【幕間】チェルシー・スコットの決意
前日譚。消えゆくものから続いていくものへ。
夜半、スコット家の戸を叩く音がした。
「夜分遅くに申し訳ありません。ごめんください」
まだ起きていたスコット家の者達は、何事だと顔を見合わせた。夜着の上から肩掛けを羽織った父が応じる。
「どちらさんで?」
「スコットさん、遅くにごめんなさい。アタシ、クラーラですわ」
「クラーラさん?」
父がそっと戸を開ける。隙間から見えた懐かしい顔に、兄弟と隣室に避難していたチェルシーが飛び出した。
「クラーラ! 帰ってきたの!」
「お久しぶりねチェルシーちゃん」
クラーラは薄手のコートにマフラーをして顔を埋めていた。鼻先が赤くなってしまっている。申し訳程度の化粧はしていたが、よく見ると疲れた顔を隠しきれていなかった。
「外は寒かったでしょ、早く入って。お茶くらい出すよ」
「ううん。もう行かなくちゃいけないの。チェルシーちゃん、これを」
何かに怯えるように背後を振り返ったクラーラは、コートのポケットから鍵を取り出した。
チェルシーの母も何事かと近づいてくる。軽く頭を下げたクラーラは、チェルシーの手を握りしめ、その鍵を渡した。
「クラーラ?」
「チェルシーちゃん。今、王都の外では怖い事が起きているの。じきにここにもやってくるわ」
それからクラーラは、怖い顔をしている父と母を見た。
「帰ってくる道中でできるだけの医療品を仕入れて来ました。こんなこと、スコットさんに頼むべきじゃないのはわかっています。でも、うちの鍵を預けられるのはチェルシーさんしかいないの」
「クラーラさんはどうするんで?」
「落ち着くまでかくまってもらうことになっています」
そう言ったクラーラは本当に苦しそうだった。
クラーラは貴族嫌いの仕立て屋といわれているが、それでもドレスやアクセサリーなど、全身をコーディネイトする依頼は貴族が多かった。今までクラーラを受け入れていた下町の人々も、貴族と親しいクラーラに手のひらを返すかもしれない。そうなればクラーラの店に出入りしているチェルシーにも危険が及ぶだろう。
だが、新参者のクラーラはともかく、スコット家はおいそれと逃げるわけにはいかなかった。地域密着型の青果店がなくなれば困る人が出るし、戻ってきたところで同じように商売ができるとは限らない。むしろ逃亡を責められるだろう。クラーラの表情がそれを物語っていた。
「チェルシーちゃん。こんなことになって本当にごめんなさい」
「クラーラ、帰ってくる? ねえ、いつか帰ってくるんでしょ?」
鍵を握りしめたチェルシーは涙を浮かべて問いかけた。クラーラは少し逡巡し、それから首をかしげる。
「そうね。きっと、いつかは」
クラーラの手がチェルシーの頬を包み込んだ。冷え切った指先はクラーラらしくなく荒れていた。
指の先まで丁寧に磨かれていたことを思い出す。クラーラの大きな手にチェルシーは頬を擦り寄せ、とうとう涙を零した。
「クラーラ」
「愛してるわ、ちいさなお嬢さん。どうか元気でね」
そっとチェルシーの額にキスを落とし、父母にひとつうなずいてクラーラは去って行った。見送ったチェルシーの視界に、ランプを持ったレオノーラがクラーラに駆け寄るのが見えた。ゆらゆらと揺れる。
王都で起きていることをチェルシーも感じ取っていた。大人たちは難しい顔をして何事かを話し合い、高級品街では店を閉じるところまで現れている。友人のお嬢様達も外出を禁じられたのか、さっぱり姿を見せなくなった。
チェルシーは王都が好きだ。何の疑問もなく平穏が続き、いつか好きな人と結ばれるのだと信じて生きてきた。花の香りで春を感じ、日差しの強さで夏を見上げ、実りの豊かさで秋を味わい、水の冷たさで冬の到来を知って生きてきた。みんなそうやって生きているのだと思っていた。
生きる世界が違う者がいることを、クラーラの店で知った。お嬢様達は冬に野菜を洗う水の冷たさを知らない。羨ましいと思う反面、お駄賃だと母が温めてくれたミルクにバターと砂糖を入れてくれる嬉しさも知らないのだと哀れに思った。
「父さん、アタシ貴族の子と仲良くしちゃダメだった?」
「んなこたぁねえよ」
父はチェルシーの頭に手を置くと、乱暴に撫でた。父も母も野菜を扱う仕事柄、一年中荒れている。自慢の手だった。
「だがな、貴族様には貴族様の世界がある。神様は平等だが、人はそうじゃないってだけの話だ」
「うん。……ねえ、クラーラ帰って来るかなあ」
「信じて待っていてやれ。友達だろうが」
「うん。そうだよね」
母がため息と共に言った。
「マルクさんとこのお嫁さんが出産間近だし、イアンの爺さんも薬が品切れで困ってたよ。クラーラさんはちゃあんと下町のみんなを見てたのさ。悪く言うヤツなんかいやしないよ。チェルシー、お前しっかりしないといけないよ。鍵を預かったのは信頼を預かったと同じこと。クラーラさんが帰ってくるまでアタシらみんなで力を合せて乗り切るんだ」
「うん!」
チェルシーは鍵を見た。真鍮製のちいさなそれは、友情の証だった。
チェルシーちゃんをはじめとする下町の人々は、クラーラにとって平和の象徴でした。
連日投稿はひとまずここまでになります。また潜ります。




