表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
秘密の仕立て屋さん  作者: 江葉


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

75/78

フレデリック・フォーレの懇願

お久しぶりのクラーラです!

フレデリック・フォーレの再構築



 フレデリック・フォーレ子爵は彼女を見た瞬間、今までの人生を後悔した。

 彼女の名が呼ばれた途端、夜会の空気が一変する。

 まず彼女に近づいたのは、どうやら知己らしい少女たちだった。


「お姉様、お久しぶりでございます」

「わたくしたち、フランシーヌお姉様をお待ちしておりました」

「夜会でお会いできるなんて嬉しゅうございます」


 少女たちより少しだけ年上だろう彼女は、淑女らしい笑みを浮かべてその可憐な唇を開いた。


「ありがとうございます。わたくしも、またこうして皆様とお会いできること、嬉しく思いますわ」


 フランシーヌと呼ばれた彼女の一歩後ろには、彼女とはまた別の意味で、ともすれば目が合っただけで動けなくなるような迫力のある大柄な女装男が黒い瞳を潤ませて立っていたのだが、フランシーヌに目を奪われたフレデリックの視界には入らなかった。女装男にぎょっとなった友人たちも目に入らなかった。


 この時のフレデリックには、三年間も王都を離れていた後悔が胸を埋め尽くしていた。

 フランシーヌ・ドゥ・メイ・ジョルジュ伯爵令嬢。

 銀の髪、新緑に浮かぶ一滴のような瑞々しい瞳、優雅な肢体を引き立てる紫紺のドレス。腰回りを一周している大きなリボンが彼女の動きに合わせて揺れて、一挙手一投足に目を離せなかった。フレデリックの唇から思わず感動のため息が漏れる。


「ジョルジュ伯爵令嬢がついに夜会に復帰か」


 友人が感慨深そうに言った。


「彼女を知っているのか?」

「おいおい、知らないほうがおかしいぜ。フランシーヌ嬢だよ、廃太子の元婚約者で、革命の英雄、聖乙女とまで言われている。正直彼女の見た目だけでは信じられないが、さすがはジョルジュ家の姫といったところだな」

「あれが……」


 フレデリックもさすがにフランシーヌの名は知っている。

 ただし男勝りで婚約者すら見下している、冷血な令嬢としてだ。彼が王都を離れる前のフランシーヌの噂はそうしたものだった。

 その後の騒動については冬に困窮した貴族の一人としては思い出したくもない。地方領主のフレデリックは文句の一つも言ってやりたい相手だった。


 改めてフランシーヌを見る。

 彼女の周囲には令嬢たちが取り巻き、ダンスに誘いたそうな男が近づけずにいる。楽しそうに笑いながらも時折迷子の子供のように不安な瞳をして誰かを探している。そして、ほっとしたようにゆるりと唇を綻ばせた。


 フレデリックはフランシーヌに笑って欲しいと思い、後悔の念を強くした。挨拶だけを一通り済ませて後は壁の花になっている妻の存在がたまらなく煩わしかった。


 フレデリック・フォーレはメニュエル侯爵の次男であり、フォーレ子爵領の領主である。

 妻のマルティナとは三年前マルティナの社交デビュー直後に婚約、結婚した。政略ではなく恋愛結婚である。

 三年前のフレデリックは恋人に浮気され破局を迎えたばかりで、大人しく従順なマルティナなら裏切らないだろうという、やけっぱちな気分で選んだ妻だった。

 現在は子供もなく、大人しく従順な妻はひたすらつまらない女になっていた。

 そこに現れたフランシーヌは、退屈していたフレデリックの心をおおいに刺激し、夢中にさせた。フレデリックの心を直撃したのである。



 ***



 クラーラの店にやってきたのは、暗い顔をしたマルティナ・フォーレ。地味をそのまま体現したような顔立ちの女性は、夫のフレデリックがフランシーヌについて調べているのに気づき、それを盗み見てクラーラの元を訪ねたのだという。

 クラーラとフランシーヌの付き合いは王都では有名な話だ。クラーラもフランシーヌの衣裳を仕立てたことを積極的に宣伝している。さすがに傷心の少女を矢面に立たせてフォローをしないのは大人としてありえなかった。

 マルティナは夫の浮気ともいえない心変わりに疲れ果て、フランシーヌへの影響を慮って途方に暮れたように言った。


「わたくし、どうしていいのか……。ジョルジュ伯爵令嬢に顔向けもできませんし、かといって何もしていない夫を責めるのも……」


 クラーラが辛抱強く話を聞きだしたところ、マルティナの実家は伯爵家でジョルジュ家とは多少の付き合いがあるらしく、フランシーヌは顔と名前を知っている程度でもさすがに廃太子との婚約破棄から続く騒動には胸を痛め、その渦中にあった令嬢にさらに傷をつけるようなまねをする夫の無神経さに憤っているらしい。らしい、となったのはマルティナがけしてフレデリックを悪く言わないのでクラーラの憶測である。


「奥様はおやさしいのですわね」


 クラーラは探りを入れてみた。たいていの女は、浮気した男より相手の女を憎むものである。


「フランシーヌ様はわたくしより年下ですが、憧れたものでした」


 やるせなさそうにため息を吐く。なるほど、身分的、年齢的にできなかったが、マルティナもフランシーヌを「お姉様」と呼びたい一人であったようだ。


「フレデリック自身は子爵ですがご実家は侯爵家。わたくしと結婚していなければ、あるいは……とも思います。乱の影響で領地は荒れましたが、このたび炭鉱が発見されまして、フォーレ家の先は明るくなりましたもの」


 炭鉱の発見。それこそがフレデリックが妻を伴って王都に来た理由である。

 繁栄が約束されたといっても一度荒廃した町を復興させるのは容易ではない。人が集まれば宿がいる。飯を食べさせるための食糧、鉱山開発の設備、衣服や道具を売る店。男が集まれば当然その手の女たちを集めねばならず、医者や酒場も必要だ。そして今のフォーレ家にはそれらを準備できる資金がなかった。

