フランソワ・ドゥ・オットー・ジョルジュの現実
爺と孫、世間を知る。
フランシーヌとお嬢様三人組を見送ったクラーラは、フランソワの待つ部屋へと向かった。
「はぁい、お爺ちゃん。覚悟は決まった?」
「クラーラ……」
フランソワは、だいぶましになったとはいえ今日の事を考えてか顔色が悪い。縋るようにクラーラを見た彼の隣には、お行儀よく座っているアドリアンがいた。
「こんにちは、アドリアン様」
「こんにちは、クラーラさん」
「今日は一緒に蒸気機関車を見学に行きましょう。いずれ輸送を担う重要な施設よ。アカデミーの代表であるフォード博士がご挨拶なさるから、お顔を覚えておくと良いわ」
輸送と軍は切っても切れない関係だ。人がいても武器がなければ戦えず、食糧がなければ戦線を維持できない。子供にもわかる理屈である。
「クラーラ、アドリアンにはまだ早くないか」
「まぁ、フランソワ様。そんなことはありませんわ。幼くともジョルジュ家の当主になられるアドリアン様には、ぜひ現実を学んでいただかないと」
「お爺様、クラーラさんの言うとおりです」
にこやかに、善意でもって道を舗装するクラーラと、善意というものを信じて疑わないアドリアンに、フランソワは目眩のする思いだった。
クラーラはこの国がこのまま平和を謳歌するとは考えていないのだ。科学の発展を急ぐのは、それでもこの国を守りたいからである。
国民議会の余波は他国にも広がっている。帝国をはじめとした国と貴族はこの国に密偵を放って情報を操作しようとしているだろう。
近衛は国王の直属部隊であり、たとえ外国と戦争になっても国王親征にでもならない限り王都から出て戦うことはない。そして今に至ってもこの国に王は不在で、王太子も空位のままだ。
マクラウドがどう動くのか注視している最中にアドリアンを外に引き摺り出す。少年が直視するにはひどく醜い現実が待ち構えているだろう。
「ジョルジュ家の男子として、今は学ぶ時です。それに、お爺様と一緒ですから!」
祖父を頼れる大人、尊敬すべき先達と信じ切って瞳でアドリアンが彼を見上げた。
これにはクラーラも良心が疼いたのか、笑みを消してフランソワに向き直る。
若いというのは素晴らしいことだ。無知であるからこそ勇敢で、痛みに鈍感である。未来への不安がない分度胸がある。フランソワとクラーラがとうに失った勇気だった。
「そうねぇ。大人の人波に攫われたら大変だもの。なんならフランソワ様に抱っこしてもらう?」
「そこまで子供ではありません!」
憤慨するアドリアンに、クラーラがわざとらしく高笑いした。
「頼もしいこと! それじゃあアタクシをエスコートしてくださるかしら?」
ハイヒールのクラーラは、ただでさえ高い身長をさらに高くしている。一瞬ムッとしたアドリアンだったが、しっかりとクラーラの手を取り、ダンスに誘うように礼をした。
「では、レディ。本日あなたをエスコートする栄誉を僕にいただけますか?」
「喜んで」
フランソワとアドリアンはスーツに黒い腕章、クラーラは藤色に黒のレースがついたドレスだ。髪は染めず、化粧も控えめにしてある。
久しぶりの外出に興奮気味のアドリアンを、エロイーズが心配そうに見送った。
若様の護衛をと言ってくる騎士を振り切って家を出る。フランシーヌたちと同じ理由で徒歩だ。手袋をしたクラーラの手を握りしめ、アドリアンは胸いっぱいに空気を吸い込んだ。彼の目には王都はうつくしく、道の先に見える王宮は父を思えばやや胸が痛むものの、輝かしい王家の住まう、国の象徴だった。
王宮が近づくにつれて大きくなる賑わいに、アドリアンは走り出しそうな顔をした。クラーラが手を引いているので先に行くことはないが、こういうところはまだ子供だ。
「フランソワ!?」
入場の行列に加わろうとしたところで声をかけられた。
フランソワと同年代の老紳士が、妻と家族を連れて立っている。妻はフランソワに軽く会釈をし、家族を隠すようにそっと前に出た。
驚きに満ちた彼の顔が一瞬笑顔になり、両腕を広げようと動いた手が止まる。
「ブルアン伯爵か。久しぶりだな」
ブルアン伯爵と呼ばれた男はクラーラとアドリアンにさっと目を走らせ、差し出されたフランソワの手を軽く握り返した。
