シャロン・ビニュエの装い
どうしても書きたくなった夜のお話。最後がちょっとだけエロいです。
どのような生物であろうとも、生命を持つものはオスとメスに分類される。オスとメスの交配によって新たな生命が生まれるのは自然の摂理だ。
結婚した男女でも女がいるだけで子を孕むことはない。そんなことができるのは聖母くらいだろうが、彼女に目を付けた神だって男なのだから伝説だろうと綺麗事ではないのだ。
「シャロンさん。孫はまだなの?」
シャロン・ビニュエは長々とため息を吐きつつ失望を隠さない姑に、息子さんに言ってくださいと言いたいのをぐっとこらえた。わざわざ夫がいない時を狙って来るのだから嫌味を言いたいだけなのだ。
頭の中で反論をぶつけながら、殊勝に詫びてみせる。
「申し訳ありません、お義母様」
「あの子も忙しいのでしょうけれど、夫を支えるのが妻の勤めでしょう。ビニュエ家夫人として、しっかりしてもらわないと困りますよ」
「申し訳ありません、お義母様」
「近頃は社交界も乱れていて、嘆かわしいこと。あなた、遊んでばかりいるんじゃないでしょうね? まったく。若い者がこれだから、平民の成金ごときがのさばるのだわ」
「申し訳ありません、お義母様」
姑の話は長くて退屈で腹が立つが、ひたすら謝っていればいいので楽といえば楽だ。引退して暇な年寄りにやさしくするくらいの心の広さは持ち合わせている。
「次こそは良い報告が聞けるようにお願いしますよ。シャロンさん」
最後に嫌味を忘れずに帰っていった姑は、きっと子供ができたらできたでふしだらだのなんだのと嫌味を言うに違いない。孫孫言うわりに息子には理解ある母親の顔をしているのだから、シャロンをいびりたいだけなのだ。
子供を産むのは貴族夫人の勤めだ。そんなことくらいわかっているし、姑も実績があるから嫌味を言うことができる。だが、やることをやらないで子供ができるわけないではないか。一人で産めるなら今頃とっくに子だくさんだ。
「どうしようもないと思いません? 肝心の夫が役立たずなのですから、わたくしではなくご自分の息子さんにおっしゃってもらいたいものですわ」
憤懣やるかたないシャロンはクラーラの店に駆け込むと、今までの鬱憤を洗いざらいぶちまけた。一応口調は丁寧だったが、内心では聞くに堪えない言葉を喚いていたであろう。
あまりの迫力に、クラーラは共感を忘れて何度か彼女をなだめていた。伯爵夫人にあまりあけすけになられても対応に困る。
ひと通り言い終えたのか、冷めた紅茶をひと息で飲み干したシャロンにほっとした。
「ええっと……。話をまとめると、旦那様との夜が上手くいっていないのね?」
いくらクラーラでも、夫婦の夜のあれそれに嘴を突っ込むのはいささかやりにくい。オネエであろうとついてるものがついてるのだ。
「そうなのですわ。忙しいとか疲れているとか、なんだかんだとベッドを別にしたがります。浮気ではないかと疑ってみましたが、そんな気配はないんですの」
浮気じゃないの、と言いかけたクラーラは、シャロンに否定され考え込んだ。
シャロンの夫、サルドニクス・ビニュエは伯爵だ。二十五歳と若く、五歳年下の伯爵令嬢シャロンとは貴族には珍しい恋愛結婚をした。
「結婚して三年目だったわよね。交際期間も長かったはず……」
「わたくしが十歳の時にプロポーズされましたわ。正式な婚約は十五の時です」
「なるほどぉ。初恋を成就させたってわけね」
十歳の少女が相手では、本人はともかく両家の両親は本気にしなかったに違いない。時間をかけて口説き落とし、納得させたのだ。たいした情熱である。
微笑ましげにクラーラがからかうも、シャロンは冷めた顔だ。
「恋する時間が長かった分、結婚で目が覚めたのかもしれませんわね」
