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その16


     ☭


 ぼくは茶の間に座ってテレビをつけた。スイッチを入れて二秒ほどしてから、テレビがジワリと映像をうつし始める。


 父は夜間当直の日なのでいない。なにをしているのかは知らない。父は職場のことについて口外しなかったから、ぼくは父の部署すら知らなかった。いまごろ、誰かを盗聴したり、拷問したりしているのかもしれない。祖父は夕食の後、自分の部屋に引っ込んでいる。台所から、母が皿を洗う水音が聞こえる。


 ぼくはチャンネルを日本国営放送(NKH)の教養番組に合わせた。ちょうど、大相撲の実況が終わったところだった。


 歴史番組『今日のその時』が始まった。これはひそかな人気番組だった。大相撲とクラシックバレエという二大人気番組の合間に放映されているという戦略的利点と、裏番組がつまらないという裏事情のおかげで、だいぶ視聴率がブーストされているのだった。


 ぼくはアンナのことを考えながら、ぼんやりと番組を流し見した。


 本日のテーマは『米ソ緊張緩和(デタント)』について。


 一九六〇年代から七〇年代末まで続いた、米ソ間の緊張緩和の努力。

 ソ連共産党を率いる同志ブレジネフ書記長と、アメリカ合衆国のニクソン大統領による戦略兵器制限交渉。

 お互いに痛い腹の中をさらしあうことによって、政治的・軍事的緊張をやわらげる政策。


 番組は主に、アメリカ側の事情について詳しく、批判的な論調で解説していた。


 とくに泥沼化したベトナム戦争の軍事費増大と、アメリカ国内で蔓延している厭戦気分について、北ベトナム首都ハノイに投下された核爆弾の道義的問題について重点的に批判されていた。


 そのミサイルは、一発で十七万人もの犠牲者を出しながら、ベトナム戦争の勝利にはみじんたりとも貢献しなかったのだ。


 核攻撃直後のハノイ市で、ホー・チ・ミンが、

「我々はジャングルで、滑走路で、トンネルで、竹やぶで戦う。真の自由を知る人民が一人でも生き残っている限り、ベトナムは亡びない」

 と歴史的演説をぶちかましたあと、アメリカ合衆国にはもう撤退以外のカードは残っていなかった。


 ぼくはなんとなく、今日アンナを送っていった集合住宅にたくさん住んでいる、ベトナムからの出稼ぎ者たちについて思い出した。被爆者はひとりもいないことになっていた。ぼくたちの日本は被爆ベトナム人の受け入れを血眼になって取り締まっていたからだ。理由はもちろん、ガン発生率が有意に高く、したがって将来、多大な医療費がかかるからである。


 インターナショナル!


 ソ連側の事情は、大祖国戦争(NKHではソ連に合わせて第二次大戦の独ソ戦をこう呼ぶ)のせいで人口ピラミッドに大きな穴が開いていたため、と軽く触れるだけだった。


 当然だった。偉大なる同志スターリンによる農村大粛清や、農業の集団化失敗のツケで、カナダやアメリカから大量の穀物を輸入せねばならなくなっていたソ連食料事情について言えるわけは、もちろんなかった。


 労働者と農民の祖国・ソヴィエト連邦が、農業生産を資本主義国家からの輸入に頼っているというこの不都合な現実について、ソ連は東側国民に対し徹底した目隠しをしている。いち庶民に過ぎないぼくが、このへんの事情を知るのは、ソ連崩壊後のことだった。


 ぼんやりとみているうちに番組は終わった。エンディング曲。司会者の机の上に置かれたマルクスの石膏像にクローズアップするカメラ。その上からかぶされるタイトル。


 一拍おいて、午後七時半のニュースが始まった。


 ゴールデンタイムに教養番組やニュースを流すところは、さすが社会主義国家である。ぼくは統一後、この時間帯に大音量でしつこく流されるコマーシャルの海に辟易することになる。


 画面には回転する地球儀と、鎌とトンカチシックル・アンド・ハンマー


 耳に馴染んだ軽快なBGM。正式名称は『蟹工船』だが、『小林多喜二(たきじ)の歌』といった方が通りは良い。ぼくたちの日本において、かなり人口に膾炙している歌だった。受け入れられるのが早かった理由のひとつは、メロディーが戦前から広まっていた愛国歌『大陸行進曲』の剽窃だったからだ。これは祖父から聞いて初めて知った。


 一度、祖父が元の歌詞を小声で歌ってくれたときの衝撃は忘れられない。


『そうだ情けの 手をとって 新たにおこす 大亜細亜(アジア)

 友よいっしょに 防共の 堅い砦を 築くのだ』


『感謝に燃える 万歳を 送れ輝く 日の丸に

 四億の民と むつまじく 君が代(うと)う 日は今だ』


 ものすごい歌詞である。


 大アジア主義とか、皇民化政策といった単語がちらつく。


 あんまりにも学校で習う『悪い帝国主義者』のイメージそのもので、ぼくたちの日本は毎晩毎晩こんな歌の替え歌を流しているのかとブラックジョークのような気分になった。



 ニュースの内容はつまらなかった。

 アイヌ民族独立をうったえる非合法政党『モシリカラカムイ』内の武闘派組織・エペタム派が、またもや騒動を起こしたらしい。


 テレビでよく見る、党の御用ジャーナリストが、フリップを手に解説している。


 エペタム派は、元々モシリカラカムイ党の私兵部門だったのが、当局との闘争と内ゲバを繰り返して先鋭化したものである。現在ではモシリカラカムイ党指導部のコントロールをなかば外れているらしい。七十九年の真岡空港爆破事件も、エペタム派の一部が暴走した結果起こったとみられている。


 御用ジャーナリストは、アイヌ武装組織のことを、けして党名では呼ばなかった。アイヌ民族主義運動のことにも触れなかった。ただ、『帝国主義的資本主義勢力に支援された、一部の反日テロ組織』とだけ呼んだ。これには、()き革命の国に民族問題などあってはならないという党の方針が反映されている。


 熱弁する御用ジャーナリストの隣で、深刻な顔をつくった女子アナがうんうんとうなずいていた。


 今回クローズアップされた話題は、過激派ゲリラたちが資金稼ぎのために美人局(つつもたせ)をやっているという話だった。ニュースは、日本人民に防諜意識の徹底を呼びかけるとともに、CIAがアイヌ民族ゲリラを軍事支援しているという長年の疑惑を強調し、アメリカ帝国主義を弾劾するセリフで締めくくられた。


 いつものニュースなので、ぼくは聞き流した。


 頭の中では、アンナと過ごしたこの一日の出来事が、『小林多喜二の歌』の軽快なメロディーに合わせてぐるぐるまわっていた。それは始まりも終わりもない思考の渦だった。


 ぼくはテレビを切った。風呂に入るように告げる母の声がしたからだった。

 つけたときとは違って、画面は素直に暗くなった。


     ☭

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