その10
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「なあに?」
ぼくの視線に気づいたアンナが小首をかしげた。
ぼくは、
「おいしい?」
と質問して誤魔化した。
「おぉいふぃよぉー!」
と饅頭を口いっぱいにほおばった元気いっぱいの答えが返ってきた。
「寒田くんも食べなよ」
ぼくはうなずいて、竹の座布団を敷いた葛饅頭を手皿によそった。
透明な皮の中に、こしあんの黒い球が浮いている。
付属の竹のへらでつつくと、皿の上でプルプルと震える。
口に入れる。ひんやりした葛餅の触感と、なめらかで上品な練餡の甘さが舌の上に広がって、ぼくの頬をとろけさせる。
「おいしい」
珍しく素直にことばがでた。それは初めて食べるおいしさであった。
わが栄光ある祖国、真実の道に目覚めた真の日本、日本民主人民共和国においては、こんな上等なブルジョワ的お菓子を手に入れられる機会は多くない。
この葛饅頭は、党員専用の国営百貨店から、父が入手してきた接待用菓子のあまりであった。
「形が崩れてしまったからお客さまには出せません。お友達と食べなさい」
と父に譲られたのだった。
お友達と食べなさい、か。
ぼくは考えた。
これほどの高級お菓子を提供する価値があるような「お友達」とは、間違いなくアンナのことである。
あのやりきれない父が、無口で、ぼくと同じく臆病な猜疑心の塊で、人間関係の順位づけに厳格で、そして根っからの仕事人間な父が、たかが次男のお友達に、高級お菓子のプレゼントだなんて気の利いたことをしてくれるはずがないのだ。それが仕事でもない限り。
父はアンナについて何を知っているのだろうか。
国家保安省に勤めているぼくの父は。
人民を監視し、盗聴し、検閲し、修正し、密告を奨励し、逮捕し、尋問し、拷問し、労働研修所送りにすることでぼくたち家族を養ってくれている父は。
葛饅頭はまろやかに口の中で溶けた。
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「だから言ったはずだよ、訳ありだと」
生活指導室の机にだらしなくひじをついて、美城上尉は自分の指先をみつめた。
「ほどというものがあるでしょう。何ですか超能力者って」
ぼくは押し殺した声で抗議をした。
「こまかい男はモテんぞ」
「上尉にモテたって仕方ないです」
「キミ、ひどいね」
とにかく、と上尉は机に両手をついて肩をこきこきならした。
「ようはアンナに代わる五人目をキミが探しだしてくればいいだけだろう。その後は、お得意の法にふれない嫌がらせなり、小姑いじめなりで追い出せ」
ひどさの点では、上尉もヒトのことを言えなかった。
ぼくと上尉はしばし黙った。上尉は、マニキュアのきれいに塗られた爪をじっとみていた。ぼくは壁にかかる大元帥同志の公家顔をながめていた。
「アンナの特技の件ですけれど」
ぼくは口火を切った。
「上尉はどこまで知っているんですか」
「知らない。興味ない。どうでもいい」
上尉は首をこきこきならしながら言い切った。
「アンナはアンナだ。それ以上でも以下でもない」
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部室に行くと、アンナが『1984』を書いていた。いつもと同じように。
「上尉はなんて?」
アンナは机から顔もあげずに言った。
ぼくは部室に遅れて出るとしか伝えていないのに、アンナはきっちり見通してくる。当然のように。
「きみはきみ以上でも以下でもないってさ」
と、ぼくが伝えると、
「ドラマのセリフみたいだ」
とアンナはころころと笑った。
そして笑いながら「そういうものだよ」といった。
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ぼくはパイプ椅子に座って、統一農労党中央委員会機関紙『思想農労』を手にとった。
アンナを追い出すのはいつでもできる、とぼくのなかの冷たい部分がささやいた。