「そんな自虐的にならなくても。単なる倦怠期じゃないの?」
「倦怠期……。つまり、浮気予備軍ですわね」
「シャロンちゃん!」
さすがにクラーラが止めた。疑うのは当然だし想像するのは自由だ。それでも言葉にしてしまうとまるで事実であるかのように錯覚してしまう。自己暗示だ。確信もなく疑って意固地になっては不幸になるばかりである。
「そんなこと言うもんじゃないわ。シャロンちゃんだって、信じているんでしょう?」
シャロンが唇を噛んだ。どことなく悔しそうなのは、図星だったからだろう。
「拒否されて辛いのはわかるわ。デリケートなことですものね、本人に直接問い質しにくいわよね」
「クラーラ様……」
十歳から二十歳まで、十年をかけた恋だ。結婚して燃え尽きたにしては、三年目は微妙すぎる。
信頼しているからこそ、応じてくれないのが辛いのだ。シャロンはサルドニクスを愛している。彼と触れ合い、愛し合いたいと思うのは当然だった。
「クラーラがついてるわ。不安になったらいつでもいらっしゃい。ね? 愚痴を言うのだって大切な心のケアだわ」
「……ありがとうございます」
シャロンがクラーラの店に来たのは、誰にも言えない苦しみを誰かに打ち明けたかったからだ。クラーラなら笑うことなく話を聞いてくれる。
夫婦仲を壊すつもりは、サルドニクスにもないのだろう。朝食は一緒にとるし、夕食に間に合わなければ必ず使いを立ててくれる。シャロンをいたわり、感謝し、愛を言葉にしてくれた。姑の訪問を聞けば控えるように諌めてくれる。そして姑の訪問数が増える。
大切にされているのはわかっているのだ。
だが、子供が欲しいと彼の寝室に行っても、困った顔で、あるいは面倒そうに避けられるのは女として傷ついた。自分にそうさせるだけの魅力がないのかと思えば苦しくてたまらない。
わたくしの何が悪いのか。落ち込むシャロンは、もの言いたげなサルドニクスの視線に気づいていなかった。
***
店に来なくなったシャロンを心配したクラーラは、ビニュエ伯爵夫妻が出席する夜会の情報を摑むと乗り込むことにした。
最近の社交界は傾向が変わってきている。
以前はほぼ貴族と上流階級が占めていたが、平民出の国民議員やその友人、新聞社の記者まで招待されるようになった。急激な変化を本能的に恐れる、貴族らしい行動ともいえる。流れを変える前に貴族側に取りこんでしまい、都合良く使おうというのだろう。
双方に立場があり、それぞれ誇りを持っている。食うか食われるかの攻防を水面下で繰り広げていた。
訪れた紳士淑女にクラーラはシャンパンで湿らせた唇を吊り上げた。
流行は女性の装いにもっとも早く訪れる。なんなら流行によってこの先の景気が予想できるほどだ。
男は黒の燕尾服一択だが、女の夜会ドレスは攻めてきている。といっても保守的な貴族の、主に夫人方はデコルテのドレスだが、未婚の女性は流行の東洋趣味を積極的に取り入れ始めた。あまり体を締め付けず、緩みを持たせ、自然な体のラインを出すのが特徴だ。
今夜のクラーラもまさにそれである。コルセットはなく、肩から腰にかけて左右にクロスさせてデコルテを作り、背中を大胆に開けている。胸元はレースを重ねることで膨らみをごまかした。袖はなく、肩、胸、腕、背中にかけて、幾重にも連ねたラインストーンのアクセサリーで飾っている。腰で留めている帯にもタッセルを垂らし、スリットの入ったスカートから覗く足はタイトスカートで隠した。歩くたびにちらっと見える白さに視線が集まるのが心地良い。
夜空のような深い青に星に見立てたスパンコールを散りばめたドレスを着たクラーラは、さながら夜の女王だった。連なるアクセサリーがクラーラの動きに合わせてシャラシャラと音を立てていた。
「こんばんは、シャロンちゃん。良い夜ね」
