ウェンディ・ポワンの飛翔・後
あの日見た感動はウェンディの全身に甘く響き渡った。
この想いを誰かに伝えたい。そうしなければ死んでしまうとさえ思えた。吐き出さなければ胸は苦しいまま、息が詰まって死んでしまいそう。
ウェンディは夢見心地で働いた。あの方に恥じないようにと自分に言い聞かせ、メイド長に褒められるほどであった。
好き、という感情はなんてすごいのだろう。嬉しい。誰かにふさわしくなりたい、そう思うだけで世界はこんなにも輝くのだ。
「すごいじゃなぁい。おめでとう、ウェンディちゃん」
「ありがとうございます! クラーラ様!」
同僚のメイドたちにはもう語りつくしてしまったせいか、最近は話をろくに聞いてくれなくなってしまった。というわけで、ウェンディはクラーラに報告がてら感動を話そうと店を訪れていた。
「ソシエ……、あ、教えてくれた同僚なんですけど、ソシエさんはリーヴ様のファンなので「なんでそっちなの!?」って言われてしまいましたわ」
「そうでしょうねぇ……。だって、羊役でしょ」
「かわいいんですのよ。ラストシーンではリーヴ様と輪になって姫君と騎士を祝福して」
思い出したのか両手を組んでうっとり目を閉じたウェンディにクラーラは苦笑した。
その舞台ならクラーラも社交のつきあいで観たことがある。
なんとなくだが、ウェンディがリーヴ扮する羊飼いではなく、羊に入れ込んだ理由がわかる気がした。
羊飼いは準主役のキャラクターだ。セリフも多いし名前もある。一方の羊はといえば、その他大勢のモブである。
魔王の力によって人間にさせられ、操られてもなお主人に従い、騎士と姫君の役に立とうと奮闘する。
自分に重ねたのだろう。大人しく待つだけだった男爵令嬢から、新しく生まれ変わりたいと思っているのだ。
「……良かったわねぇ」
クラーラの祝福に、ウェンディが嬉しそうにはにかむ。
「それで、あの、相談がありますの」
「なぁに? まさか羊の衣裳が欲しいなんて言わないわよねぇ?」
「そうじゃありません! その、新しい服が欲しいんです」
「服?」
「はい。メイドとして働くのでドレスは持ってきませんでした。古着屋で何着か買い足しましたけれど、その……」
実家のドレスは残しておいてもしかたがないと、思い出のものを除いて売却した。令嬢ではなくメイドになる、けじめのつもりだった。
観劇に行くようになり、いつも同じ服なのが恥ずかしくなって数着購入したが、やはり中古感は否めずどこかしっくりこない。
劇場でも周囲の華やかさに自分が浮いているような気がしてくるのだ。メイドの分際で大それたことだとは思うが、それでもやっぱり。
「綺麗に、なりたいんです」
絞り出すようにウェンディが言った。
「あの舞台はあと一ヶ月しかありません。私が観に行けるのはせいぜいあと一回。その時に、綺麗になって花を渡したいんです」
リーヴ様、と笑うソシエの顔がウェンディの胸にあった。
彼女はどちらかといえばキラキラではなくギラギラだが、リーヴと会った時はまぎれもなく恋する乙女の顔だった。
羨ましいと思ったのだ。
役者にとってはファンの一人でも、ファンにとっては憧れの人だ。その人に直接花を渡して感謝が言える、それがどれほど幸福なのか想像するだけで胸が高鳴った。
「いいわね、素敵だわぁ。とびっきりの自分になって、会いに行きたいのね」
クラーラはやさしい瞳で微笑んでいる。
「とびっきり。そうですわ、私、とびっきりの自分になりたいんです」
一つうなずいたクラーラだが、気づかわしげに言った。
「ドレスじゃなくていいのよね? うち、それでもけっこうするわよ?」
「かまいませんわ。持参金の予定で持ってきていたものがありますし、リュグレさんからの慰謝料も入りますから」
ウェンディはシオン・リュグレを結婚詐欺で正式に訴えていた。両家の親からの証言と婚約誓約書もあり、負ける要素はどこにもないと弁護士も太鼓判を押している。
シオンはどういうことだと妻に責められ、勤め先の商会も人の信用を裏切る者は評判に関わると暗に退職を匂わされているそうだ。