 つまりは出資者を求めて王都に来たのだ。それが女に現を抜かすようではどうしようもない。

 羞恥と悔しさの滲む、どこか諦めたようなマルティナに、クラーラはしみじみ言った。


「……奥様は、旦那様を愛してらっしゃるのねぇ」

「…………」


 マルティナは頬を染め、途方に暮れた子供のような瞳になった。


「クラーラ様は、結婚前のわたくしが何と呼ばれていたかご存知でして?」

「いいえ」

「ビンギス家の無色姫、壁の花令嬢。いてもいなくても、いいえ、いるかどうかもわからない。そんなふうに言われていましたの」


 ビンギス伯爵の末姫。遅くに生まれて溺愛されて育ち、周囲が先回りして守り抜いた結果、なんにもできない、何に対しても無関心な令嬢になった。


「両親も兄たちもわたくしをとても愛しております。わたくしが頼めばフレデリックを助けてくれましょう」

「でも、フランシーヌ嬢に夢中になっていると知られたら……というわけね」

「……はい」


 それはクラーラのところに来るわけである。既婚者のフレデリックが聖乙女フランシーヌに恋慕しただけで醜聞だ。下手を打てば炭鉱は買い叩かれてしまう。


「結婚三年目かぁ……。たしかに気持ちが緩む時期だけど、女一人満足に愛せない男に浮気は向いてないわね」


 浮気、とはっきり言葉にされて胸に突き刺さったのか、マルティナがうつむいた。

 クラーラがにんまりとした悪い笑顔でマルティナの顔を覗き込んだ。


「ねえ、奥様? 旦那様の横っ面を引っ叩いてやらない?」

「え?」

「フランシーヌ嬢はアタシの友人でもあるの。大事な友人に既婚の男性が不埒な手を伸ばそうだなんて……。うふふいい度胸だわぁ」

「あ、あの、クラーラ様?」


 素材としてのマルティナは悪くない。フランシーヌほどの美貌ではなく、髪も顔立ちも地味だが、そこが良い。

 なによりマルティナは愛されることを知っている。こういう女は良くも悪くも化けるのだ。


「フォーレ子爵夫人はあなたなんだもの。社交のことは、奥様が仕切ってしまいましょう」


 栗色の髪に茶金の瞳。貴族らしく整ってはいるものの印象の薄い顔。


「クラーラに任せなさい。社交の花を開かせてみせるわ」


 酩酊するような声色と蠱惑的な黒い瞳に、惑わされたようにマルティナはうなずいていた。



 ***



 社交界とはきらびやかな世界である反面、意外なほど露骨に人を見定めるところがある。

 たとえば成りあがりの新興者が調子に乗ろうものなら紳士淑女はさりげなく目を反らし、たちまち遠ざかっていくだろう。

 古き良き歴史と伝統。それを誇りにしてこその貴族なのだ。急成長した者はまずこの洗礼を受ける。


 フレデリックは王都に屋敷を構える侯爵家の次男だが領地にいたこともあり、王都の勘を取り戻せずにいた。

 さらには彼が『あの』フランシーヌを探っているという噂がすでに囁かれている。奥方を蔑ろにして愛人ばかり、というのは貴族社会ではありがちなのでそこまで目くじら立てられることはない。が、未婚の令嬢、それもフランシーヌというのはこれ以上ないほど悪すぎた。


 フレデリックが妻のマルティナを伴って会場に入ると、令嬢たちがさっと緊張した。今夜の主催者に挨拶を済ませるとすぐにマルティナが離れていく。彼女も王都の生まれだ、友人がいるのだろうとフレデリックは気にせず挨拶回りを続けた。


「よう、フレデリック」

「ああ、君か」


 子爵になる前からの学友が声をかけてきた。給仕を呼び留め、グラスを取る。


「王都もようやく落ち着いてきたな」


 フレデリックが水を向ける。友人は穏やかな表情で会場を眺めた。


「まあな。こうしてのん気に夜会が楽しめるようにはなった。君のところはどうだ、大変だったんだろう?」

「そうだな。ろくに狩りもできなかった」


 狩猟は貴族のたしなみである。狩りに適した森、獲物となる動物、猟犬に馬など、それを世話する使用人含めて維持しなければならない。客人を招けばもてなしも必要となる。まさに金持ちの道楽だ。

 しばらく近況を話し合っていると音楽がはじまった。

 それを待っていたように、友人が声を潜める。


「……フレデリック、ほどほどにしておけよ」

「なんのことだ?」

「とぼけるな。ジョルジュ伯爵令嬢だよ。色々嗅ぎ回っているようじゃないか。既婚の男が伯爵令嬢に手を出すなんて、どう思われるかくらい知っているだろう。離婚でもするつもりか? 愛人にしたいなんて言ったら王都から生きて出られないと思えよ」

「彼女とはそんなんじゃない」

「彼女、ね」


 わかっている、と言いたげにうなずいた友人には呆れがあった。何の関係もない女性を「彼女」と人前で呼ぶ。それだけで男がどう思っているのかわかるというものだ。

 フレデリックは奥歯を噛んだ。一度見かけたフランシーヌに心を奪われ、彼女を知りたいと思った。ただそれだけなのにこれはゲスの勘繰りというものだ。心の中でひっそりと愛でることも許されないというのか。


「……友人として忠告はした。ジョルジュ伯爵令嬢の後ろに誰がいるか、知らないわけじゃないだろう」


 納得していない顔のフレデリックにそれだけを言って、友人は行ってしまった。


「…………」


 しばらく友人を目で追うと、フレデリックの知らない貴族だろう男に話しかけられていた。チラッとこちらを見る。相手の男は、笑っていた。

 そういえば、とマルティナを探すとどうやら貴族夫人らしいグループにいる。いつでも控えめな彼の妻はやはり控えめな微笑を浮かべ、時折感心したようにうなずいていた。


 フレデリックとマルティナは王都に屋敷を持たないため、メニュエル侯爵家の別邸を借りている。


「そろそろお茶会を開こうと思うの」


 茶会は夜会とは違い、もう少し気楽な集まりだ。子供の同伴も認められている。

 とはいえこれもれっきとした社交である。なにしろ噂話といえば女の他に追従を許さず、情報交換や出会いの場にもなりやすかった。ここで顔を売っておけば夜会に招待もしやすくなる。


「お義母様もお友達を連れてきてくださるそうだし、サンルームを使ってもいいかしら」

「いいんじゃないか」


 茶会も開けないようでは貴族夫人として半人前だ。フレデリックは簡単に了承した。

 それよりも、炭鉱の出資者が思ったよりも集まらないほうが問題だ。

 だからフレデリックは、彼がそっけなくすればいつもさみしそうな表情をしていたマルティナが、うきうきとした様子でさっさと席を立ったことに気がつかなかった。


 茶会の打ち合わせにやってきたのは、クラーラだけではなくマルティナの実兄の妻であるクロエもいた。


「マルティナ、まあすっかり綺麗になって」

「ありがとうございます、お義姉様もお変わりなく」


 クロエとは王都に帰って来た時の挨拶で実家に寄った時に会っている。そんなクロエの目から見ても、驚くほどマルティナは垢ぬけていた。


「クラーラ様ありがとうございます。マルティナは、何と言いますか、どうにも初対面のかたとは打ち解けにくくて……。本当はできる子ですのに評価されにくい、と悔しく思っていましたの」


 クラーラの手を握る勢いで涙さえ浮かべて喜ぶクロエに、それはあまりにもあんまりだとマルティナは言うことができなかった。

 マルティナにだって考えがあるし、言いたいこともある。しかしそれを察してくれるほど社交界はやさしくなかったのだ。反応が鈍ければ理解が悪いと思われる。社交デビュー直後ならなおさら、十五になっても頭の弱い娘だとされただろう。

 兄嫁のクロエはマルティナの鈍さを慎重で思慮深いのだと好意的に受け止めていた。一緒に暮らしていればそれくらいはわかるものだ。


「メイクを変えるのは一番手っ取り早い変身だもの。少しは自信が付いたかしら?」

「はい」


 クラーラがまず手を付けたのが化粧だった。マルティナは貴族夫人らしくそれなりに化粧をしていたが、それは少女時代とあまり変わっていなかった。いわゆる「若いんだから化粧なんかしなくてもいいのよ」と言われていた頃である。

 ドレスの趣味も独身時代と変わっていないと聞いたクラーラは、それではいけないと忠告した。


「結婚しただけで自分は何も変わっていないと思うでしょうけど、やっぱり変わっていくものよ。まず、人の目を意識しなくちゃいけなかったの」

「はい。今ならよくわかりますわ」


 マルティナは恥じ入るように眉を下げた。

 結婚すれば令嬢ではなく奥様として見られ、そういう対応を取られる。なのにいつまでも子供気分でいたら、周囲は呆れて距離を取るか、なめてかかってくるだろう。

 メイクを変えるのが変身であるとクラーラが言ったように、自分の顔を子爵夫人として描いていく一連の動作は、一人の奥様になる儀式だった。


「お茶会はどうするの?」

「サンルームの許可がでましたので、そこで。フレデリックの友人も結婚していますし、奥様方にご挨拶というのが趣旨ですわ」


 別邸に落ち着いたところでのタイミング的にもちょうどいい頃だ。フレデリックと数回夜会に出席したし、向こうも待っているだろう。

 夜会にしろ茶会にしろ、主催となればとにかく準備に時間と金がかかる。王都に来ることは事前に連絡してあったので、フレデリックとマルティナの実家、フレデリックの友人は準備万端だったが、こちらはそうはいかない。慌ただしい中で夜会をやって不手際で失敗したとなれば笑い者だ。