「クラーラ様。まぁ、そのドレスは……」
シャロンに声をかける。夫と離れていたシャロンは、クラーラをまじまじと見て絶句した。
「東洋趣味よ。どうかしら」
「素敵ですわ。なんというか……不思議な雰囲気ですわね」
ほうっとため息を吐いてシャロンが頬を染めた。うつくしさは認めても、自分で着るには大胆すぎる、といったところだろう。
「そうね。あちらの意匠は独特で神秘的だわ」
クラーラも東洋デザインをそのまま使うのではなく改造している。肌や髪の色が異なる民族のドレスだ、そのままでは悪目立ちするだけである。模倣するだけではそもそも仕立て屋とはいえない。自分でデザインしてこそだ。
まだ衝撃の抜けないシャロンに、クラーラは微笑んだ。
「……悪化したんじゃないかと心配したけど、愛されているようでほっとしたわ」
サルドニクスとのことだ。ハッとしたシャロンだが、顔をうつむかせてしまう。
「そう、思われます?」
「ええ。今夜のドレスを選んだのは旦那様でしょう? よく似合ってるわ」
夕焼けを映したような赤い巻き毛に一番星の茶金色の瞳をしたシャロンは、青みがかった薄紫のドレスを着ている。袖は短く、二の腕を飾る白いレースと長手袋の境目から覗く生肌が、清楚な色気を出していた。
ストライプ状の刺繍のポイントにはシャロンの髪と同じ色の宝石が縫い付けられ、デコルテの胸元を飾るネックレスはサルドニクスの瞳と同じ、グリーンサファイヤだった。独占欲が見え隠れする意匠である。
髪飾りは宝石と羽。高貴な貴族夫人の魅力とシャロンの可愛らしさがよく表現されていた。
「まあ……」
夫に愛されていると断言されたシャロンがはにかんだ。
そこに、サルドニクスがやってくる。
「シャロン、こちらの方は?」
「サティ」
シャロンとは夜会などで話す仲だが、そういえばサルドニクスと会うのははじめてだ。互いに名前だけはシャロンを通じて知っている。
「クラーラ様ですわ。ほら、仕立て屋の。クラーラ様、こちらがわたくしの夫で」
「サルドニクス・ビニュエです。はじめまして、お噂はかねがね伺っております」
「クラーラですわ。こちらこそ、奥様から色々と聞いておりますわ」
どことなく警戒しているサルドニクスに、クラーラは含みを持たせて応じた。思い当たるふしのあるサルドニクスが虚を突かれたように口をもごもごさせる。
「いや……。なにやらはじめて会った気がしませんね」
「そうですわねぇ。シャロンちゃんのお話はいつもサルドニクス様のことばかりで、アタクシも昔からの友人のように思いますわ」
にこやかに笑いながら握手を交わす二人の会話には、裏がある。
まずはクラーラが『シャロンのこと蔑ろにしてるんだってなこの野郎』と軽いジャブをかまし、すかさず察したサルドニクスは『どこまで知ってんの』と探りを入れている。それに対しクラーラが『一から十まで聞いてんだよ』と言った。
これでクラーラがシャロンの親戚であれば「今度我が家に遊びにお越しください」と続けただろう。わかりやすくいえば『ちょっとツラ貸せや』である。
サルドニクスにとって幸運なことにクラーラはシャロンの親戚ではなく、下町住まいで伯爵を気軽に誘える身分でもなかった。またクラーラが望んでいるのはシャロンの幸福である。過激な発言で離婚を唆すつもりはない。
内心喧嘩を売っていようと友好的な態度である以上、サルドニクスはクラーラをシャロンの友人として扱うほかないのだ。
サルドニクスは困ったように苦笑した。
「仕立て屋クラーラの名は聞いているが、君はドレスを仕立てたことがあったか?」
「いいえ。実家にいた頃は両親に反対されましたの。あなたのところに嫁てからは、お義母様の目がありますし。でも、社交界で知り合って以来のお友達ですのよ」