何度かクラストロの屋敷に押しかけた彼に面会を要求されたが、ウェンディは突っぱねた。そこは大貴族だけあって、門前払いしてくれた。
裁判になったら退職どころか懲戒免職だ。その前に泣きが入って示談になるだろう。
「お金は大切にしたほうがいいわ。雄花に実は成らず、よ。慰謝料といったって、ないところからは取れないわ」
雄花に実は成らずとは、ないところからは何もできないという意味である。免職になってしまえばシオンだって払えない。
「生地の値段を抑えましょう。そうねぇ、ウェンディちゃんの髪は濃い栗色だから、明るい色がいいわね」
クラーラがカウンターの奥から布地を取り出した。
鏡の前にウェンディを立たせ、布をあてる。
「顔立ちがくっきりしているから赤だとちょっとけばけばしいわね。黄色だと浮くし、緑はどうかしら」
一口に緑といっても様々な色がある。次々に布を当てたクラーラは、若竹色の布で手を止めた。
「……うん、これね」
一人納得したクラーラは次にスケッチブックを取り出した。
「姿勢はさすがに良いわね。ご両親がしっかりしていらしたのね、立ち方も完璧だわ。男爵令嬢からメイドへの変身……。籠の鳥が自由へ飛び立つんだわ。素敵ねぇ」
さりげなく褒められてウェンディの頬がぽっと染まった。
「ワンピースじゃなくてテーラードスタイルのツーピースはどうかしら。シャツで印象が変わるから着回しがきくわよ」
「いいですね」
「上着は襟を大きくとりましょう。スカーフやショールで飾るのもいいわね」
何もせずにいるのもいいが、スカーフやショールで襟元を飾るとまた楽しめる。ウェンディは賛成した。
「それなら色々楽しめますね」
「そうよぉ。服っていうのは着てなんぼなの。お仕着せや部屋着じゃないとっておきなら、なおさら楽しまなくちゃ」
クラーラは本当に楽しそうだ。
スケッチブックに描かれていくデザインに、ウェンディの心が躍る。羊を人間に変えたのは魔王だが、私はクラーラだ。
「次に来る時までにサイズを測っておいてね。同室の子に頼めばいいわ」
「はい」
そろそろ屋敷に帰る時間だ。
店を出ようとしたウェンディに、思い出したようにクラーラが言った。
「気をつけて帰ってね。追い詰められた人間は何をするかわからないわ。余裕があるなら辻馬車でも拾ったほうがいいわ」
シオンのことだ。浮かれていた気分が急に萎んでいく。
自業自得とはいえ毅然とした態度で法的措置をとったウェンディを恨んでいるかもしれなかった。クラストロの屋敷に押しかけた一件でもいかに彼が追い詰められているのか窺える。
「はい、気を付けます」
夕方とはいえまだ陽が高い。それでもオレンジ色の町並みは、不安を煽るかのように不気味に映った。
まるで本当に誰かが後をつけているのでは、誰かが襲ってくるのではないかという気分になる。ウェンディはバッグを胸に抱きしめ、何度も背後を振り返った。
「ポワン?」
「ひっ!」
いきなり呼び止められて、ウェンディの肩が跳ねた。
「コ、コンセオさん……」
クラストロ家の侍従、テオ・コンセオだった。見知った顔に体から力が抜ける。
「どうした、誰かに追われているのか?」
「い、いえ、そんな気がしていただけで……。コンセオさん、どうしてここに?」
「呼びに来たんだ」
「私をですか?」
ああ、とうなずいたテオは周囲を見回し、ウェンディを守るように隣を歩いた。
「ポワン家が雇った弁護士が来たんだが、お前がいないと知って伝言を置いていった。わざわざこちらに来るくらいだから早く知らせたほうがいいとメイド長に頼まれてな」
それでウェンディとシオンの両者を知っているテオが使いに出されたのだという。
「ありがとうございます。早くお屋敷に帰りましょう」
「ああ」
クラストロ家は従業員を大切にしている。だが、それは敵でない限り、という注釈がつく。
ひとたび敵だと認識したら、クラストロは容赦がなかった。
「旦那様はメイドであろうとクラストロの一員であるとお考えです。お前の受けた屈辱はすなわちクラストロの屈辱、安心なさい」