「久しぶり。王都に帰ってきてたのか」
「ああ……。まあな」
「おい、そちらはまさか後妻か? ずいぶんごつい女だな」
まさかの後妻疑惑にフランソワが大仰に眉を顰めた。これにはクラーラも苦笑する。本人ではなく夫人に向かって挨拶した。
「こんにちは、ブルアン様。クラーラですわ」
「あっ」
「まあ、クラーラさん。どうして、その……ジョルジュ家と?」
クラーラの名前は社交界で知られている。どこかほっとした夫人がアドリアンを見て、気の毒そうに微笑んだ。
「付き添いですわ。アドリアン様に蒸気機関車を見せて差し上げたくて」
「まあ……。そうですの」
アドリアンは祖父の知り合い相手に恥をかくまいと、緊張に顔を赤くしている。
「お初にお目にかかります。アドリアン・ドゥ・オットー・ジョルジュです」
「これは、ご丁寧に。フェリクス・ド・ルイージ・ブルアンです」
懸命なアドリアンに夫人はますます憐憫の眼差しになり、ブルアン伯爵は口調こそ丁寧だがそこはかとなくそっけない態度だった。
「……旧友として忠告はしておく。あまり目立たないほうがいいぞ」
「……ああ。ありがとう」
ブルアン伯爵はそれだけ言うと、家族を促して去っていった。あまり人に見られたくなかったようで、急ぎ足に孫だろう子供たちが不思議そうに振り返ったのが印象的だった。
まるで遠ざけるようなブルアン伯爵に、あまり同年代の子供と触れ合う機会のないアドリアンはがっかりした。
「序の口よ、アドリアンちゃん」
「?」
「これくらいなら軽いもんよ。ジョルジュ家を取り巻くものから目を反らさないようになさい」
クラーラは真剣な瞳だった。
「何を言われても我慢しなさい。今日の目的はあくまでも蒸気機関車の見学よ、いいわね?」
「……うむ」
苦渋の表情でフランソワがうなずいた。
アドリアンは急に不安に襲われる。何度もそう言うということは、本来の目的が別にあるのだ。クラーラとフランソワは何を見せようとしているのか、アドリアンは周囲を見回した。
それはすぐに知ることになった。けして大きくはないが、隠すつもりのない悪意ある言葉がフランソワに投げつけられた。
「息子を死なせた男が今度は孫に手をかけるのか」
吐き捨てるような、男の声だった。
びくりとアドリアンが肩を跳ねさせ、声のしたほうを見れば、いかにも身なりの良い紳士、おそらく貴族であろう男だった。蔑みの眼差しでフランソワを流し見て友人と歩いていく。
「ジョルジュ家の子供たちもかわいそうに」
「英雄に仕立てることで息子の不名誉を晴らそうとしたのでは」
ひそやかに、どこからともなく声が言う。
「フランシーヌ嬢もお気の毒ね」
「かわいそうにな。新当主は老人の傀儡か」
「父親の二の舞にならなければいいがね」
「いまさら王都に戻ってくるなんて厚かましい」
「聖乙女をクラストロへの贄にするんじゃ?」
「恥ずかしくないのかね」
「まぁ、彼も貴族だということさ」
「かわいそうに。まだ幼いのに」
「祖父に毒される前にしかるべき教育機関に通わせるべきでは」
「盲信ほど恐ろしいものはないな」
「口では綺麗事を言えても実行できない腰抜け将軍」
「あの男に育てられるんじゃあジョルジュ家の未来は暗いな」
「おかわいそうなフランシーヌ嬢」
「かわいそうな新当主」
「貴族の矜持を捨てた男だ」
悪意が渦巻いて、アドリアンは吐き気がしてきた。
何も知らないくせに。母様の、姉様の苦しみや悲しみも、父様がどれだけ愛してくれたかも、あの革命の時にどれほど父様が王都を守ろうと奮闘していたかも何も知らないのに。どうして、どうしてそんなことが言える。たしかに父様は間違っていたのかもしれない。けれど、人を信じることが、そんなに悪いことなのか。
喉元まで激情が込み上げた時だった。不意にクラーラと繋いだ手が強く握られた。
見上げたクラーラは泰然として、悪意などそよ吹く風のように聞き流している。
フランソワは、と見れば、彼もまたなんら痛痒を受けていない表情だ。
「すごい人手ねぇ。アドリアンちゃん、迷子にならないようにね」
「……はい」
祖父を、父を悪く言うなとアドリアンは叫びたかった。