「そうねぇ。アタクシこんなでしょう? 古き良き文化を大切になさる方々には少々受け入れがたいようですわ」
女装というだけでもアレなのに、クラーラは仕立てて欲しければ店に来い、というスタイルである。頭の固い貴族には敬遠される条件ぞろいだ。
サルドニクスとシャロンはそういう家で育ったのだ。これまで築いてきた伝統を壊されるのを厭うのは当然である。
「そうか……」
目のやり場に困るのか、サルドニクスはチラチラとクラーラを見ては視線を反らしている。だが、どうにも気になるようで、彷徨った視線はまたクラーラに戻ってきた。より正確には、クラーラのドレスをよく見たいようだ。
おや、とクラーラは気がついた。どうやらサルドニクスはこのようなドレスに興味があるらしい。
それと同時に閃くものがあった。
シャロンとサルドニクスは古い家柄の伯爵家だ。恋愛結婚とはいえ当日まで清らかな関係であったろう。そして、男とは好きな女に見栄を張りたい生き物で、女は好きな男のためなら労苦を厭わない生き物である。
これはクラーラの出番かもしれないわ。青から紫に染め上げた扇子代わりの羽で口元を隠し、クラーラはにんまりと微笑んだ。
「嫁したからにはその家に従うものですものね。サルドニクス様、ぜひ一度お店にいらしてくださいな」
ちなみにこれは『戦うつもりなら力になるぜ』である。
サルドニクスは思いがけない言葉を聞いた、というように目を見開いた。シャロンがクラーラを見て、夫を見て、またクラーラを見る。うなずいたクラーラにシャロンは喜びを押し隠して夫の腕を取った。
***
サルドニクスの悩みは、シャロンと同じく夜のことだった。
「とにかく、彼女が辛そうで……。私が、その、ヘタなのかと思い、かといって余所で練習するわけにもいかないですし、シャロンが子供を欲しがっているのはわかるのですが、痛がっているのを無理にするのは、ちょっと……」
十五歳で十歳の少女にプロポーズするだけのことはある。サルドニクスは純情で、生真面目だった。
「はじめてなんて誰だってそんなもんよぉ」
ガッチガチに緊張してしどろもどろのサルドニクスのために、クラーラは紅茶にブランデーを垂らした。
「いや、でも、本などでは」
「本と現実を一緒にしないの」
おそらくは両家の、特にシャロンの父親から婚前交渉禁止を固く言い渡されていたのだろう。貴族の血統を守るためのそれはクラーラにも理解できる。純潔を失って謗られるのはシャロンなのだ。サルドニクスは言いつけを律儀に守り抜いた。
サルドニクスは愛を証明するために浮気も女遊びもしなかった。未婚の令息に手ほどきしようと手ぐすねを引くご婦人方に見向きもせず、若い男特有の暴力的な性衝動を自力で乗り切ったのだ。
そんなサルドニクスの教科書は本であった。クラーラの店に来るお嬢様たちが読むような恋愛小説ではない。もっとあけすけであからさまな表現を用いた、挿絵もふんだんに入った、男たちの間に裏で出回っている本。ありていにいえばエロ本である。
ようするにサルドニクスは即落ち二コマを本気にして事に及んだのだ。そりゃあ上手くいきっこない。クラーラは呆れかえった。
「サティちゃん」
と、クラーラは呼びかけた。もはやサルドニクスなど純情童貞の小僧と同じである。
「女はね、ムードを大切にするものなのよ。言葉一つ、視線一つで高めていくの」
「そ、それ、は、わかっている、つもりです……」
わかっていない。緊張感あふれる、戦場もかくやの寝室をクラーラは想像した。鼻息荒く襲いかかられたって怖いだけである。
未経験者同士の何が問題になるかといえば、性の相性がわからないことだろう。こればっかりはやってみないとわからないので、ほとんど博打である。
クラーラはサルドニクスの正面を向いていたのを斜めに座り直し、長い足を組んだ。