弁護士の伝言は、ポワン家を追い出されたシオンの両親が、王都に構えた妻との新居に転がり込んできた、今さら困る、なんとかしてくれとシオンが事務所で騒いだという報告だった。どうやらシオンは順調に追い詰められているらしい。
身辺に注意されたし、という一文にウェンディは頭が痛くなった。クラーラが予想した通り、弁護士からみてもシオンはそうとうやばい状態のようだ。
「ご迷惑ではありませんか?」
メイド長はそう言ってくれるが、メイドが主人に気を使わせるなど分を越えすぎている。クビになるよりましだが逆に恐ろしいものがあった。
「心配いりませんよ。旦那様はああした不実をひどくお嫌いになります」
「メイド一人守れずに天下国家が守れるか、とお笑いになられたそうだ」
侍従長も安心させるように笑っている。
マクラウドが独身を貫いている理由はウェンディも知っている。そして、心のどこかで安心していた。あんな目にあったのは自分だけではない。身勝手な共感があった。
「ですが、あまり一人で出歩かないように。休日は今と同じく与えますが、なるべく部屋で過ごすか、休みが重なった者と外出するようになさい」
「はい」
反射的にうなずいたウェンディは、クラーラのことを思い出した。
「どうしました?」
「あの、今日クラーラの店で服を注文したばかりで……。サイズ合わせや仮縫いには行かないと」
「まあ、クラーラの店ですか」
メイド長の顔が輝いた。侍従長と顔を見合わせ、なにやらうなずきあっている。
「それならお屋敷に来てもらいましょう」
「え? いいんですか?」
「クラストロの依頼なら断れないでしょう。いい機会だわ」
「そうだな。ウェンディ、よくやった」
「は、はあ……?」
何がだろうと思ったが、本当にクラーラはやってきた。仕立て屋を呼ぶなんてデビュタントのドレス以来でウェンディは緊張した。
しかも、なんだかクラーラはくたびれている。
「クラーラ様、大丈夫ですか?」
「なんでもないわ。ちょっと予想外だっただけよ」
まさかこれ幸いと呼びつけられてここぞとばかりにこき使われているなどと言えるわけがない。ざまあと言わんばかりのレギオンは後で覚えてろ。勝手に髪を切ったことへの意趣返しだろう。
自覚しているぶんタチが悪いとクラーラもわかっているので文句が言えなかった。
「クラーラ様、こちらへ来てもらうとなると、その……料金なのですが」
仕立て屋を呼べば当然追加料金がかかる。言いよどむウェンディにクラーラが提案した。
「それなんだけど、ミシンを使ってみようと思うのよ」
「ミシン、ですか?」
「機械の針子だと思えばいいわ。手縫いより早くできるし、縫い目も綺麗よ。……ただ、手縫いのやわらかさや繊細さはなくなるけどね」
そのぶん時間が短縮できる。
「シルクなら断然手縫いなんだけど、幸いウェンディちゃんの服はサージだし、そんなに差は出ないと思うわ」
ミシンといえば大きく、重く、音がうるさいと評判だ。店の二階に置いてあるが、騒音が気になるのであまり利用していなかった。
まっすぐ縫うだけならとても便利なのだが、失敗したら大変なのがミシンだ。糸を替えるのもひと手間で、手縫いのほうが楽だと思う仕立て屋は多いだろう。価格も高いので人件費と比べても足が出る。
「うちはアタシ一人でやってるし、ミシンなら早いからと買ったんだけど、今のところ自分の服くらいなのよねぇ。ウェンディちゃんが練習させてくれるなら負けとくわ」
クラーラが購入したのは依頼が立て込んだ時のためと、あとは好奇心だ。
ウェンディはクラーラの服をまじまじと見た。
テーラードスタイルのドレスにジャケット。ハイウエストでタイトな作りながら、クラーラの大きな体格を上手にごまかしていた。足首から膝まで入ったスリットに添ってちいさなボタンが並んでいるのがかわいらしい。
言われてみなければミシンで縫ったとはわからない出来である。練習と言ったのはウェンディがいらぬ罪悪感を抱かないためだろう。
「ええ、ミシンでけっこうですわ。これほど綺麗な出来栄えなら、むしろ幸運でした」