ぼくは部長代理で、実質的な文芸部長だ。いつでもアンナを除名できる。おなじみの官僚用語を二言三言、生徒会への報告書に書きつければいい。『高校生徒としての品位に欠ける』とか。その前にアンナが『一身上の理由で』退部するかもしれない。除名より自己退部のほうが内申書の外聞がいいから、除名をちらつかされた部員はたいていそうする。
その気にさえなれば、いつでも。
でも、もう少し待ってもいいだろう、とぼくのなかの別の個所が提案した。せめて『1984』が書きあがるまでは。
これが危険な思考なのはわかっていた。頭の中で、祖父の声が再生される。
「感情移入するな」頭のなかの祖父はいった。
「感情移入すると排除できなくなる。感情移入した相手を排除すると、自分にショックとしてはね返ってくる。人生は長く、世間は狭い。とても身がもたん。殺る気ならホレるな、ホレたらなるべく殺るな」
そして祖父はつけ加えた。
「つまらん相手にホレると人生、棒に振るぞ」
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ぼくはアンナの〝体質〟について信じたわけではなかった。
もともとぼくは科学的無神論を叩き込まれた赤い優等生であるから、そういういかにもロシア人が好きそうなオカルトにはちょっと抵抗があった。
それ以上に、アンナの予言は真に受けるにはあまりにスケールが大きすぎた。
実感がわかなかった。
あと五年でこの国が亡びるといわれたことより、|ソヴィエト社会主義共和国連邦《СССР》が崩壊するといわれたことのほうが、よりピンとこなかった。
だって、あのソ連だぜ?
恐るべき科学力でユーラシアの北部にあり、 地上の半分を支配する赤き帝国なんだぜ?
それが滅びちゃう?
あとたったの七年ちょっとで?
しかもちょうどクリスマスに?
信じられますか?
あの本『1984』にしても、初めて手にとった興奮が冷めてみれば、なんの証拠にもならない。
何もかも、穴がありすぎる。
常識的に考えれば、アンナはごく一般的なカザフ移民三世で、西側からの密輸品か地下出版物の『1984』を手に入れて、登校する前にその日に必要な分を暗記してきていると考えるのが自然だろう。
ところが。
さて、超能力が嘘だと仮定する。
その場合、わざわざ超能力なんてたわけたウソをつく意味があるだろうか。
反革命的書物を執筆していることへの言い訳?
ばかばかしい、人民警察や国家保安省が、そんな言い訳を信じてくれるはずがない。どこかで読んだんだろと詰められ、超能力が本当だろうが嘘だろうが自白を強要されるのがおちだ。
ぼく一人をハメるには、あまりにリスクが高すぎる。
では、もし仮に、アンナの話が真実だとする。
その場合、また別の疑問がわく。
『アンナはなぜここにいるのか?』
ロシア本国からも、故郷アフガニスタンからも遠く離れたこの極東の島国に、アンナはどういう経緯でやってきたのか。
なぜ東東京特別市のソヴィエト国際学校ではなく、こんな一般の学校に通っているのか。
なぜこんな潰れかけのポルノ文芸部に入ったのか。
そしてなぜ、ぼくなんかに重大な秘密を打ち明けたのか。
質問はしなかった。かえってくる言葉は容易に想像がついたからだ。
「そういうものなんだよ」
わからない。わからない。
何を疑っていいのかすらわからない。
ぼくの脳みその猜疑心をつかさどる回路が空転し、熱暴走を起こしかけていた。
ぼくは原稿をしまうふりをして、横目でアンナをちらりと見た。
アンナは執筆休憩中で、おかきを口にくわえて少女小説『花の恋』を読んでいた。紙質の良くない表紙では、和服にたすきがけした大正時代の女工さんと、二重廻しをつけた旧制高校生が見つめあっていた。小説のなかのあまい恋愛に夢中になっているせいで、海苔を巻かれたおかきがうすい唇の端から落ちそうになっていた。
ぼくの脳の猜疑心をつかさどる回路が、そっと閉じるのがわかった。
部屋の外からカツンカツンと足音が響いてきた。上尉の鉄製の義足とひじ当て付きの杖が階段を踏みしめる音だった。
もう何度も聞いた、投げやりなノックが耳によみがえる。
ぼくは上尉の分のお茶を注ぐため、ひびの入った急須を手にとる。
心地よい日常。
アンナいわく、あと五年しか保たない日常。
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