「音楽はどうする? サンルームだと具合が悪いかしら」

「フルートとヴァイオリンを手配しようと思っていますが嫌がられてしまうかしら?」

「音楽より食事に力を入れたほうがいいわ。両家のお母様をご友人と同伴でご招待したなら話が合わないこともあるし。ゲームを用意するとか」


 これ参考にして、と言ってクラーラが鞄から取り出したのは最新版の婦人雑誌だった。ファッションから家政まで流行が載っている。鵜呑みにしすぎるのはよくないが、参考になら役立つ情報だ。


「それと、色々言われるでしょうから笑顔を忘れないようにね。クロエさんにお話を聞いて対策しておいたほうがいいわ」

「笑顔?」


 茶会の空気を悪くするような貴婦人がいるだろうか。何のことだと顔を見合わせるマルティナとクロエに、クラーラは曖昧な笑みを浮かべた。


「結婚三年目で、しかも王都に着いた途端に旦那様がアレでしょう? 絶対言われるわよ、子供はまだなの?」


 クロエが「ああ」とうなずいた。

 フレデリックがフランシーヌに懸想したことを知っていれば、ここぞとばかりに妻の心得を説いてくださる方が現れるだろう。目に見えるようだ。


「笑顔でかわす練習しておいたほうがいいわ。あちら様はよかれと思って言ってくるわけだし、余計なお世話だ、と怒れないのが辛いところね」

「そうね。マルティナ、練習しましょう。真に受けて聞いていたら閨でのやり方まで口出しされかねないわ」

「そんな、まさか」


 茶会で閨のことを話しだす女性がいるとはマルティナには信じられなかった。クロエがゆっくりと首を振った。


「それがいるのよ。男の子を作る方法だとか夫の誘い方だとか。わたくしだって言われたのよ」


 言っていて思い出したのかクロエの顔が屈辱に歪んだ。彼女はめでたく結婚二年目に待望の跡取りを生んでいる。それでも新婚の妻にありがたい高説を垂れてくれたご婦人がいたものだった。


「ドレスの手直しと当日のメイクは任せて。ばっちり仕上げてみせるわ」


 胸を叩いたクラーラに、マルティナは頼りない少女のような表情でうなずいた。


 クラーラから見て、マルティナの自信のなさと無関心ぶりは服にも原因があるように思えた。

 本人の趣味だという、レースやフリルがたっぷりの、ピンク色の妖精みたいなものばかりなのだ。

 好きな服を好きなように着ればいい、とクラーラは言ってやりたいが、いかんせんマルティナには似合っていなかった。年を取り、立場が変われば自然と似合うものが変わってくるのに、マルティナは少女時代で時を止めている。さらには着こなす努力もしていない。

 見た目で損をしていることに加えて、マルティナはクロエの言うように思慮深すぎて察しが悪いと思われている。自分の発言が誰かを傷つけるのでは、と言葉を飲み込む癖がついているのだろう。あるいは単に会話そのものが苦手なのかもしれなかった。

 意見を求められれば、言う。何も考えていないわけではないのだ。

 聞き上手は人に好かれるものなのに、ぼんやりしているように見える外見のせいで人が集まらない。きちんと育てていけば社交界の情報通になれる人材だ。


「そんな子を妻にしておいて放置だなんて、いい度胸じゃなぁい……」


 クラーラはメイドから預かったマルティナのドレスを作業台に広げ、一人呟いた。

 恋女房ではなかったのかもしれない。恋人に裏切られた直後で、ふと目についたマルティナを選んだだけなのかもしれない。

 けれどマルティナを好ましく思ったからこそ結婚に踏み切ったはずなのだ。そうでなければ交際を飛ばして婚約を申し込んだり、そのまま結婚などしなかっただろう。マルティナを誰にも渡したくない、強い想いがそこにはあった。


「自分のものにしたからといって安心するような男には、恋の苦味を味わってもらおうじゃないの」


 ドレスの肩や袖についたレースを丁寧にほどいていく。仕立ての良いドレスだ。手縫いでしっかりと縫われ、レースも手編みの上等なものが使われている。生地も肌触りの良い木綿が使用されていた。染めにムラもなく、丁寧な仕事ぶりだ。

 クラーラは仕立て屋として、このドレスの価値をよく理解している。


 蒸気機関がやってくるより少し早くミシンをはじめとする機械が服飾業界に参入してきた。針子は針ではなくミシンを踏むようになり、レースは機械が編んで品質は統一されるだろう。刺繍も同様だ。誰がやっても同じになる。

 それが悪いことだとはクラーラは思わない。安価な服が出回れば一般庶民もおしゃれに目覚め、誰もが清潔な服を着られるようになる。それは間違いなく良いことだ。

 だが、消えていくものもある。レースを見ながら思った。レース編みはとにかく根気が必要だ。タティングレースやマクラメレースならクラーラも一人で編めるが、ボビンレースなどは時間がかかりすぎてとても無理だ。地方で編まれていた伝統は、安価な機械に押されて姿を消す。

 その時のために、クラーラはできるだけ手編みのレースを残しておきたかった。


 仕立て直しはこの過剰なまでのレースを取り払い、未婚の令嬢そのもののピンクにもう少し暗い色を重ねて年相応の落ち着きを出す形にする。

 とはいえマルティナの好みを全否定するつもりはなかった。似合うものと好みをどう上手に組み合わせるかも仕立て屋の腕の見せ所だ。

 それに、とクラーラは思う。

 このドレスを作った仕立て屋は意地もあったのだろう。マルティナではドレスを引き立てることができないと薄々勘付いた上で、それでも最上級のものを使いとても丁寧に仕上がっている。

 この心意気を無駄にしてはならないわ。あなたの誇りにかけて、マルティナをふさわしくしてみせるからね。

 クラーラは深呼吸をひとつして、ドレスに鋏を入れた。



 ***



 マルティナの夫であるフレデリックは、王都の社交界の陰湿さを忘れていた。

 妻そっちのけでフランシーヌのことを聞きまわり、なんとか会えないかと彼女の動向を調べているフレデリックは、たちまち嘲笑の的になった。若い娘のいる貴族はフレデリックに近づくなと言って娘を遠ざけ、婦人方は妻を蔑ろにしているフレデリックに眉を顰める。

 彼の事業に将来性があるとその気になっていた者たちも、これでは手の平を返すしかない。事業主であるフレデリックの人柄が信頼できなければ一緒に仕事などやっていられないのは当然だった。


 引退した父や、侯爵を継いだ兄にも注意を受けた。そんなつもりはないと否定しても、こそこそとフランシーヌを嗅ぎまわっていたのは事実である。それに問題はフレデリックの気持ちではない。すでに社交界で嗤われるほど噂が広がっていることこそが問題なのだ。


「幸いジョルジュ伯爵令嬢は何もご存知ないようだ。当主代理である伯爵夫人のお耳には入っているだろうが、表立って抗議するつもりはないらしい。だが父を亡くし、幼い弟君を支えている令嬢に味方する貴族は多い。お前よりよほど注目されているのだ」


