フランシーヌ・ドゥ・メイ・ジョルジュの友情
コツ、と広い部屋に靴音が静かに木霊した。
広く薄暗い部屋には大きな木製のテーブルが複数並べられている。足を踏み入れると夏だというのにひやりとした肌寒さを感じた。それは、まったく光のない部屋のせいだけではなく、どこからともなく漂う不快な臭いのせいもあるだろう。
かさり、こそり…と何かが蠢いている音が、内心の恐怖を煽る。少女は喉を鳴らして唾液を飲み込もうとした。しかし緊張しきった口腔内は乾ききっており、唾液ではなく臭く湿り気を帯びた空気だけが不快感と共に降りていくだけだった。
剥き出しの腕はうっすら汗をかいているのに鳥肌がふつふつと立っている。微かな音はいつまでたっても止まず、彼女は意を決してそちらへと足を進めていった。一番手前にあるテーブルは彼女の体がゆうに乗るくらいの大きさで、そこには木枠が置かれている。緑色をした何かが散らばり、そして、異臭と音の正体が有象無象とひしめいていた。
子供の指ほどもあろうかという、芋虫。それが何匹も何匹も群がって、餌を食べているのだ。
「……ひぃっ」
フランシーヌ・ドゥ・メイ・ジョルジュはその光景に顔を背けた。悲鳴だけは何とか耐えるが、これ以上目を開けていられない。なんという失礼を、と焦りはするものの、貴族令嬢として育てられたフランシーヌは、これほど多くの虫を一度に見る機会などなかった。本能的な恐怖心を抑えることができない。
「あらら、フランシーヌちゃん、無理しないで?さ、もう出ましょう」
思いのほか力強い腕に肩を抱かれ、フランシーヌはふらふらと部屋を出た。陽のあたる屋外に出ると一瞬目が眩む。それでも太陽の温かさに体温が戻ってくるのを感じ、ホッとした。
「も、申し訳ございませんクラーラ様…。せっかく見学させていただいたというのに……」
「いいのよぉ。大抵の女の子の反応はみんな同じだし。むしろ気絶しなかっただけフランシーヌちゃんは偉いわ」
クラストロ領に来て、何をしてみたいかといえば、特産である養蚕の見学だ。
独占しているだけあって、見学はクラーラの口添えがあってようやく実現した。絹がどうやって生み出されるのか見てみたかったが、あれだけの蚕を一度に目にするとインパクトが強すぎる。蚕が虫であるということは知っていたが、その実物がいかなるものかは知らなかったのだ。
「…虫ってだけで敬遠しちゃうものね。それがあんなにたくさんでしょう?やっぱり嫌がる子が多いのよ」
見学したがる者は多いが、実際に蚕を飼育しているところを見ると悲鳴をあげて逃げてしまう。一匹だけならフランシーヌも眉を寄せつつ「可愛い」とお世辞のひとつも言えただろうが、あれほどいると鳥肌ものでしかない。先程の光景を思い出し、フランシーヌはそっと口元を押さえた。
「今はまだ時期じゃないから見ることができないけど、繭はころんとしていて可愛いわよ。その後は中の蚕を蒸して処分、乾燥させて、今度は煮て繭をほぐし、糸を紡ぐ。染織と織は秘中の秘だから見学は禁止。だいたいこんなものね」
「ずいぶん時間をかけるものですのね」
「そうね。ひとつの繭から紡ぐ糸はほんのわずか。…とても貴重なものだわ」
空は薄い雲がかかっていて、日差しはやわらかい。クラーラとフランシーヌは日傘を差すと歩き出した。
養蚕施設は周囲をレンガの塀で区画されており、そこで人々が働いている。どちらかというと女性が多いのは、生き物を育てるのは男より女の方が上手だ、というクラストロ公爵の鶴の一声があったからだ。若い働き手として女性を雇用するのはこの国ではまだ珍しく、これほどの規模はクラストロだけである。
フランシーヌがクラストロ領に入ったのは、夏の盛りのことだ。
実をいうと避暑地・保養地として有名なクラストロ領に来たのはこれがはじめてだった。今までジョルジュ家といえば親王家派の筆頭で、クラストロ領に避暑に行くという発想そのものがまずなかった。両親はともかくあの祖父が良い顔をしないだろうし、フランシーヌもアルベール王子の婚約者という立場から、あえて王家を刺激することは避けていた。王家とクラストロの確執は知らなくても、徹底拒否の姿勢に良い関係ではないことは想像がつくものだ。