だから素直に礼を言った。ウェンディが意味を正確に読み取ったことに、クラーラが満足げにうなずいた。
じゃあね、と言って従業員用の裏門からこっそり帰ろうとしたクラーラは、待ち構えていた家令と家政婦に捕まった。
「クラーラ様、このような裏門からこそこそ出入りするなど何かありましたかな?」
「お泊りの用意はできておりますわよ」
この家令はレギオンの弟である。引き攣るクラーラを有無を言わせず客間に連行し、ドアを閉めた。もちろんそこにはレギオンが待っていた。
「飛んで火にいるなんとやら、ですね。聞きましたよ、ミシンで仕立てるなら時間がありますよね」
「裏切者~っ」
「アーネストが甘すぎるんです」
さあお仕事ですよ。
自分と同じ顔の男が実にむかつく笑みを浮かべた。
***
シオン・リュグレは結局全面降伏した。
シオンはだいぶ抵抗したが、裁判になったら最悪今の妻からも離婚を申し立てられかねない。妻はシオンにウェンディがいることを承知で略奪したのだから詐欺だと訴えることはできないが、シオンには愛想をつかしているだろう。
こんなことなら多少時間と金がかかっても、きちんと婚約を白紙にしておくべきだった。どのみち両親の問題が残っていたのだ、身ぎれいにしておけば批判はされてもいずれ時間が解決していただろう。
病気で引退を余儀なくされた父親が生き延びるとは思わなかったのだ。母親だけならどうとでもなった。気落ちしているところで王都に呼んで、妻を紹介し、やさしくしてやればコロッと絆されてくれたはずだ。そのうちに子供ができればウェンディのことなど忘れて夢中になってくれたに違いない。
シオンがその考えに至ったのは妻と交際してからだった。以前はウェンディと結婚するつもりで、両親を頼むと正式に婚約を交わした。その時は故郷に帰って店を継ぐつもりだったのだ。
幼馴染で婚約者。シオンは自分が恵まれていたことに気づかなかった。面子を潰された貴族の怒りを理解していなかった。
今まで上手くいっていたのは自分の実力だ、と自惚れていたのだ。だからウェンディの反撃にうろたえ、なすすべなく降伏するしかなかった。
仕事を免職になることはなかった。慰謝料を払ってもらわなければならないと男爵家が言ったからだ。男爵領に店を構えている以上、睨まれるのは商会にとって避けたいところだ。おまけに肝心のウェンディはクラストロ家に勤めている。結果的に、シオンはウェンディのおかげで首が繋がったといえた。
そのウェンディは完成した服を着て、明るい歓声を上げていた。
ツーピースの上着は大きな襟が特徴的だ。袖にゆったりと膨らみを持たせ、カフスにはボタンが並んでいる。左右に白のレースがついて、落ち着いていながらも失わない女心を表していた。
スカートはハイウエストで腰のくびれを作っている。足首までの長さのタイトスカートでは歩きづらいと思いきや、後ろに入ったスリットで歩幅を取れるようになっていた。歩くたびにスリットからレースが覗き、きゅっと締まった足首の色気をさりげなく見せつけている。
「貞淑な色気よね。こういう服は半熟卵みたいな女じゃないと似合わないのよ。ウェンディちゃんは一見お堅いけど中身は繊細でやさしいし、まさにぴったりだわぁ」
うふふ、と笑うクラーラは、悪戯が成功した子供のように得意げだ。
半熟卵とは言い得て妙だ。ウェンディは男爵令嬢として育てられたものの、少女の憧れを捨てきれない甘さがある。けれどお嬢様からメイドになっても潰れないだけの柔軟さを持ち合わせていた。
「そんなにやさしくないと思いますけど……」
シオンの両親は実家の離れから叩き出してしまったし、破産できないよう仕事に縛りつけた。正当な要求とはいえこれからシオンは大変だろう。
「やさしいわよぉ。示談で済ませたんでしょう? あなたが顔も見たくないとひと言言えば、あの商会は彼を王都から出したでしょうに」
「そこまでは……。奥様とご両親がいらっしゃるんですし、分割とはいえ慰謝料を払うなら王都のほうが何かと良いでしょう。別に、彼のためではありませんわ」
「そこが甘いのよ。まあ、ウェンディちゃんらしいわよねぇ」