 そんなフランシーヌにまとわりつく虫を周囲がどう思うかは容易く想像できる。フレデリックは蒼ざめた。

 フランシーヌが何も知らないのはお嬢様三人組をはじめとする令嬢たちが守っているからだ。ジョルジュ家が争う姿勢を見せれば集めた証拠を持って参戦してくるだろう。


「マルティナをご覧なさい。先日の茶会では見事に女主人として立ち回り、お客様も称賛していましたよ。わたくしも鼻が高かったわ」


 反論できずに黙り込んだフレデリックに、母までそんなことを言う。お前はどこぞへ行っていて不在でしたね、とちくりと刺すのも忘れない。

 フォーレ子爵家の茶会は大成功だった。その日、フレデリックは炭鉱までの道路整備や町の復興について話し合うため、各役所を回っていた。


 贅沢ではないが工夫を凝らした料理。タイミング良く出される口直しのデザートや飲み物。特に喜ばれたのはバターをたっぷりつけたパンと、ジャムのサンドイッチである。母親世代の茶会はこれが定番だったのだ。懐かしさに話が弾んだ。フレデリックの友人の奥様は子連れが多く、ホイップクリームのケーキも用意されていた。


「ああ、ずいぶん評判が良かったようですね。うちのも喜んでいました」


 兄が笑顔で言った。メニュエル侯爵家の別邸を借りての開催だったので母と兄嫁は当然招待されている。紹介の挨拶から客人のもてなしまで、さりげなく侯爵家を立てるマルティナにずいぶん好感を抱いたようだ。


「それに、ずいぶん綺麗になったらしいな?」

「マルティナが?」


 意外なことを聞いたフレデリックに、兄が人の悪い笑みを浮かべる。


「マルティナさんも王都生まれだろう? 初恋の人でもいるのかもしれんな」

「まっ、なんてことを言うんです」


 さすがに母が咎めた。兄は兄でフレデリックの行動に苛立っていたのだろう、してやったりと笑い声をあげた。


 主催者となって客人を楽しませることに成功すれば、評判が上がり招待が舞い込んでくる。あきらかにマルティナ目当てで増えた社交の誘いに、フレデリックは素直に喜べなかった。

 マルティナの評判にはクラーラが一枚噛んでいる。クラストロ公爵家と取り引きがあり、フランシーヌとクラストロを引き合わせた立役者。仕立て屋ながらにフランシーヌの庇護者となり彼女を守っている。

 そんなクラーラがマルティナの衣裳とメイクを担当した。つまり、マルティナが間接的にだがクラストロとの縁を繋いだのだ。フレデリックはともかく、マルティナは何があってもクラーラが庇ってくれるだろう。


「お前が首の皮一枚繋がっていられるのはマルティナのおかげだ。大事にしろ」


 父が厳しい声でそう締めくくった。

 フレデリックは自分の行いが悪かったと理解しつつも、その影で名をあげたマルティナに対する悔しさと恥ずかしさで頭に血が昇った。

 その気分を引き摺ったまま別邸に帰る。子爵を継いだはいいが、王都に屋敷を未だ持てないことも、フレデリックの劣等感を刺激した。


「お帰りなさい」


 夫の出迎えに立っていたマルティナは、茶会の成功で自信が付いたのか表情が明るかった。フレデリックは思わず目を瞠った。

 結婚して三年。いつまでたっても大人しく、目立たない静かな女だと不満に思っていた。

 十五歳のマルティナは化粧も満足にできず、会話は相槌だけで盛り上げる気づかいもなく、ただそこにいるだけで視界に入っていても目に留まることのない令嬢だった。存在感がなさすぎて、この女ならとうてい浮気などできないだろうと結婚に踏み切ったのだ。


 ――こんなに綺麗な女だったのだ。


 フレデリックを見つめるマルティナは、控えめながらも艶があり、しっとりとした人妻の雰囲気を醸し出していた。

 内心うろたえたフレデリックはマルティナの変化を受け止めきれず、さらに彼女をそうさせたのは自分ではないという思いが口を突いて出てしまった。


「兄から聞いたが、どうやら初恋の人とやらとよろしくやっているらしいな?」

「え?」


 フレデリックのそれは浮気を咎められた夫が「お前がかまってくれないのが悪い」と妻に責任転嫁する常套句だ。後ろめたさが相手を責めさせる。

 いきなりでてきた「初恋の人」にマルティナは戸惑った。

 彼女が夫を出迎えに来たのは義両親の話を夫から聞くためである。咄嗟に結びつかなかった。

 マルティナの反応の鈍さはいつも通りである。彼女は詳しく話を聞こうとした。

 フレデリックはそのを、図星を刺されてうろたえていると思い込んだ。


「言い訳もしないのか。私は浮気は嫌いだと結婚前に言ったはずだ」


 フランシーヌによそ見した男とは思えないセリフである。


「まあ」


 マルティナは目を丸くした。

 何やら誤解しているようだが、それにしてもずいぶんと自分を棚上げしたものだ。


「フレデリックからそんなことを聞くとは思わなかったわ」


 マルティナに悪気はまったくなかった。彼が何をどう誤解しているのか知らないが、嫉妬してくれたのが嬉しかったのだ。

 無実であるがゆえの余裕は、しかしフレデリックには馬鹿にされたとしか感じられなかった。他の女に現を抜かしておいて、お前が言うなと罵倒されたも同然である。


「私は――私だって頑張っている! 少し他の女に目が言ったくらいであてつけか!」

「フレデリック?」

「だいたいなんだ! あいつらだって品定めくらいするくせに人のことを馬鹿にして。君まで!」


 男が集まれば女の話になるのは古今東西共通している。歌姫や高級娼婦、貴族の女性まで、女が聞けば眉を顰める話のオンパレードだ。

 クラブでの品定め程度なら可愛いもので、実際に愛人を囲ったり、不倫こそ真実の愛と言ってはばからない貴族だっている。

 ただフレデリックは、相手と時期が悪すぎた。

 フランシーヌの喪が明けて、ようやく夜会に復帰したところで王都にいなかった男が恋慕してきたのである。しかも既婚者だ。これでフランシーヌがショックを受けてまた引き籠ったらどうしてくれる、という思いが主に貴族令嬢に広がった。そして男はいつだって、団結した女に勝てないのである。

 なにもかもフレデリックの自業自得なのだが、それがわかっても反省できなければ意味がなかった。


「フレデリック、どうしたの? 落ち着いて、話を」


 だからこれはやつあたりだ。まるで母親のような慈愛に満ちたマルティナへの、甘えから出た言葉だった。


「出ていけ! 君などいなくても、私ひとりでやってみせる!!」


 マルティナは息を飲み、蒼ざめ、みるみる目に涙を溜めた。たちまち罪悪感がフレデリックを抉ったが、苛立ちを気まずさが彼の口を閉ざさせた。

 顔を覆ったマルティナが部屋に駆け出す。帰宅直後にはじまった夫婦喧嘩にオロオロしていたメイドが慌てて後を追った。

 おかえりなさいませ、と言った執事の責める目に、フレデリックは逃げるように自室に向かった。

 夜半、去っていく馬車の車輪の音が、フレデリックに追い打ちをかけた。



 ***



「信じられないわあの男!!」


 実家に帰ったマルティナから話を聞いて、誰より憤ったのは兄嫁のクロエである。

 ビンギス伯爵夫人として、マルティナの義姉として、なにより一人の女として、フレデリックの態度は許せたものではなかった。


「マルティナの努力も見ずに何が「一人でやってみせる」よ! 誰のせいでマルティナが苦労してると思ってるの!」


 クロエからの手紙で駆けつけたクラーラは、泣き腫らして落ち込むマルティナと、怒り心頭のクロエにため息をなんとか耐えた。

 まさかこんなことになるとは、クラーラは思っていなかった。

 マルティナの献身と内助の功でフレデリックに反省を促し、彼女への愛を再確認させる。フランシーヌが巻き込まれる前に解決しておきたかったのだ。

 これでは逆効果だ。フレデリックとフランシーヌの間に何もないとはいえ、マルティナが実家に帰ったことのきっかけにされてしまう。たったそれだけでも社交界では醜聞に成り得るし、フランシーヌの瑕疵になる。