しかし今、彼女にはそんな枷はない。王都から遠く離れたクラストロに行きたいと願った時は渋い顔をされたが、純粋に旅路の安全を慮ってのことであった。父は愛娘のためにジョルジュ家の騎士団の中から護衛を選び、道中の安全を図ってくれた。実際にクラストロ領に入るまでは強盗や野盗の気配がちらほらと見えて胆を冷やし、貴族の紋がついた馬車でなければ襲われていた可能性が高かった。旅の宿屋ではどこかの商人の荷馬車が襲われたという噂も耳にした。
友人のリスティア・エヴァンスが招待してくれたこともあり、フランシーヌはエヴァンス家が管理を務めている領地へやって来た。さすがに長期滞在となるとエヴァンス家では堅苦しいだろうとわざわざホテルの手配までしてくれており、フランシーヌが退屈しないようリスティアが遊びに誘ってくれる。
クラーラが顔を出したのは視察と仕入れにエヴァンスを訪れたからだった。エヴァンス家当主に挨拶をして、リスティアの誘いでお茶会が開かれた。そこでフランシーヌと再会し、視察の話を聞いた彼女が養蚕を見てみたいと申し出ての、今日である。
「クラーラ様、フランシーヌ様――」
リスティアがふたりを呼んだ。リスティア自身は生まれた時から蚕と親しんでいたため、慣れている。むしろ可愛いですわと言ってフランシーヌの好奇心をくすぐった張本人だ。
「用意ができましたわ。あちらでお昼にしましょう」
「フランシーヌちゃん、食べられるかしら?」
「大丈夫ですわ」
なんとか気を取り直したフランシーヌはしっかりとうなずいた。蚕を見て気分が悪くなったとリスティアが知れば、いらぬ罪悪感を抱いてしまうだろう。
「フランシーヌ様、蚕ちゃんはいかがでしたか?あの丸々とした胴体に太く短い足で桑の葉を食べているのは可愛らしかったでしょう?」
自分の感性を疑いもせぬ少女は無邪気に感想を聞いてきた。フランシーヌは顔が引き攣らないよう、懸命に努力して微笑むことに成功する。
「ええ、そうですわね」
「さ、どうぞ。これは桑の実で作ったジャムですの。甘酸っぱくて美味しいですわ」
「ええ、ありがとう」
広げられたシートにはバスケットが置かれ、フランシーヌとリスティアの侍女たちが用意万端で待っていた。
こうしたピクニックの昼食にはサンドイッチやビスケット、ケーキなどの軽食が主になる。フランシーヌはリスティアが差し出した桑の実ジャムをたっぷり乗せたビスケットを恐る恐る口に入れた。
「…っん!美味しいです…」
あの虫が食べていた木の実はあまり酸味のないものなのか、長期保存のために入れられた砂糖とあいまって甘さと香りが強かった。濃い赤紫色のちいさな粒が歯で弾ける心地よい感触も良い。意外な味にしげしげとジャムを見るフランシーヌに、リスティアが嬉しそうに笑った。
「フランシーヌ様に気に入っていただけて嬉しいですわ。子供の頃はよく桑畑に来てこっそり摘まんで食べたりしていた、思い出の味ですの。ふふ、すごい色でしょう?生で食べると果汁が指や服について、染みを作ったりしていましたわ」
「お転婆でしたのね?」
「兄や姉に教わったのですわ。わたくしだけではありません」
「まあ、ふふふ」
笑う少女たちは夏の木陰に佇む妖精のようだ。クラーラはそれを微笑ましく眺めながらサンドイッチを食べる。侍女が淹れてくれた紅茶を受け取った。熱い液体が喉を通り手足が温まっていく。それを心地よく感じ取り、クラーラは空を見上げた。
クラストロは避暑地として有名だが、夏はそれなりに暑い。だが今年は冷夏なのか、吹き抜ける風は冷たささえ感じるほどだ。蚕が育つには気温が大きく左右する。蚕は弱い生き物で、温度差や病気で全滅することもあった。管理をしっかりしておかないと、今年の絹は値上がりするかもしれない。
「少し寒いわね。フランシーヌちゃん、リスティアちゃん、冷えてない?大丈夫かしら?」
「そういえば冷えてきましたね」
「この後は川遊びの予定ですが、止めておきましょうか」
「そうね。風邪でもひいたら大変だわ。早めに帰りましょう」
軽食とはいえそれなりにあったはずの昼食はおしゃべりの間にすっかり消費されている。クラーラの合図に侍女たちが動き、てきぱきと片付けていった。
