ミリア・トリスの宝石
身分違いの恋を乗り越えた二人の話。
スッパァァン!!
――と、恋に落ちる音がした。
ネッド・トリスが貧しい男爵家を継いだのは、十歳の時だった。
彼の両親は当時流行していた病にかかり、貧しさから医者に診せることもままならず、
ネッドの懸命な看病も虚しく高熱が続き二人揃ってこの世を去った。
叔父が後見になりトリス家当主となったネッドだが、両親の葬儀が決め手となって財産が底を尽き、彼の極貧生活がはじまった。
元より少なかった使用人をさらに減らし、その日その日をなんとかやりくりする日々。親を亡くした幼い当主が一人で庭の畑を手入れする姿は憐れを誘い、領民たちもなにくれとなく彼の世話を焼いた。
ミリア・バードがトリス家にメイドとしてやってきたのはネッドが十三歳の時。両親の死から教訓を得たネッドはとにかく健康に気を使い、自分だけではなく使用人や領民にも病や怪我に備えて薬草栽培を推奨していた。
幼いながらも心やさしい領主だと、農家の出であるミリアが衣食住だけでよいからと、半ば押しかける形でメイドになったのである。
元々あまり身分の垣根を感じることのなかったネッドは喜んで受け入れた。ミリアはネッドの二つ上の十五歳、近所のお姉さんとして慕っていたのもある。ミリアは良く働いてネッドに仕え、トリス家を支える一人になった。
とはいえ貧しさは変わらず、十五歳になり成人したネッドはグランドツアーに行く旅費も出せないまま社交界に出た。当然のことながら、結婚相手は見つからなかった。
「ですが、何が幸いするかわからないものです。社交界では見つからなかった最愛の人は、身近なところでずっと私を支えてくれていました」
暗い顔で過去を語っていたのが一転、ネッド・トリスはぽっと頬を染め、隣に座る妻を眩しそうに見つめた。
彼の妻であるミリア・トリスが恥ずかしげに微笑みを返す。
すっかり新婚ムードになった二人に、クラーラはやれやれと肩を竦めた。
「支えていたつもりはなかったんです。ネッド坊ちゃんはいつも大変そうで、村のみんなで守ってやらなきゃって。私も姉のような気分でしたし」
「幸せってそういうものよね。それが当然、でも、それがなくなったらとても耐えられない」
失くす前に気づいてよかったわね、とクラーラが言えば、ネッドはしみじみと同意した。
「まったくです。……社交界ではメイドとの結婚などと騒がれましたが、今はそれほど位階は重要視されませんからね。良い時代になったものです」
国民議会ができてから、身分差はあまり重視されなくなった。貧乏男爵の彼には同じく貧しい領民は家族と同じだ。すでに両親はなく、反対する者のいなかった二人の結婚は村中で祝福された。後見人の叔父は貧乏すぎて結婚できないのではと危ぶんでおり、ミリアの手を握りしめて涙ながらによろしく頼むと頭を下げるほどであった。
「それじゃあ今日は、奥様の夜会用ドレスのご依頼かしら?」
結婚式も済んでそろそろ生活も落ち着いてきた頃だろう。ミリアを社交界にお披露目するのかと問うクラーラに、ネッドとミリアは微妙な顔をした。
「いえ……、それが、その……」
なぜかネッドが言葉を濁す。
ミリアが意を決したように口を開いた。
「クラーラ様、私はメイドであることに誇りを持っていますわ」
ピクっとクラーラがミリアの言葉に反応した。しかしうなずいて続きを促す。
「そう。仕事が楽しいのは良いことよねぇ」
「ええ! 坊ちゃんの身の回りの世話も、畑仕事も、私大好きなんです!」
クラーラに否定されなかったミリアは手を打って喜んだ。
「奥様と呼ばれてはいますが使用人を増やせるほどの余裕はありませんし、私としてはこのまま働きたいと思っているんです」
「ミリア、それは」
ネッドが口を挟んだが、ミリアは彼を押しのけて身を乗り出した。
「国の公共事業のおかげで村にも仕事ができ、ようやく活気が戻ってきました。私は男爵夫人として社交界に行くよりも、家を守っていたいのです」
なるほど。貧乏男爵のネッドがなぜわざわざ王都にあるクラーラの店まで来たのかわかった。
新婚旅行でもあったのだろうが、ミリアのメイド気質というか彼女に染み付いた庶民感覚というか、隙あらば働く癖をなんとか変えたいのだろう。
言い切ったミリアといえば自慢げに胸を張っている。姐さん女房に弱いのか惚れた弱みか、ネッドはそんなミリアを諌める様子もなかった。
ミリアの話をうんうんと聞いていたクラーラは、さて、とネッドに水を向けた。
「それでトリス男爵、ご依頼は?」
「えっ?」
「えっ?」
話を元に戻したクラーラに、ミリアとネッドは今まで何を聞いてたのといわんばかりにきょとんとした。
「奥様のお話はよくわかりました。国の政策で持ち直してきたとはいえ未だ貧しい男爵家を、憂いてらっしゃるのね」
