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望みのゆくえ  作者: 環 円
固いつぼみはまだ知らず
9/9

01

 このところ、メルル・マルクトは自分の人生について考えることが多くなっていた。

 このままでいいのかという疑問がふと胸中でくすぶるのだ。だがこのままでいい、迷うな、と囁く声もある。

 彼女の前に敷かれた人生設計図は、誰が見ても順風満帆であるだろう。これ以上のモノはない、とまで言われるに足りる未来だ。

 確定された立場を羨む声は、特に水面下で多い。

 それもそうだろう。女として生まれたならば、一度は夢見る最強のお嫁さん、であるのだから。


 メルルは人気のない静かな図書保管庫で小さくため息を吐く。本を読む気にもならなかった。昨日面白い棋譜を見つけたのだ。それを今日、読もうとおもっていたのに、そんな気分は吹っ飛んでしまった。

 ここは学園の端にあり、通常の授業が行なわれる校舎から最も離れた場所にあるため、訪れるものはほとんどいない。

 一般に読まれる勉学の冊子は第一図書にあるし、専門的な書籍であれば第二図書に並んでいる。ここ図書保管庫は新装が出、第一に並べられたあと古く痛んだものが運び込まれる、本たちの眠れる地であった。訪れるのは古書に対しなみなみならぬ情熱を燃やす人物くらいだろうか。ちなみにメルルにとってここは、かなり古い書物も納められており、宝の山と称しても過言ではなかった。


 メルルは免除された学科の時間帯はほぼ、この書庫に居た。王妃教育として施されたさまざまにより、教育課程のほとんどを終わらせてしまっていたのである。それでもなお学園に在籍しているのは、未来の王妃として、少しでも人脈を作れるようにとの配慮だと聞いていた。


 まったくもって余計なお世話である。メルルが学園にいなければならない期間は3年と定められているが、この学園そのものが針のムシロであった。

 そもそも学園での教育期間は7年である。この学園は広く民にも門戸を広げており、たとえ平民の生まれであっても優秀な成績で卒業したならば、官僚になれる可能性も開けたるため、この学園への入学希望者は多く、かなりの狭き門になっていると聞く。

 

 それならば自分を外し、もっと将来有望な若者を受け入れればいいのに、とすらおもっていた。メルルの生はすべて王命によって管理されているようなものだ。行けと言われたならば従わねばならない。それが例え、死地への出向だとしても、である。

 ただひとつだけ、この学園に入ってよかったとおもえたのは、兄と弟に会えたことだ。


 両の指がもてあそんでいるのは一枚の招待状である。場所と日付、そして主催の、王家の紋章が押されていた。

 出席が義務とされる類の夜会だ。


 行きたくない。

 これが紛れもないメルルの本心だった。

 

 皇太子殿下と会うのはまだいい。

 最有力候補となってから10年と少し。当たり障りのない関係を持続してきている。

 だがその周囲がいただけない。

 そもそもメルルと殿下は幼馴染でも、同年代だからと近習にと添えられたわけでもない、しがない子爵の娘である。

 王族と婚姻を結ぶに相応しい身分としては中の下といったところであろうか。ゆいいつの誇りは父がこの国を守る剣のひとりとして陛下の護衛に抜擢されており、かつ将軍の地位を拝命していることだ。2つ年が離れている兄も早々と騎士見習いとなり、今は王都にある学園の宿舎からも出て騎士寮で暮らしていた。11歳になる弟はこの学園の中等部にいる。初年度が初等部、次年度が中等になり、4年目から高等部と進級してゆくのである。そして高等部からは落第がありえる。初等でも留年はあり、進学を辞退する者もちらほらいるという。


