王妃フローラの花・前
アルベールと相乗りで馬に揺られながら、フローラは感慨にふけっていた。
息子とはいえ男性と馬に乗ったのはフローラには遠い昔だ。思いがけず厚い胸、がっちりと逞しい腕に支えられ、母としてというより女としてときめくのを感じた。アルベールはフローラとエドゥアールの間に初めて生まれた子で、ほとんど乳母と周囲によって育てられていたが、それでも夫と二人でおろおろしながら初めての育児をなんとかこなしていったことを思い出す。あんなに小さかったのに、大きくなって。フローラは背中越しに感じる息子の体温に目を細め、そっと振り返った。
アルベールは焦燥と激情を堪えているような顔をしていた。どこかで見たことがあると思い、フローラは記憶を辿る。誰かと馬に乗った過去。エドゥアールとは、こんなことはできなかった。二人の関係は秘密であり、互いに婚約者がいたからである。強引に連れ出され、馬に乗った相手は、当時の婚約者であったマクラウド・アストライア・クラストロだった。あの時の彼も、そう、アルベールと同じ顔をしていた。
フローラには想像すらできないが、かつてのエドゥアールの王太子としての地位は極めて危険なものだった。前王と前王妃が結婚して数年子供ができず、前王の弟たちが裏で画策をはじめていた。エドゥアールが生まれたからといってその動きが止まるはずもなく、彼の身に万が一のことがあれば王太子の座は彼ら兄弟かその子供のいずれかに回ってくる。マクラウドは次期宰相として、また親友として、エドゥアールを守るべく政争に明け暮れていたのだ。政治的な争いの結果として王弟の一人を暗殺し、しかしエドゥアールには教えることもない。その苦痛をたった一人で飲みこんだマクラウドにとって、フローラの存在がどれほど救いであったのか、彼女は知らないままだった。
「アルベール」
フローラはそっと息子の頬を撫でた。固く緊張した、苦労の痕跡の残ったこけた頬であった。我が子の苦悩を思い、フローラはわずかに眉を寄せる。
「大丈夫ですよ。そなただけはわたくしが命に代えても守ってみせます」
「母上……」
アルベールは意外そうに目を見開き、次に瞼を閉じた。馬を操っているためすぐに開かれたが、わずかに口角があがるのを見てフローラも微笑む。フローラ、ずっとぼくのそばにいて。過去の男の声が脳裏に甦る。あの時フローラは「はい」と応えた。彼が望めばわたくしはそばにいたのに、そうすればみんなが幸せになれたはずなのに、なぜマクラウドは離れて行ったのだろう。望んだのは彼だったのに、なぜ。
「大丈夫よ」
フローラは繰り返した。何の根拠もない楽観を彼女は信じている。裏切りが人の心を引き裂き魂を殺すほどの威力を持つことを彼女は知らないままだった。憎悪と悪意の意味どころかそうした存在すらフローラの世界にはない。彼女はいつだって愛情によって咲く花だった。
「きっと、マクラウドが来てくれます」
「マクラウド……宰相が?」
「ええ。元はといえば彼が意地悪をしたからこんなことになったのよ。国が混乱し王家も存続の危機、いくらなんでも来てくれるはずよ」
「…………」
そうかもしれない。アルベールはふっとそう思った。フローラの言葉に同意できる部分はひとつもないが、彼女と彼女の夫となった男がマクラウドを裏切りさえしなければ、自分が国を裏切ることもなかっただろう。
アルベールは一度もマクラウドに会ったことがなかった。だが、ユージェニーとの一件で勝手な親近感を抱いていた。婚約者を捨てたアルベールと捨てられたマクラウドでは立場が逆だが、ひとりの女に振り回された点はよく似ている。そして感情は、もしもに繋がっていた。
もしもフローラがマクラウドと結婚していたら、もしかしたらマクラウドの子供であったのかもしれない。その想像はアルベールにとって幸福な逃避であった。噂に聞く宰相は理知的で冷静な策略家で、そして愛情深い人柄だった。そんな男の子として産まれていたらユージェニーは近づくことさえできず、きっと今頃はフランシーヌと幸福な結婚をしていただろう。
「母上。母上は父上と結婚して良かったと思っていますか?」
フローラは何を言っているのだといわんばかりの顔をした。
「もちろんよ。可愛い子供たちに囲まれて、ずっとずっと幸福だわ」
「そうですか」
救えないな。心から幸福そうに笑うフローラにアルベールは皮肉げな笑みを浮かべた。王妃の役割のなんたるかをまるで理解していない。フランシーヌがどれだけの努力をしていたのか、まったく目に入っていなかったのだろう。ただ微笑んで『幸福な国王一家』を国民に見せていればいいと、本気で思っているのだ。フローラは王妃になってはいけない女だった。