「ええ、そうですわ」
「でも、トリス男爵はそれではいけないと考えているのよね?」
「……はい」
「坊ちゃん」
ウチにそんなお金はない。そう言おうとするミリアに、クラーラはわざとらしいほどにっこり笑った。
「ねえ、奥様」
「はい?」
クラーラの呼びかけに、ミリアが不思議そうに返事をする。
クラーラがうなずいた。
「そう。あなたは奥様よねぇ?」
「何が言いたいんですか?」
「いえね、旦那様を坊ちゃんと呼ぶのはどうしてかしらと思いましたの」
ミリアがハッと息を飲み、ネッドが眉を下げてうつむいた。クラーラが言った。
「そういうことなんでしょう? トリス男爵」
「はい」
ミリアには、ネッドの妻になった自覚も、トリス男爵夫人になった自覚も足りないのだ。
「メイドから貴族の奥様になったからといって、浮かれて贅沢に身を任せて散財してしまうよりはよっぽどマシだわ。だからといって、メイドのままでいられても迷惑なのよ」
クラーラはメイドのままでは困る、ではなく、迷惑だと言い切った。ミリアが傷ついた表情になる。
「そんな、私……」
「トリス家に女主人がいなかったからわからなかったのでしょうけれど、メイドと奥様の仕事は全くの別物よ。農家の女将さんとは違うのよ」
貧乏という事情があったからこそ身分の垣根なく幼い当主にあれこれできたのだろうが、本来なら許されることではない。貴族は特権階級であり、労働者階級の平民とは生きる世界が違うのだ。
トリス家が男爵である以上、家の運営はますます難しくなっていくはずだ。執政であるマクラウド・アストライア・クラストロ公爵は国民議会を全面的に支持し、貴族から特権を剥奪しようと虎視眈々と狙っている。貧乏男爵など気を抜いていればあっという間に潰されるだろう。
国が行っている公共事業はそのための救済措置でもある。まずは反乱軍によって破壊された地方の再建と道路の拡張と整備。そしてそれは、国に鉄道を敷くための準備でもあった。
いずれ、馬車ではなく鉄道、そして自動車がこの国を走るようになる。関所は駅になり通行税がなくなり、物流が盛んになり地方の名産品が王都にも運ばれ、王都に集中していた様々なものが地方を潤すだろう。
シャルロッテ王女が嫁いだ帝国とも鉄道で結ぶ予定だ。この国のみならず、いずれ大陸中に鉄道網が敷かれる。
好景気への期待に包まれたこの国で、貴族夫人に求められる役割はメイドのように立ち働くことではない。いかにして自領をアピールし、盛り立てていくかだ。
「社交界っていうのは貴族だけのものじゃぁないわ。目敏い商人やギルドに顔を売って誼を通じ、正確な情報を摑んで互いに切磋琢磨していく場でもある。貴族だってただ遊んでいるだけじゃぁないのよ」
クラーラにぴしゃりと言われたミリアはうなだれた。彼女はただ真面目に毎日汗水垂らして働いていればいつか報われると思っていたのだ。
だが、クラーラの言う通りだとすれば、自分の役目はそんな生活をしている人々に報いることだ。与えられる立場ではなく、与える立場になったのだ。
クラーラは微笑んでネッドに向き直る。
「ドレスのご依頼ね?」
「はい」
ネッドはホッとしたように息を吐いた。メイドの仕事に誇りを持っているミリアの手前、自分からは言い出しづらかったのだろう。
「ちょうどいいわ。せっかく王都に来ているんだから、こちらの社交界に顔出ししておきなさいな」
「え!?」
地元の社交界ですら結婚式の時の挨拶くらいしかしていないミリアは完全に気後れした。少し脅かし過ぎたかしらとクラーラが取り繕う。
「大丈夫よ。いきなり高位貴族が主催する夜会に突撃しろってわけじゃぁないから。そうねぇ、手始めにギルド関係のサロンなんかどうかしら」
「あの……。ありがたいお話ですが、あいにく我が家には王都に知り合いがおりません」
サロンにしろ夜会にしろ、まずは招待されなければ話にならない。地方の男爵にすぎないネッドにそんな都合の良い伝手はなかった。
ミリアもおずおずと首を振った。
「それに、私のドレスはどれも古い物ばかりですし……」
ミリアのドレスはネッドの母の遺品を手直ししたものだった。形見のドレスや宝石などは大半が葬儀代になってしまったが、思い出に何着か売らずにとっておいたのだ。ミリアはドレスを持っていなかったので、それを貰いうけた。
ミリアがドレスを着るのはやむなくネッドに同伴しなければならない時くらいで、家ではメイド服を着て働いている。一応彼女にも見栄というものがあるので王都ではドレスを着ているが、社交は遠慮したいところだ。旅行中だからこそ宿の掃除も我慢しているくらいであった。
「なぁに言ってるのよ。そんな調子じゃ地元に帰ったって社交界を渡っていけないわ」
ふふん、と笑ったクラーラが手を伸ばし、ミリアの顎をくいと持ち上げた。
「あ、あの」