 男運の悪い娘、魔性の女などと噂を立てられたらジョルジュ家も黙っていられない。その後ろにいる人物もだ。


「ごめんなさいね、マルティナちゃん。読みを誤ったアタシのせいだわ」


 クラーラは頭を下げた。まさかこれほどまでフレデリックが子供っぽく、プライドが高いと思わなかった。


「クラーラ様のせいではありませんわ」

「そうですわ。クラーラ様のせいではありません。あの男の心が狭すぎるだけですわ」


 クロエが鼻息も荒く言い切った。

 良い人だ。クロエが怒ってみせることで怒ってもいいのだとマルティナに教えている。

 怒れるクロエの勢いについていけなかったらしいマルティナの両親がいないことも評価できる。

 末娘に極めて甘いマルティナの両親は、夜遅くに突然帰ってきた娘をひたすら慰めた。離婚してもいい、王都に居づらいのなら領地に屋敷を建てましょう、と言い、むしろ歓迎しているようだった。今頃は伯爵位を継いだクロエの夫に引き留められているだろう。フレデリック本人を突撃するのもまずいが、メニュエル侯爵に抗議されると収拾がつかなくなる。全力で止めろ、とクロエに命令されていた。


「それにしても、旦那様がそんなことを言うなんてねぇ」


 ケツの穴の小さい男だ。クラーラは内心で吐き捨てる。自分の浮気を棚上げするのはよくあることだが、自分の妻が綺麗になったからと疑うなんて、自信のなさの表れだ。


「……試し行動かしら」

「試し?」


 フレデリックのことはひと通り調べた。フォーレ子爵となってからは早く一人前になろうとしてか、わざわざ領地に移住している。成人して爵位のある貴族がいつまでも実家の世話になるのは恥だが、それでも王都生まれ王都育ちの貴族には珍しい。

 マルティナと結婚し、一念発起したのか仕事に精を出していたようだ。

 そこに影が差したのは前王の即位二十年の記念祭で小麦を売り払ってからだった。金があっても食べるものがなくなり、フレデリックは恨まれた。今まで積み上げてきた実績がマイナスまで下がってしまう。彼はここでも挫折を味わったのだ。

 そこに降ってわいた幸運。炭鉱の発見は領主として力を示すチャンスだ。王都で出資者を募り、領地を復興させ繁栄させる。男なら誰だって自分の力を試したい願望を胸に秘めている。

 フランシーヌを見るまでは、心の奥底でかつての恋人を見返してやろうとも思っていただろう。

 だが、彼はフランシーヌを見つけてしまった。彼の隣りには黙って付いて来てくれた妻がいた。


「旦那様は二回、挫折したわね。結婚前の恋人には裏切られ、領地に行けば戦乱に巻き込まれた」

「でも、それは」


 フレデリックのせいではない、と言うマルティナに「わかってるわ」とうなずいた。


「彼のせいだなんて言うつもりはないわ。でも、時勢を読めずに流され、人の心の機微に疎いといえるんじゃぁなくて?」


 冬が来ることを思えば麦を売るのではなく買っておくべきだった。クラストロはそうした。

 恋人の裏切りには同情と共感を覚えるが、だからといって自分でやってどうすると思うのだ。

 傷ついて、傷つけることを知っているのならなおさらだ。心の奥底に秘めておくくらいなら噂にならなかっただろうに。


「自分に自信がない……というか、不安になっちゃったんじゃないかしら?」

「不安、ですか?」


 首をかしげるマルティナに、


「自分の無能に気づいて浮気に逃避したってことですの?」


 クロエが辛辣に言い放った。怒り冷めやらぬ兄嫁にクラーラは苦笑するしかない。


「それも多少あるかもしれないわねぇ。マルティナちゃんに愛されているか、どこまでついてきてくれるか。……きちんと幸せにできるのか、不安になったんじゃないかと思うの」


 思いがけないことを聞いたマルティナはぽかんと口を開け、慌てて手で押さえた。頬が染まっているのはまぬけ顔を見られたからか、それとも。


「でも、それでマルティナに酷い言葉を投げつけるのはどうかと思いますわ」


 クロエは納得できないようだ。当然だ、とクラーラは思う。


「男なんて小さくて弱くてバカなものよ。一生懸命自分を大きく見せようとして失敗もする。だから女は強くて心が広く深くなるのに、それに嫉妬したりもするわね」

「どうしようもないではありませんか」


 クロエの呆れ顔にクラーラが笑い声をあげた。そんなクロエでさえ自分の夫は違うと言いたげなのだから女は強いのだ。


「可愛いじゃなぁい。ま、時期もあるわよねぇ。三年目って、どうしても不満や不安が出てくるじゃない? 倦怠期ってやつね。それでいて安心感もある。ここまで一緒にやってこれたのだから、これからも大丈夫、ってね」

「甘えているのですね」


 マルティナが言った。激しさのない彼女の結論にクラーラが目を細める。


「そうよ。男が求める究極の愛の形は母の愛だわ。でも、妻は女なのよ。女であることを忘れて、捨ててはいけないわ」


 マルティナがしっかりとうなずいた。クロエはどうやら身に覚えがあったのか、神妙に姿勢を正した。


「旦那様のことはメイドと執事に報告してもらいましょう。怒っていることをわからせるためにもお家でのんびりして、社交だけは欠かさないように」

「わたくし、怒っているのでしょうか?」


 発作的に実家に帰って来てしまったが、マルティナに怒りの自覚はなかった。出ていけと言われたから出ていっただけである。


「怒っていなくても怒ってることにしておきなさい」


 いざとなったら帰れる家があるのだとフレデリックに思い知らせる意味がある。そして後々この時のことを思い出して怒りたくなれば、そういえば怒ったのだったと思い出すことができるだろう。顔を思い出して怒って責めるのは女の得意技だが、男には理不尽に感じるものでもある。きちんと怒っておくのは大切なことだ。


「クロエさん、二人が不仲だということをよそに言わないように、義両親と旦那様、使用人にも釘を刺しておいてくれるかしら。これ以上話が広がったらまずいわ」

「わかりました」


 伯爵夫人だけあって、クロエは何がどうまずいのかすぐに理解した。クラーラがこうまで言うのだ。


「マルティナちゃんは、少し勉強しましょうか。本や新聞を読んで、人に話を聞くのもいいわ。町の復興や蒸気機関について、聞いておくのはためになるはずよ」

「はい」


 夫の仕事内容を妻が知らないというのは、男のプライドだとか女が口出しするなという風潮もあるのでまあ良しとしよう。しかし、知らなくても興味を持っている、話しかけられて受け答えができるのは話し相手に好印象を与えるものである。知らないのと理解がないのとでは違うのだ。妻がまったく夫の仕事を知らないとは誰も思わないからだ。

 あとは、フレデリックである。

 今頃後悔しているだろう男には、死ぬほど後悔してもらわなければならない。

 クラーラが密かに気炎を上げているとも知らないフレデリックは、予想通り後悔の真っただ中にあった。


 マルティナを傷つけるために放った言葉は返す刀でフレデリックをも傷つけた。出ていって。それはかつての恋人がフレデリックに言ったセリフだった。手紙で別れを告げられても信じられず会いに行った彼の前で、新しい男にしなだれかかり見せつけながら、彼女が言った。

