前書きにかえて&その2&その3
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前書きにかえて。
いまは昔、ソ連という国があった。
正式名称を『ソヴィエト社会主義共和国連邦』という舌をかみそうなその国は、共産主義を奉じ、ユーラシア大陸の北部を根城に、東欧、アフリカ、アジアまでその赤い触手を伸ばしていた。
文字通り、世界の半分を支配していたのである。
もう半分を支配していたのが、御存じ『アメリカ合衆国』である。
このお話の大部分は、北の大国『ソヴィエト連邦』と、新大陸の覇者『アメリカ合衆国』が、冷戦と呼ばれるにらみ合いをやっていた時期にあたる。
ソ連の味方を『東側』、アメリカの味方を『西側』、それ以外を『第三世界』と呼んでいた。いまから思えば、全てが単純明快な時代だった。
ぼくたちの日本は、いわゆる『分断国家』であった。
北半分は『東側』で、ソ連の衛星国。
南半分は『西側』で、アメリカの腰ぎんちゃく。
ぼくたちは冷戦の最前線に生まれ、食べ、呼吸し、暮らしていた。
そのソ連という国は、もうない。
一九九一年、ソ連は崩壊分裂し、ソヴィエト連邦を構成していた各共和国はそれぞれ独立。ソ連の国際的役割はソ連邦内ロシア共和国が引き継ぎ、いまのロシア連邦として独立した。
ぼくがアンナと出会ったのは、ソ連崩壊の七年前、一九八四年の四月四日のことだった。
一九八四年!
もはや化石時代に属することだ。
当時、パソコンは十六ビット。そのくせ非常に高価で、ロシアの農村のオーブンレンジのように大きかった。カラオケボックスはなかった。スマホもなかった。携帯電話すらなかった。『ぼくたちの日本』こと〈共和国〉では、固定電話すらまれだった。
携帯ゲーム機といえばゲーム&ウォッチの時代で、ゲームボーイはまだ登場していなかった。一九八三年の夏にファミコンが発売されてから、まだ一年とたっていなかった。
そんなはるか太古の昔にも、人々は生まれ、暮らし、泣き、笑い、食べ、排泄し、交接し、そして、青春と恋をしていた。
これは、そんなちっぽけな惑星のちっぽけな島国で、それでも精一杯生きた、ぼくとアンナの物語である。
寒田
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と、いうような具合にすべてはトントン拍子に進んで、ぼくは園丘アンナと未来を見とおす彼女の琥珀色の瞳に出会ったのだった。
ゴ清聴ノミナサン!
『未来を見とおす』というのは西側の神懸かり政治家が騙るようなありきたりな言葉遊びではなく、読んで字のごとく文字どおりの意味で、園丘安那、ロシア名、アンナ・モスクヴナ・アフタルモルローヴナは、ソヴィエト連邦科学アカデミーお墨付きの超能力者だった。
科学幻想小説で大活躍するような、正真正銘の超常人類だったのである。
園丘アンナはぼくと同じ十五歳で、いつも好き勝手な方向にカールし放題のじゃじゃ馬な黒い癖っ毛をもっていた。いつも好奇心とユーモアでキラキラしているアーモンド型のくりくりとよく動く両目をもっていた。瞳の色は琥珀色で、天与の未来視がそなわっているのは左目のほうだった。
対照的に、ぼくは何も持っていなかった。
うしろ暗い、うす暗い、かたくるしい優等生として、成績簿と鎌とトンカチがつくる赤い陰の中に蹲っていた。
アンナは違った。
アンナはいつだって猛烈に、燃えるように輝いていた。
ぼくたちの日常が、あと五年の寿命しか持たないと託宣をくだしたときも例外ではなかった。
ぼくたちの生まれ育った祖国、『日本民主人民共和国』が五年後に崩壊すると言い当てたとき、アンナは屈託なく笑っていた。
笑うと、そのとき食べていた炒り豆のにおいがした。
ぼくはそんなアンナの横顔をみつめていた。
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「合衆国が責任を持つ防衛線は、フィリピン―沖縄―本州南部―伊豆諸島―アリューシャン列島までであり、それ以外の地域には責任を持たない」
アメリカ合衆国 国務長官ディーン・アチソン
「わたしは日本が大好きだ。(日本が)二つあってくれて、二倍うれしい」
大英帝国 元首相サー・ウィンストン・チャーチル
『日本民主人民共和国は統一農労党によつて指導される革命前衛国家である。……主権は農民、漁民、労働者、党活動家、その他、すべてのプロレタリアート人民にあり、……統一農労党および政府は人民の信託により国権を行使する。
日本民主人民共和国の究極的な目的は無階級共産主義社会の建設であり、……我が国はその崇高な目的に邁進する国際社会のなかにあつて名誉ある地位を占めたいと思ふ。』
日本民主人民共和国 一九四九年憲法前文より抜粋
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その部屋に呼び出されたときから嫌な予感はしていた。
「で、見つかったのか」
生活指導室・兼・学校付将校室におかれた教員用デスクでそっくり返っている女性が、あらゆる前置きをすっ飛ばしていった。
女性は人民陸軍将校のカーキ色の軍服を着ていた。両肩には上尉であることを示す、一本線と三つの桜星が並んだ金色のでかい肩章がついていた。ズボンは太もものところが膨らんでいる乗馬ズボンで、豊かな胸のふくらみのうえに略綬がずらりと整列していた。
手を頭の後ろで組んで、すらりと伸びた右足を机の上にでんと置いていた。いい加減くたびれた回転イスの座面が、田舎のネズミの断末魔みたいな音をたててきしんでいた。
女性将校の言葉は疑問形を取っていたけれど、実のところは質問ですらなく、
「見つからなかったんだな」
という確認の言葉であった。
ぼくは精いっぱいの媚び顔をつくって、なんとか突破口はないものかと脳内を高速で手探りしていた。
「はい、同志上尉。現在鋭意――」
「三日という約束だった」
「はい、同志上尉。ですから――」
「もう約束の三日は経ったぞ」
「はい、同志上尉。ですが――」
「三日前、キミは約束した。三日待ってくれれば文芸部の新入部員を見つけてみせると」
そうだな、と上尉は椅子にまともに座りなおしながらいった。過負荷から解放された回転イスが喜びのきしみをあげた。
ニェット!