「ずいぶん磨きがいのある子が来たって、一目見た時から思ったのよ。ウチに来たってことはアタシがなんて言われているか知っているんでしょう?」
クラーラの魔法の手。その人の本質を見抜き、ドレスで表現する。
笑うクラーラには自分のうつくしさを知り尽くし、自信を持つ者特有の迫力があった。田舎に潜んでいてはついぞお目にかかれないであろう『美』そのものである。ミリアの頬がじわりと熱を持ち、頑張って塗りたくった化粧が汗で落ちそうになった。
「王都では、あなたたちは旅人よ。通り過ぎていくだけで敵にも味方にもなりはしないわ。評判なんて気にしなくていいの。ただ社交界というものを、肌身に染み込ませていらっしゃい」
甘く誘惑する、魔女のような声だった。
***
クラーラが用意した修行の場は、農業ギルドのサロンだった。
サロンというと趣味人の集まりというイメージがあるが、主催者によって色合いが異なる。
貴族であれば繋がりを確認し、流行から伝統文化を楽しむが、ギルドとなるとどちらかというと勉強会だ。農業ギルドなら品種改良した作物の生育具合や、農地の回復をどうするか、新しい料理の開発に農耕具の発明まで多岐に亙った。
ネッドの領地にはこれといった特産品や鉱山もないが、薬草を育ててそれを生活に役立てている。実体験により培った知恵がどこまで通用するか、まさしく修行であった。
「ほう、それではヨモギを?」
「はい。各家で育てさせています。ヨモギは食用になりますし、乾燥した粉は消毒薬にもなりますから」
「いいですな。ヨモギ入りのパンは香りが良くて春の人気商品です」
「ヨモギ茶も人気がありますぞ」
ネッドははじめこそ緊張していたが、彼自身驚くほどすんなり溶け込んでいた。農業に携わる者ばかりのせいか、話がしやすかったのだ。
今回のサロンに、クラーラはこっそりマシューを派遣していた。どうしても馴染めず浮いてしまった場合に助け舟を出し、ネッドとミリアの様子をクラーラに報告するためだ。
ネッドはいい。男爵というだけあって話術も作法もきちんとできている。王都民からすればどことなく田舎臭い印象を受けるが、彼の地元であれば何の問題もないだろう。
だが。
「あの、トリス男爵夫人。そのようなことはわたくしどもが致しますので……」
「お気遣いなく。わたくしもこうしていたほうが気が楽ですわ」
ミリアは駄目だ。緊張からか性分なのかは知らないが、せかせかと動き回り給仕の真似事をはじめてしまっている。お気遣いなく、などと言っているがそういう問題ではない。客人に給仕をさせるほうが気を使うのだ。
客人としてのマナーも、男爵夫人としての礼儀もまるでなっていない。家ではそれで良かったのかもしれないが、ここは王都であり、サロンの場である。
あのようなわきまえない立ち居振る舞いでは、ネッドもさぞかし困っただろう。見ているマシューのほうが恥ずかしくなってきた。
ミリアが自分で手直ししたというドレスはデザインこそ古いが良い生地を使っている。本来ならバッスルを着けるはずのドレスはベル型になり今風だが、ミリアは動きやすいように改造してしまっていた。まるでメイド服である。
当然ながら貴婦人たちには遠巻きに眉を顰められていた。男が情報交換をするなら女は繋がりを得る。そうした場であると理解していないミリアに向けられる目は厳しかった。
女性に敬遠されるのは致命的だ。ネッドも黙っていられなくなったのか、ミリアに近づいた。
「ミリア」
「ネッド、と、どうしたの? お茶?」
坊ちゃんと言いそうになったミリアはごまかすようにティーカップを差し出した。連れ立ってやってきた男が面食らっている。
「トリス男爵、そちらの方が?」
「はい。妻のミリアです」
「はじめまして」
男はさっとミリアに目を走らせ、にこやかな――他人行儀な笑みを浮かべた。
「これは、中々に働き者の奥方だ。トリス男爵も果報者ですな」
メイドの間違いなんじゃないか、まあ田舎男爵にはお似合いだよ。男の言葉を正確に読み取ったネッドが硬直する。笑顔とは裏腹な、蔑みのたっぷり込められた眼差しがネッドを貫く。
嫌味に気づけるほど場慣れしていないミリアは言葉をその通りに受け止め、ありがとうございますと礼を言った。
これは駄目だ。見ていられず、マシューは目を覆ってため息を吐いた。
***
マシューの報告に、クラーラはレースを編む手を止めて絶句した。
「うっそでしょ」
ようやく言えたのもそれである。いくら田舎の貧乏男爵であっても、そこまで酷いとは思わなかった。
「いや、でも……、そうね。女主人もいないし、家庭教師を付ける余裕もなかったわけか。誰も、彼女を教育しなかったのね」
実家が裕福であれば家庭教師を雇っただろうが、あいにく農家である。家の手伝いとひと通りの家事さえできればそれで良かったのだろう。