 なんて酷い言葉だろう。

 あなたを愛している私にいったいどこへ行けと言うのか。

 マルティナは出ていった。

 どうせ実家だろうと思っていても、知らせが来るまでまんじりともせずに朝を迎えていた。出ていけと言ったのはフレデリックなのに、なぜ自分を置いて行ったのだと苛立ちすらした。

 まるで子供の癇癪だ。

 言った瞬間の罪悪感は後悔となり、フレデリックを苛んでいた。


「旦那様、お客様がお見えです」


 執事がやってきて来客を告げた。執事とメイドはマルティナが出ていってからどこかよそよそしい。


「客?」


 面会の予定はない。断ろうとしたフレデリックに執事が先んじた。


「仕立て屋のクラーラです。奥様のご友人の」


 その名前は最近フレデリックの耳によく入ってきていた。

 マルティナが出ていった翌日にクラーラがフレデリックに会いに来たなら、十中八九マルティナのことだろう。フレデリックは気分が重く沈むのを感じながら「お通ししろ」と言った。

 客間で対面したクラーラは、短く切りそろえた黒髪を右側は下ろして左側を後ろに撫で付けた、ブルーグレーのツーピースドレスだった。

 襟が大きく丈は短め、ジゴ袖のジャケットにレースのついたシャツ。ハイウエストの太いベルトには赤茶色の小さなリボンが縦に三つ並んでいる。スリットスカートの丈は大胆にも脹脛辺りまでしかなかった。スリットから覗く黒い繊細なレースがなまめかしい。パンプスではなくブーツを履いている。

 ともすれば下品ではしたないとされる長さのドレスを、落ち着いた色味と化粧でカバーしていた。


「こんにちは、フォーレ子爵」


 微笑むクラーラに鋭さはなく、目元に乗せたピンク色が可愛らしい雰囲気だ。


「どうも。マルティナがお世話になっているようで」


 にこ、とクラーラが笑みを深くする。

 向かいに座り合い、お茶を一口飲んだところで、クラーラが切り出した。


「フォーレ子爵は、フランシーヌ嬢のことをどうなさるおつもりですの? 奥様と正式に離婚なさるのであれば、紹介するのはやぶさかではありませんが」


 クラーラのはったりに、フレデリックはぽかんと口を開けた。


「……は?」


 てっきりマルティナのことを責められると思っていたフレデリックは、なぜここでフランシーヌが出てくるのかわからなかった。


「奥様は大切なお客様ですけれど、フランシーヌ嬢はアタクシのお友達ですの。お友達が幸せになるのでしたらアタクシ……」


 フレデリックの頭に血が昇った。この男か女かわからぬ仕立て屋は、マルティナが友人として慕っているのにそれを裏切り、フランシーヌに付くというのだ。


「ふざけるな! フランシーヌ嬢など何の関係もない、私の妻は、マルティナだけだ!!」


 クラーラは笑みを消し、肩で息をしているフレデリックをじっと見つめた。

 負けじとフレデリックも睨みつける。


「その言葉が聞けて安心したわ」


 怒りに腰を浮かせていたフレデリックはソファに沈んだ。


「……どういうつもりですか」

「死ぬほど後悔させてやろうと思って」

「後悔なら、もうしています」

「まだまだ。泣いて喚いて縋りつくほどじゃないと、ねぇ」

「…………」


 フレデリックは頭を抱えて呻いた。


「マルティナちゃん、怒ってるわよ」

「…………」


 自分の足を見つめながら、フレデリックは唇を噛んだ。


「自分そっちのけで夫が若い娘に夢中になっていれば当然よねぇ」


 反論できなかった。一時の気の迷いとはいえ、たしかにフレデリックはマルティナを忘れていたのだ。


「マルティナちゃん、綺麗になったでしょう」

「はい」

「気がつかなかったでしょう」

「……はい」

「馬鹿なことをしたわねぇ。よりによって浮気を疑うなんて、あれじゃぁ難癖つけてマルティナちゃんと離婚したいと思われても仕方ないわ」

「ちがいます!」


 フレデリックはがばっと顔をあげた。それは違う、そんなつもりではなかったのだ。


「あれは、ただ、悔しかっただけで、綺麗になったマルティナに置いて行かれたような。仕事が上手くいかないこともあって」

「つまりはやつあたりで言いがかりつけて喚き散らしたわけね? マルティナちゃんは彼女を溺愛しているご両親に慰められてたわ。離婚して帰ってくればいいってね」

「そんな……」


 真っ青になったフレデリックは力なく首を振った。

 もはやフランシーヌへの恋慕など欠片もない。

 いや、そもそもそんな恋は幻だったのだ。理想を体現したようなフランシーヌに見惚れていただけで現実味はなかった。物語の登場人物に恋をしたようなものだ。調べて、くわしくなれば、嬉しい。それだけだった。

 叶うことなどないとわかっていたから安心して夢中になれたのだ。


「ご実家はマルティナちゃんをとても愛しているもの。兄嫁さんが小姑にあんなに好意的なのは珍しいわぁ。……離婚すればもっとマルティナちゃんを愛して大切にしてくれる人を探すわね。そしてマルティナちゃんは、家族に逆らわないわ」


 言い切ったクラーラにフレデリックは反論できなかった。

 愛されていることを疑いもせず、愛してくれる人に絶対的な信頼を抱く。マルティナはそういう女だ。

 クラーラは悪魔のような囁きを続ける。


「そうなったらあなた、見向きもされないわよ」


 絶望に染まったフレデリックに、クラーラは姫君の枕元で悪夢を見せる僧侶のように微笑んだ。


「幸福に包まれていれば不幸な過去なんて思い出しもしない。復讐なんて考えもしない。そんなこともあったわね、で笑って終わりよ」


 たとえその裏で、過去の男が後悔に暮れて泣いていようと、彼女の目には映らない。

 ありありと想像できてしまい、フレデリックはついにすすり泣いた。


「マルティナ……マルティナ……」

「好きなだけ後悔なさい。アタシはマルティナちゃんの味方よ。這い上がって来れない男なんか踏みつぶしてあげるわ」


 クラーラは立ち上がった。

 言いたいことは言った。後はフレデリックの行動しだいだ。


「フォーレ子爵? あなた、どうしてマルティナちゃんと結婚したの?」


 これはクラーラの慈悲だった。あれだけ言われて激昂せず、後悔に泣くようならまだ救いはある。

 いつだって希望とは、絶望のそこに沈んでいるのだ。



 ***



 マルティナが出ていき、クラーラの訪問から数日。

 フレデリックは後悔し続けていた。

 ビンギス家から届く報告によると、マルティナは元気で社交に励んでいるらしい。初日はさすがに落ち込んでいたが、兄嫁が怒り家族が慰め、フレデリックが手紙も書かず迎えに行かなくても平気なようだ。


 そんな中、夜会の招待状がフレデリックの元に届いた。

 主催はフレデリックが出資を願っていた建築関係の家だ。夜会となれば当然マルティナを伴わなければならなかった。


「マルティナ……」


 マルティナからの手紙は来ない。怒っているのなら当然だ。頭を下げるのはフレデリックである。

 フレデリックがマルティナを見初めたのは恋人に裏切られ傷心中の彼を気づかい、友人に引っ張られて出た舞踏会だった。

 初々しい緊張感に固まった笑顔が微笑ましく、フレデリックはハラハラしながら目で追った。マルティナはあまりダンスが得意ではないのか一曲しか踊らなかったが、ソファに座り、楽しそうに体を揺らしているのが可愛らしかった。

