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その5

     ☭


「わたしはアンナ。園丘アンナ。公園のエンに、四角くないほうのオカ」


 ためらいがちに入室したぼくに、アンナは開口一番で自己紹介をした。はすっぱな口調であった。


 ぼくは自分の名前を告げた。


 ぼくの名前を聞いて、アンナはいわくありげに微笑んだ。


「いい名前だね」


「そうかな。ぼくの世代ではよくある名前だけど」


「日本人の伝統的な名前ではないよね」


「まあ、ね」


 ぼくは譲歩した。


 それから、気まずい沈黙が部室に満ちた。


 なんとなく部室を見回す。


 外びらきの扉の正面にはアルミサッシの窓。安っぽい長机とパイプ椅子。何年か前までポルノ密売の中枢であった大きな本棚たちが、左右の壁を隙間なく埋めつくしている。


 この三日間で早くも見慣れはじめた光景。


 その中心に当然のように君臨している、見慣れぬ少女。


 ぼくは自分の顔がかあっと熱くなるのを感じた。こちらのホームグラウンドのはずなのに、ぼくのほうが居心地の悪さを感じてしまっていた。


 いま思えば、それはアンナの態度、あるいは雰囲気のなせるワザだった。彼女の整った顔立ちのせいでもあったし、彼女が浮かべている、自信に満ちた、それでいてどこかはかなげな、不思議な微笑(ほほえ)みのせいでもあった。


 テーブルクロスから一輪の花を取り出してみせるインドの妖術師みたいだ、とぼくは思った。


 ぼくの生煮えの自己紹介に、アンナは鷹揚(おうよう)にうなずいた。


 奇妙な感覚がした。


 一拍おいて、違和感の正体に気づいた。初めての人と会うときの気負いが、まったくと言っていいほど感じられないのだ。まるで旧知の人から改めて名乗られたかのような、うん知ってるよ、というような、それはそういううなずき方だった。


 ぼくは突然、強烈な不安にとらわれた。相手が自分のことを一方的に知っているというのは、それだけで気分が悪いが、ぼくたちの日本(・・・・・・・)ではそれどころではない。


 それは実際に、破滅的な身の危険をともなうのだ。


 ぼくは、日本人民ならだれもがまず思い浮かべるであろうことを、とっさに連想した。


 国家保安省(アオバ)監視員(シュピオン)


 それも〈刷新体制〉時代の。


 ひそかに国民を監視している猟犬の群れ。真夜中に突然ノックされるドア。連行されたきり二度と戻ってこない人々。


 それはぼくが物心つく以前(まえ)の時代のことだったけれど、祖父からさんざんおどかされたトラウマはぼくの身にしっかりとしみついていて、ぼくの身体を硬く冷たくさせた。


 ぼくの顔面から表情がさっと消えたのが、自分でもわかった。


 ぼくの目が助けを求めてひとりでに泳いだ。


 急須(きゅうす)をいじっていた美城上尉と目が合った。彼女はとびっきり底意地悪げに片頬で冷笑してみせたきり、ぼくたちに背を向けて備品の蓄音機(レコード)をいじりはじめた。


 ぼくはなぜか、少しほっとした。


(あの美城上尉(野生生物)が気安く背中を見せるってことは、そう危ない人ではないんだろう)


 美城上尉への妙な信頼を胸に、ぼくはいくぶん落ち着いて園丘アンナを観察した。


 彼女を三日前の入学式で見かけたかどうか思い出そうとしたが、無駄だった。


 園丘アンナは、いわゆる「純粋な大和民族」ではなかった。髪はカールし、肌は褐色がかったハチミツ色で、どこぞの少数民族風の(ほり)の深い顔立ちをしていた。


 しかし、戦前や〈南〉ならたいそう目立ったであろうその特徴は、『解放戦争(ワールドウォーツー)』とそれに続く大飢饉、工業化を経て、ソヴィエト連邦や中華人民共和国経由で大量の移民・難民・亡命者を受け入れたぼくたちの日本(・・・・・・・)では、そこまで(めずら)しいものではなかった。


「えっと、園丘さん、だっけ」


 ぼくはさぐるように切りだした。


「アンナでいいよ。わたしも名前で呼ぶから」


「ぼくのことは寒田でいいよ、園丘さん」


 アンナは笑った。


「名前で呼ばれるのが恥ずかしいの?」


 そうだ。「そんなことないよ」


「ならなんで、名前で呼ばれたくないの?」


 自分の名前が嫌いだからだ。「日本人はみんな名字で呼びあうのが普通なの」


「他人行儀だなあ」アンナはフフッと笑ったあと、ふと思い出したように目をしばたかせた。「いや、そっか、まだ他人だっけ」


「え?」


「ううん、なんでもない。そのうちわかるから」


 わけが分からなかったが、こちらも聞きたいことがあったので深く追求しなかった。


「園丘さん、ぼくたちさ、顔、知ってたりする?」


「ひどいなあ」


 アンナは苦笑した。


「同じクラスじゃん」


 あっ!


 いわれてぼくは思い出した。


 ぼくは彼女を知っている。


 どこか面白がるようなその琥珀(コハク)色の(ひとみ)には、(たし)かに見覚えがあった。


 芋づる式に記憶がよみがえる。


 新学期の一日目、学級会で自己紹介する彼女の姿も思い出した。


「高等部から転入してきたんだっけ。たしか、ご両親がカザフ系二世だとか」


「そ。知ってんじゃん」



 窓際の席でまどろんでいたのに、順番が来るなりスラッと立ち上がって、その琥珀(コハク)色の両眼(りょうめ)でぼくたち同級生を()っとみつめてから、完璧な日本語でスラスラと自分の生い立ちを語った。


 その物腰を見て、ぼくは、古代エジプトの猫のようだと思ったのだった。


 また顔が熱くなった。赤くなったり青くなったり、われながら忙しい顔であった。


「ごめん、ボーっとしてた」


 なぜ、今の今まで忘れていたんだろう。その理由ははっきりしていた。この数日、部員確保の問題に脳がひっぱられていて、それどころではなかったのだ。


 アンナはくすくすと笑った。(はし)が転がるのも面白いといった笑い方だった。


 ぼくも笑った。気まずさをごまかす笑いだった。


 上尉は笑わなかった。


 ひとしきり笑ったあと、アンナはどうということもなさげに、


「わたし、超能力者なんだ」


 と突然のカミングアウトにおよんだ。


     ☭


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