アルベール一行は王宮正門を抜け、王のいる議会堂に到着した。
***
マクラウドは国民議員候補を連れて議会堂へ。ルードヴィッヒは王宮へ軍部を掌握するために向かうことになった。
「兄さん」
マクラウドは長く伸びた髪を切ることもなく、黒いスーツに黒いタイ、黒の外套をまとっていた。クラーラの頃に染めていた髪は染料を落として黒に戻っている。濡れたような鴉の羽は光に当たると艶やかにきらめいた。
全身が黒。端正な顔立ちとあいまって、今の彼はまるで死神の使いのようだ。ルードヴィッヒは憐憫を押し殺して最終確認をした。
「フランシーヌ・ドゥ・メイ・ジョルジュはあれでいいんですね?」
「ああ。彼女なら上手くやってくれるだろう」
フランシーヌへの贈り物を聞いた時、ルードヴィッヒは心底驚いた。いかに彼女が優秀とはいえ女である。時代的な常識として女に軍服を着せて政治に介入させるのはありえなかった。反対する弟に、兄はうっすらと笑みを浮かべてこう言った。
『さんざん女を泣かせて生まれてきたんだ。今更女に甘えるのに良いも悪いもあるか』
国民議員が成れば次に目指すのは女性の参政権と職業の自由だ。道を拓くとはそういうことである。今まで女だからというただそれだけの理由で抑圧されてきた彼女たちが、いよいよ立つ日が来るのだ。フランシーヌは、その先駆けになる。
「フランシーヌには、英雄になってもらう」
マクラウドは暗い瞳で言った。フランシーヌちゃんなら絶対に似合うわと顔を輝かせて笑っていたクラーラとは正反対であった。
クラーラがフランシーヌに軍服を作ったのは、彼女の身を案じてのことであった。アルベールが留学先から脱走し、殺人まで犯したことを聞き、真っ先に狙われるだろうフランシーヌに危険を知らせるためであった。単なるスーツにしなかったのは、アルベールにお前の思い通りにはならないぞという決意を知らしめる意味もある。お姉様と慕われ一部の女性陣からは熱狂的な支持を得るフランシーヌが軍服を着て現れるのはさぞや痛快だろう。アルベールは面食らい、フランシーヌに触れることさえできないに違いなかった。
「亡きジョルジュ将軍の愛娘が聖乙女のごとくに軍服を着て王宮へ向かうのは、王都の民衆にある種の感動を与えるはずだ。伝説の聖乙女の降臨にエドゥアールの民は煽動される。見よ、勇ましき聖乙女。一角獣を伴にして勇者を守るはいずれの姫か、というわけだ」
最後に乙女が死ぬからこそうつくしく語り継がれる伝説だ。民衆はフランシーヌの末路を想像し勝手についてくるだろう。熱しやすく冷めやすい、目の前のことに熱中する国民性はいかにもエドゥアールの民だといえた。後先考えずに事を起こして結局困ることになるところもそっくりである。
「英雄が必要ですか」
「必要だ。特に今回は王家が絡んでいる上に重要法案をごり押しする。フランシーヌの外見と行動力、家柄、どれをとっても彼女以外の適任はいない」
断言するマクラウドにルードヴィッヒは眉を寄せた。軍部で生きているだけあって彼にとって英雄とは死後に崇められる存在だ。クラーラの友人をこうも簡単に使い捨てしようとする兄への嫌悪がわずかに浮かんだ。
店に兵を派遣しておいて良かった。クラーラの店が襲撃される可能性について、ルードヴィッヒはマクラウドに伝えなかった。伝えたところでマクラウドは良い的ができたとむしろ襲撃されるように仕向けるだけだろう。下町に住むクラーラの友人を尊い犠牲にして、いや、それすら国民を煽る材料にしかねなかった。
「ルイ、そんな顔をするな。僕がしたことの負債だ、僕がきちんと支払うよ」
「それくらいはしてもらいます。だが、国民を裏切るようなことだけはしないと約束してください」
「わかっているよ」
本当だろうか。すべてが終わった時、死んでしまうつもりなのではないかとルードヴィッヒは危惧している。国民が、マクラウドが設立する議会が望むのはマクラウドが嚮導して進む未来だ。彼らは理想を語ることはできても現実に政治で国を動かしたことはない。任せて放置では迷子の子供のように右往左往するだけで、結局は貴族の良いように使い潰されるだろう。必要なのは英雄ではなく、寄り添って導いてくれる、あたたかな血の通う人間なのだ。
「事が成ったらクラストロの旗を王宮に掲げます」
「了解」