「そう。じゃあ『疲れてる』とか『忙しい』って言ってつれなくされた妻を、どうやってその気にさせるか教えてちょうだい」
「え……」
ぽかんとなったサルドニクスに意地悪く微笑んだ。
「女から誘うのは、殿方が考えるよりずっと勇気がいるものよ。冷たく断られたら自尊心が傷つくわ。女として見られていないのか、とね。言っておくけど『そんなつもりじゃなかった』なんていうのはなしよ」
「…………」
サルドニクスは黙り込んだ。
「……愛し合っていても、すれ違いはあるわよねぇ」
クラーラは男として一定の理解を示す。はじめてが失敗するのは男にとって屈辱なのだ。それこそ自尊心がひどく傷ついただろう。その後も妻を満足させられなかったとなれば、自分は未熟なのかと落ち込みもする。
そこで他の女に走ったり、娼館に行ったりしないのがサルドニクスの良いところだ。愛する女以外に触れたくない潔癖さは誠実である。
「サティちゃん」
「そんな……シャロンを傷つけていたなんて……」
「そうね。お姑さんからのプレッシャーもあってむきになっていたのかもしれないわ。でも、愛って義務じゃぁないでしょう」
結婚したからには愛するのが義務なら離婚などなくなる。歩み寄り、寄り添いあい、信頼することで自然と生まれるものだ。
「何もしなくても、隣で眠るだけも良かったのよ」
「それは私がつらいです」
「まあね」
愛する女が夜の装いで隣にいるのに手を出さないのは男には辛いものがある。ふとした拍子にそうした衝動が沸き起こっても、その場で処理するわけにもいかない。
「シャロンちゃんはお嬢様育ちだし、お上品な作法しか知らなそうよねぇ……。サティちゃんはそういう女が乱れるのがお好きでしょう? 昼は淑女で夜は娼婦ってやつ」
「なっ!? どう……っ!?」
自分の好みをずばり言い当てられ、サルドニクスはぼんっと赤くなった。どうして知っている、などと叫べば肯定になってしまうため、迂闊なことは言えない。
「クラーラを舐めないことね。夜会で会った時、あのドレスを着たシャロンちゃんを想像したでしょ」
あれだけそわそわしていたらわかりそうなものだ。さらには直後の来店である。来いと言ったのはクラーラだが、ようするにそういうことなのだ。
スケッチブックを取り出したクラーラは、東洋趣味のドレスを着たシャロンをざっと描いた。そこからさらに夜の装いに変化させる。手元を覗き込んでいたサルドニクスだが、真っ赤になってもじもじしはじめた。
「形から入るのも一つの手段だわ。でも、まずは話し合いなさい。恋女房でしょ、シャロンちゃんのためだったと言えばきっとわかってくれるわ」
耐え切れないとばかりに顔を覆っていたサルドニクスは、もっともな言葉に神妙にうなずいた。
***
その後、顔から湯気がでそうなほど真っ赤になったシャロンが店にやってきた。
彼女にしてみても、夜のあれそれは単なる子作りではなく愛の行為だという思いはある。が、自分の反応がかんばしくなかったことが夫を不安にさせていたとか、まさかの性癖暴露とか、色々ともういっぱいいっぱいだった。
「サティが結婚まで貞節を守っていたことは嬉しいですし、わたくし以外とする気がないと知って安心しましたが……」
かといって性癖どんとこい、とはいえないのが頭の固い貴族である。
「そんなことだろうと思ったわ」
クラーラは笑いながらスケッチブックを取り出した。
「これは……?」
「東洋趣味のナイトドレスよ。シャロンちゃんは、夜はネグリジェ?」
「はい」
ネグリジェとはその名の通り、だらしのない服のことだ。コルセットもドロワーズも着けず、締め付けはいっさいない。代わりにレースや刺繍をふんだんに使って豪華にしてあるが、基本的に夜、寝る際に着るものである。