 その後の夜会でもマルティナはひとりぼっちで壁際に立っていた。たまに話しかけられても相手はすぐに去っていき、しかしマルティナは気に病む様子もない。

 のん気なのか、無神経なのか、どちらだろうとフレデリックは首を捻り、そして、彼女なら裏切らないのではと期待した。

 すぐに婚約を申し込んだのはそのためだ。恋などなかった。顔合わせと数回のデートでもマルティナにときめくことはなく、期待が確信に変わっただけだった。

 不思議なことに結婚後は憑き物が落ちたように裏切られるかもしれない、という不安感が消え去った。大人になったのだ、なんて得意になっていたが、それは違ったのだ。マルティナがいてくれてこその自分だった。

 フレデリックの愛で満足してくれるマルティナがいたから、フレデリックは自信が付いた。フレデリックが与えるものを喜び、素直に愛を返してくれるマルティナのおかげだった。

 ろくにデートもせず、贈り物はせいぜい記念日のみ。仕事の話をしてもわからないだろうと内心で見下して、そのくせ苦労はしっかりとかけた。化粧を変えても、ドレスを新しくしても、気づこうともしなかったフレデリックのどこを彼女は愛してくれているのだろう。


 裏切りの痛みを知っているのに、平然と妻を裏切った男だ。


 フランシーヌはフレデリックの想いも、存在すら知らないだろうが、妻ではない女性に心を奪われたのは事実である。

 別れてくれと言えばマルティナは素直に応じるだろう。きっと、フレデリックの幸せを願って。そういう愛し方のできる女性を、フレデリックは傷つけたのだ。


「マルティナ、すまない……っ。私が間違っていた……っ」


 フレデリックの涙でかさついた頬に新たな涙が伝う。

 マルティナを失うことがどれほど辛く、痛みを伴うのか。彼はクラーラが言った通り死ぬほど後悔した。


 夜会の招待状が届いたことは、すぐさまマルティナに伝えられた。

 実家の者たちはほぼ全員がどの面下げてと憤っていたが、手紙を運んできたフレデリックの執事から彼が泣いて悔いていることを教えられ、なんとか溜飲を下げた。


「逃げ出さなかっただけでも合格よねぇ」


 今すぐにでもフレデリックの元に駆けて行きたそうなマルティナを笑って引き留めたのはクラーラである。


「自分から会いに来て詫びるのが筋でしょうに。クラーラ様は甘いのですわ」


 クロエはあいかわらず辛口だ。正論なだけにマルティナは言い返すことができなかったのか、開きかけた口を閉じた。


「どんなに正しいことでも、それができる人ばかりじゃぁないのよ、クロエさん」


 クラーラがたしなめた。誰もが正解を選ぶことができるなら、人間関係はこれほど複雑怪奇になっていないだろう。


「旦那様は臆病なのね。思い切った、突発的な行動を取るのは、そんな臆病さを自分で認めたくないからではないかしら」


 思い当たることがあったのか、マルティナがうなずいた。


「……そういえば、フレデリックは反対されたことを逆にやりたがります。あの時も、麦をすべて売るのではなく備蓄は残しておいたほうがいいと止めたのですけれど……」


 家宰が止めるのも聞かず、みんながやっていることだから、と言って決行してしまったのだと言う。


「幸い両家の実家から援助がありましたので、持ちこたえることができました」


 だがそれはフォーレ子爵家のみが助かったのであって、子爵領の民に配給できるほどではなかった。なんとかできていれば自力で炭鉱発掘を進めていただろう。


「そういう人だからこそ、マルティナちゃんと結婚したのね。慎重で、思慮深くて、思いやりがある。ほとんど本能だわ。自分にはこの人しかいないって直感が働いたのね」

「なんですか、それ。マルティナに尻拭いさせるつもりだったということでは?」

「そう悪いほうにとらないの」


 憤るクロエに、マルティナは胸の中にもやっとしたものが湧き上がるのを感じ、胸に手を当てた。

 クロエの言葉はあながち間違いではない。臆病なフレデリックはマルティナならなんとかしてくれると思って結婚したともとれた。でも、でも――……。


「フォーレ子爵はね、自分の愛を疑わないマルティナちゃんを愛しているのよ」


 クラーラの言葉に、マルティナはハッと顔をあげた。


「臆病な人は時に疑い深くなるわ。これで良いのか、自分の心の在処に迷う時もある。でも、マルティナちゃんはそれを受け止められる心の深さを持っている。相手の言い分を聞いて、判断することができる。ゆっくりと、相手の気持ちに合わせて寄り添える……。そういう女性って、とても魅力的よね」


 フレデリックのような男には特に。クラーラは心の中で付け加えた。

 ようするに、馬鹿で愚鈍だと安心していられるのだ。だからこそあえて教育していこうとは思わないし、変わっていくマルティナに焦りを覚えた。安心して見下せていた女が実は有能だったなんて、一番男のプライドに障ることだ。

 そこから逃げて、放置していけばマルティナの両親が離婚に動いてくれる。非がフレデリックにあるのは明らかだ。子供もいない。マルティナが望めばとっくにそうなっていたはずだ。


 フレデリックはマルティナのありがたさを知るべきだ。妻が愛してくれるということが、どれほど尊いのかを。


「マルティナちゃんの魅力をわからせるためにも、今帰っちゃダメよ。ちゃぁんと旦那様に、迎えに来てもらいましょうね」


 思い知れとばかりに笑うクラーラに、クロエでさえ引き攣っていた。



 ***



 待ちに待ったマルティナからの手紙には「お待ちしています」とだけ書かれていた。

 マルティナは、まだ怒っているらしい。

 わけのわからない敗北感を噛みしめながら、フレデリックは馬車に揺られていた。

 ここ数日、マルティナとフレデリックの仲睦まじさが話題になっている。

 ――フォーレ子爵の細君は夫の仕事に理解を持ち、また大変な聞き上手で、それでいて気が付くと惚気られている。人を褒めるのが上手く、貴族夫人の中にはマルティナにあてられて夫婦仲が良くなった者までいるという。


 フレデリックが落とした信用をマルティナが回復させていた。それがわかるから周囲はマルティナに同情的であり、彼女はその隙を突いて事あるごとにフレデリックを持ち上げたのだ。

 妻の口から語られるフレデリックの美点に、他の誰より近い場所にいる彼女が言うのならそうなのだろう、という空気が自然と流れた。そうなればフランシーヌを探っていたのは恋慕などではなく、クラストロとの繋がりを得ようとしてのことか、と浮気が野心へと軌道修正されていった。

 それを受けての、今夜の夜会である。

 マルティナの実家であるビンギス伯爵家は、フレデリックを慇懃な態度で出迎えた。

 ちらりと不快が走ったが、自業自得である。門前払いされなかっただけ良しとしなくてはならなかった。


「フレデリック!」


 マルティナの明るい声に顔をあげる。

 二階から階段を下りてくるマルティナは、好きな人に会えた喜びに満ちあふれていた。


 秋の澄んだ青空を切り取ったようなドレスは目が覚めるようだ。いつもは淡いピンク色を好んできていたマルティナには新鮮な印象だった。

 古風なオフショルダーにはレースが縫い付けられ、両サイドにはリボンの花飾りが付けられている。花飾りの中央には首元のチョーカーと同じピンクトルマリンが使われ、空を舞う花びらのようだった。

 スカートはAライン。腰に付けられたベルトは若草色。左右に交差している部分はやや右寄りで、そこからプリーツが作られていた。花畑のような鮮やかなピンク色がマルティナの歩みに合わせて見え隠れしている。クラーラはプリーツの内側になる部分に細かい刺繍を施し、無地のドレスに遊び心を加えていた。


