その4
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「善は急げだ」
いまや頼もしい後ろ盾となった上尉はそういって、デスクにたてかけられていた杖を手に取った。
ダーミーイ・モスクイ!
上尉の左脚は鉄とプラスチックでできている。彼女にその左脚を贈ったのは陸軍病院の医師である。母親から贈られた肉と骨製の左脚はとうに失われた。
彼女の(右脚から推測するに同じく形のよかったであろう)左脚を奪ったのは、ムジャヒディンである。
ハロー!
ムジャヒディンとは、地上の涯・アフガニスタンの山奥でソ連軍と闘っているイスラム教徒の戦士たちのことである。彼らは、ソヴィエト連邦地上軍の進路上に生まれおちるという生涯最大の過ちのツケを命がけで支払っている。
また彼らは、路肩に仕掛け爆弾を埋めるという過ちも犯した。平和を愛する預言者ならば眉をひそめてチッチッチと舌打ちするかもしれない行為である。
ワルシャワ条約機構軍・日本民主人民共和国人民陸軍アフガン派遣隊の一員としてカイバル峠に派兵された同志上尉は、その仕掛け爆弾で吹っ飛ばされる七十二式歩兵戦闘車の中にいるという過ちを犯した。
彼女は〈勝利〉で酔っぱらうたびに、イスラムの聖戦士たちに地雷埋設罪の対価を支払わせてやるといきまく。いきまきすぎてゲロを吐く。その後始末は、いまのところぼくの仕事だ。ぼくは酔いどれアフガン帰還兵と腐れ縁になるという過ちを犯した。
上尉の杖はひじ当てのついた本格的なもので、握りの下あたりにマジックインキで『美城』と書かれていた。それが彼女の名前だった。
日本民主人民共和国人民陸軍空挺上尉・人民防衛英雄・国立第一人民大学付属高等学校付将校・非常勤教諭・美城美由紀同志。
さて、一息で言えるかな?
ぼくは軽くなったボストンバックを担って、一歩ごとに浮いたり沈んだりする美城上尉の肩を追いかけた。上尉はけっこうなめらかに階段を降りて、一階の角を曲がり、中庭を横ぎる渡り廊下を通ってずんずん歩いた。
「紹介する部員候補だが」
前を向いたまま上尉が話しかけてきた。ぼくの前方を歩いているので表情はうかがえない。
「ちょっと訳あり物件だけど、かまわないね?」
「ええ、もちろん」
肩ごしに投げかけられる上尉の確認に、ぼくは気安くうなずいた。保健室登校だろうが、不良だろうがかまわない。ようは頭数さえととのえばいいのだ。ぼくは開き直っていた。
いま思えば軽率であった。が、この時はまさか、あそこまで訳ありな物件だとは想像もつかなかったのだ。
だれが想像できるだろうか、謎めいた新入生が超能力者だなんて。
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渡り廊下の掲示板で、生徒会イデオロギー委員の三人組がポスターを張り替えていた。
掲示板には、赤地に黄色い角ばった字体で書かれた、おなじみのスローガンがべたべた張られている。
『忠党・忠国・忠親』
『電気を大切にしよふ』
『主義と和解せよ』
うんぬん。
イデオロギー委員たちは、党の新しい宣伝ポスターをまっすぐ張ろうと格闘していた。
赤一面の背景に、金色の鎌とトンカチと、日本列島の北半分のシルエットが配されている。その下に、社会主義リアリズム全開のゴリゴリした筆致で描かれた、バタ臭い顔つきの農民・工員・兵士・漁師が、肩をくんで左上あたりを見つめている。
なんとかわり映えしない絵面!
いつも思うのだが、彼ら忠良な労働者階級同志たちは、いったい何を見つめているのだろう。きたるべき社会主義の勝利だろうか。
イデオロギー委員三人組はもめていた。
一番背の高いイデオロギー委員が腕をいっぱいに広げてポスターを押さえ、あとの二人は少し離れた場所から好き勝手に水平基準を評価していた。
一人が、これでは右下がりだと主張する。
もう一人は、いやこれで水平だと反論する。
ポスター係が前者の意見をうけてプロレタリアート四人組を心持ち傾けると、水平派の委員が怒りの声を上げる。元に戻すと、右下がり派が髪をかきむしる。
上尉はイデオロギー委員たちのヒートアップする罵声をひょいとかわして歩き続けた。
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やがてぼくたちは、校舎の横手側にある第二部室棟にたどり着いた。
上尉はいい加減さびの浮いた外付けの階段を、ひじ当て付きの杖でカンカンと鳴らしつつのぼって、手前から二番目の部室の前まで来て、ようやく足を止めた。
落書きだらけの安普請の扉の前に、ぼくたちは並んで立った。
「あの、上尉」
「なんだ」
「ここは文芸部の部室ですけど……」
ぼくはおずおずと指摘した。
「知ってる」
「何の用があってここに?」
「文芸部員を探しにきた。そうだろ?」
からかわれるのには慣れているぼくだけれども、さすがにこれはないんじゃないかと思った。
「同志上尉、その目的を果たす上で、あなたはここに来る必要があるとお考えなのですね」
ぼくは毅然として、学級会のつるし上げに反論するとき専用の断固たる冷ややかな声を出した。怒りで声が震えないように気を付けねばならなかった。
「怒るな怒るな。おとなしそうなナリをして、意外と沸点の低いやつだな」
上尉はしかし、そんなぼくの抗議をひじ当て付きの杖の一振りで追い払って、
「あいつがいまいるとしたらここだろう」
「あいつ?」
困惑するぼくをよそに、上尉はドアを投げやりにノックすると、
「いるか?」
というなりドアを開けた。
ニェット!
誰がいるというのだ、唯一の部員であるぼくがいま扉前でこうしてマヌケ面をさらしているというのに!
しかし。
もちろん。
そこには、確かにいた。
そこには、カールし放題の黒髪を持った少女がいた。好奇心でキラキラ輝く琥珀色の両眼はぼくを見ていた。
園丘アンナがぼくを見ていた。
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