「あれではとても、生き馬の目を抜く社交界はやっていけません」
「そうよねぇ。ドレスで外側はカバーできても、中身が伴わないんじゃぁ意味ないわ」
嫌味に気づかないのはさらに悪い。自分の気づかぬところで気づかぬうちに物事が終わってしまう、なんてことになりかねなかった。気づかないのだから損も得もないと思われるかもしれないが、逆である。知らないうちに、気づかないまま、取り残されてしまうのだ。
刻々と移り行く時代の変化についていけないものは結局潰されてしまう。クラーラは自分が認めた客が不幸になるのは許せなかった。
「荒療治が必要かと思って行かせたけど、もうちょっと工夫した方が良さそうねぇ」
さて、どうしてくれようか。ミリアには男爵夫人としての自覚が足りないというだけではなさそうだ。
やりがいがあればあるだけ燃え上がるのがクラーラである。黒い瞳が楽しげに輝いていた。
そして、数日後。
「まあ、それではミリアさんとネッドさんは幼馴染ですのね」
「身近で育ったからこそ穏やかな、何よりも強い絆で結ばれているんですわ」
「姉弟のように思っていたのにいつの間にか女性であり男性であると気づく。素敵ですわ」
クラーラの店で常連だというお嬢様三人組を紹介されたミリアとネッドは、はじまった怒濤のトークに引き気味だ。
「いつまでも子供だと思っていたのにふとした瞬間に男の顔になるんですのよ」
「知っていますわ。ギャップというんですのよ」
「ときめく自分に戸惑い、けれども年上として甘えるわけにはいかないジレンマ……!」
きゃあと歓声をあげる三人は、恋愛小説のようなミリアとネッドのなれそめに大喜びである。しかもメイドと男爵という、身分違いの恋。食いつかないはずがなかった。
「ミリアさんは、いつネッドさんに恋していると気づいたんですの?」
輝く笑顔にミリアは戸惑った。
「え、えっと、いつの間にか? でしょうか」
「プロポーズの言葉は何とおっしゃったんですの? こっそり教えてくださいませ」
無邪気な問いかけにネッドは冷や汗をかいている。
「け、結婚しよう、でした」
まあ、と少女たちは感激に頬を染めた。
「率直ですわ」
「飾り気のないお気持ちでしたのね」
「まっすぐですわね」
三人は思い思いに理想のプロポーズを想像してうっとりしている。ミリアとネッドは居心地が悪そうに身じろぎをした。
この人選で正解ね。クラーラは二人の反応に自分の推測が正しかったことを確信した。
お嬢様たちには裏がない。自分の感じたこと、思ったことを素直に口に出す。嫌味をそれと気づいても、笑って無視できるだけの能力を持っていた。高位貴族の令嬢であるがゆえの寛容さであり、子供ならではの無邪気さでもあった。
彼女たちの言葉に思うところがあったのか、ミリアがちらりとネッドを見た。
「恋……?」
不思議そうな呟きを拾えたのは隣のネッドと、二人を窺っていたクラーラだけだった。お嬢様たちは楽しそうに盛り上がっている。
「ネッドさんは、どうですの? ミリアさんに恋をするきっかけがお有りでした?」
「わたくしたちはあまり男の方と意見を交換する機会がありませんし、ぜひお聞きしたいですわ」
「男の方は女のどんなところにときめきますの?」
お嬢様がずいっと身を乗り出した。
彼女たちが社交界で出会う男は、外面がいいのはもちろんのこと、言葉も飾り立てる。貴族令嬢の結婚は本音と建前が交錯する政略的意味合いが強いものだ。だからこそ、彼女たちは恋に憧れる。
ネッドはミリアを見て、その時のことを思い出したのか眼差しをやわらかくした。
「よく覚えていますよ。あの頃は使用人の手が足りず、私も幼くて家中がどこか汚れていました」
最低限の掃除はされていたが、どうしても手が足りない。しだいに屋根が傷んで雨漏りし、床板が腐ってたわんだりと家の補修もままならず、雨の季節には虫が湧いた。
「お恥ずかしいことにゴキブリを見つけて悲鳴をあげた私の元に、ミリアが駆けつけてくれたのです」
それ普通は逆じゃない? クラーラはツッコミを入れたくなったがなんとか耐えた。思い出してうっとりと頬を染めるネッドに言えるはずがない。
ネズミやゴキブリは不潔なところに生息し病原菌を撒き散らす。不潔は万病の元、病気イコール死。瞬時にトラウマが甦ったネッドは乙女のような悲鳴をあげた。
すわ一大事と駆けつけたミリアは状況を理解するや靴を脱ぎ、その靴でゴキブリを叩き潰してくれたのである。
「スッパーンと、それはもういい音でした。その音と共に、私は恋に落ちたのです」
それはもしやトラウマによる吊り橋効果なのではとクラーラは思ったが、やはり口には出さなかった。人の恋路に口出しをしても無駄だと悟っている。
「ま、まあ……」
「そ、そうですの……」
「ひ、人それぞれですわね……」