 兄と弟はメルルを見つければ必ず側に来てくれる。それは幼い日々とは間逆であった。

 メルルがまだ小さな頃は、父や兄、弟が生まれてからはその背を追いかけて走り回っていたのである。


 すべてが変わってしまったのはいつだったのか。あの日のことは良く覚えている。王城に、はじめて父と向かった日だ。ご挨拶を、と父に囁かれ母に習った礼を披露した。そしてそのとき、なんの前触れもなくおぬしは未来の王妃となるのだ、そう直に王から命じられたのである。

 父は呆けたそうだ。王がなにを言っているのか、脳が理解するのを拒んだと後々に聞いた。

 小さかったから当時はいまいちよくわかっていなかったが、王様がそういうなら、はい、と答えたわが身を、過去に戻せるならば戻り、その返答、ちょっとまって、もう少し考えて返事しようと割り込みたいくらいだ。


 その後のメルルといえば菓子を貰い、とても満足していた。決して食べ物に釣られたわけではない、とおもう。

 さまざまな師に会った。子爵令嬢としては過分な学びであった。

 だが多くの臣が王に、なぜあの娘かと尋ね、理由を聞こうとしてもがんと黙して語らなかったという。

 ならばと父に多くの臣が詰め寄った。だが将軍もよくわかっていなかったのだ。ただ首を横に振り、王命の理由はわかりかねる、そう言い続けることしかできなかったのだろう。


 今も、10年あまりが経った今でも、メルルが王妃候補筆頭に選ばれた理由は明かされてはいない。

 ただ次点として非公式ながら数名の令嬢が並び立っている事情をメルルは知らされていた。理由とすればメルルの代替である。もし候補筆頭の身に不慮のなにかが起こったならば。国が国として成り立つためにはその頂点に、王という存在を未来永劫に渡って建て続ける必要がある。

 この国の王族は他国に比べて少数であった。臣としては王の血がおいそれと絶えてはたまったものではない。そのために王妃となる人物に求められるのは、第一に健康であることであった。体が丈夫であり子を産むに適した人物、かつ王の側で王を支え、もし王が道をそれようとするならば諌める気概、そのための教養が必要とされている。

 メルルは教えられている令嬢たちの名と顔を思い浮かべた。どの令嬢も負けず劣らず長らく王家を支え公爵という、上に頂くは王のみである爵位の家柄の粋たちである。血が近いからとして現王の妹殿下が嫁した四公爵がひとつは惜しくも選に漏れたが、年頃を迎える令嬢に我こそはと立候補している男たちが殺到しているとも聞く。


 選ばれている令嬢たちの年齢は、メルルの14をはじめ、同い年がひとりと、ひとつ上がひとり、10になったばかりの愛嬢が名を連ねていた。とはいってもこれは非公式な情報だ。それぞれの家の長には伝えられているが、名を挙げられている令嬢たちにまでその話が伝わっているかといわれると、判りかねた。

 確かなことはわからない。だがメルルは学園で令嬢たちとすれ違った際にまとう雰囲気で、知っているのだろうな、とはおもっていた。素振りは見せないがこちらの出方を伺っている節があったのだ。メルルはといえば素知らぬ顔で通り過ぎるだけ、である。次期王妃候補筆頭であるとすでに多くが知っており、家の爵位は低いが将来の立ち位置は彼女らの頭上である。

 忌々しくおもったところで下手に手を出し、その尻尾でも掴まれたならばどうなるか。きちんと思惟しいているのだろう。


 少しくらいならば吹っかけてきてくれてもいいのに、とメルルはたまにおもう。

 もし、会話のひとつ、ふたつができればその心も計れるかもしれない。とはいえまったく怖くないか、といえばそうでもない。

 親の権威を笠に着ている者たちもいる。だが、そもそもその力を持っているのは親であり、着ている者自身ではないのである。後ろ盾のない平民相手ならば黙らせる手段にもなるだろうが、一応、メルルの父は将軍だ。少しくらいであれば、助けてくれるだろう。ああ、それでも数人、居た。父には頼れない。顔を思い浮かべれば胃に痛みが走る。

