表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
30/78

帝妃メルセデスの悩み


 帝妃メルセデスは手に一枚の絹を持っている。艶やかな光沢、滑らかで少し冷たさを感じる肌触り、色は帝国でも貴人にのみ許された黄金にも似たハニーイエロー。こうして手元に置いて見てもうつくしいが、これの真価は離れたところから見ると光の加減によってそのイエローがより映える。誰かが身に纏うことが定められた絹であった。


 メルセデスがもう20も若ければこれでドレスを仕立てただろう。しかし齢60を過ぎ、引退の二文字がちらつくようになった今、そのような欲求は湧いてこない。


 メルセデスが帝妃となったのは15の歳だった。皇太子であった帝王にデビュタント時に見初められ、大恋愛の末に望まれて妃となった。16歳で第一子となる皇女を生み、以来10人の子を儲けている。皇太子をはじめとする男子が6人、女子が4人。流産してしまった子も含めれば15人もの子がいた。20歳で産んだ皇太子はすでに40代になっている。当然妃を迎え、メルセデスにとって孫となる子供が5人もいた。良妻賢母の鑑として、帝国の誰からも慕われている。


 この絹は息子たちの妃のいずれかに譲ろう。夫の帝王はまだ健在だが、政務は皇太子に任せ実質引退している。帝王がその座を降りる時は崩御した時のみだ。


長年帝国のために働いていた帝王と帝妃にとって、今は新婚からずいぶん時を経ての蜜月ハニームーンだった。それでも若い頃のような精力的な活動などできるはずもなく、また様々な気苦労もあり、メルセデスの表情は晴れない。


 もっとも悩ましいのは夫の残り時間だが、人の生死は神の思し召しである。悩んだところで健康に気を使うくらいしかできることはなかった。二つ目の問題、これがメルセデスの心を重くしている。


 3男の皇子アルフレヒトのことだった。彼女が生んだこの中でもっとも帝王に似た子。皇太子ではなく彼を次期帝王にすべきだという声さえも上がったほど、外見だけでなく立ち居振る舞いから声に至るまで似ていた。アルフレヒトは2回結婚し、そして死別している。現在は独身で、子もいなかった。帝妃がもっとも溺愛している子、彼こそがメルセデスの悩みの種である。


 表向き、アルフレヒトは帝妃の溺愛が過ぎて次の妃を迎えていないことになっているが、原因は彼自身にあった。帝国の血の呪いか持って生まれたさがかは定かではないが、アルフレヒトにはその秀麗な顔からは予想ができない悪い癖があるのだ。


 幼少期に昆虫の触角をもぐ程度の残酷さは誰しもが持ち合わせた好奇心だろう。だがアルフレヒトはその好奇心を大人になっても持ち合わせていた。これをこうしたらああなる、これをすると喜ぶ、これは嫌がる、そういた想像力がことごとく欠けていた。いや、あるいはわかっていてやっているのかもしれない。子供の好奇心に大人の狡猾さと計画性を手に入れたアルフレヒトは、そうしてふたりの妻を殺してしまったのだ。


 ひとり目の妃は他国の王女を迎え入れた。メルセデスは多少の不安を抱きつつも、妻を娶れば少しは改善されるだろうと希望的観測に縋って王女を歓迎した。幸いなことにその頃はアルフレヒトの悪い癖もなりを潜め、王女は夫である彼に一目で恋に落ちた。


 夫婦仲は悪くなかった。最初の数年は近隣諸国の中でも歴史と伝統を誇る帝国への嫁入りで緊張していた彼女も、夫やメルセデスによく尽くし、いたわられ、異国での生活に慣れるにしたがってよく笑うようになっていった。仲睦まじい様子にメルセデスはほっと安堵の息を漏らした。


 慶事はそんな中で発表された。第3皇子妃ご懐妊。その一方は喜びをもって国中に知らされ、あの皇子の子であればさぞや素晴らしい才と容姿に恵まれるだろうと誰もが期待した。


 悲劇は喜びに沸く中で発表された。第3王子妃の訃報である。悪阻で宮廷中が気を使い緊張している最中のことであった。原因は食あたり、ということになっている。妃は海老を食べられない体質だった。食べると蕁麻疹や下痢、酷い時には呼吸困難に陥ることもあったという。それが混入されていたのだ。すり身にしてスープに入れる、という悪質で巧妙な方法で。


