな目に遭わされてるんだ!?」

「わたしだってこんな事はしたくないのですが、ジーク様が話しやすいようにと思って」

「嘘付け! めちゃくちゃイイ笑顔してんぞ!?」

「あらあら、そんなことはございませんよ。それとも、ジーク様はもっと痛くしないと正直になれないのでしょうか? 他にも色々と技はございましてよ?」

「ちょっ――ぎゃあっ! いたたたたっ!!」

 逃げようとするジークを軽くあしらって、リサは体勢を変えるたびに違う関節を責めてくる。

「壊れる! 壊れるから!」

「早く言いなさいよ、ジーク!」

「ああ、手が滑りそうです、ジーク様」

「それはやめろ、マジでやめろ! そんな風に曲がらないから!」

 結局、夜が更けるまでジークに対する尋問は続けられた。

 翌朝、げっそりした表情で食堂に顔を見せたジークは、女将さんから、

「あんた、顔に似合わず凄い趣味だったんだね」

 と、引き気味の顔でよく分からないことを言われたのだった。

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