 人は言葉によって意を交わすしか術を持たないのに、その手段である言葉により簡単に喜び、そして憂い、怒り、傷つく。そんなことで、とおもわれることでもおのおのによって感じる言葉も違うのだ。そこで出てくるのが笑顔の仮面だった。

 

 現王妃、スターシャは王国の東にある港町の出身であった。家の爵位は一代に限り叙される勲功爵だ。元々は港町の衛視であるが、隣国カーランとの戦いで勲功を上げ勲章を授与されたという。

 メルルが王妃から聞いた国王との出会いは、まさかそんなことが、とおもうような物語の中にだけあるはずの玉の輿であった。

 称号を持たないただの平民と婚姻が許されるのは、どんなに頑張ったとしても準男爵位と相場がきまっている。ちなみに準男爵とは下級騎士たちに与えられている称号だ。

 準男爵位は下級騎士の家が代々、騎士を輩出することで維持される。子が女ばかりとなれば婿に騎士を迎え入れれば存続となる。

 

 さてスターシャは、国王により一目ぼれされ王妃となった。

 王はなかなか妃を迎えず、老臣たちもかなり諦めの域へ入っていたため、スターシャに対し諸手を挙げて歓迎したという。

 だが内廷は別であった。手を付けられさえすれば、運よく身ごもりさえすれば。

 思惑を秘めた女たちが城の奥深くに潜んでいたのだ。今はすでに解体されその影すらなくなったが、当時の様子を聞けば聞くほど、女の園はかなり血なまぐさい深淵の縁だった。


 だから、と王妃はメルルに続けたのである。

 身につけておきなさい。きっと役に立つから。わたくしにできることはそう多くはないけれど、と。

 

 王妃による猛特訓の結果、顔面へ笑顔の仮面を貼り付けるのは大の得意になった。しかしながら心の持ちようは王妃も実践の積み重ねもみだと、と困ったように微笑むだけだ。


「行きたく、ない、な」


 樹の香りがほのかにする机に突っ伏し、小さくつぶやいた。

 皇太子殿下と会うということは、その幼馴染である彼女にも会うのは確実だ。そして近習たち、皇太子が王として即位したあと国政を共に担う者たちの顔も見ることとなる。彼らはメルルと殿下が会うのを、快くおもっていない。その始まりを遡れば、妃教育が本格的に始まった5年ほど前にあからさまとなったような気がしていた。

 幼いころはそうでもなかった、とおもう。メルルの察しが悪かったのかもしれない。年齢が上がり、近習がそれぞれ己の役割を理解し始めた頃合だっただろう。皇太子の周囲を近習が取り囲むようになった。

 取り囲む、というのは言いすぎだろうか。必ずひとりは側にいた。そしてメルルが皇太子に話しかけようとすると、その間に必ず割り入るのだ。直接言葉を交わすようになるのは、婚姻後である、という理由を説明されたがメルルにはとってつけたような説明だと感じ、王妃にも聞いてみたことがある。

 

 しかし結果は、よくわからない、で終わってしまった。

 なぜならばスターシャの場合、王が彼女に一目ぼれしたその場ですぐに結婚の許しを求められ、あれよあれよという間に大樹に包まれた城へとつれて来られ、その座に納まったからである。

 婚約とよんでいいのかわからないが、その期間は5日あるかないか、であったらしい。


「陛下はわたくしに断られるのが相当、お嫌だったそうですよ。だからわたくしがそう言えないよう、急いで囲んだと」


 当時、少なくともスターシャに想い人がいなかったからよかったものの、もし居たならばかなりの修羅場になっていただろうとたおやかに王妃は笑んでいた。

 ということでメルルは殿下と会話する機会をことごとく失い続け、早、5年となっている。

 王もこれに関しては静観をしているようで、メルルにも沙汰はない。陛下のそばにある父にそれとなく聞いてもよかっただろうが、仕事中に耳にしたなにもかもを職務に忠実な父は語らないだろう、とも予想がついていた。