叫んでいたら、きっと悪意ある人でも気まずくなり、言葉に出すことはないだろう。子供のアドリアンに対する罪悪感から謝罪する人も、止めるよう諌める人もきっと出てくるはずだ。
だが、その後は。それみたことかと針小棒大に彼らは吹聴して回る。蒸気機関車を見たいと強請った子供のアドリアン。孫を利用するために戻ってきたフランソワ。ジョルジュ家の弾除けにされたクラーラ。
そうして言うのだ。かわいそうな子供、と。
かわいそうだと言われた子供の心がどれほど傷つくか、彼らは考えもしない。同情の裏にある優越感に浸り、言葉を飾るだけだ。
フランシーヌとアドリアンを英雄視している平民たちは、英雄のその後なんて気にも留めないのだろう。
「あ、ほら! 蒸気機関車よ!」
王宮正門を潜って中に入ると、町ほどの広さのある庭に出る。入場口は列ができるほどだったが、ここまでくればそうでもなかった。肩がぶつからないように前に進むと、ようやく本日のメインが姿を現した。
アドリアンの視界には人々の背中からチラッと見える程度である。それでも巨大な黒い車体が見えた。
「ああ、見えにくいわよね。フランソワ様、アドリアンちゃんを抱っこしてあげたら?」
「む。そうだな」
精一杯背伸びしているアドリアンにクラーラが言った。フランソワを見るクラーラの目は、言われないと気づかないのか、と暗に責めている。フランソワはというと、しょんぼりしていた。本当に気づいていなかったらしい。
伸ばされた腕にためらいながらもアドリアンは身を任せた。貴族の男子、それも跡取りとなるとこんなふうに抱き上げられることはめったにない。少なくともアドリアンが父に抱っこされたことはなかった。せいぜい母がもっと小さい時に泣いているアドリアンを抱きしめた程度だ。
嬉しさと気恥ずかしさにドキドキしながら高くなった視界に目を見開く。フシューッと蒸気を拭きだす機関車が、陽光を弾いて艶やかに輝いていた。
「すっごい……!」
「大きいわねぇ」
感嘆をあげるアドリアンとクラーラだが、フランソワは無言のままだ。彼は眉間の皺を深くして蒸気機関車を睨みつけていた。アドリアンを抱く腕に力が籠る。
どこか恐れの滲む瞳に黒い車体が映っていた。
「……あれが本当に動くのか」
「動くわよ。レールの続く限りね」
やるせなさそうなため息がアドリアンの髪を揺らした。
「……時代が変わるというのはこういうことなのだな。時の流れは今よりずっと早くなろう。心がそれに追いつくのか、それとも追い越すのか……」
兵站は軍の要だ。大陸が荒れることを予感したフランソワは、子供たちの未来を案じた。彼はアドリアンほど純粋ではない、あれがどのように使われるのか、簡単に想像がついた。
「最近では空を飛ぶ車を開発している人がいるそうですわ」
「空飛ぶ車か、現実に飛んだものはいないな」
クラーラはくすくすと笑った。
「それが、どうも芽が出そうだという話ですのよ。なんでも、エンジン? とかいうものを搭載した自動車を改造するのだとか」
「……国家予算が必要になるな」
「ええ、そうですわね。でも人が空を飛ぶなんて、ロマンですわ」
フランソワは不審そうにクラーラを見た。自動車にせよ飛行機にせよ、各国が我先に成功させようと権威をかけて取り組んでいる。夢とロマンで食っていける世界ではない。誰かが必ず軍事利用しようと考える。むしろ軍需産業が金を出す。
「さすがに火星に宇宙人がいるのを確かめるのは無理でしょうけど」
「はぁ?」
一足飛びに飛躍した話にフランソワは目を剝いた。話についていけないアドリアンはぽかんとしている。
「火星? 火星ってあの、空にある星ですか?」
「そうよぉ。最近流行のSF小説に書いてあったの」
「荒唐無稽すぎる」
「あらぁ、素敵じゃなぁい。夢を見るのは自由だわ。人の想像力は宇宙を軽く飛び越えるのよ」
あんなに大きな鉄の塊を蒸気で動かすくらいなのだ。ポォーッと汽笛が鳴り、群衆がわっと前のめりになる。
ついに動き出した蒸気機関車にクラーラとアドリアンは手を打ち合わせた。
「よく見ておきなさい。レールに乗るのも、自分の足で歩くのも、決めるのはあなたよ」
アドリアンは不思議そうな顔をしていたが、うなずいた。