 青空の下、花畑に立つ初恋。


 髪もあえて古風に高く結い上げて巻き毛を作り、まるで夢に出てくる美女のようだ。


「マルティナ……」


 フレデリックの胸は感動でいっぱいになった。

 薔薇色の頬や目元が初々しい。フレデリックのために花から生まれた姫君だった。

 マルティナは嬉しそうに微笑んでいたが、フレデリックが何も言わないのをみて少しむくれた。


「褒めては、くださらないの?」


 フレデリックはハッと我に返った。そうだ、彼女は怒っているのだ。

 見れば、いつのまにかマルティナの兄とその妻が二人を見守っている。

 ここで誠意を見せなければ、フレデリックの姫君はたちまち蕾の中に隠されてしまうだろう。


「ああ……綺麗だよ。本当に、綺麗だ」


 マルティナはみるみる瞳を潤ませたが、喜びをぐっと抑えてつんと顔をそむけた。


「それだけ?」

「私の花びら姫。これからはどんな嵐からも守ると誓う。どうか私のそばで花開いて欲しい」


 マルティナの顔が少し戻った。だが、まだだ。もう一息。


「いかなる時も愛を注ぎ、大切に慈しむから……」

「…………」


 マルティナはもどかしそうに目だけを動かしてフレデリックを見上げてきた。そういえば、肝心なことを言っていない。


「すまなかった。本当に、私が悪かった。どうか帰ってきてほしい」


 緊張に喉がカラカラだ。フレデリックの喉が上下した。


「愛している。マルティナ、私の愛は君にこそあった」

「フレデリック……!」


 マルティナが胸に飛び込んできた。ドレスが皺にならないように、しかし強く抱きしめる。


「君がいないのがこんなに苦しいと思わなかった。どうか許してくれ。私のそばにいてほしい」

「わたくしもよ、フレデリック。わたくし、あなたを愛しているの」


 ああ、これだ。マルティナの小柄な体がフレデリックの体にぴったりとフィットする。求めていたのはこの形だったのだ。ようやくひとつになれた安堵感と感動に打ち震えた。


「マルティナ」

「フレデリック……」


 見つめ合う二人を「コホン」というわざとらしい咳払いが止めた。

 クラーラである。

 実をいうとマルティナの先程の態度はクラーラの指示であった。褒めさせろ。謝ってきてもすぐに許さず、縋りつかせなさい。

 まさかこんなに甘ったるい場面に、デバガメよろしく出ていくことになるとは思っていなかった。クラーラの頬まで二人に負けず劣らず赤くなっている。


「お邪魔してごめんなさいねぇ。でもちょっといいかしら?」


 クラーラはちょっと小馬鹿にしたような笑みを浮かべ、コケティッシュな歩みで二人に近づいた。

 そしておもむろに、フレデリックとマルティナを引き剥がす。


「さぁて、フォーレ子爵? 死ぬほど後悔してくれたかしら」

「……はい。もう二度と、あんな思いはごめんです」


 フレデリックは身に沁みて言った。ふぅん、とクラーラが笑う。


「あんな思いも何も、自分のせいでしょ」

「ごもっともです……」


 クラーラはマルティナを自分の隣りに立たせた。


「きちんとマルティナちゃんをご覧なさい! 綺麗になって、見違えたでしょう? アタシが彼女を変えたのよ、悔しくないの?」


 フレデリックはマルティナを見つめ、自分がそうしてやれなかったことを悔いた。マルティナが綺麗になったのは自分のためだったのに、気づいてすらやれなかったのだ。


「女って生き物はね、惚れた男のためならどんな苦労だって厭わないわよ。そういう生き物でなければ出産の痛みや子育てになんて耐えられないわ。髪をぼさぼさにしてろくに化粧もせず、自分の身なりにまったく頓着しなくても夫と子供のために働く。そういう女はそこら中にいるわ」


 そこでクラーラは両腕を広げてマルティナを示した。


「女をいつまでも綺麗にしておくのは愛する人が愛してくれるからだわ。この人のためにいつまでも綺麗でいたい、そう思わせることはとても大切よ。お互いのためにもね」

「……はい」


 クラーラが広げた手でマルティナの背を押した。


「フレデリック、わたくしあなたを愛しています。けれど、言って良いことと悪いことがありますわ。もう二度と、あのようなことをおっしゃらないでください」

「わかった。すまなかった」


 たとえこの件があったからこそ仲が深まったのだとしても、それはそれ、これはこれだ。フレデリックは胸に刻み込んだ。


「わたくし……、あなたのために綺麗になりたい、と。そう思ったのですわ。……わたくしが尽くすに値する男であってくださいませ。わたくし、どこまでもおそばにおりますわ」

「マルティナ。私の命を賭けて誓おう。フレデリック・フォーレはマルティナを愛するために生きる、と」

「~~~~っ!」


 毅然として言ったマルティナは、とうとう真っ赤になって頬を押さえた。

 自分の気持ちをこんなにはっきり伝えたことはなかった。いつだって、周囲に流されてきた。それに満足してきた。

 きちんと言葉にしなければフレデリックと離婚させられてしまう。危機感が、マルティナに自分の心を見つめさせ、マルティナの口を開かせたのだ。クラーラに自信をつけてもらえたことも大きかった。

 自分が言わなければならないのだ。自分以外の誰も、本当の気持ちなどわからない。


「そろそろ行かないと、遅れるわよ」


 クラーラが懐中時計を取り出して言った。クラーラの後ろでは、あてられた兄と兄嫁が非常に気まずそうな顔をしている。


「はい。行ってまいります」

「ありがとうございます、クラーラ殿。ご恩は忘れません」


 似合いの夫婦になった二人を満足そうに見ていたクラーラはふと思いつき、フレデリックに耳打ちした。


「ねぇ、夫婦なんですもの。何度だって妻に恋すればいいわ」


 年をとるのは古くなっていくのではない、日々新しくなっていくのだ。積み重ねた時のぶんだけ変わっていく彼女はとても素敵になっていくだろう。

 顔を赤くしたフレデリックは絶句し、そのまま馬車に乗りこんだ。



 ***



 さて、懸念されていたフランシーヌへの影響だが、これがまったくなかった。

 何しろ彼女には最強の守護神がついている。他でもない、お嬢様三人組だ。

 家の力と独自の情報網を駆使し、徹底してフランシーヌとフレデリックを会わせなかった。


 何が凄いって、この子たち、一般に手に入る情報しかフレデリックに与えていないのだ。クラーラはフランシーヌを連れて遊びに来た三人組に内心で喝采を送った。

 新聞や雑誌などで得られる情報などほんのさわりだ。中には根拠のないスキャンダルをでっちあげる雑誌もあるが、それを信じる人はほとんどいない。

 フランシーヌの為人や好み、趣味、親しい人にしか見せない笑顔。そういったものをフレデリックにはいっさい渡さなかった。

 紅茶を淹れながらクラーラは三人に微笑む。彼女たちの成長が嬉しくてたまらない。これだから、この仕事はやめられないのだ。


「最近は、なにか楽しいことあった?」


 とっておきの茶菓子を差し出しながら、フランシーヌには見えないように、クラーラはウインクした。




心の浮気と体の浮気はどちらが罪深いのかな、と思いながら書いてました。

年齢的にはフレデリック十八歳、マルティナ十五歳で婚約、翌年結婚。領地に行ったらアルベールがやらかした影響をもろにうけ、ようやく落ち着いたところで炭鉱発見。王都へ、の流れになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] いつもの浮気ものと思って読み進めたら絆を確かなものに出来た夫婦の話でしたね。 こういう円満解決も好きです。
[一言] 待ちに待った更新が...! ありがとうございます、明日からも仕事頑張れます( ノД`)
[良い点] 18なら女の方が早く大人になってしまいますね…! ひさびさのクラーラ、楽しゅうございました!! 三人娘も立派になりましたなー!! [一言] 二十歳前に挫折する事は特に男には大事な事ですね……
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