フランシーヌ・ドゥ・メイ・ジョルジュの再起・1
カァン。
鐘が鳴る。
カァン。
曇天の空に鐘が鳴る。
カァン。
一人の男の死を悼み、国中に祈りを促すように、鐘が鳴っていた。
フランシーヌ・ドゥ・メイ・ジョルジュは今もあの日の鐘を夢に見る。
フランシーヌの父、アントワーヌ・ドゥ・オットー・ジョルジュの葬儀は国を挙げて行われた。
柩には国旗がかけられ、馬車が何台も連なり、国内最高位の大司教が葬儀を取り仕切った。
軍部からは近衛だけではなく各司令官が参列し、多くの貴族がアントワーヌと最後の別れをした。その中にはマクラウド・アストライア・クラストロの姿もあった。
黒のボンバジーンに身を包んだフランシーヌは、母と弟と並んで歩きながら、ただぼんやりと鐘の音を聞いていた。
服喪期間は故人との関係にもよる。夫を亡くした妻であれば二年間、父を亡くした娘は一年半、息子であれば一年。半年が過ぎれば(あまりいい顔はされないが)社交に復帰できた。
フランシーヌの元には友人たちから手紙や花が時折贈られてきた。
丁寧な悔やみの中にはフランシーヌを気づかい、彼女の父の忠義を讃える言葉が書き綴られていた。慰められていると感じ、フランシーヌは友情に感謝する。
アントワーヌの評判はフランシーヌも知っていた。
一人の人間、あるいは父としてならアントワーヌの行動は正しかったのかもしれない。仕えた王家への忠誠、王妃と王子への情は、人としてわからなくもなかった。
だが、アントワーヌは近衛を率いる将軍だった。この国のことを考えればアントワーヌは個人的感情を排除し、王妃を諌め、いっそのこと幽閉するべきであった。
親子二代にわたって王家に甘く、結果として最悪の事態を引き起こした。そう言われている。事が起きてからならなんとでも言えるものだ。
これからジョルジュ家はどうなるのだろう。未来を考える時、フランシーヌの胸は重石が圧し掛かったようになる。跡継ぎのアドリアンはまだ成人すらしていないのだ。しばらくは母が当主として家をまとめることになる。
フランシーヌの結婚も、難しくなるだろう。
彼女が男装で議会堂に乗り込み、アルベールと戦ったことは国中に知られている。人々を導く聖乙女フランシーヌ。彼女の名は英雄として讃えられていた。
フランシーヌ自身はしょせん一人の小娘だ。伯爵令嬢という身分こそあれ、何の力もない。なのに英雄の名は独り歩きし、フランシーヌを政治利用しようとする者まで現れた。
「ああ……」
ため息ばかりが漏れる。
クラーラからも何通か届いていた。
最近の王都の様子や、社交界の動き。クラーラが後押ししたという『フェアレスティ』の美容製品が贈られて来た時は驚いた。
他にもファッションプレートや雑誌が添えられてきたこともある。クラーラらしいと思ったのは、刺繍やレースのキットだった。
『何も考えたくない時は、無心で手を動かしてみるのもいいわよ』
そんなクラーラの声が聞こえてきそうだった。
他にもフランシーヌが好きそうなお菓子やお茶など、クラーラは心を砕いてフランシーヌとの友情を繋いでいてくれる。
それでもフランシーヌは外に出ようという気になれなかった。
服喪の第一段階である半年はとうに過ぎている。家に籠ってばかりの娘を心配した母にも社交に出たらと言われていた。ジョルジュ家の女主人として、また子供たちの母として、一番つらいはずの母にまで気を使わせているのが余計に心苦しく、重い。
いつまでも甘えてばかりいないで母と弟を支えなければ。そう思うのに、フランシーヌの体は動くことを拒んでいた。
鬱々とした日々を送るフランシーヌの元に、ある日クラーラが訪ねてきた。
「はぁい、フランシーヌちゃん。お久しぶりねぇ」
「クラーラ様……っ!?」
クラーラを見たフランシーヌはあまりの衝撃に倒れそうになった。
「そ、そ、そ、その、お髪は……っ?」
「切ったのよ」
あっけらかんとしたクラーラに、フランシーヌは目眩すら覚えた。メイドに支えられるようにしてなんとか椅子に腰かけた。