 このままであればなんとも冷えた夫婦になってしまうのだろうな。

 メルルはそうおもう。おもってため息が出た。

 近習からの言葉も、そんなものなのだ、と無理に納得したのもよくなかったのだろう。

 王族に嫁ぐことが決まっているのである。立場としてはメルルの方が上だったはずだ。あのとき、もう少し強く言っていれば、と振り返るがとうの昔の話であった。

 

 それから殿下の様子は間に人を挟んで、耳にしている。

 なにもかも優秀であり、苦手としているものなどなにひとつない、完璧な姿の伝聞だけが届く。

 そんなこと、ありはしないのに。完璧な人間などいるはずがない。誰であろうと強気に出られる充実したひと時があれば、弱って精神的に辛くなる時もあるだろう。そうであってほしい。そうでなければメルルだけが笑いものである。


 メルルの中にある殿下の心象はかなり曖昧になってきていた。だからこそ国を共に守り慈しむ同志であると位置づけられずにはいられなかった。聞くと見ると触れ合うとでは、全く違うのである。メルルの中にある殿下がぼろぼろと崩れかけている証拠であった。

 だからこれでいいのかと迷う。話がしたいと手紙を送ってはいるが、どこかで止められている可能性もある。

 面会の約束を取らずして会いに行ったとしても、近習たちに阻まれ会えない確率のほうが高い。まったくもって八方塞で、どうしたらいいのかわからなかった。


 夜会に出れば会える。だけど、でも、だって。

 こつり、と突っ伏したまま額を机に当てる。鼻の頭が少々痛いが、胸の奥底にわだかまる重さに比べればどうというものでもない。


 メルルは奥歯を噛み、ゆっくりと立ち上がった。向かうはこの保管庫と外を繋ぐ扉である。

 その扉を開ければ蝶番ちょうづかいが高い音をあげた。振り返ることなくメルルはその扉の向こうへ姿を消す。

 無人になった保管庫にページをめくるかすかな音がひとつたち、閉じて消えた。



+++



 夕闇が濃くなり。煌びやかに着飾った紳士淑女が集う会場は、大樹の根元にある庭園である。大きな篝火かがりびがいくつもたかれ、揺らめく炎に照らし出された赤と白の薔薇が咲き誇る庭園は昼間に見る豪胆で華やいだ景色とはまた違った幻想的な風景を醸し出していた。

 王と妃はもうしばらく遅れて出るという。

 控え室で静かに座していたメルルは皇太子にエスコートされ、庭園へと足を踏み入れる。もちろん皇太子の斜め後ろには近習がふたり側仕えしていた。そのうちのひとりはこの国に4つある騎士団をまとめる元帥の子息である。剣呑とまではいかないが、かなり鋭い目つきでメルルの背を刺していた。敵視されている理由がわからぬまま、だが動揺する様を見せることもできず、王妃直伝の仮面を被り、メルルは気付かない振りを続ける。


 招待されていた貴族たちは侯爵以上の位持ちばかりであった。

 侯爵は公爵に告ぐ第二位であり、国の中枢を担うものたちを排出している家が多い。殿下が動くままにそっと寄り添い、メルルは差しさわりのない言葉を紡ぎ続ける。

 

 まあまあ。忍びやかなるお方もいらしたようで。

 本当に久しく。

 佇まいはさすがに武家の出の。しなやかでいらっしゃいますね。

 

 メルルはにこやかさを維持したまま、囁かれているはずの声がなぜか明瞭に聞こえてくる不思議に首をほんのすこし傾げた。

 篝火が放つ破裂音のほうがよっぽど大きいはずなのに。

 そっと伺うようにして見上げた殿下の表情もまた、なにも変わってはいない。後ろもそうだ。


 助け舟を出してくれる誰かなど望んではいけないし、探してもいけない。

 貴族の、国に携わっている上層に属しているものたちと、騎士として国の防衛に携わるものたちと、飛躍し過ぎだろうが畑を耕し汗を流す平民と、感じるおもいや考え方はまるで違う。当たり前だ、といわれてしまうかもしれないが、平民が見渡す世界は濃くて狭く、国の中枢に近くなればなるほど広く薄くなっていく。見ているもの、最終的に達しなければならない到達点が違うからである。