ルードヴィッヒは黙って控えていたレギオン・テオーペに目配せをした。マクラウドの忠実な部下である彼がいれば、表舞台にようやく戻って来た主を死なせることはあるまい。心得たレギオンがうなずいたのを見て、部屋を出て行った。
***
議会は第一王子アルベールとその側近たちの処分について、喧々諤々の討論が行われていた。
まず死罪は免れないだろうことは決定している。問題は、それをどちらの国で執行するかだった。他国で罪を犯した場合、その国の法律によって裁かれるのが大陸国家連合で定められている。だが殺されたのは自国民であり、帰国後に反乱を企み賊を集めて挙兵していた。明確な国家反逆罪である。
謹慎先の国からは引き渡し要求が来ているが、反乱が起きたことを考慮してアルベールの罪状にかの国で犯した殺人と商船に乗る際に行った詐欺を加味するのであればこちらで処分しても構わないという文書が届いていた。王子の婚約破棄という不義理を、他国で留学名目の謹慎という極めて甘い処分で終わらせたこの国が、反乱にまで至った一連の騒動をどう決着させるのか、各国が注視していた。
「アルベールの死罪は決定しております。だがまずは反乱を抑えぬといらぬ混乱を招きかねませぬぞ」
貴族議会は上座の壇上に国王と王妃、その前の席に議長が座る。議長の対面にある宰相の席は空席になったままだ。
フローラはいなかった。エドゥアールはアルベールの助命を請うであろうフローラを連れてこなかった。事はすでに助命で済む域を超えている。
「しかし肝心の近衛は将軍であるジョルジュ伯爵が討たれて総崩れとなっている! 陛下、王妃の出廷を求めます!」
「それよりも今は辺境軍司令官に軍の指揮を執ってもらい反乱を収めるのが先だろう!」
「クラストロ侯爵に軍を任せたらそのまま王宮を乗っ取られかねんぞ! 馬鹿を言うな!」
「近衛はジョルジュ伯爵家の嫡男に任せればよかろう!」
「それこそ馬鹿を申すな! あそこの嫡男はまだ8歳だぞ! 近衛を任せられるわけがない!」
「フランシーヌはどうする? 彼女を保護しないと令嬢のいる貴族がうるさいぞ」
議長は黙って聞いていた。チャールズ・フォン・ヴァルツシュタインは王妃フローラの実の父である。両手を顔の前で組み、黙したまま厳しい表情で目の前の議員たちを眺めているその姿からは、娘に対するあらゆる情が抜け落ちていた。
「静粛に」
低く野太い声がひと言告げた。盛りの付いた猫のように騒いでいた議員たちが一瞬静まり返る。しかしすぐに議長に向かって叫び始めた。
「ヴァルツシュタイン議長! 此度の王妃の不始末、いかがなさるおつもりか!?」
「そうだ! 元はといえばそなたの娘による不義が発端ではないか!」
「ジョルジュ伯爵を殺した罪をどうするのだ!」
議長はゆっくりと議員たちを見回し、再び口を開いた。重く低いその声は威厳に溢れ、誰もが静かに聞き入らなければならないと思わせるものであった。
「それを決定するための会議である。我が娘であり王妃でもある方の罪についても当然問わねばならない。国王陛下、異存はありませんな?」
議員たちの目が今度は国王に向けられた。エドゥアールは苦渋を飲み込んだ表情で先程からの議論を聞いていたが、さすがに名指しで問われては答えないわけにはいかなかった。
「……ない。王妃の行為はあきらかな犯罪である。法に照らし適切な罰を与えるべきである」
殺人は当然ながら罪が重い。たとえ王家であろうとも法の前には等しく罪を問われる。執行の方法は身分によって違ってくるが、過去に王妃が将軍の地位にある者を殺した例がなかった。
「まず、裁判ですな」
「状況を知るのがアルベールと側近です。王妃が銃を持っていたとは考えにくく、アルベールに脅迫されてと見るのが妥当でしょう」
「通例ですと、王族が殺人罪を犯した場合、幽閉の後毒を賜ることとなりますが」
「将軍殺害など前例がない。しかも近衛では毒で済ませるのは甘いのではないか」
情状酌量が認められれば幽閉の期間が伸びる。それだけ生きていられるわけだが、元の身分に返り咲くことはまずなかった。いかに王族とはいえ身分を剥奪された者を支持する貴族はいないからだ。
「王妃については逮捕をしてからでよかろう。今はアルベールをどうするか。乱を起こし、煽動された民衆をどうするかだ」
ふりだしに戻った議論に、突如として割り込んできた声があった。
「乱の終結について、良い提案があるのだが聞いてもらえるか」
全員が声の主を振り返った。漆黒の死の使いは笑みのない瞳で彼らを見つめていた。
長くなったので切ります。