大事な話がある、とクラーラがフランシーヌの滞在するホテルに来たのは、見学から数日後だった。
ホテルはフランシーヌが一室、侍女とメイド数名で一室、護衛たちが二室で過ごしている。一番広いフランシーヌの部屋に、クラーラは護衛長の騎士を呼ぶよう前もって伝えてあった。
「クラーラ様、それで、お話とは?」
メイドが紅茶を用意して部屋の片隅で待機する。それを確認し、クラーラはまず紅茶を飲んで唇を湿らせた。
「…フランシーヌちゃん、この部屋にいる人たちは絶対に信用できるわね?」
「はい、もちろんですわ。メイドも護衛もずっとわたくしに付いてきてくれている者たちです」
不穏な前置きにフランシーヌの胸が嫌な音を立てて高鳴った。メイドと騎士も、確認とはいえ疑われ、わずかに緊張する。
「アルベール王子が、謹慎先の国から脱走したわ」
「………!!」
衝撃的な言葉にフランシーヌは目を見開いた。新緑の瞳があの時の光景を思い出し、さっと曇る。
アルベールは婚約破棄の責任をとって、他国で謹慎という名目で留学中であった。実質的な人質である。王位継承権の剥奪はされておらず、彼は未だに第一王子のままだ。現国王夫妻にはもうひとり王子はいるが、彼も未婚であり、子はいない。アルベールの継承権をなくしてしまうと王族と血の繋がった貴族たちが第二王子のマルセル暗殺を企むかもしれず、また婚約者のいない彼と強引な婚姻を結ぶ可能性もあるため、あくまで予防的な措置である。アルベールが王位に就こうとしても、どの貴族も議会も承認しないだろう。よほどの人物が裏にいない限り。
「帰国しているかの情報はまだ聞いていないわ。でも時間の問題でしょうね。アルベール王子を擁護する貴族がいるのかは不明だけれど、万が一ということもあるわ」
「……脱走だなんて…王子………」
フランシーヌの頭には何故という疑問しか浮かばなかった。他国で人質生活は第一王子として生きてきた彼には屈辱だろうが、それは反省を促すものでいずれは帰国を許される前提である。監視役の侍従たちも生活を見守っているし、真面目に反省し、王族としての自覚を思い出し勤勉に努めていれば数年で戻って来られただろう。わざわざ脱走する必要などどこにもないはずだ。
「…あの、まさかとは思いますが、かの国で恋人ができて駆け落ちなさったのでは」
「その可能性はないわね。恋人どころか友人も作らず、第一王子を鼻にかけた態度で遠ざけられていたそうよ。反省なんかしていないし、未だに何が悪かったのか理解していないんじゃないかしら」
アルベール脱走の一報は、すぐさま王宮に届けられた。
王と王妃はまさかの事態に驚愕し、アルベールを捜索するよう命令を出した。王妃は預け先の国へ抗議文を出そうとし、筋違いであると諌められた。諌めたのは王都の警護を任されている近衛軍司令官、アントワーヌ・ドゥ・オットー・ジョルジュ将軍であった。フランシーヌの父である。
ジョルジュ将軍は脱走した王子が王都に戻ればすぐに確保できるよう、緊急警備体制を布いた。にわかにざわめく王宮に王都の民は何事かと危ぶみ、そして、王子の脱走を知る。フランシーヌとの婚約破棄騒動で底辺に落ちていた第一王子の評判はさらに沈み、新聞各紙はいっせいにこれを面白おかしく書き立てた。悪意を持って書かれた記事は民衆の間に驚くほどの速さで広がり、一時持ち直していた王家の威信は一気に元に戻ってしまった。
「クラストロも警戒態勢に入っているわ。…ここは大丈夫でしょうけれど、フランシーヌちゃん、油断はできないわ」
「何故でしょうか?いくら王子とはいえ、もはやアルベール様にはなんの手だてもないのでは…?」
「王子というのが問題なのよ。フランシーヌちゃんだってここまでの道中で見たでしょう?今、この国はひどく荒れているわ。貴族の紋が入った馬車を襲う馬鹿はいなかったのでしょうけど、けして安全とはいえなかったはずよ」
フランシーヌはクラーラの言葉に考え、すぅっと血の気が引くのを感じた。ぎゅっと手を握る。
「……王家への不満を抱くものが、王子を擁護し、正統性を掲げて王都へ攻め込むかもしれない、と……?」