ニェット!
ニェット!
ぼくはそんな約束をした覚えはなかった。あれは約束というより、三日しか猶予はないぞという宣告ないしは最後通達に近いものだった。
しかし、今更そんな言い訳をしても目の前の女性将校を怒らせるだけなのは分かっていたので、ぼくは素直にうなずいた。
「はい、同志上尉! ですが、もし――」
「三日前、入学式と新入生歓迎会の直後ッ!」
上尉が突然、練兵場用のきびしい声をだした。ぼくは反射的に、防衛教練の時間のように背筋をピンと伸ばした。
「三日前、文芸部には三人の部員しか存在していなかった。部活動と認定される条件は五人であるにもかかわらず、だ」
つけ加えるなら、とぼくは思った。その三人の上級生も全員が幽霊部員であった。ぼくはその事実を入部したその日に知った。
「今年の新歓であと二人――キミを入れてあと一人だけれど――入部希望者が見つからなかった場合、文芸部は廃部とされる。それが規則だ。
そして、キミは見つけられなかった。そうだな?」
「しかし、上尉!」
ぼくは必死に食い下がった。
「新歓期間は二週間のはずです! たった三日では!」
「文句があるなら生徒会執行部の連中にいえ。あの党官僚どもいわく、『予算審議の関係』だそうだぞ」
もっとも、連中にたてつくような向こう見ずな勇気がキミにあるかな。そんなマネをして、ただで済むとは思わないことだな。
上尉の声はそっけなかった。
ぼくはだまって、デスクの上におかれた空薬莢製の文鎮をじっとみおろした。
これは露骨な文芸部つぶしだった。
ダーミーイ・モスクイ!
なぜ、このうえなく人畜無害な部活動である文芸部が、学校を牛耳る生徒会執行部からかくも危険視されているのか?
その原因は、何代か前の先輩方が起こした、ちょっとした不祥事にさかのぼる。
ちょうどモスクワ・オリンピックが開催されて日本列島(の北半分。〝アメリカ帝国主義に盲従する京都傀儡政権〟はオリンピックをボイコットしていた)が浮かれおどっていたころのこと。この学校を視察に来た統一農労党地区教育委員のお偉いさん御一行様が、社会主義の次世代をになう若き革命戦士たちの青春真っ盛りを見物しようと思い立ったのが事の発端である。
そこまでは良かった。
しかし、オリンピック記念なんだから体育会系だけで満足していればいいものを、お偉いさんたちはバランスでも取ろうとしたのか、文化系の部室が集まる第二部室棟にまで足をのばした。
そして、お偉いさんたちがよりによって部室棟二階にのぼり、よりによって手前から二番目の文芸部部室の扉を開け、よりによって奥のほうの本棚の一番上の段に手をのばしたことで悲劇はおこった。
でるわでるわ、資本主義的堕落の象徴ともいうべき〈南〉日本製ポルノ雑誌の山が、桃色の雪崩となってお偉いさんたちを押し包んだ。
全校にポルノを売りさばいていた当時の主だった部員たちは停学となり、校長は三か月の減俸となり、主犯格の生徒とグルであった顧問教師は宗谷県奥地の聞いたこともないアイヌ語由来とおもわれる地名がついた辺境に左遷された。
最悪なことに、彼らは肌色分一〇〇%のポルノたちを『カール・マルクス全集』の分厚いカバーの下に隠していたのだ。
誰も手にとろうとしない、という理由から。
これがいわゆる『ナロ高ピンクパンサー事件』の顛末である。以来、文芸部は国立第一人民大学付属高等学校全体の鼻つまみ者だったのだ。
「…………」
「一度した約束は守れ。守れない約束はするな。それがオトナというものだ」
押し黙るぼくに、上尉はかんでふくめるようにいった。
「それに、どうしてそこまで文芸部にこだわる。他にも文化系の部活はあるだろう」
「本に興味があるんです」
特に西側の本に、と心の中でつけ加える。
地元暫定首都の古本屋たちと部費で代々ツーカーの仲を築いてきた文芸部のコネクションがあれば、〈南〉の作家の本や、〈南〉で邦訳された西側諸国の本を手に入れられる可能性は大いに高まるはずであった。『ナロ高ピンクパンサー事件』はその悪しき一面に過ぎないのだ。
上尉は、そんなぼくのこざかしい思惑を見透かしたかのように、鼻でわらった。
「いつもの優等生っぷりはどこへいった? 勤勉で、党と上級者の指導に従順な、未来ある高校生徒は?」