このネグリジェの欠点は、なんといっても脱がしにくいことにあるだろう。頭からかぶったり、背中にいくつものボタンがあるので、非常にもどかしい。お互いにその気になって、いざ、という時、ネグリジェを脱ぐのに時間がかかっては興が削がれること請け合いである。
「色合いが派手に思うかもしれないけど夜は暗いしそこまで気にならないと思うわ。それよりも、暗闇に浮かび上がる、ドレスとは対照的な白い肌はさぞかし煽情的に映るでしょうね」
想像したのかシャロンの喉が上下した。クラーラがページをめくる。
「こっちはもう少し攻撃的ね。うっすらと透けた生地、見えるか見えないかの絶妙な部分にレースが入って隠してるわ。これは背中側のリボンで留めているだけだから、それを解けば……」
「ク、クラーラ様……っ」
みなまで言わずに匂わせれば、シャロンは真っ赤な頬を押さえて身悶えた。お嬢様生まれお嬢様育ちのシャロンには刺激が強すぎたようだ。
クラーラに言わせれば、ナイトドレスやネグリジェにももっとバリエーションがあって良いと思うのだ。あまりやりすぎると娼婦にする気かと非難されるが、その道のプロを参考にするのは悪いことではないはずだ。
「伯爵家の夫人が最新流行を取り入れるのは普通だけど、あまりおおっぴらにはできないわねぇ」
ようやく我に返ったシャロンは神妙にうなずいた。代替わりしたとはいえまだまだ元気な先代が目を光らせているのだ。
「そうですわね……。お義母様がまたお小言を言いますわ」
シャロンはうんざりした。ビニュエ伯爵家の嫁として品がないだのと言ってくるだろう。というか、絶対に言う。
「そこで、このドレスよ。正式な依頼人はサティちゃんなの。夫からの贈り物なら舅姑の出番はないわ」
結婚したからには嫁ぎ先に従うものという教育は貴族令嬢の常識ともいえる。この方法なら、いかに嫌味な姑も口出しはできなくなる。なにせ「夫の趣味です」と堂々と反論できるのだ。シャロンは目を輝かせた。
なによりも、一連の問題をサルドニクスが真剣に悩んでくれたのが嬉しかった。
「クラーラ様……!」
「シャロンちゃん!」
胸の前で両手を組み合わせたシャロンの肩を、クラーラが力強く抱きしめた。
「これでサティちゃんを悩殺よ!」
「はい! 頑張りますわ!」
伯爵夫人にしてはだいぶはしたないセリフを口走りながら、シャロンは意欲を燃やした。
***
さて、それからしばらく、クラーラの店はチェルシーとレオノーラを動員し、さらにはクラストロ家の伝手まで使って東洋から生地を輸入しての忙しさに見舞われた。
貴族夫人の間で東洋趣味のナイトドレスが大流行したためである。
伝統ある名家の奥様となれば下手なものを仕立てられず、デザインから生地選びまでクラーラはこだわりぬいた。このビックウェーブがいずれ夜会用ドレスのみならず普段着にまで広がっていくのだが、これはまだ先の話である。
どこから広まったかは瞭然である。シャロンとサルドニクスの仲の良さは社交界でも有名になった。なにかと人の粗を探ることの好きな連中が黙り込むしかないらしい。人の惚気ほど聞いていて馬鹿らしいものはない。しかも素だ。やっていられなくなったのだろう。
目が回るほど忙しいが、二人なりの礼だろう。おかげでチェルシーの裁縫の腕前はだいぶ上がった。仕立て屋業界は大儲けだし釣られて宝飾業界がこぞって東洋趣味のデザインを発表し、景気が回復するにつれて社会が新しいものを積極的に取り入れる風潮が生まれた。良いことづくめだ。
そんな騒ぎがひと段落した頃、シャロンとサルドニクスがクラーラの店を訪れた。
「いらっしゃーい」
ちりん、ちりん。
ベルを鳴らしてドアを開けたサルドニクスは、シャロンを気づかいながら中に通した。シャロンはずいぶんゆったりしたドレスを着ていた。
