その1
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人民銭湯には普通、屋号がない。すべて国営なので、これは驚くにはあたらない。
「泉地区第四公衆浴場」と味もそっけもない文字で染め抜かれたのれんをくぐり、むかし番台があったという場所にずでんと据えられているレーニン同志の頭部像と券売機を横目に足を進めると、脱衣所の前に管理人用のカウンターがあった。
男湯と女湯、それぞれの脱衣所の前に一つずつ。
営業時間にはいつも、男湯の前にはおじいさんが、女湯の前にはおばさんが、このカウンターにだらしなく腰かけて、みるからにやる気なさげに座っている。
「なんであんなところにレーニンさんを置こうと思ったのかな」と、アンナが尋ねた。
ぼくは銭湯の番台システムについて手短に説明し、
「いつだったか、異性の裸体が見える方式は風紀上けしからんと党で問題になって、番台が廃止されたんだ。ソ連からブレジネフ書記長が来日したときだったと思う。当時の人は、あそこに人影がないと落ち着かなかったんじゃないかな」とアンナに教えた。
それから、秘密だぞ、と声を潜めて、「でも同志ブレジネフが来日したとき、〈共和国〉の書記長に男同士でぶちゅっとキスして、日本のお偉いさんはみんなびっくりしたらしいけど」
祖父から聞いた笑い話を教えると、アンナはくすくすと笑った。
ソ連から偉い人がやってくる前などに、党の誰かの点数稼ぎのために生活上のささいな規制が厳しくなることは、ぼくたちの日本ではよくあった。統一後に暴露本で知ったが、〈南〉の対共産圏諜報機関である復員事業庁は、これを逆手にとって〈共和国〉に偉い人が来日するタイミングを推しはかったりしていたらしい。
本当はここで管理人にチケットを渡して脱衣所の鍵をもらうのだが、今回は話が通っていた。管理人室に声をかけると、顔見知りのおじいさんが顔を出す。
「寒田です。友達がひとり一緒なんですけど」と告げる。
「彼女かい、カンダくん、お安くないね」と管理人のおじいさんが脱衣箱の鍵を手渡しながらにやにや笑う。
「同級生ですってば。集合住宅の内風呂が壊れてるそうで、連れてきたんです。久しぶりにここにも来たかったし」
とかなんとかやり過ごしつつも、やっぱりちょっと意識してしまって、ぼくはアンナの方をちらりと盗み見る。
色の白いは七難隠す、ということわざは半分本当で半分嘘だ。
アンナの肌は褐色がかったハチミツ色で、極東の平均と比べても色白とはいいがたいが、肌理がこまやかで、水をはじきそうなみずみずしさがある。髪はくるくるくしゃくしゃで、油気がなく一本一本が細くって、いわゆるからす濡れ羽とは違う魅力がある。
体つきはいっけん細いが、日本人とは明らかに違う肉のつき方をしており、お尻のあたりとか、服の上からでもわかるほどむっちりしている。それよりなにより、琥珀色の溌溂とした瞳――。
とかなんとかみているうちに、アンナの訳知り顔なほほえみにぶつかって、ぼくはとたんにへっぴり腰になった。「あらあら、まあまあ」と言いたげなアンナの視線から逃れるようにして脱衣所への扉をくぐり、脱衣箱の鍵を下駄箱の鍵と一緒にゴムひもで手首に巻き付ける。
脱衣所はガラッガラだった。人民銭湯の開場時間は全国一律で決まっており、春は午後五時から十時半まで。壁にかかっている時計によると、いまは四時過ぎ。まだ始業の一時間前なのだった。
始業前の湯につかれるのは、ぼくの祖父がこの銭湯の管理責任者と知り合いだったからだ。
この人民銭湯は浴槽の浄化装置が壊れていて、夜遅くに入ると先人の皮膚からはがれていったもので湯が何とも言えないぬめりを帯びてくると不評だった。だからみんな少しでも早く入ろうとする。こうしてちょっとした便宜を図ってもらう代わりに、祖父は管理責任者に祖父なりの便宜をはかる。〈共和国〉は、表向きの公的サービスがあてにならない分、こういう裏の融通は異様に効いた。
こんな小話がある。
Q、「〈共和国〉では、市長が一番風呂に入れないというのは本当ですか?」
A、「本当です。一番風呂には県知事が入りますから」
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ぼくは着ていた服を手早く脱ぎ、しわにならないようにたたんで脱衣箱に入れ、鍵を差しこんで回した。鍵はすこんといって空回りした。それでも鍵をかけようと何度か試みていると、サムターンごとすぽんと取れた。