「擁護ならまだいいわ。王子を捕まえて利用するだけかもしれない。そしてそうなった時、一番危険なのはフランシーヌちゃん、あなたよ」
「なぜ?わたくしがジョルジュ家の者だからですか?」
「違うわ。あなたが王子の元婚約者だから……アルベール王子が一番怨んでいるのは王と王妃、次にあなたよ。あなたさえユージェニーとの仲を認めてくれていたら、こんなことにはならなかった。…あの王子のことだから、こう考えているでしょうね」
「…そんな!わたくしひとりが認めたところで彼女との結婚が許されるはずがありません!」
「それがわかっていれば、こんなことになっていないわ。フランシーヌちゃん、落ち着いて」
王子はまず一番弱く無防備なフランシーヌの首を取ることで、私怨を晴らそうとするだろう。そして王子を利用する賊は、王子にそうさせることで後戻りできなくする。ジョルジュ将軍も王と王妃も、フランシーヌが殺されたとなれば賊の言い分に耳を傾ける。同じテーブルに着くための材料として、フランシーヌ・ドゥ・メイ・ジョルジュの首、もしくは身柄はこれ以上ないほど有効だ。
フランシーヌは蒼褪め、新緑の瞳から涙を零した。すでに過去となったとはいえ、アルベール王子は彼女の初恋であり、あれほど身を焦がした相手なのだ。王都中の娘たちから憧れていたアルベールが、面影もなく賊に身を投じ、国家に仇為そうとしている。残酷な未来予想にフランシーヌは決別とは違う涙が流れるのを止められなかった。悲しいのか、悔しいのか、それとも憐れみなのか、彼女にもわからなかった。
「フランシーヌちゃん…大丈夫?」
「はい。失礼しました…」
「ごめんなさい…こんな話をして。でも、聞いているのといないのとでは、対処のしようが違うわ」
「わかっています。クラーラ様、どうか続きをお聞かせください」
「あくまでこれは可能性の話よ、王子の脱走は単に癇癪を起こしただけですぐに捕まるかもしれないし、賊と落ち合ったところで王家への人質になるかもしれないわ」
「はい。最悪を想定しておくのは当然のことですわ」
クラーラは冷めた紅茶をひと息に飲み干すと、気を引き締めた。クラーラにとって、本題はここからだ。
「それで、これはお願いというか、提案なのだけれど…うちの馬車を王都までの帰路に同行させてもらえないかしら?」
「馬車?というと、クラーラ様の護衛としてでしょうか?」
「アタシじゃないの。アタシはまだここでやることがあるわ」
クラーラのクラストロ行きは表向き静養と買い付けだ。実際は王都にいればやがて怒りの民衆が暴徒になって襲うと想定しての避難であるが、現実はそれよりさらに悪いものとなった。アルベールを脱走させた黒幕が必ず動き、それは国全体へと広がる。
―――革命が起こるだろう。
クラーラはもはや自分がクラーラではいられなくなることを悟っている。少女たちの甘やかな夢を応援する役目は終わりを告げ、血と黒煙に塗れた世界が幕を開ける。
「クラストロで買い付けた絹地や宝石を王都に運ぶ荷馬車よ。護衛を雇うけれど、やっぱり不安だわ。各地で野盗が横行しているし、商人の馬車なんて格好の獲物でしょう。護衛ごとそれを同行して貰いたいの」
フランシーヌはクラーラの話にうなずき、護衛騎士に目を向けた。一歩踏み出した彼は彼女を安心させるように微笑むと、まずは意見を述べる。
「発言をお許しください。まず、護衛というのは信用できるギルドの紹介でしょうか?」
「ギルドではなく、クラストロ公爵からお借りする護衛団よ。うちのドレスはクラストロの宣伝も兼ねているし、融通を効かせてくれるわ」
これがその証明書、と言ってクラーラが封書を取り出した。騎士が失礼しますと封から取り出す。クラストロ領の護衛騎士をクラーラに貸し出すという一文と、公爵のサインがたしかに入っていた。
「クラストロの護衛団であれば願ってもないことです。お嬢様の護衛として、我々も大変心強い」
証明書を封に戻し、クラーラの前に置く。クラーラは丁寧にそれをしまった。
フランシーヌは、クラーラの意図するところを正確に読み取っていた。