ゴキブリからはじまる恋にお嬢様たちはドン引きした。もやは恋物語ではなく喜劇である。
一方で初耳だったのかミリアは頬を染めた。どこに照れる要素があったのだろう。
「坊ちゃんたら本当ですの? そんなことで?」
「本当だよ。そんなことって言うけどミリアだって怖かっただろう? 気丈に振舞っていたけれど、手が震えていたじゃないか」
叩き潰したゴキブリを箒と塵取りで片付ける間、ミリアはネッドを励ますように笑っていた。だがずっと手が震えていたし、とっさに使ってしまった靴を半泣きで洗っていたのを知っている。
「そういうところがなんだかとても可愛くて……。いつだって頼れるお姉さんだと思っていた君が、普通の女の子だって気がついたんだよ」
「ネッド……」
きっかけはどうあれその出来事はまぎれもなくネッドの転換期になったのだ。人として、男として、当主として、ミリアを守りたいと強く自覚したのである。
ネッドの告白を聞いたその夜、ミリアは宿のベッドで考えていた。夫婦になったのだからもちろん二人で一部屋である。
結婚してくれとプロポーズされた時、当然だがミリアは嬉しかった。幼かったネッド坊ちゃんが立派になってと感激し、今までの献身が報われたような気分だった。幸せだと心から思ったのだ。
だがそこに恋があったのかと問われると、ミリアにははっきり是と言うことができなかった。お嬢様たちにはああ答えたが、はたして本当に、ネッドに恋をしているのだろうか。
結婚してから何度もキスをしているし、肌身を重ねた。ネッドがはじめての男であるミリアは緊張してばかりで、ほとんど痛みしか感じたことがない。家族が欲しいと言うネッドの役に立ちたいと、そればかりだった。
それは恋といえるのだろうか。ミリアの胸にひやりとした不安が押し寄せる。ベッドの中で寝返りを打ち、隣で眠るネッドを見た。
こんなことを考えてしまうのは彼に対する裏切りのようにも思え、自分がひどく醜くなったような気持ちになる。彼の健やかな寝息に胸が苦しくなった。
親愛と恋愛の境はどこにあるのだろう。ネッドを大切に思う気持ちに嘘はないのだ。ミリアは自分の気持ちがわからず、隠れるように布団に潜り込み、目を閉じた。
さてそれからもミリアとネッドはクラーラの推薦でお茶会やサロンに赴き、その度に評判を下げた。ここまで来るとミリアも嘲笑されていることに気づいて大人しくなる。よかれと思った行動のすべてが逆効果になり、ネッドの男爵としての立場すら貶めているのだ。ミリアは落ち込んだ。
安心して本音を話せるのはクラーラの店でだけだった。すっかり弱気になったミリアに、クラーラがくすくす笑った。
「あらあら。ずいぶんしごかれちゃったのねぇ?」
「クラーラ様……、まさかこうなるとわかっていたのですか?」
「あんなもの、一種の洗礼よ。王都住まいじゃないぶん手加減されたわ」
「あれで!?」
嫌味と皮肉の応酬による腹の探り合いにミリアはついていけなかった。みんな顔では笑っているのに言葉に毒でも仕込んであるかのような後味の悪さなのだ。
「社交界というのはどこも未熟なリンゴを押し付け合うものなのでしょうか」
「未熟なリンゴ?」
「硬くて酸っぱい。たまにお腹を壊します」
「上手いこと言うわねぇ」
クラーラは蒸らしていた紅茶のポットからカバーを外し、琥珀色の液体をカップに注いだ。
湯気と共にやわらかな香りが立ち昇る。
「……でも、これで自分の何がいけないのか、わかったでしょう?」
「……はい」
ミリアがカップを持ち上げ、紅茶に口をつける。熱すぎたのか顔を顰め、すぐにカップを戻した。
熱すぎて飲めない紅茶を飲まなくてはならない時があるように、火傷するとわかっていても避けて通れないのが社交界である。
「ねえ、ミリアちゃん」
しみじみと思い知ったミリアに、クラーラは少し厳しく言った。
「あなた、本当に無知ではいけないとわかったの?」
「え……。クラーラ様?」
「落ち込んでる場合じゃぁないでしょう。領地に帰るまであと少し、王都で学んだことを活かして、ネッドちゃんの役に立ちたいとは思わないの」
クラーラがネッド「ちゃん」と呼んだことにミリアはムッとしたようだ。いい傾向だ、と今までのことは無駄ではなかったとクラーラは安心する。
「あなたは奥様でしょう。旦那様が外で戦っている間、あなたは家を守るのが仕事よ。家を守るっていうのはただ家に居ればいいってことじゃないわ。家の存続のために働くことをいうのよ」
「わかっていますわ」
「わかっちゃいないわ。わかっているならどうしてそんな顔をしていられるの」
ミリアの顔には悔しさが見えなかった。貴婦人たるもの常に微笑んでいろとクラーラも思うが、ミリアはもっと前面に出すべきなのだ。王都の社交界に太刀打ちできなかった悔しさではない。ネッドの力になれない、自分のふがいなさへの悔しさがなければなからなかった。