まあ、無人だから盗られることもあるまいと、ぼくはサムターンを元通り差しこんで風呂に行った。
まずかけ湯をし、体と頭を洗う。学校で一日すごした汗と汚れが、疲れとともに湯の熱いので流れてゆく。持参の風呂おけに、持参の手ぬぐいを入れて湯船に行く。
「寒田くん、例の風呂おけってこれ?」
女湯から発せられたアンナの声が浴室に響く。ほぼ無人なので明瞭に会話できる。
「そう。使わない方がいいよ」
僕はアンナに念を押した。備え付けの風呂おけはプラスチック製で、色はだっせえ蛍光ピンク、底面を軽く押すとべこんべこんいうくせに一個一個シリアルナンバーが刻印してあるという安っぽいんだか手間がかかっているんだかよくわからないとんでもない代物だったので、慣れている人はみんな持参の品を使っている。アンナにも、自宅から風呂おけを持ってこいと念を押してあった。
「ああああ……」
ぬるめの湯につかると、思わずため息が漏れた。
アンナも「はふー」と息を吐く。
「お風呂はいいねえ。日本が生み出した文化の極みだよ」
アンナがひとつ鼻歌でも歌いだしそうな調子で言ったので、ぼくは思わず笑った。
笑った後、「いま、一〇メートルも離れてないところに全裸のアンナがいるんだよな」と考えて、体のあらぬ部分があらぬ反応をしてしまい、本当に風呂が無人でよかった、と思った。
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早風呂の客が来る前にお風呂から上がり、これも持参のバスタオルで体をふき、ロビーで牛乳を飲みながらアンナが上がるのを待つ。普通の牛乳と、フルーツ牛乳が五銭。コーヒー牛乳だけ十五銭だが、これはコーヒー豆が貴重だからだ。
始業まで二〇分もないというのに、管理人は二人ともまだいなかった。
湯上りの身に、いい加減骨董品の扇風機ががたがた言いながら生み出す風が心地よい。その最中に事件は起こった。
「きゃあ!」
と女性用脱衣所の内側から声がする。どたんばたん、となにかもみ合うような音。
「アンナさん、どうしたの? アンナさん!? 気分、悪くなった?」
しかし返答はない。ただもみ合う音がするのみ。
ぼくは管理人室に駆け寄った。床が濡れているので転びそうになりつつ、管理人室の扉をノックする。誰も出てこない。管理人は二人とも、どこかで別の作業をしているらしい。あるいはさぼっているだけか。
「アンナさん! アンナ! どうしたの?」
女子脱衣所の扉の前で呼びかける。
「寒田くん!」切れ切れの声が聞こえる。「た、たすけて……」
「アンナさん、開けるよ!?」と言って、ぼくは脱衣所の扉を開けてなかに飛び込んだ。
ほぼ全裸のアンナが、脱衣所でタップダンスをしていた。
「きゃあああああ!」
ぼくはおもわず叫んで、両手で顔をおおった。
「寒田くん、助けて!」
「アンナさん服着て! 服!」
「それどころじゃないって!」
アンナが、脱衣所の隅に放り投げられていたバスタオルを指さした。バスタオルには、カマキリの幼虫がいっぱい群がっていた。
「あっ!」
ぼくは事態を悟った。バスタオルについてアンナに注意するのを忘れていた。
備え付けのバスタオルは、古いのか洗濯が適当なのか、いやなにおいがするものが混じっていて、そのうえ「なんだそれ」というようなトラブルがよくあるので、慣れている人はみんなバスタオルを持参する。そのことについてアンナに注意していなかった。
たぶんカマキリが(どういうわけか)バスタオルに卵を産み付け、それが風呂の熱気でふ化したのだ。
「虫、ついた! 寒田くん、取って! 取って!」
とパニックに陥ったアンナがあらぬすがたで寄ってくる。両手で胸とあそこを隠しているが、その肩の細さであるとか、くっきりとした鎖骨、そして丸みをおびた尻などが垣間見え――。
「だめだって! 服着てたのむから!」
こちらもパニックに陥ったぼくが、アンナに追われて逃げ回る。
「こんなとこ見られたらいっぱつで廃部になるよ!」ぼくは慌てきり、自分でもそれどうなんだって思うことを叫んだ。「せっかく、廃部の危機を乗り越えたのに――」
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