 アルフレヒトの第一子を身籠った妃の死である、すわ暗殺かと宮廷中が疑惑の渦に陥った。しかしメルセデスは確信していた、あの子がやったのだ。


 さすがのアルフレヒトも妃と子供の死に打撃を受けたようで引き籠っていたが、母の問いに彼は呆気なく肯首した。


「妃が食べられないのでは子供にもそれを強要させるかもしれません。今のうちに食べさせてあげたのです」


 悪気なく、いや、彼は良かれと思ってやったのだ。それがどういうことになるか、考えもせずに。


 ただでさえ悪阻で弱っていた体に、彼女にとって毒となる海老を食べた。母体が摂取する栄養がお腹の子供を育てる、という知識はアルフレヒトにもあった。だから子供に海老食べさせようとした。彼にとって、あくまで腹の子に食べさせただけで、妃にではなかったのだ。


 結局この件は料理人が誤って海老を混入したとして落着した。数人の料理人と毒味役が処罰を受け、宮廷を追放された。処刑にまで至らなかったのは帝妃のせめてもの詫びである。真犯人を発表することはできないが、誰かが責任をとらねばならず、こういう時に涙を飲むのは常に身分の低い者たちである。真実を知らぬ彼らは帝妃の情けに涙を流して喜んだ。帝妃はそんな自分に嫌気が差しつつも、これが帝国に嫁ぐということだと歯を食いしばって耐えた。


 アルフレヒトは帝国の倣いに従って3年間の喪に服し、服喪明けの宴で見初めた令嬢に恋をした。喪が明けるとはそういうことだと割り切りながらも、メルセデスは釈然としなかった。しかしやはりどこかで期待した。自分から好きになった娘なら、あるいは大切にするかもしれない。


 ところが令嬢は、アルフレヒトの求婚を身に余るとして辞退した。帝国貴族の娘として誰もが一度は夢見る皇子との結婚、しかし、彼女は恐れを抱いた瞳でメルセデスと、アルフレヒトを見ていた。女の本能がアルフレヒトの危険を察知していたのだ。


 気づいたメルセデスは彼女にアルフレヒトの悪癖をすべて告白し、その上で妃になってくれと要請した。帝妃からの要請とはすなわち命令である。令嬢は蒼褪め、涙ぐみながら了承するしかなかった。


 結果として、二人目の妃は1年で死んだ。自殺だった。


 夫婦仲が良くないとは思っていたが、自殺するほどだと思わなかったメルセデスは驚き、アルフレヒトに詰め寄った。なにをしたのと問う母に、息子は苛立ったようにこう答えた。


「結婚してみたらあまりにも理想と違ったから、そのとおりにしろと都度訂正してあげただけです」


 人格否定による精神攻撃である。悲痛な声をあげたメルセデスに、彼はあんなに良くしてあげたのにと不思議そうに首をかしげた。メルセデスは見逃さなかった。子供のようにきょとんとしたその顔には、かすかに愉悦の色が混じっていた。


 とうていアルフレヒトに政務は任せられない。しかし帝室の男子として、遊んで暮らしてばかりはいられない。メルセデスはアルフレヒトを軍部に入れ、少しでも彼の残酷性を慰めることにした。それくらいしかできることはなかった。とはいえ今の帝国に戦争を挑む国などないし、せいぜい訓練で部下をしごくくらいしかアルフレヒトの仕事はない。その部下も彼よりずっと軍経験の長い男たちばかりで、アルフレヒトは有能だが現実の戦争を知らぬ殿下として敬われた。


「…アルフレヒトは今頃どうしているかしら」


 帝妃の呟きに応えたのは、万事心得た侍女だった。


「殿下は本日東の森にて密集ゲリラ戦の訓練の予定でございます」

「帰ってきたら、城に来るように言ってちょうだい。縁談が来たわ」

「…かしこまりました」


 侍女の返答が一泊遅れたのは、帝妃の悩みを知っているからだ。妃がふたりも死んだ皇子には、帝室に呪いでもかけられているのではないかという不届きな噂まである。


 アルフレヒトは30を過ぎ、男盛りの時である。帝国の民衆たちは彼の不幸を素直に嘆き、早く良い妃が来て子を産んでくれないかと望んでいる。真実を知らぬ者は、いつだって希望を語るものだ。


 アルフレヒトの居城は女主人がいないせいかどこか薄暗く、閑散とした印象を受ける。彼の奥底に隠された悪癖が城のイメージとなっているのだ。城とはそういうものである。城仕えの者たちも、悪癖に気づかぬまでも不幸の付き纏うアルフレヒトに言い知れぬ不安を抱いているのだろう。物静かで笑い声のひとつも聞こえてはこなかった。


 メルセデスは手元の絹をそっと撫でた。肌触りの良いそれにわずかばかり気分が上昇する。これと同じく姫も上質で、人の心をくすぐるような人柄であれば良いのだが。メルセデスは憂鬱な気分を祓うように撫で続けた。


 メルセデスの元には絹の他に一通の書状も届けられていた。差出人はマクラウド・アストライア・クラストロ公爵。『あの』国の宰相だ。宰相ではあるものの、現在居所も不明で生死も不明だといわれている人物である。メルセデスは偽文書ではないかと疑ったが、サインと判は間違いなく彼のものであった。内容は彼の国の王女とアルフレヒトの婚姻に関するもので、マクラウドが真実宰相であれば願ってもない申し出であった。