クラーラの来訪に、フランシーヌが立ち直るのではと期待していたジョルジュ伯爵のメイドもさすがに驚いたらしい。紅茶を淹れる手がおぼつかず、何度も音を立てている。
「髪を切ったこと、お手紙にも書いたはずだけど。そこまで驚く?」
「驚きますわ! 切りすぎです!」
淑女は長い髪を結い上げているものだ。髪を切るのはせいぜい毛先を整える程度である。
「いいわよぉ、軽くて。洗ってもすぐ乾くし、眠る時も髪が挟まれて寝返りの邪魔になることもないのよ」
「…………」
それはちょっと羨ましい。そう思ったフランシーヌだが慌てて首を振った。そういう生活面の問題ではなく、常識の問題だ。
クラーラは何ら気にした様子もなく、肩ほどまでの長さの髪を緩くカールし、耳や首で遊ばせていた。自由で軽やかな様はいかにもクラーラである。
かちゃん、と置かれたカップを優美な仕草で持ち上げたクラーラは紅茶を一口飲み、絶句しているフランシーヌを見つめた。にこっと笑う。
「驚けるくらいの元気はあるようね。良かったわ」
「え……」
「幽霊みたいな顔色で出てきたからどうしようかと思ったわよ。でも、大きな声も出せるようだし、アタシも髪を切った甲斐があったものだわ」
「まさか、わたくしを驚かせるために切ったのですか?」
「まさか! 気分転換よ。色々あったじゃなぁい? さっぱりしたかったの」
色々、の中身はとても重いのに、重さを感じさせない口調でクラーラが言った。
フランシーヌは曖昧に微笑むしかない。
ふぅ、と息を吐いて気を落ち着けた。
「それで、クラーラ様。今日はどのような……?」
「あらぁ、聞いてないの? ドレスのお届けよ」
「えっ?」
ドレスの注文などしていない。目を丸くするフランシーヌに、クラーラが不思議そうに首をかしげた。
「伯爵夫人から半喪のドレスをということでお受けしたんだけど……、内緒でびっくりさせるつもりだったのかしら」
「母から……」
本人不在の依頼をクラーラが受けたのは、フランシーヌのドレスだったからだ。
マクラウドによって英雄にさせられ、父と初恋を喪った少女に顔を出せとはクラーラでも言えない。
あのまま何もしないでいてはフランシーヌに批難が行くと軍服を贈りつけてしまったが、我ながらひどいことをした。人でなしだとクラーラは自覚している。いくらフランシーヌが将軍家の娘だとはいえ、心得のない十六歳の少女に自ら先頭に立ち、剣を取って戦えと言ったのだ。
よく友情が壊れなかったものだと思う。
クラーラは謝罪しなかった。謝ってしまえばそれが間違いだったことになってしまう。フランシーヌの立場を――王家に逆らって王太子を追い詰め、国を混乱させた女、という立場を逆転させるにはああするしかなかった。そしてそこに、フランシーヌの感情など入り込む余地はなかった。
国民を熱狂させ、一つの方向に進ませる。あの時のフランシーヌには英雄のカリスマが宿っていた。
「ずっとお家に籠っていたんでしょう。新しいドレスを着てお出かけしてみない?」
なるほど、母とクラーラの思惑が合致したのだ。なんとかフランシーヌの心を浮き立たせようとしてくれたのだろう。
「わたくしは……」
外に出るのが、怖いのだ。
もっといえば人の目が怖い。人々がフランシーヌを見て何を言うのか知るのが怖かった。
「こんな時に、新しいドレスを着る気にはなれません。母や、弟のこともあります」
うつむいたフランシーヌに、クラーラは仕方なさそうに微笑んだ。
「そう……。また来るわ、フランシーヌちゃん。ご飯はしっかり食べて、お庭でもいいから時々お散歩しなさい。少し痩せたわ」
「はい」
フランシーヌの前を辞したクラーラは、そのまま伯爵夫人の待つ部屋へ向かった。
「クラーラ殿、いかがでしたか?」
縋るような伯爵夫人にクラーラはゆるりと首を振った。
「相当参っているようですわね。新しいドレスにもあまり関心はなさそうでしたわ」
「そう……」
クラーラは伯爵夫人の正面にあるソファに座った。
喪中に新しいドレスを仕立てるのはごく一般的だ。
そう頻繁に起こるわけではない親類縁者の不幸はともすれば前回のドレスなど着られなくなるほどの時が経っている。また、喪服であってもやはり流行に左右されるため、新しく仕立てるものなのだ。