「泳ぐ魚は優雅に見えるでしょう。囀る小鳥の歌はうつくしく響くでしょう。満開の花は芳しく香るでしょう。それらすべては生き残るための戦略よ。ミリアちゃん、あなたには必死さが足りないわ」
「必死さ……?」
「そうよ! 夫婦というのは一心同体よ。あなたが恥をかけばそれはネッドちゃんの恥になる。このままじゃぁ、いつか愛想を尽かされて離婚されちゃうかもしれないわ。ネッドちゃんは若い男爵家当主、しかも働き者よ。地方貴族の令嬢や、爵位が欲しい商家なんかには狙い目だわ」
ミリアはしょせんメイド上がりの平民にすぎない。離婚するのは簡単だろう。
ようやく実感が湧いてきたのかミリアの顔が蒼くなった。肩を震わせてうなだれる。
「わ、わたし……、私は……」
「いいこと、ミリアちゃん」
クラーラはミリアのスカイブルーの瞳を覗き込んだ。
「クラーラの魔法はただ待っている者に与えられるわけじゃぁないの。懸命に努力する者にだけ、資格があるわ」
「資格?」
クラーラが客を選ぶのは有名な話だ。そしてクラーラが気に入れば、メイドであろうとドレスを作ることも、有名な話だった。
ミリアはクラーラが依頼を引き受けたことで、優越感を抱いたのだ。今は笑い者にされていても、クラーラのドレスを着れば見返してやることができる。王都の社交界に一泡吹かせてやれる、と。
そして領地に帰ればたちまち男爵夫人として見られると夢想した。
「アタシは言ったわよね、磨きがいがありそうだって。磨くってことは磨り減るのよ。傷が付くの。そこで放置したら腐ったり錆びたりするわ。きちんと手入れをしてこそ本来の輝きが出るのよ。わかるわね?」
社交界で磨かれ磨り減った。ミリアが本物であれば輝きを放つはずだ。
「……クラーラ様、私は輝くことができるのでしょうか……?」
「女の子は誰だって、秘めたる宝石よ。磨けば輝くし、老いても装いしだいで若返るわ」
ミリアは顔をあげた。もう少し、とクラーラは思う。この娘はもう少し顔をあげて、視野を広げたほうがいい。
クラーラは立ち上がると宝石を入れたケースからミリアの瞳の色と同じ色をした宝石を取り出した。
「ミリアちゃん、手を出して」
ころん、とミリアの手の平に乗せる。
「どう?」
「綺麗、ですね……。こんなにちいさいのに硬くて、少し、冷たい……」
「そうね。宝石がもっとも輝くのは、ふさわしい方が身に着けた時よ。石だけじゃなくて持ち主を輝かせるわ」
それにね、とクラーラは宝石を持った手を握らせた。爪の先ほどの石は、しかししっかりとした存在感を持ってミリアの手に主張する。
「不思議なんだけど、ふさわしい方が持つと、石も喜んでる気がするの」
「石が、喜ぶ?」
「体温と鼓動が伝わるでしょう。人と同じように、石も恋をするのかしらね」
そういう瞬間を見ると、クラーラは不思議な感慨に包まれる。離れ離れになっていた親子が巡り合えたような、運命の恋人に出会った男女が抱き合うような、人と石が互いに認め合うのだ。
体温と鼓動。そして、恋。艶めいた想像をしてしまい、ミリアはうっすらと赤くなった。
「ミリアちゃん」
「はい?」
ネッドとの夜を思い出していたミリアが見ると、クラーラは真剣な顔をしていた。
「……貴族はこれから大変になるわ」
公共事業によって景気は盛り返してきた。国民議会の政策によってだ。執政という後ろ盾があるとはいえ、国民議会は国民に支持されなければどうにもならない。
「国民議会が目指すのは国民による国の運営よ。……なんていったかしら、民衆? 主義?」
「民主主義ですか」
「ああ、それよ。よく知ってたわねぇ」
「いえ、王都ではじめて聞きました」
地方では王都ほどの盛り上がりを見せていない。なんだかよくわからないうちに国民議会ができて、よくわからないが彼らの政策による公共事業を粛々とやっているだけだ。仕事ができた。ありがたいことだ。これくらいの認識だった。
「途方もない目標だわ。まるで夢のような」
「貴族と平民の境目がなくなるのは、良いことではないのですか?」
その流れがあったから、ミリアはネッドと結婚できたのだ。
何事にも良し悪しがあるわ、とクラーラは答えた。
「力を持った平民が貴族の領域に土足でずかずか踏み込んでくれば、貴族の反発は避けられないでしょう。貴族は貴族であろうとする、誇りにかけてね」
貴族同士の結束を固めようとするはずだ。自由への反動が必ずある。鳥が大地から空へと飛び立つとき、翼を力強く羽ばたかせるように。
「貴族というのは血統よ。地方の男爵家だって例外じゃないわ」
クラーラは何を言いたいのか。ミリアは唇が震えそうになるのを堪えるように噛みしめた。
「ネッドちゃんは、ミリアちゃんを手放さないでしょう。誰に何を言われてもね」