「譲れないものは、誰にでもあるとおもいます」
「では、キミの譲れないものとは?」
「口にしたとたん消えてしまう、あの貴重品ですよ」
自由という。
ぼくは精一杯頭をめぐらし、面子を保ちつつ、政治的正しさの罠をかわしつづけた。
自由は、ぼくたちの日本では貴重品で、それを口にするような愚か者の手からは真っ先に去って行ってしまう。
上尉は獲物を品定めするアリゲーターの眼で、静かにぼくをにらみつけた。
ぼくは精一杯の虚勢を張って、それに耐えた。
「文芸部の廃部は、生徒会執行部内では、すでに決定事項だった。正式な決定ではないとはいえ、内定済みだったんだ。この意味が分かるか?」
「わかっているつもりです」
生徒会執行部は、将来の党エリートが選ばれる要職で、多大な権限と、共産圏につきものの強烈な官僚主義を備えている。
そんなところの決定に、一生徒の身で手を突っ込むということは、安楽な高校生活を自分から捨てるに等しい。もちろん。
「ならば、なぜ? ずいぶんと楽しい三年間を送ることになるぞ」
上尉のするどい目がぼくをのぞきこんだ。ぼくは覚悟を目にこめてのぞき返した。
息の詰まる十数秒間が過ぎて、上尉の目がふと投げやりになった。
ため息をついて、右手を額にあてる。
「なぜ、そこまでする?」
「本が好きだからです」
ぼくは事実だけを正直に告げた。
「ともかく!」
上尉は空中を手で払った。
「規則は規則だ、優等生くん。たとえどんな規則であろうと、たとえどんな者たちの手で運用されていようと、規則は規則なんだ」
上尉は感情のかけらも感じさせない鮫のような声色で、悪法もまた法なりという古代ギリシアの哲学者の遺言を引用した。
しかしぼくも、ただおめおめと引き下がる気はなかった。
机に両手をついて頭を下げ、
「そこを何とか、同志上尉のご指導で……」
「うむむ……」
上尉は形のよいあごにそれとなく手をやり、壁にかけられている大元帥同志の御真影と、同志レーニンのポートレートを眺めた。
ものすごくでっかい勲章をいっぱいつけた軍服姿の赤い皇帝と、前髪の後退したロシア人革命家の顔が、仲良くそこにおさまっていた。
社会主義国家に暮らして十五年目のぼくは呼吸を心得ていた。
床においていた持参のスポーツバッグを少し開いて、偉大なる同志ウラジーミル・イリイチと素知らぬ顔でにらめっこしている上尉に中身をちらりと見せる。
「おおお」
思わずといった風に、上尉が感嘆のため息をもらした。
それは、祖父に直訴嘆願のすえ、戸棚から失敬してきた大吟醸〈統一〉であった。高級党員以外の口には、なかなか入らない逸品である。地元の農業共同体に顔が利くぼくの家は、こういった上物を比較的入手しやすい立場にあった。
上尉は信管のついた砲弾を扱うような慎重さで一升瓶を抱きかかえ、力強い墨跡で〈統一〉とプリントされたラベルをなでた。宝石を愛でる手つきであった。
実際、国分町あたりのヤミ市場で売れば、下手な貴金属並みの値が付くこともあるという。
ちろりと唇をなめる。自分で呑んでしまおうか、それとも売り払おうか、思案している顔つきだった。
「同志上尉?」
ぼくは、他人に見られる前にしまってくれ、というニュアンスを言葉にした。
上尉はなおも夢見るまなざしのまま、教員用デスク下段の一番大きい引き出しをあけた。その引き出しは二重底になっていて、すでに二本の酒瓶が寝かされ、隠されていた。どちらも安い国産代用焼酎〈勝利〉であった。
上尉は油っぽいにおいがすると不評の〈勝利〉たちを容赦なく押しのけて、愛しの〈統一〉のためのスペースをつくった。
上尉の態度は一変した。
「日本人民の文芸文化を学びたいという、キミの高校生らしい熱意はよく伝わった」
そういって胸を張る上尉は、人民軍の徴募ポスターにも使えそうなくらい凛としていた。
「ま、思えばキミが中等部のころからの付き合いだ。お互い知らぬ仲でもなし、およばずながら尽力させてもらおう、生徒寒田くん」
上尉の顔色はホッコホコにほころんでいた。
ぼくはもう一度深々と頭を下げて、同志上尉と両手で握手をした。ザラザラして筋肉質な手であった。
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