 あの国との婚姻は、帝国でなくとも慎重になる。ことがことだけに、その点で信用のない国であった。不義を成す王は昔から枚挙に暇がないが、あの国の王はよりにもよって貴賓として列席していた結婚式の場で、花婿から花嫁を奪い取ったのだ。身分上、さすがに帝妃は列席しなかったが、皇太子が招待されて行っていた。散々な式から帰国した皇太子は、嫌悪と蔑みを隠すことなく帝妃にすべてを語った。その後の始末も帝妃の知るところとなっている。


 そんな夫婦の間にできた娘と、大事な息子との婚姻。どれほどの悪癖を持っていようともアルフレヒトはメルセデスの息子なのだ。母として、息子には幸せになって欲しかった。夫によく似た息子はおそらく幸せとはなにかを知らない。愛と幸福の存在すら知らない化け物になってしまった我が子を、それでもメルセデスは見捨てられなかった。わたくしが見捨ててしまったら、あの子は本当にひとりぼっちになってしまう。メルセデスの苦悩は年を追うごとに深く重くなった。死の足音が聞こえる今、これが最後のチャンスだった。


 メルセデスとマクラウドには面識がある。25年も前にグランドツアーで帝国を訪れた少年を彼女は忘れていなかった。真面目で優秀と評判の彼は、その評価に違わず帝国語を駆使して交友を広げ、砂が水を吸い込むように貪欲に知識を吸収していった。帝妃でさえなければ、とメルセデスさえ思わず自分の身分を恨んだほど魅力的な若者だった。


 彼を支持したことを、メルセデスは後悔していない。あの国を帝国風に染め、次期宰相である彼からゆっくりと浸透させるつもりだった。そのためにメルセデスはヴァルツ・シュタイン家に婿入りした帝室の男に命じて娘と婚約させたのだ。チャールズは良くやってくれた。フローラが台無しにさえしなければ、今頃は二国間の関係は密接したものになっていただろうに。まったく惜しいことをしたものだ。


 できることならマクラウドと自分の娘を結婚させたかった。だが年齢が合わない上に娘たちは全員売約済みだった。婚約という縛りで他国に干渉するのは定石とはいえ、成人もしていない、なんなら一桁の歳の娘を婚約させたのは早まった。それほどあの国は、帝国にとって旨みのない国であった。血統主義の弊害がなければ見向きもしなかっただろう。


 宰相の地位を放棄したマクラウドに、帝国は何度か勧誘した。野に降るにはあまりにも惜しい人物である。あの国でもっとも評価が高いのは今も絹ではなくマクラウド・アストライア・クラストロである。諜報に探らせてクラーラとなった彼を口説いたこともあった。彼が望むならクラーラとして、仕立て屋のままで帝室の相談役になればよいとまで言った。マクラウドはその勧誘をすべて謝辞した。


 マクラウドが何を思い何を考えているのか、メルセデスにはわからないままだ。帝国に迎え入れられ官位を得れば、それはあの国にとっても打撃となり復讐の機会も得られたはずだった。エドゥアール王であれば自国の宰相を無断で奪われたと、それを許したクラストロ家を不当に処罰し、帝国が軍を動かす格好の口実を与えたに違いない。クラストロ公爵家が丸ごと帝国に亡命してくれば公爵領は独立の目もあり得ただろう。だがマクラウドは、それをしなかった。


 そして今、マクラウド公爵個人から国の王女と帝国の皇子との婚姻申し込みが来た。彼が何を考えているのか、メルセデスにはわからないままだった。ただ少なくとも、帝国には悪いようにはならないだろう。謝辞の言葉の連なりからメルセデスはそれを読み取っていた。


 まずは帝王と皇太子に、そしてアルフレヒトに話をしてこれを成立させなければ。メルセデスは母として、息子の幸福を心から祈っている。同時に帝妃として、化け物の後始末は自分でつける算段を開始した。


「この絹地はアルフレヒトの妃に贈る事にします。仕立て屋の手配を」


 仕立て屋を、用意しなければならない。王女にふさわしいドレスを作るための、最高の仕立て屋を。


 せめてそれが、化け物を生み出してしまった母の最後の愛情だと、あの子はわかってくれるだろうか。





帝王なにしてるの?と思われるでしょうが、アルフレヒトの悪癖には理解があるほうです。ストレスで残酷なことをしたくなる気持ちはわかる。ただ自分がやると周囲が大変困るのでやらないだけ。帝妃が根絶治療なら帝王は緩和治療、ストレスはなくならないから発散させればいい。父親と母親の差かな。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