「お久しぶりねぇ、シャロンちゃん。もしかして……」
シャロンは肌艶も良く、見るからに愛されて幸福な若奥様だ。全体的にふっくらしてきている。
手が置かれたお腹を見て、クラーラは期待に笑み崩れた。
「ええ、そうなんですの」
「まあぁっ。おめでとう!」
シャロンが照れくさそうにうなずいた。サルドニクスがそっと彼女を椅子に座らせる。
「おかげさまで母子ともに健康です。安定していますし、軽い運動はしたほうが良いと医師にも薦められまして。それに、お礼も言いたかったのです」
医師『にも』ということは、姑あたりがうるさく言ってくるのだろう。幸せそうな様子から、サルドニクスがしっかりシャロンを守っているのがわかった。
「お礼なんていいわよぉ。アタシは二人のお手伝いをしただけだわ」
「それでも、この子がお腹にいるのはクラーラ様のおかげですわ」
こればっかりはクラーラも不思議だ。子供ができると女はとたんに母になる。頼りなげで不安そうだったシャロンは、ずいぶんたくましく見えた。
「これから出産ね。体力つけて、頑張ってね」
「はいっ。任せてください!」
炎のように巻き毛がきらめく。拳を握りしめて意気込む彼女はまさしく母だった。
***
正絹を素肌にまとうと少しひんやりする。艶めかしい肌触りに、シャロンは体を震わせた。これから夫の寝室へ行く、期待に胸が高鳴る。
彼女の赤毛とは反対になる青い生地に、花模様が列になって描かれたナイトドレスは極東の島国の民族衣装『キモノ』というらしい。花の影に蝶が潜み、実に意味深な意匠だ。
ガウンに似たキモノを留める帯は黒に金糸で刺繍されていた。これは夜のための装いなので、帯はやわらい質感になっている。さらにそこに帯どめという紐を何本も巻いて垂らし、崩れた印象を作っている。
着方はクラーラに教わった。恥ずかしければ襟を合わせて胸を隠し、大胆にしたければくつろげて、と言われている。
ネグリジェよりも脱ぎ着しやすく、それでいて帯があるので解く時の気分は最高潮に達するだろう。
暗がりで、青い絹は色を濃くし、シャロンの肌は輝かんばかりに白く映えている。袖が長いから隠そうと思えば隠せるのもまた色香を際立たせてくれるそうだ。
息が詰まるほどドキドキしている。
こんな気分は初夜以来だった。
サルドニクスがこれを贈ってくれた時のことを思い出す。彼の瞳はキモノを着たシャロンを想像して潤んでいた。
夫のまさかの告白には驚いたが、それでも彼なりに悩んでいたことを知り、シャロンは愛しく思った。どうやらクラーラにやりこめられたらしく、責める気にはなれなかったのだ。
これは完全な余談だが、性に関しては時代背景もあり女性の自慰行為は忌むべきこととされている。そうした経験も教育もろくにされていなかった処女がはじめてで感じるかとなれば否であろう。それどころか流血の惨事である。サルドニクスがショックで拒絶してしまうのも、まあ無理なからぬものがあった。男とはかくもデリケートなのである。
もうひとつ余談だが、では女側がその気ではなく、さっさと終わらせたい場合はどうするか。これは粘性のある香り付きの液体に浸したスポンジをあらかじめ挿入しておくのである。避妊に使われるものなので男に怪しまれることもない。ただし演技力が必要になるのはいうまでもないだろう。
ともあれシャロンには関係のない話だ。昂った体は火照り、絹にこすられた両胸の尖りは痛いほど立ち上がっている。
子供が欲しい。いいえ、サルドニクスの子供だからこそ欲しいのだ。愛の結晶を宿すことのできる身が誇らしかった。
シャロンはため息をひとつ、吐き、たまらない気持ちで夫のドアをノックした。
ネグリジェも可愛いです。幼い頃は憧れました。憧れで終わりました。