失恋を吹っ切れても幼馴染としての思い出があり、情まで捨てきれないのがウェンディだ。
王都ならシオンの妻も働き口が見つかるだろうし、父親も良い医者にかかることができる。しばらくの間は針の筵かもしれないが、すぐに新しい話題に移って誰も彼を気にしなくなるだろう。そこは王都だ、商人の醜聞より最新の流行に目が行くものだ。
王都を追放されてもシオンが行き着く先はウェンディと遊んだ故郷しかない。それなら王都にいたほうがまだましなのだ。
「これから観劇に行くのよね? 誰か、一緒に行ってくれる人はいるの?」
「侍従のテオさんが、一度観てみたかったからと付いてきてくれます」
「テオくんかぁ。ふーん、あの子がねぇ」
クラーラはついついにやけてしまう。
テオ・コンセオは真面目な男だ。仕事は真面目、休日にも飲みに行く程度で乱れたところがない。その人柄を評価されて、新人の教育係を任されている。ウェンディの道案内を頼まれたのも、トラブルに遭った時の備えだった。
そんな真面目な男がどうやらウェンディを気にしている。初々しさにクラーラの頬も緩むというものだ。
「テオくんなら安心ね。さ、これでいいわ。楽しんでらっしゃい、ウェンディちゃん」
仕上げに淡いピンクとヴァイオレットの混じったスカーフを巻いて、クラーラは彼女の背中を押した。
「はい。行ってまいります」
羊に渡す花束とファンレターはしっかり用意した。
ウェンディを迎えに来たテオは、一瞬呼吸を忘れて彼女に見惚れ、クラーラがいることに気づいて照れたように唇を引き結んだ。
「いいわねぇ……。恋に落ちる瞬間って、何度見ても最高だわ」
しみじみしているクラーラに、すっとアーネストが近づいた。
「いかがなさいますか?」
「手出しはしなくていいわ。そうね、念の為目撃証人を作っておきましょう」
シオンが何かしてくるとは思えないが用心は必要だ。
結婚という人生の一大事に事が露見するまで見て見ぬふりをし続けた男なら、野次馬の前で暴力を揮うなどできないだろう。むしろ分割払いが途中で止まるほうが心配だ。
***
羊役は全部で五人いる。名前はなく、メエと鳴く以外はセリフもない。いわば端役だった。
パンフレットにも羊A、B、C、D、Eとしか載っていないため、ウェンディは自分が誰のファンなのか、実はわかっていなかった。
「そうなのか?」
まさか名前もわからない役者のファンとは思わず、テオは聞き返した。
「ええ。今は端役でも、きっとすぐに頭角を現しますわ。羊の中ではあの方が一番光っていますもの」
ウェンディは力強く言い切った。
ソシエと一緒に何度か観たが、開演前はやはりドキドキする。
幕が上がり舞台がはじまると、ウェンディはぐっと身を乗り出した。テオはそんな彼女を横目で見ながら、舞台に目をやった。
物語が中盤に入り、羊飼いと羊たちが現れると、ウェンディの瞳が輝いた。
羊の中で一番、といっても群衆というのは息と動きを合わせなくてはならない。テオにはどれも同じに見えた。
『魔王の呼び声』は今日が最終日だ。感極まったのか、ウェンディが涙ぐむ。ハンカチを握りしめ、真剣な瞳で羊に見入っているウェンディを、テオは眺めることにした。
やがてカーテンコール。あの方よ、とウェンディが指さした羊は遠目には金髪であることしかわからなかった。
「羊に花を渡すんだろう、早く行かないと混雑するぞ」
「あ、そうね。ありがとうテオさん」
余韻に浸っていたウェンディが花を持って立ち上がった。
楽屋では主演たちがすでにファンに囲まれていた。花が痛まないよう大事に胸に抱え、ウェンディは羊を捜した。
「すごい人だな」
最終日だけあってファンが詰めかけたのだ。ソシエがなぜ休日ではないのかと嘆いていたことを思い出す。初日と最終日は役者にとってもファンにとっても大切な日であるらしい。
「私の羊さんはどこかしら」
人と人の隙間を縫うように移動する。主演をスルーするウェンディが不思議なのか、付き人らしき数人があれという顔で振り返った。テオが体格を生かしてウェンディの壁になる。
「……あれじゃないか?」