あとは服喪期間の長さである。外出できるのは半年後からだが、その間同じドレスばかり着ているわけにはいかない。なにより喪服にもしきたりがあり、少しずつ変化していくそれで喪が明けるのを実感していくのだ。
フランシーヌは十代の少女だ。喪が明ければすぐにでも新しい婚約者を探さなければならない。だがそれも、フランシーヌの意志あってこそだ。
肝心のフランシーヌが結婚などしたくないと言えば、母親も無理強いはできなかった。柔く繊細な少女の心がアルベールの一件でどれほど傷ついたか、想像できないほど愚鈍にはなれなかった。
「ところで奥様。アタクシ不思議なのですけど……」
「何がでしょう?」
「フランソワ前将軍は一体何をしていますの?」
孫娘の大事にくよくよ寝込んだままなのか。クラーラの問いに伯爵夫人は頬を引き攣らせた。その通りだからだ。
「義父は……。フランシーヌの婚約破棄とアントワーヌの死に打ちのめされ、領地で泣き暮らしていると聞きます」
誰のせいだという思いを込めて言うも、返ってきたのはクラーラの舌打ちだった。
「あのジジイめ。軍人のくせに打たれ弱ぇな」
ボソッと呟かれた本音は全力で聞かなかったことにする。
クラーラにフランシーヌを不幸にするつもりがなかったことは、伯爵夫人もわかっている。むしろフランシーヌに降りかかる火の粉を彼女が自分で振り払えるように導いてくれたのだ。
だが、フランソワには容赦なかった。クラーラは彼を、仇敵を守護する者として、つまりは敵として認識し、冷静に排除した。ただその手段がフランシーヌだっただけである。
伯爵夫人にはクラーラを恨んでいい理由がある。感謝はしていても、心のどこかにしこりがあった。だからこそ、それにつけこんでクラーラを頼っているのだ。絶対に断られることはないという信頼があった。
「わかりましたわ。奥様、このクラーラにお任せください」
にこっと笑ったクラーラに邪気はない。
ないが、どこか一抹の不安が伯爵夫人の胸を過ぎったのだった。
***
フランソワ・ドゥ・オットー・ジョルジュは、隠居用の屋敷でひたすら過去を嘆く日々を送っていた。
軍人らしく逞しかった肉体はすっかり痩せ衰え、髪は白く伸びたままになり、頬はげっそりと扱け落ちた。身なりに構う余裕もなく、まるで幽鬼のようである。
「フランシーヌ。アントワーヌ。すまん、すまん……」
在りし日の家族の肖像に向かい同じ言葉を繰り返す。フランシーヌとアルベールを出会わせなければ。アントワーヌに忠義のなんたるかを教えていれば。いや、もっと前。マクラウドの結婚式で花嫁を攫ったエドゥアールを殴りつけていれば良かったのだ。それができたのは自分だけだった。フランシーヌ、アントワーヌ、マクラウド、すまない。
後悔と無念を書き綴った日記は早くも三冊目になりつつある。フランシーヌはかつて自分の日記を読み返して身悶えていたが、フランソワは墓に入れてもらうつもりだった。
そんな彼の耳に、ふと騒がしい音が聞こえてきた。
この屋敷の使用人は少なく、必要最低限だ。老いて意気消沈し暗く引き籠ったフランソワを心配していた友人も、近頃はとうとう顔を見せなくなった。人は弱いものだ。どんな言葉も意味を成さず、心が打ちのめされると体まで動かなくなる。
それでも屋敷の主として、何事が起きたのか確かめようとフランソワは立ち上がった。
バン! と大きくドアが開いて、ずかずかと踏み込んできた人物に息を飲む。
「臆病者の顔を見に来てやったわ!」
おろおろするメイドや執事などには目もくれず、そう言い放ったのはクラーラだった。
「な……」
クラーラは戸惑うフランソワを不躾に上から下まで眺め、フンッと鼻で笑った。
それから息を吸い込んだ。
「昔の人は言いました」
ぎくり、とフランソワが固まる。
「服装の乱れはぁ、心の乱れぇ!!」
それはかつて若き日のマクラウドとルードヴィッヒにフランソワが言ったことである。今どきの若いもんは、を枕詞にして厳しく指導したものだ。