クラストロの護衛団を雇うのなら、フランシーヌの一行はむしろ邪魔になるはずだ。クラーラはフランシーヌの安全を危惧し、こちらからの願いという形をとって、彼女を守ろうとしている。それだけこの先危険が伴うのだろう。クラーラの心づかいにフランシーヌは深く感謝した。
「クラーラ様…ありがとうございます」
「お礼を言うのはこっちよぉ。貴族様の紋が入った馬車がついてれば賊もたやすく襲ってこないでしょ」
フランシーヌが礼を言うと、こちらのセリフだとクラーラはいつものように闊達に笑った。
フランシーヌが帰るのはそれからさらに数日が経ってからだった。クラーラの荷馬車は二台、護衛騎士が10名付いている。クラストロの騎士はフランシーヌの護衛と打ち合わせを済ませ、すでに配置についていた。
「フランシーヌちゃん、くれぐれも気を付けてね」
「はい。クラーラ様も、王都にお帰りの際はどうかお気をつけて」
フランシーヌは夏らしい薄いレモンイエローに濃い緑色のラインが入ったワンピースだった。窓を開けても蒸し暑くなる馬車内で長時間過ごすため、生地は薄手の麻で風通しの良いものになっている。袖口も短く、裾も足が見えるほどの長さしかなかった。
あいかわらず、綺麗な娘だ。クラーラは目を細めてこのうつくしい友人を見つめた。おそらく今度会う時は、クラーラではなくマクラウドであると思うとせつなさが滲む。クラーラはそっと手を伸ばして彼女を引き寄せ、頬にキスをした。
「元気でね、フランシーヌちゃん」
「クラーラ様も。王都にはいつお戻りになる予定ですか?」
「そうねぇ…。情勢にもよるけど、冬には行くわ」
しかしその時は、クラーラはもうクラーラではないだろう。フランシーヌは長い別れに残念そうにみなさまが待ちくたびれてしまいますわと言った。クラーラは曖昧に微笑んだ。
馬車に乗りこんだフランシーヌに、クラーラが言った。
「フランシーヌちゃん、クラーラの友情は本物よ。どうもありがとう」
「……?はい、こちらこそ」
ジョルジュ家の護衛が出立を告げ、馬車が動き出す。フランシーヌは窓から手を振った。クラーラも振り返す。
遠ざかっていくクラーラの姿を見ていたフランシーヌは、何故いきなりあんなことを言い出したのだろうと考えた。クラーラと出会って以来、その友情を疑ったことは一度もない。クラーラはいつだって誠実だった。
「…フリューディアの刻は終わり、彼はついに目を覚ます」
有名な小説の一節である。幼い頃に友情を育んだ男たちが、敵同士となって再会し、戦う運命に翻弄される物語。友情と忠誠の狭間に揺れる彼らは戦いの中で変わらぬ想いを知るのだ。そしてラストシーン、友の剣を胸に受けた彼が、主人公に告げたセリフをクラーラは呟いた。フリューディアは子供の頃にだけ現れ、幸福な夢を見せてくれる妖精だ。
「さあいざゆけ友よ。我らの道はひとつなり」
主人公が死に逝く友に泣きながら言った別れの言葉を紡いだのは、いつからか隣にいたレギオンだった。彼は黒いスーツに身を包み、主人を守るように立っている。クラーラの黒い瞳がわずかに濡れているのに見ないふりをした。
「お気が済みましたか」
「済んだ。あれならば誰も疑うまい」
クラーラとフランシーヌの友情を利用して運ばれる荷馬車には、説明したとおりの絹地と宝石、そして、クラストロで開発された新式銃が積まれている。王都にいるルードヴィッヒに送るためだ。護衛に選ばれた騎士は新式銃の訓練を積んでおり、ルードヴィッヒと合流後は王都にいるクラストロの私兵に調練を指導することになる。
王都で暴動が起きるのはもはや確定だ。アルベール王子の裏で誰が糸を引いているのか、薄々予想はついている。マクラウドが出ない限り、終わらないだろう。
クラーラはレギオンを連れて歩き出す。一度フランシーヌが去っていった道を振り返った。きらめく道を歩むはずだった少女は、この先の未来が血と嘆きに包まれ人々の激怒が濁流となると知った時、どうするのだろうか。
「ありがとう、フランシーヌ…」
さようなら。
今はもう廃れてしまいましたが、私が子供の頃は養蚕をやっている家が多かったものです。お蚕さん、可愛かった…。桑の実を食べて手も口も服もドドメ色になり叱られたのは私の実話です。美味しいですよ。