 メルルはどちらかといえば、平民寄りだといえるだろうか。

 幼いころはよく、母の生家に戻っていた。母の家が治める領地は養蚕が盛んであり、深く薄暗い森を大きく揺られながら馬車で進みゆく。そうすれば一気に開けた台地が本領である。そこから見渡す一帯が国から任されている領地であった。そこで紡げば絹糸となる繭を作る虫が食べる葉の収穫を手伝ったものだ。

 父の家は代々騎士を輩出し続け子爵まで昇ってきた一族である。その本領は南の端にあり、何かと争いの絶えない隣国と接していた。麦が良く採れる平野部だが、攻め入られたら最初に戦火が上がる地だからか、腕に覚えのある男たちも多かっただろうか。そんな男たちの腕にぶら下がって遊んでもらったこともある。


 母の家は侯爵であり、本来ならば子爵との婚姻は渋がられたという。しかし母は父との婚姻を熾烈な戦いを経て勝ち取ったと聞いていた。その詳細はどちらの領でも口止めされているのか、詳しく聞くことはできなかったが、恋や愛という女であれば誰でも憧れるそれをしてみたいとおもうが乙女であろう。


 世間には噂というものが漂っている。

 たとえそこが王城であったとしても、恋の話はいたるところに転がっていた。

 それはもちろん屋敷と王城を行き来するだけのメルルの耳にもはいってくる。身分差のある男女の恋物語。また隣国の騎士と皇女の幸せを描く噂話。乙女や淑女はこれらの話に敏感だった。

 恋をした事のないうら若きつぼみたちは物語に出てくるヒロインに自身を重ね合わせ、このような体験をしてみたいと心を震わし、華を咲かせた淑女たちはそんなつぼみたちに過去の自分達を重ね合わせ、可愛い可愛いと妖艶に笑む。そしてもしかしたら得ていたかもしれないとおもわれる未来を物語や噂の中に心を躍らせ夢をみるのだ。

 

 メルルはつぼみや華たちをいつも一歩離れた場所でみていた。近寄れば引いてゆく。それの繰り返しであった。

 あの中へは入れない。諦めるまで長い時間は必要なかった。どこか他人行儀であったし、話を振ってもにこやかに笑まれるだけで続かないのである。

 

 メルルが幼い頃に託された責務は大きかった。できる、そう意気込んでもらったものではない。だが受け取ったからには責任を話さねばならなかった。だが頑張って頑張った先にあった責務に付随していたのは孤独であった。


 いまメルルに優しく接してくれる誰かを探すならば、家族と王妃だけが浮かぶ。

 けれど、でも、と自分に言い訳してどうにか仲良くなれないか試したものの、すぐに心が折れてしまったのである。

 

 メルルはどこまでも続く砂漠の中におちた、たった一粒の砂金を見つけた幸運のひとだ。

 王妃もそうだった。


 王の横に並び立つため、己を磨き高めた華があっただろう。そしてその夢をつぼみに託した華もあったに違いない。

 メルルは選ばれた。どのような理由で選り出されたのか明確に示されないまま告示されたのである。


 人は自分にないものを羨ましくおもう生き物だ。

 寿命が50前後のこの世で、一度きりの命ならば、できるだけ自分の望みを叶えたいと願い行動するのもなんらおかしくはない。

 ただ厭う。選択に躊躇する。間違っても後戻りできないのだから、たたらを踏むのを戸惑いもするだろう。


 メルルはだからこそ、そっと諦めた。

 誰もが羨むファーストレディになるのが確約されているのだ。金銭的にも物質的にもこれほど満たされるだろう立場はない。

 だが諦めたはずの心の葛藤が、学園内ではあちこちに見受けられた。


 平民同士であれば身分の差など気にすることはない。自由に好きになったり惚れたりもできる。

 羨ましいとおもったことはない。などとは言わない。メルルも皇太子殿下に心を寄せようと試みたものの、大きな壁が立ち塞がりどうにもこうにも向こう側にさえ行けなかったのだ。王妃からは、ルーセントから貴方にかんして否定的な言葉が出たことはないわ。との言葉を貰っているが本人を目の前にしてその心を推し量るなど。