ネッドは今日、サロンで知り合った貴族に誘われてクラブに行っている。クラブは女人禁制の男の秘密基地だ。そこで何の話をしているのだろう。
「だからね、ミリアちゃん。あなたから彼に手放させるようなことはしちゃ駄目よ?」
「私、から……」
ネッドのために。ネッドにはふさわしくないから。ネッドにはもっと素晴らしい女性がいる。そんな言い訳をして、彼に諦めさせてしまうのは、きっとミリアのほうなのだ。
「私……、私は、本当にネッドに恋しているのかしら」
クラーラは一瞬きょとんとし、次に笑い出した。
「まぁぁっ、やぁねぇ、それ本気で言ってるの?」
「クラーラ様!? 笑うことないでしょう」
「これだから長すぎる春はっ。うふふっ、ミリアちゃんもネッドちゃんにゴキブリ退治してもらったら?」
「もう、その話はやめてください。ゴキブリだなんて、ちっともロマンチックじゃないわ」
クラーラはなんとか笑いをおさめると、目尻に溜まった涙を拭った。
「おバカさん。恋する気持ちを忘れたのなら、何度でも恋に落ちればいいのよ」
「何度でも?」
「そうよぉ。きっかけなんてなんだっていいじゃない! 断言してあげる。奥様はこれから旦那様に何度でも恋をするわ!」
ミリアの顔があがった。
そう、それだ。ミリアはしっかり顔をあげ、前を見ているほうがうつくしい。貧しさについ足元を確認する癖がついたのだろう。けれど一歩、前に進もうとするのなら、顔をあげ、背筋をしゃんと伸ばして、光差す方向へと目指したほうがいい。
クラーラは宝石を握らせていた手を開かせた。指先で摘まみ、ミリアの目線に合せてかざす。
「……どうでしょう?」
「う~ん。これは違うみたいねぇ」
がっかりしたため息を漏らすミリアに苦笑する。ミリアをもっとも輝かせる宝石は、彼女の胸に宿っていた。
その夜、珍しくネッドがしたたかに酔っぱらって宿に帰ってきた。
「ネッド、大丈夫?」
「ミリア……」
酒で潤んだ瞳でぼうっとミリアを見ていたネッドは、水を飲ませようとするミリアにおかまいなしで抱き付いた。
「ネッド?」
「ミリア、今日何してたの?」
ミリアはすでに夜着姿である。コルセットもない薄い布越しに感じるネッドの体温に、思いがけず戸惑った。
「今日はクラーラ様のお店に行って、いろいろ教えてもらったわ。ほら、お水飲んで」
「あの本は?」
ミリアのベッドに置かれた本をネッドが目敏く見つけた。文字を知らなかったミリアに読み書きを教えたのはネッドだ。
ミリアは好奇心旺盛で、勉強熱心だった。少しでもネッドの助けになりたいと、自ら進んで覚えたのだ。
「エチケット・ブックよ。クラーラ様が貸してくれたの」
エチケット・ブックは社交界での振る舞いや礼儀作法について書かれたマナー本である。その時々の流行によって、また筆者自身がよく理解していない本もあり、あくまでも参考程度にとクラーラが貸したのだ。本を読むよりは実際の社交界で人々を観察した方がよほど参考になるが、まずレディーの自覚のないミリアには頭から入れたほうがいいと判断したのである。
「そんなもの、なくたって……。ミリアは私の奥さんだ」
「何かあったの?」
ネッドはミリアの首すじに鼻を埋め、むずがるように押し付けた。
ズキッとミリアの胸が軋んだ。男ばかりのクラブで、メイドを嫁にしたと馬鹿にされたのだろうか。酒臭い息がかかり、彼がヤケ酒を飲める歳になったのだと改めて思った。スーツには煙草の臭いが染み付いていた。
「王都の貴族って、みんなああなのかな」
ネッドがどこか寂しそうに言った。
ネッドが誘われて行ったのは、初心者歓迎のクラブだった。入会規則は特になく、旅行者でも成金でも気楽に入ることができる。酒と煙草、そして会話を楽しむ場所だった。
「……たぶん、みんなだって奥さんのこと、嫌いってわけじゃないんだと思うよ。でも、あんなふうに言わなくても……」
ミリアのことはすでに知っていたのだろう。あまり評判の良くない、というか悪いネッドの妻に遠慮してくれたのもわかっている。けれどネッドはミリアの好いところをたくさん知っているし、それを自慢したかった。
ところがクラブの男たちは、ショーケースに入れられて着飾らせた人形のように、どこか他人事のように妻について語っていた。言葉の端々には女への蔑みが見え隠れし、そうした自分に疑問を持つこともないようだった。
クラーラの店で会ったお嬢様三人組を思い出す。王都の貴族が妻をどう扱うのかを目の当たりにしたネッドは衝撃だった。
パッとネッドが体を離し、ミリアを見て笑った。子供の頃の、悪餓鬼めいた笑顔になぜかミリアは安心する。
「ミリアと結婚して良かった!」
「――……!」
ミリアは胸を押さえて呻いた。酔っぱらいはこれだから。心の中でけちをつけてみても、動悸は収まりそうにない。