「なぁに? そのシケた面は。こんなのがフランソワ・ドゥ・オットー・ジョルジュの成れの果てなわけぇ?」
煽るように言われてもフランソワは震えるだけだ。
「顔! 髪! 服! なんなのそれは! しゃんとなさい!!」
言うが早いかクラーラはフランソワの腕を摑むと歩き出した。慌ててついて来た執事に命令口調で言う。
「洗面はどこ?」
「はっ、こちらです」
「髭剃りの準備をしておいて。髪油も。服の用意をしておいてね」
わけがわからないまでもクラーラの勢いに呑まれてメイドたちが散っていった。
「マ、マク……」
「クラーラよ。もうボケたの?」
マクラウド、と言おうとしたフランソワをぴしゃりと遮って、クラーラは老人を洗面所に放り込んだ。有無を言わせずに顔を洗わせる。
「な、なん……」
メイドが泡立てた髭剃り用石鹸を受け取り、フランソワの口元に塗りたくる。
「なんでここに、って? 決まってるでしょ」
ん、と差し出した手に乗った剃刀をフランソワの頬に当てる。
「フランシーヌちゃんとアドリアンちゃんのためよ」
フランソワの唇がきつく結ばれた。
「あの子たちは強い子よ。父を殺されて民衆に英雄に祭り上げられて、今も必死に耐えてるわ」
耐えている。フランシーヌもアドリアンもまだまだ子供だ。そんな子供すら王都の口さがない者たちは批判しているのだろうか。疑問を込めてクラーラを見つめた。
「……フランシーヌちゃん、泣いていないそうよ」
フランソワの胸にクラーラの言葉が落ちる。
「アドリアンちゃんも、泣いてる場合じゃないと思ってるみたいね。当主としては頼もしいけど、あの子はまだ九歳の子供なのよ。ねぇ、そんな子供が泣くのを我慢しているのよ」
「…………」
「誰が、あの子たちを泣かせてあげられて? 奥様だってそうだわ。悲しいけれど、どんなに悲しくても、悲しみに浸ってはいられないわ。母なんですもの」
髭を整えたクラーラは頬に残った泡を拭い取った。湯で温めたタオルを当てる。
「お主がいるだろう」
「アタシは友人よ。それに、どの面下げてアタシの胸で泣けって言えるの。あの子たちに必要なのはアタシじゃないのよ、お爺ちゃん」
「…………」
フランソワが黙り込んだのにかまわず、クラーラは今度は髪に取り掛かった。
ろくに櫛を入れていなかったのか、ところどころ絡み合っていた。毛糸のようになったそれを、クラーラの指先が器用にほどき、ゆっくりと櫛で流していく。
「あなたはすべてを知っているわね。はじまりから終わりまで、すべて。今のフランシーヌちゃんに必要なのはそういう人だわ」
「それこそお主ではないか」
はじまりから終わりまですべてを知っているのはクラーラも同じだ。当事者でありフランシーヌの友人でもあるクラーラが慰めてやったほうがいいのではないか。そう言うフランソワに、クラーラは浮かべていた笑みを消した。
「アタシじゃぁダメ」
「なぜだ?」
「それがわからないからあなた失敗するのよ」
クラーラはふっと息を吐いた。
「アタシがあの子を慰めたら、フランシーヌちゃんはまたクラストロに利用されるわよ」
「……っ!」
フランソワがハッとした。
「クラーラはフランシーヌちゃんの友人よ。でもクラーラに依存させたら、クラストロはあの子を利用するわ。英雄の聖乙女、いくらでも使い道はあるわねぇ」
「…………」
「弱っている今はまさに絶好のチャンスだわ。人の心に付け入る常套手段でもある。あの子の元にどれくらいお見合いの話が来ているか、ご存知?」
「喪中だぞ。まだ早かろう」
「ええ。でも、今のうちに唾つけとくのは悪い手じゃぁないわね。後ろにクラストロが付いているとなればなおさらだわ。フランシーヌちゃんじゃなくて、伯爵夫人を慰めて懐に入る、なんて手も考えられるわ」
今のジョルジュ家は当主という盾のない無防備な状態なのだ。クラストロ家のみならず、多くの貴族は虎視眈々と狙っているだろう。
「それで、私か」
「そうよ。絶対の味方。すべてを知っていて、それでもあの子たちを守ってあげられるのは身内だけよ」
だから「お爺ちゃん」と言ったのだ。