テオの指さす楽屋の端に、ファンに囲まれる人気俳優を羨ましそうに眺めている羊がいた。
「あ……っ」
と、ウェンディがテオの袖を摑んだ。
みるみる頬を紅潮させるウェンディに、テオがポンポンと背中を叩く。思い切り息を吸ったウェンディが一歩踏み出した。
「あ、あのっ」
「え?」
汗を拭いていた羊がウェンディを見た。彼女はさっと花束を差し出すと顔をそれで隠してしまった。
「これ、受け取ってくださいっ」
「……私に?」
高い声にハッとして顔をあげる。
そんなウェンディに困ったように微笑む羊は、女性だった。鬘を取り、髪を解くと長い金髪が零れ落ちた。
「は、はい。私、あなたの演技に勇気づけられたんです」
驚いたウェンディだが、演技に男も女も関係ない。むしろ、あんなに自分を励ましてくれた羊が自分と同じ女だったことが嬉しかった。
「見ての通り、女だけど」
今まで女だとわかるとがっかりされたことがあったのか、申し訳なさそうな羊に首を振る。
「私は、あなたが好きなんです。感動しました。女性であっても変わりません。あなたの羊が私をどれほど元気にしてくれたか。あなたに出会えて、嬉しかったんです」
真っ赤になりながら言い募るウェンディに羊の顔も赤くなった。緊張に震える手から、花束がそっと抜かれる。
「……ありがとう。こちらこそ、あなたに出会えて嬉しいわ」
そう笑う彼女は汗で羊のメイクが取れかけている。等身大の人間だった。
憧れた相手が生身の人間であることにウェンディは打ち震える。涙交じりに何度も「ありがとう」と言うと、羊は頬にキスしてくれた。
「良かったな」
「ええ」
「名前わかったか?」
「ええ」
「前見えてるか?」
「ええ」
だいぶ減った人の波に、テオはぼーっとしたままのウェンディがうっかり迷子にならないよう腕を摑んで歩いていた。
憧れの人に会えて話ができて頬にキスまでされて浮かれるのはわかるが、相手は同性だ。まさかここまでとは、と思ったテオは、目の前に人が立ったのに気づいて立ち止まった。
「見つけたわ……」
地を這うような声にウェンディも我に返る。
蒼ざめてどことなくやつれたシオンと、同じく蒼ざめた彼の妻であろう女性がいた。
女はウェンディが見るからに新しい服を着ていることに、ヒステリックに怒鳴りつけた。
「なによ、婚約破棄の慰謝料って! 人から金を奪うなんて最低よ! おまけに老人二人も押し付けて、恥ずかしいと思わないの!?」
婚約破棄ではなく結婚詐欺である。突然のことにウェンディはぽかんとした。
「おい、やめろ。せっかく示談になったんだぞ」
「うるさいわね! 誰のせいでこんなみじめな思いしていると思ってるのよ!!」
彼女が結婚を迫ったのであれば主犯は彼女のほうだ。
「もうこんな男いらない! 離婚するからあなたが引き取って!」
「え、私もいらない」
ウェンディが正直に言った。シオンと妻が固まった。
ついでにテオもぎょっとしている。
「ウ、ウェンディ……」
よろよろと近づいてきたシオンを、汚いものから逃げるように躱した。
「ちょ、ちょっと。シオンを愛してたんじゃないの?」
「そう思ってたけど、ちょっと離れた隙に他の女にうつつを抜かしてコロッと浮気するような男は無理。しかも自分の親を捨てた女に押し付けてよ? 恋心なんて北風よりも早く吹き飛んだわ」
もっともである。
あらためて言葉にすると、あまりのひどさに妻も愕然となった。信じられないようにシオンを見る。今、彼女がシオンと離婚したところで、同じことをされない保障はどこにもなかった。
「そっちこそ、婚約者がいると知ってて奪うほど愛してるんでしょう? ちゃんと最後まで責任取ってください」
「いやよ! こんな借金まみれの男なんて! あなたとシオンが元に戻ればそれでいいでしょ!!」
「だから私もいらないわ。離婚するのはかまわないけど、そうしたらあなたの慰謝料は自分で払うのよ?」
「なんで私が!」
「そういうことになってるからよ。二人の慰謝料を一世帯にまとめただけよ。別れればあなたの分があなたに行くの。もっとも二人分で金額が大きかったから、だいぶ負けてあげたわ。それはなしになるわね」