「あの、殿下、あのっ」


 メルルはばらばらに砕け散っていた勇をかき集め、皇太子に向かい声をかけた。

 

「殿下、ご機嫌麗しゅう。メルル様も」


 メルルの声をさえぎるように話しかけ、優雅に礼をとったのはアラクシア・ゼントール公爵令嬢であった。その横には宰相の令息が静かに佇んでいる。メルルは姿勢を正しにこやかに返礼した。

 アラクシアは幼馴染の気安さで殿下に話題を振りはじめる。そして令息はその様子を気安い関係を示すかのごとく穏やかな表情でふたりを見ていた。

 しかしそこまでだった。メルルは蚊帳の外に置かれる。名を呼ばれることも、会話に招かれることもない。

 

 とはいえ、本来であれば存在を無視されればいたたまれなくなる、というのが多くの普通であろうが。

 メルルはなかなかにこの状況を楽しんでいた。心身ともに疲れるのはいつものことである。

 来たくはなかった夜会だ。これは、あれだ。勉学をしなければならないが、やりたい他のことが手じかにあり、そちらを優先したいのにどうしても勉学をしなければならず、やりたくないなぁと憂いている。だがひとたび、勉学に集中するとやりたかったことが飛んで、やりきる、みたいな。

 来たくはなかったが来た限りはその役目をさっさと果たして学園の寮に戻るに限る。

 


 メルルは気分を切り替え脳内で線を引いた。12本の垂直な並んだ線の上に乗るのは、10本の同じく垂直な下に置いた線に対し90度となる直線だ。

 それを夜会の会場に被せる。たぶんであるが、足りるだろう。今日はなぜか周囲の声が良く聞こえる。

 こんなことははじめてだった。だが。

 メルルは線で区切られたマスの上に形の違う駒を置いてゆく。

 家族が、父や兄や弟がしていた盤上遊戯はもう少し狭く、自陣には16の駒を配し最終的に相手の将を取れば終了となる。


 今の場合、周囲はすべて同じ色だ。そしてメルルだけが異色である。

 そしてすでに、皇太子とその幼馴染、近習の3人にとり囲まれて居る状態だ。絶体絶命である。


 さあさ、どうやって逃げようか。

 色を違えそうな紳士淑女はいるだろうか。


 そんなことをおもっていると、自然と笑みが浮かんだ。

 目の前にある感情のひとつが揺れた。それをメルルは素知らぬ顔をしながらも笑みを深める。

 メルルには強靭な後ろ盾などない。父も王という、この国を治める長には頭を垂れる。

 貴族という階級に生きるものたちは選ばれた選民思想の、限られた生まれの中に優越を持っている。それをメルルは否定しない。人の世は正三角形で示すことができる。そして区切りのそれぞれに立場、というものが存在している。人を治める者が低姿勢すぎると下の者が反対に戸惑ってしまう。高圧的である必要はない。ただ指示を与える者としての威厳がなくては人が後を付いてこないのである。

 そのための服装であり言葉であり、地位だ。


 メルルは未来の国母という位にある。

 だから動揺をみせてはならない。どんなに遠まわしに嫌悪を示されたとしても、うつむこうとすら、うっすらとも考えてはならないのだ。

 だから王妃から手渡された仮面を被る。発せられる感情の起伏など一時のものだ。聞き流しながら本当の心は、深く深くに押し込めるに限った。


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