「ミリア? ミリアー?」
素直すぎる告白にやられてしまったミリアにネッドのふわふわした声がかけられる。ときめきの乱気流に息が止まりそうだ。
「そっ、そういうことは、素面の時に言ってちょうだい……!」
「わかった!」
なんということだ。私の夫はいつまでも『坊ちゃん』ではない。男として成長しているし、人としてまっすぐだ。なのにやっぱり子供っぽくて可愛くて、私を好きだと言ってくれる。
私はもしかしたら、最高の男と結婚したのではないだろうか。
とんでもない事実に気づき、ミリアはクラーラが言った恋の意味を実感した。
***
ミリアのドレスは落ち着いたオリーブ色。両胸に白いレースのラインが入り、袖は手首にゆったりとした膨らみを持たせていた。スカートはベル型ではなくヒップラインを強調しながら細くし、裾で広がるS字シルエットだ。ハイネックの首元にはカメオのブローチを着け、レースのリボンが華やかさを添えている。
「あえて豪華さを抑えてミリアちゃんの奥様らしさが映えるようにしたわ」
ミリアの紫がかった黒髪にオリーブ色のドレスは一見して地味だ。しかしところどころの曲線を強調することによって人妻感を醸し出している。
実際に着てみたミリアは慣れない袖や裾に難色を示した。
「動きにくいです」
「動きにくくしてるのよ。この袖なら嫌でも気を付けるでしょ。うかつに給仕なんかしたらカップに袖を引っかけて落っことしちゃうかもしれないわね」
「ええ……」
「優雅さを心掛けなさい。仕草の一つ一つに理想のレディーを思い浮かべるのよ。わからなかったら周囲をよく見て習う。今までさんざん失敗したんだから今さら怖いものなんてないでしょ」
「うぐ」
それを言われると痛い。せっかくの新婚旅行、せっかくの王都で大失敗だ。一生忘れられない思い出になった。
「ミリアちゃん、いらっしゃい」
クラーラがメイクボックスを開けた。最後の仕上げだ。
しおらしく座ったミリアの頬を、あたたかな太い指がくすぐる。
「さあ、魔法をかけてあげる」
心地良い魔女の声が、ミリアの恋を応援した。
***
新婚旅行から帰ったミリアとネッドは地元の社交界に出るようになった。
メイド時代の闊達さは鳴りを潜め、ぎこちないながらもレディーとしてあろうとするミリアに社交界の人々は驚き、歓迎した。指先の仕草一つ足さばきにも緊張している姿は微笑ましく、以前のミリアを知っている人たちは彼女をここまで変えたネッドの手腕を褒め称えた。
ミリアの長手袋に包まれた手を取るネッドは、ダンスに慣れないミリアが無理をしないようにリードしてくれていた。
頼りない『坊ちゃん』の面影はもはやなく、ネッドは男爵としての自信に満ちた青年である。
今夜の舞踏会用ドレスはネッドがミリアには内緒でクラーラに注文したものだった。訪問用ドレスだけでも目玉が飛び出るほどの値段だったのに、さらにとなればミリアに大反対されるとわかっていたのだろう。それでもネッドは贈りたかった。自分の妻を自慢したかったのだ。
トリス家は少しずつ回復してきているし、多少の散財は新婚ゆえと大目に見られた。彼の領地にはこれといった特産はないが、ネッドを育んだ人がいる。公共事業は地元民だけではなく、アルベールの革命で職にあぶれ家を失った難民を率先して雇っていた。トリスの人々は彼らを受け入れ、荒れていた農地に緑が戻ってきている。
ミリアのドレスはそんなトリス家を象徴するような若草色だ。控えめなデコルテから白い肌が覗き、恋の色をしたトルマリンのネックレスが飾っている。細い腰から続くS字のシルエットには白いレースがたっぷりと重ねられ、ネッドに寄り添って踊るたびにしなやかに揺れた。まるで水中を泳ぐような二人に、周囲はやさしい目をしている。
これからの二人に期待を抱かせる。ミリアの成長がネッドの株をあげたのだ。
「ミリア、とても綺麗だよ」
王都から帰って以来、ネッドは度々ミリアを口説くようになった。声にせずにはいられないというように瞳を潤ませ、感動したようにミリアに告白するのだ。
その度にミリアは息が詰まるような、体中の力が抜けてしまう感じがして、たまらない気持ちになる。
「ネッド、あなたは私をどうしたいの……」
「坊ちゃんとは言わなくなったね」
ミリアは真っ赤になった。楽しそうに笑う夫になんとか一矢報いたくて、強気に顔をあげる。
「大陸一の夫ですもの。あなたが坊ちゃん返りしたら、今度はゴキブリじゃなくてあなたを叩いて差し上げるわ」
私の夫でいたかったら何度でも恋をしろ。言うようになったミリアにネッドは絶句し、愉快そうに笑う。
してやったりと澄まし顔のミリアの胸で、恋が輝いていた。
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