負けたといっても分割支払いなので利息がついている。それと合わせるとあまり変わりはないのだが、そこは言わなかった。
ついでにシオンの両親の生活費その他五年分はまるっとシオンの借金である。
「そんな……、ひどい……っ」
ついに妻が泣き崩れた。なんだどうしたと野次馬が集まってくる。クラストロ家で見かける顔が数人いた。
ウェンディは彼女を慰める義理も義務も必要性も感じなかったが、同じ男に引っかかった女としての同情はあった。
「あのね、この人口では良いこと言うけど実は気が弱いの。強いほうに付くからあなたが尻に敷いちゃえばいいわ。死なない程度に扱き使って借金払わせたらどうかしら」
「そんな! ウェンディ、君には人の情がないのか!?」
「お前が言うな」
さすがにテオが口を挟んだ。間髪入れぬツッコミに野次馬がうなずく。
他の誰よりもシオンが言っていいセリフではない。ウェンディはもはや軽蔑を隠さなかった。
「奥様に同情はするけど、あなたにかける情なんてこれっぽっちもないわよ」
なぜか愕然となったシオンが妙におかしく、そして腹立たしい。
幼馴染だったから信じていたし、彼の良いところをたくさん知っていて、恋をした。
思えばシオンを励まし続けていたのも、甘やかせば際限なく甘えてくるとわかっていたからかもしれない。ウェンディは文句も言わずに親の面倒を見てくれる。ウェンディなら他の女と結婚しても許してくれると甘えていたのだろう。
離れているうちにその思い込みは確信に変わっていったのだ。訂正する者はおらず、シオンの中のウェンディはどこまでも都合のいい女になっていった。
「人は変わるのよ。私を情のない女だと言うのなら、そんな女にしたのはあなただわ」
ちら、と妻に目をやる。
上手くいくとは思っていなかったが、罪悪感の一つも植え付けて同情させ減額させることもできないのは予想外だったらしい。信じられないとばかりの顔だ。どうやら嘘泣きだったようで、頬は濡れてもいなかった。
「奥様ととてもお似合いよ。お幸せにね」
ウェンディは心からそう言った。言ってからなんだか心が軽くなった。うなだれているシオンは幼い頃とまったく同じ顔をしている。
けれどもう、ウェンディが彼を庇ってあげることはない。シオンはウェンディを見て、彼女が困ったように笑っていることに気づくと息を飲んだ。
「……すまなかった」
ようやく出てきた謝罪にウェンディはうなずいた。
行こう、とテオが手を伸ばしてきた。
その手を取って、二人に背を向ける。夕焼けに二人の影が長く伸びていた。
昔、こうやって手を繋いで帰ったのはシオンだった。今は別の人という事実に胸が詰まる。
「よく頑張った」
「羊さんのおかげだわ。あと、クラーラ様にメイド仲間も。テオさんも、私を励ましてくれたからよ」
一人で王都に出てきた田舎娘を一人にしないでいてくれた。
一人でいたら潰れていたのはウェンディのほうだったろう。シオンに捨てられて途方に暮れることしかできなかったに違いない。
実家に帰っても捨てられた女として社交界で笑い者になり、変わることなど考えられなかった。
「都会は怖いって思っていたけど、みんな親切ね」
「そりゃあな。見ず知らずのやつに親切にするくらいのやさしさは、どこにだってあるだろう」
「田舎はもっと閉塞的よ。認められるのに三年はかかるわ」
「……なるほど」
人柄や仕事ぶりなどを見せない限り認めてくれないのだろう。長期戦だな、とテオは口の中で呟いた。
「……テオさん?」
急に立ち止まったテオに、先を歩いていたウェンディはつんのめりそうになった。
渋い顔をしているテオの視線の先を追えば、使用人館の窓からメイドたちがずらっと顔を覗かせていた。同室の子や、ソシエもいる。
「みんな! どうしたのかしら」
パッと手を放したウェンディは笑顔で手を振った。あっさりと放れた手にため息を吐いて首を振るテオに、メイドたちは笑い、手を振り返した。
ウェンディは手強いです。推しを女性にしたのはテオへの激励。