王都のジョルジュ家にはクラーラの息がかかった者を入れてある。情報は宝だ、時には命よりも価値を持つ。
気の好いランドリーメイドにならハウスメイドもついぽろっと情報を漏らすものだ。家中の結束が固ければ固いほど、家で働く者には甘くなる。
わかっていて送り込んだクラーラが言えた義理ではないが、他の貴族も似たようなことはしているだろう。
「婚約者探しにかこつけて悪い男に引っかかってもアレだけど、貴族の恨みがどれだけ怖いか。年頃の娘が無防備でいられるほど社交界は綺麗じゃないわ」
貴族、の言葉にフランソワの目が見開かれた。
フランシーヌは本人の与り知らぬ間に、多くの貴族の恨みを買っている。
アルベールとの婚約破棄では跡継ぎが家督を外された。一人の女に傾倒し道理を捻じ曲げたのだ、当主の資格なしと判断されても仕方のないことではあった。
問題は、アルベールが賊を率いて王都に攻め込んだ中に、呼応した側近がいたことだ。騎士団を連れて参加することはできなくても、王都に来た時点で名乗りを上げてアルベールについてしまってはもはやどんな言い訳もできない。彼らを輩出した家は軒並み降格されていた。
「フランシーヌは、恨まれているのか……」
フランソワが呻いた。一般的な伯爵令嬢なら個人的な恨みを抱かれていても、貴族の『家』が伯爵令嬢を恨むことなどまずない。
「より正確には、恨める相手がフランシーヌちゃんしか残ってないの」
マクラウドのいるクラストロ家を恨んでも返り討ち待ったなしだし、アルベールは処刑されている。そもそもの元凶であるエドゥアールは王位を退き、フローラはアルベールに殺された。
フランシーヌは父を殺されたが、それでも民衆の圧倒的支持を得て英雄になっている。
「うぬぅ……」
フランソワが拳を握りしめた。
クラーラがぼさぼさだった白髪まじりのフランソワの頭部を椿油で整えた。
「あそこにいた人たちはフランシーヌちゃんの苦しみを見ていたけど、屋敷に閉じこもっていた貴族は知らないもの。結果だけ見ればジョルジュ家の姉弟は見事に父の仇を討ちとり国民議会を認めさせた功労者だわねぇ」
ここで問題になってくるのはフランシーヌが女であることと、アドリアンが成人前の子供である、という点だ。あの時はそれが熱狂の追い風になった。
「ねぇ、お爺ちゃん? あの貴族たちがそんな小娘と若造に恨みを抱いて、ただで済むと本気で思ってるの?」
フランソワは憤然と立ち上がった。惨劇がありありと脳裏に浮かび、身の内から痺れにも似た興奮が駆け昇ってくる。クラーラが短く言った。
「着替えて。剣を持ちなさい。王都に行くわよ」
「応!」
瞳に光が戻った老主人に、使用人たちが色めき立った。
「馬の手配はしてあるわ」
「用意がいいな」
「あなたのためじゃぁなくってよ」
スーツに黒の腕章を付け、腰に剣を下げたフランソワは颯爽と馬に跨った。
王都を守るジョルジュ家の領地は王都に近い位置にある。馬を飛ばせば一日で着くはずだ。ただし、馬を全力疾走させ続けると潰してしまうため、途中で替える必要があった。
街道には速達郵便や急ぐ人のための馬屋がある。クラーラは来る途中で馬屋に寄り、フランソワのための馬を用意しておいたのだ。
「……お主、それで来たのか」
同じく馬に乗ったクラーラに、フランソワが呆れた目を向けた。
「そうですわよ?」
クラーラは茶目っ気たっぷりに笑った。
クラーラが着ているのは黒に近い紫色のドレスだった。灰色に黒の縁取りをされた外套をまとっている。
さすがにタイトスカートではないが、馬に乗るにはいかにも不向きだ。しかも男鞍である。
「さぞや目立っただろうな」
「ちんたらしている場合じゃないと思ったんですもの」
首を振るフランソワに言って、クラーラは手綱を握った。馬が一鳴きして走り出す。フランソワが慌てて追いかけた。
時は動き出したのだ。後悔する時間は終わった。愛する者を思い出したら後は後悔すら糧にして走り出せばいい。
フランソワは先を行く者の背中を見つめ、目元を拭った。
しばらくフランシーヌの話が続きます。
彼女を復活させるのは一話じゃ無理です。




